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長いお別れ
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【この小説が収録されている参考書籍】
長いお別れの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.36pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全290件 221~240 12/15ページ
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翻訳家・村上春樹氏には頭が下がる。 同時代にいてくれて「ありがとう」という思いが強い。 チャンドラーやフィッツジェラルド、サリンジャー、カポーティもそうだけど、 レイモンド・カーヴァーやポール・セロー、 ティム・オブライエン、ジョン・アービングなどの これまで知らずにいた優れた作家を紹介してくれた。 思い入れのある丁寧で素晴らしい仕事をしているし、 それについては文句のつけようがない。 しかし、氏は創作が本業であるはず。 翻訳なんかしていていいの?そんな時間あるの? という気がしないでもない。 比較すべきではないかもしれないが、 どうしても“翻訳作品>村上作品”ということになってしまうからだ。 翻訳作品は歴史に燦然と輝く名作ばかりではあるけれど… どこかで、 「翻訳はオードブルをつくるようで楽しい。 冷蔵庫のありものをテキパキと調理するようなもの。 メインディッシュ(創作)はそうはいかない…」 というような事を述べていた。(あやふやですが) 村上ファンとしては「メインディッシュ頑張らんかいっ!」と言いたい。 頑張っても出来ないのかも知れないけれど… 素晴らしい翻訳が出る度に 氏の作家としての炎が小さくなっていくようで、 少々寂しい