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長いお別れ
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【この小説が収録されている参考書籍】
長いお別れの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.36pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全290件 41~60 3/15ページ
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迅速な-にデリバリに感謝してます。品質的にも全く問題なし。満足。 | ||||
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著者の人物造形と訳者の技術。マーロウがいちいちカッコいい。村上春樹版の訳は丁寧たけどテンポが悪いので、こちらの方を読むことが多いです。 | ||||
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初めて聞いたのがこの小説だったのですが、 とてもがっかり。もう小説は懲り懲りだと思いました。何故この人にしたのか、理由が知りたいですね。 | ||||
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ストーリーは面白いです。 ただ3185頁 「ぼくは君の失なんだぞ」になっています。 失 → 夫 の誤植だと思います。 | ||||
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ハードボイルドの名作という評判を鵜吞みにして、ブルーディスク版を購入したのですが、正直「これが?」という疑問を感じました。 ハリウッド版は、あの力強い時代の空気を感じられて悪くなかったのですが、評判とは違うな。と、肩透かしを感じていましたが、大した金額でもないのでついでに小説版を買って、読んで、驚きました。なるほどこれは評判どうりだと。 小説を読んだ後では、なるほどよく映画化したなと、ハリウッド版を高く再評価しましたが。個人的にはやはり、この小説版がたまりませんでした。 同じ翻訳家の同シリーズも読みましたが、この作品は主人公の行動がいちいちたまりません。 「そうしてくれるか、くぅ~!」と、うなるような言動が多く、そのたびに主人公の哲学や思想、価値観のようなモノに触れる事ができるようで、大変楽しく読めました。 わたしはファンの声が大きい作品に身構えてしまうところがあるので、この作品の評判を聞いてから読むまでに10年以上かかってしまいました。この作品に残念なところがあるとすれば、それは私の臆病が10年以上の時間を無駄にした事です。 | ||||
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だいぶ昔に清水俊二訳のハヤカワ・ミステリの「長いお別れ」を読んでいたが 久しぶりにこの長いお別れのことを思い出し買い直してみるかと思ったが、 村上春樹訳の「長いお別れ」が出ていることを知りこっちを買ってみた。 まだあとがきを少ししか読んでないが村上春樹にとって特別な本だったらしく 何回も原文を含め読み込んでいたらしい。 SNSが主流の時代になりこのような厚めの文庫本を最後まで読むような文化は 廃れてしまったかもしれないし自分もツイートのような短文ではない長文を読み込むのは しんどくなってしまってこの本も素敵なインテリアになってしまうかもしれないが、 ずっと後世にまでこの本の精神は語り継いていくべきものだと確信している。 | ||||
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探偵物というジャンルを超えた最高の読み物、文学作品。 詳細は、この作品から多大な影響を受けた訳者・村上春樹の後書きに譲ります(深い洞察と愛に満ちています)。 | ||||
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とにかく、終わり方がいい。最高の結末! | ||||
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こんなに長い小説を読んだのは久しぶりです。探偵小説或いはミステリーとして片づけられない古典としての古さを感じさせない今迄読んだ事の無い文体と表現はお見事と言えます。ストーリーの展開も流麗でさすがです。これまで読まれ続けているにはそれなりの事実があります。文学としての価値を感じました。 | ||||
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早川文庫には、村上春樹氏訳の『ロング・グッドバイ』(以下、村上訳)と清水俊二氏訳の『長いお別れ』(以下、清水訳)がある。村上訳を読んだ後、二つの理由(※後述)から清水訳も気になり、読むこととした。 両方を読んでの個人的な感想を記すと、 村上訳は、誠実に、忠実かつ正確に読みやすく翻訳されており、わかりやすい。 一方、忠実たらんとするあまり、省いても伝わるセンテンスも訳されているためか、時としてくどいと言うか、まどろっこしく感じることがある。 清水訳は、村上訳のあとがきで言及されている通り、村上訳と比べると省略されてる個所がある。(多分意訳もあるのだろう)ただこの欠点が長所にもなっていて、村上訳に比べ、疾走感を感じたり、このシーンにこの言葉みたいなカッコ良く思える文章に出くわすことがある。 これは清水氏が一流の映画字幕翻訳家でもあったことで、映画の流れるシーンを損なわない字幕の文字制限(1画面の字幕の最大字数が1行=13文字/2行まで、1秒当たり4文字)で培った翻訳経験から、 小説の翻訳のアプローチも、原文の情景が読者に伝わるのであれば、意訳や省略も手段の一つと考えて取り組まれたではないか?と勝手に想像する。 で、お薦めはどちらと聞かれると、翻訳に対するアプローチの仕方が違う2つのどちらかを選べと言われてるようなもので、お好みの方を選んでくださいとしか言いようがない。 ちなみに私自身の好みは清水訳で、村上訳よりカッコイイと感じる文章が多いからだ。 これも個人的な好みの結果でしかなく、優劣を付けれることはできないので、アマゾンならば電子書籍で最初の数十頁を試し読みできる。これを使って数ページでも良いので読み比べて、好みの方を買うのがいいと思う。 (※)清水訳も読む気になった二つの理由 一つは、通常同じ文庫で新訳がでると旧訳は廃版になるが、未だに販売されていることから、清水訳には廃版しないだけの魅力があるのでは無いかと考えたこと。(村上訳のあとがきに「翻訳は五十年で大きく改築、あるいは新築」と書かれてるにも関わらず、1958年出版の物が廃版されていないので。) もう一つは、たまたま入手した、作家で評論家でもある小林信彦氏の『地獄の読書録』に、清水訳『長いお別れ』のコメント(下記)が有り、翻訳レベルが低かったら小林氏がここまで絶賛しないと思われ、清水訳にも興味が出たこと。 「ロス・マクドナルドの『運命』を読んで、文学性と犯人の意外性と動機の必然性が渾然一体となった秀作だと感心したが、『長いお別れ』はそれを上廻る作品だった。ハードボイルドの何のというより、これは、まず、立派な小説なのである。」(小林信彦氏著『地獄の読書録』より) 余談ですが、この小林氏コメントのおかげで今までハードボイルド小説には殆ど縁のなかったのに、なんとか『運命』を入手。その後ロス・マクドナルドの傑作と名高い『ウィチャリー家の女』『さむけ』まで入手し読んでしまいました。(特に『さむけ』はお薦めです) | ||||
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骨太な本、比喩は巧み。しかし、村上春樹が幼稚すぎて。。 | ||||
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しばしば映画のオマージュとしてこの小説が取り沙汰されるので、読んでみようと思った。コロナで時間はあるし村上春樹らしい翻訳がそこここに感じられた。浮世の些事に背を向けているような私立探偵マーロウが泥酔男にどこか魅力を感じて酒を酌み交わしたことから彼の回りで起こる謎めいた殺人事件に巻き込まれていく。 >あなたは少しばかりセンチメンタルなところがあってそれが問題 真相がわかるにつれて男の友情が壊れていくところが「第三の男」を連想させる | ||||
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ハードボイルドの分野に限らず、アメリカ文学を代表する本作は、今読んでも面白い。スリリングな展開、登場人物の粋な会話、カリフォルニアの風景描写、資本主義社会批判、戦時中と戦後の深い関連、男の生き様など、日本の文学では真似ができない奥深さがある。 一人称は小説として難しいため、忌避されるが、本作はすんなりと読める。完成度の高い一人称小説である。 アメリカの持つ光と闇が鋭く描いた点は、秀逸である。 「われわれは社会の道徳と個人の道徳がいちじるしく崩れ去ったことを見てきている。人間の品質が低下しているのだ。マスプロの時代に品質は望めないし、もともと、望んではいない」「われわれは世界で一ばんりっぱな包装箱をつくっているんだ」 1953年に出版された時の文明批判は今にも通ずる。一方で、主人公は、金儲けではなく人助けの仕事を重視する貧乏探偵でもある。仁義を大切にする古風な気質のために、災難に遭い、散々な目に遭う。しかし、だからこそ主人公は愛される。 安易な方向に行かず、信義を大事にする主人公の生き様は、現代人にも考えさせられるものがあり、一読の価値がある。 しかしながら、本書が次の点で大きな欠点があり、当時の時代といえどもやはり欠点であるように思われる。以下はネタバレになるので、未読の方は気を付けていただきたい。 ・一人称の限界かもしれないが、本作のキーポイントとなる出来事は、金持ちの娘のシルヴィア・レノックスの死である。そもそも、この人物の死を巡って物語は大きく展開するのだから、シルヴィアが死に至った過程が詳しく描かれて欲しい。結局、なぜ殺されなければならなかったのかが、最後まで読んでも今一つ分からない。交際の派手なシルヴィアが、金もなく落ちぶれていた夫のテリーと結婚に至った過程や不貞に至るシルヴィアの欲情、救い難き業などが描かれなかった点が大変物足りなく感じた。 ・凄腕探偵フィリップ・マーロウがウェイド邸にいながら、マーロウに気づかれずにアイリーンが夫を殺した手口が不明である(家の間取りが分からず、どのようにして夫の部屋にこっそりと入ったのか分からない。また、なぜそのような危険なタイミングで犯行を行ったのかも)。トリックはない。その点、ミステリーではなくサスペンスだが、やはり手口が不明な点は欠点となる。 ・シルヴィアは大富豪の娘で、大豪邸の部屋の中で殺された。このような大富豪の家では複数人の使用人が雇われている。いかに間取りを利用しようとも、これらの使用人の目撃なしで、どうやってアイリーンが犯行を遂行できたのか不明である。この点、何かトリックや巧妙な手口があるかと思ったがなかった。この点、一工夫があってもよかったのではないか。 アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長編賞受賞作品だけに、以上の点を厳しく批評し、星マイナス1つとする。 | ||||
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著者レイモンド・チャンドラーによる徹底的な客観的描写を通じて、読んでいるうちに、映画のような没入感を感じる不思議な読み応えの本。 主人公フィリップ・マーロウは特段、自分の気持ちなんて一言も吐露しない、殴られようが警察に捕まろうが、何も言わず、次から次へとただ行動していく、その全てが、彼の心理的な渇望を描いている。 逆に言えば彼の行動からしか、何を考えているのか読者にはひとつもわからない。 横道にそれるエピソードや、人物描写も最高だ。例えば3人のVが名前につく医者に会いに行くくだりは、その結果的に無駄な部分も含めて、小説のなかに本物の私立探偵の日常を思わせる。 その癖「さようならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」なんて素敵なセリフをぽろっと言って、章を閉じることもある。随分とかっこいい男がいたもんだなぁと小説ながら感嘆する。ハードボイルドな気分は男を痩せ我慢させて、優しくさせるのかもしれない。 本編でも読み応えがあるのに、村上春樹さんの訳者あとがきが素晴らしい。 主人公の自我を消し去ってフィクションをリアルに立ち上げた試みなどを明晰に解説されていた。 グレート・ギャッツビーとの連関、チャンドラーの人生と人となり、転じて小説作法として「みぞおち」で書く、つまり正面から自分と向かい合う行為だと言う村上さん自身の職業感をつないで語る。 村上さん自身がこの小説にとても影響を受けて育った話が合点がいった。 何より本作への愛情と並々ならぬ翻訳への努力を感じた。 それそのものが村上春樹さんの作品らしいと言えばそうなのだが、 単なるミステリーとして読む探偵小説ではなく、大衆的な表層を被った純文学。だと思って読んだ方が良い。 | ||||
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「村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事」を図書館で読んで関心を持ち、厚さ4センチもある本書が展示してあり読みました、ただし訳者あとがきだけですが、著者は16歳から何度も何度もくり返し読んで 再訳に至る経緯とチャンドラーの文体や手法の話に興味深く引き込まれました。 私は20年ほど前「読まずに死ねるか!」内藤 陳 (著)での一押しが「深夜プラス1」で初めてハードボイルドという言葉を知りました。ウィキペディアによると ハードボイルドとは元来、ゆで卵などが固くゆでられた状態を指す。転じて感傷や恐怖などの感情に流されない、冷酷非情、精神的・肉体的に強靭、妥協しないなどの人間の性格を表す。 2014年4月放送のNHKの連続ドラマ全5話を見ました。主演は浅野忠信で、デビュー26年にして初の連続ドラマ主演となる.浅野忠信は凄い映画「バトルシップ」で知りました。 you tube :バトルシップ名シーン!戦艦が簡単に沈むか!で見れるよ。 『長いお別れ』(ながいおわかれ)または『ロング・グッドバイ』(原題:The Long Goodbye)と原作者レイモンド・チャンドラーはウィキペディアにかなり詳細な記述があります。 合わせて読めば時間があっという間に過ぎてしまいます。 それにしても最近はノーベル文学賞の話は薄れているようですが、村上さんは日本より海外でよく読まれているようですが・・・ | ||||
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手際良く早く着きました 特に汚れもなく満足です | ||||
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わたしは、この清水 俊二訳『長いお別れ』(早川書房)を愛情あふれる翻訳である、とはどうしても感じることはできなかった。この翻訳にくらべて、後出の村上の翻訳『ロング・グッドバイ』(早川書房)は、清水によるチャンドラーの原文逐語訳から離れ、全体が意訳なのかもしれませんが、わたしは、村上のほうを 約(訳)1.5倍 くらい楽しむことができました。 翻訳でどこまで《意訳》が許されるのか? 原著英文にない単語・語句を―――日本語の言い回しの際に―――どこまで加えてよいのか? 英単語の意味を英和辞典からどこまで離れて良いのか? そこは知る由もありませんが、すぐれた翻訳者(村上)がひとたび「35年以上も昔の、清水氏の翻訳より、圧倒的にすばらしい作品を創ってやろう!!」と、心に決断すれば、このようになるのだ・・・・・ということがよくわかりました。 いずれにせよ、村上により、この小説が単なる「娯楽小説」ではなく、文学性を付与された作品になったことは確かである。村上の後出しジャンケンで有利なことは明白ですが、村上は、「どうだい、自分の翻訳は清水より優れているだろ?!」ということを示したかったわけではなく(少しはあるでしょうが)、チャンドラーを単純な、例えば東野 圭吾 氏のような「娯楽小説家」のカテゴリーに入れられていることに村上は我慢できなかったのでしょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー [要約] 清水 VS. 村上、この二人の翻訳には大きな空気感の違いをこの物語の多くの場所で認識できた。以下に、清水と村上の翻訳の違いを明示している5ヵ所を例として記した: 村上のチャンドラーに対する愛・敬意、そして先行する清水への並々ならぬ対抗心が感じられる。ただ、マーロウを主人公とする、会話の翻訳では村上訳の不自然さを、しばしば感じた。端的に言わせていただけるのなら、会話の表現は清水の方が一枚上手である、と思う。 特に、女性とマーロウの濡れ場の会話については、明らかに清水の実生活での場数が勝っている、ことを感じた。 ①:第6章、メキシコに逃走を図るテリー・レノックスを無事チュアナの空港に送り届け、自宅に帰っていた主人公マーロウと、尋問に訪れた二人の刑事とのやりとり、の場面。 現実の刑事とのやり取りは、《清水》の方では?と、思ってしまいました。《村上》の方は、現実の会話とすれば、まどろっこしさを感じてしまう。 《清水》『長いお別れ:ページ53、11行目から』 彼らは居間に腰をすえた。私は窓をあけて、風をいれた。しゃべったのはグリーンだった。 「テリー・レノックスという男、知っているだろう」 「ときどき、いっしょに酒を飲んだことがある。エンシノに住んでいて、細君が財産を持ってる。住んでいるところへは行ったことがない」 「ときどきというのはどういう意味だ」 「はっきりいえないね。一週間に一度という意味にもなるし、二ヵ月に一度という意味にもなる」 「細君に会ったか」 「一度、ちらっと会った。結婚する前のことだ」 「彼に最後に会ったのはいつだ。場所はどこだ」 私はテーブルのパイプをとって、タバコをつめた。 《村上》『ロング・グッドバイ:ページ62、末尾から7行目から』 彼らは居間に腰を下ろした。私が窓を開けると微風が入ってきた。しゃべる役はグリーンがつとめた。 「テリー・レノックスという男を知っているね?」 「ときおり一緒に酒を飲む。エンシーノに住んで、金持ちの女房がいる。家を訪れたことはない」 「ときおりというのはどの程度の回数だ?」とグリーンは言った。 「それは曖昧さを意味する表現なんだ。事実曖昧そのものでね。週に一度ということもあれば、二ヵ月に一度ということもある」 「細君に会ったことは?」 「一度だけ、ちらりとね。結婚する前のことだが」 「彼に最後に会ったのはいつで。場所はどこだ?」 私はエンド・テーブルの上のパイプを手に取り、煙草を詰めた。 ②:第11章、主人公マーロウとギャングのボス、メネンデスとの緊迫のやり取りの部分を少し長めに抜粋してみた。 《清水》『長いお別れ:ページ110、9行目から』 「これを忘れてる」と、私はデスクをまわりながらいった。 「半ダースも持ってるんだ」と、彼はひとをばかにしたような口調でいった。 私は彼のそばへ行って、ケースをさし出した。彼の手がそれを受けとろうとした。「こいつも半ダース食らうか」私はそういいながら、彼の腹を力いっぱい殴りつけた。 彼は悲鳴をあげて、からだをまげた。シガレット・ケースが床に落ちた。彼のからだがうしろにさがって、背中が壁にぶっかった。両手が苦しそうに前後にゆれた。呼吸が苦しそうだった。額に汗がにじみ出てきた。 ・・・・・・ ・・・・・・ 「お前をみそこなったよ」と、彼はいった。 「この次は拳銃を持ってこい――――でなければ、おれをチンピラと呼ぶな」 「ピストルは用心棒に持たせてある」 「そいつを連れてこい。そばから離すな」 「お前はなかなか怒らない奴だな、マーロウ」 《村上》『ロング・グッドバイ:ページ125、末尾から2行目から』 「忘れ物だ」と、私は言って、机を回り込んだ。 「そんなものは半ダース単位で買っている」と彼は馬鹿にしたように言った。 私はメネンデスのそばへ行き、ケースを差し出した。彼は何気なくそれに手をのばした。「こういうのも半ダース単位でどうだ?」と私は言い、相手の腹の真ん中に思いっきりきつい一発をたたき込んだ。 彼はうめきながら、身体を二つに折った。煙草ケースが床に落ちた。壁にもたれかかり、両手をぴくぴくと前後に痙攣させた。肺に空気を吸い込もうとしてあえいでいた。汗が流れた。 ・・・・・・ ・・・・・・ 「そんなに肝っ玉あるとは思わなかったぜ」と彼は言った。 「次は銃を持ってくるんだな。そうじゃなければ、私をはんちくと呼ぶな」 「俺は銃を持つ人間を雇っている」 「じゃあそいつをそばから離すな」 「お前、腹を立てるのにやたら手間のかかるやつだな」 ③:第49章の最終部。レノックの妻、尻軽女シルビアの姉、ミセス ローリングとマーロウとの “睦み合い” の会話。 この部分は、一見すると、《村上》の訳が優れているように見える(読める)が、現実(実生活)に女性経験が豊富な翻訳者は《清水》の方でしょう(このような場面での、現実の男女の会話は、以外にシンプルですものね。女性なら、何となくわかりますもの・・・)。 《清水》『長いお別れ:ページ509、最後から3行目からお終いまで』 「とても私を愛してる? それとも、いっしょに寝れば愛してくれる?」 「好きになりそうだな」 「むりにいっしょに寝ないでもいいのよ。ぜひにとはいっていないのよ」 「ありがとう」 「シャンペンをちょうだいな」 「お金をいくら持っている」 「全部で? そんなこと、知ってるはずがないわ。八百万ドルぐらいよ」 「いっしょに寝ることにきめた」 「お金が目当てなのね」と、彼女はいった。 「シャンペンをおごったぜ」 「シャンペンなんか、なにさ」と、彼女はいった。 《村上》『ロング・グッドバイ:ページ566、最初からお終いまで』 「私のことを心から愛してくれる? それともあなたとベッドを共にしたら、心から愛してもらえるのかしら?」 「おそらく」 「私とベッドに行く必要はないのよ。無理に迫っているわけじゃないんだから」 「ありがたいことだ」 「シャンパンが飲みたいわ」 「君にはどれくらい財産がある?」 「全部で? どれくらいかしら。たぶん八百万ドル前後ね」 「君とベッドに行くことにした」 「金のためなら何でもやる」と彼女は言った。 「シャンパンは自腹を切ったぜ」 「シャンパンくらい何よ」と彼女は言った。 ④:第50章の最終部。シルビアの姉、ミセス ローリングとマーロウが性行為を終え、その後、ベッドのそばの椅子に腰かけての会話。 この部分も、女性経験が豊富な翻訳者、《清水》の方が上手のような気がする。 《清水》『長いお別れ:ページ514、最後から2行目から』 「なぜこんなことをしたのか、わからないわ」と、彼女はいった。「でも、お願いだから、女はいつも自分のしていることがわかっていないなんていわないでちょうだい」 私は彼女のグラスにシャンペンを注ぎなおして、笑って見せた。彼女はグラスにゆっくり口をつけて、向こうを向くと、私の膝にからだを倒した。 「つかれたわ」と、彼女はいった。「こんどは抱いていってちょうだいね」 しばらくしてから、彼女は眠りにおちた。 《村上》『ロング・グッドバイ:ページ571、2行目から』 「どうしてこんなことしちゃったのかしら」と彼女は言った。「でもお願いだから、女というものは自分でも理由がわからないことをするもんだ、なんて言わないね」 私はグラスにシャンパンを注ぎ直し、笑った。彼女はそれをそろそろと飲み、むこう向きになって、私の膝にもたれかかった。 「疲れたわ」と彼女は言った。「抱いて運んでいってほしい」 少し後で彼女は眠りについた。 ⑤: 第53最終章、主人公マーロウと死んだはずのテリーの、本当(最後)の別れのシーン。 《清水》『長いお別れ:ページ536、2行目から』 「何もかもわかっているんだ、テリー。君はいろいろな意味でいい人間なんだ。ぼくは君に批判をくだしているわけじゃない。いままでだって批判なんかしなかった。ただ、もういままでの君とはちがうというだけのことだ。ぼくが知っていた君は遠くへ去ってしまった。しゃれた服を着て、香水を匂わせて、まるで五十ドルの淫売みたいにエレガントだぜ」 「芝居だよ」と、訴えるような口調でいった。 「芝居を楽しんでいるんだろう」 彼は唇をまげて、さびしそうに笑った。 《村上》『ロング・グッドバイ:ページ539、7行目から』 「それはよくわかっているよ、テリー。君はいろいろな意味でとても感じのいいやつだ。私は何も君の是非をはかっているわけじゃない。君を責めたことなど一度もない。ただ君はもうここにはいない人間なのだと言っているだけさ。君はずっと前にここから消えてしまったんだ。今では素敵な服を着て、香水をつけて、まるで五十ドルの娼婦みたいにエレガントだよ」 「こんなものただの見せかけだ」と彼はすがりつくようにいった。 「しかし、その見せかけを楽しんでもいる。そうだろう?」 彼はあきらめたように力を抜き、苦い微笑みを口もとに浮べた。 感想:②,⑤は村上訳が優れていると思うが、①と③、そして④は、ちょっと見、村上訳が上手に見えるかもしれないが、①:取り調べに来た刑事とのやりとり、③と④:現実の男と女の睦み事、という状況では清水訳の会話の方が自然だと思いました。 刑事さんとのやり取り、女性と男性との睦み合い、レビュアーはいずれも、想像するしか術はないのですが・・・・・ | ||||
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有名なミステリー小説なので、題名は知っていたが、読んだのは今回が初めてである。確かに読ませるし、最後のどんでん返し?なんかは面白いが、ホームズ物やポワロ物に比べると、人間の心の機微の描き方がやや浅薄な気がする。主人公のマーロウが何度も殴られるなど暴力シーンも多く、まあ、いかにもアメリカ的な推理小説だなあという感じがした。それと訳が、マーロウが喋っているのか、相手が喋っているのかよくわからない部分があり、ややとまどった。 | ||||
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このロング・グッドバイという作品、本当に訳者に恵まれていないなぁ。 村上春樹には期待したけれども、結果は以前の訳者の方がまだマシでした。 そもそも英語作品と日本語って相性が悪いと思うんです。逆も然りですが。 それは言語の作りの違い、特に日本語の特殊性にあると思います。 世界のほとんどの言語の作りは、 「私は 愛してる あなたを」 という作り。日本語は言うまでもなく 「私は あなたを 愛してる」 この差異が双方の翻訳に壁として存在しています。 加えて、英語独特の心理表現や言い回しの中には、どうしても日本語に訳せないものがあり、文学作品でそれは顕著に現れます。 なので、英文学の訳書は生理的に読みづらいものがあります。 これを回避するには、もう思い切り意訳するしかなくて、そこで翻訳者の真価が問われます。 有名どころでは、映画「カサブランカ」の、「君の瞳に乾杯」という台詞。 原文をほぼ留めないものすごい意訳ですが、場面の雰囲気に見事に寄り添う素晴らしい意訳です。 あの大御所、戸田奈津子さんも意訳の重要性について同じようなことを仰ってました。 さてではこの「村上訳」について一言で言うなら、「翻訳者のセンスはゼロ」と言わざるを得ないかと。 意訳する際の語彙力とか表現力とかに期待したのですが、残念、原文にこだわり過ぎたよくある読みにくい日本語になってしまいました。 まぁ、これは好き好みですが、私が元々村上春樹の作品にあまり語彙力だったり表現力だったりを感じてなくて、「ノーベル賞候補?何で?」と、大江健三郎状態なせいもありますが・・・。 昔、シドニー・シェルダンの「超訳」というレーベルがあって、出す作品みんな大ヒットしてたのを思い出します。 この「超訳」とは、意訳を駆使した日本語での読みやすさの徹底追求というもので、そこからくる読書感の良さが大ヒットの要因でした。 今から思うとシドニー・シェルダン作品自体は結構チープな作品でしたが・・・。 数々の翻訳者が挑んでは砕け散ってるこの作品。思い切って「超訳」に挑んでくれる猛者の登場を待っています。 | ||||
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大沢在昌など、日本の著者のハードボイルドばかり読んでいて、読むものが少なくなってきたので、食わず嫌いだった海外著者のハードボイルドを読んでみた。さすがに名著と言われているだけあり、とても面白かった。村上春樹の和訳も、違和感なく良い感じ。ハードボイルド好きなら気にいると思う。 | ||||
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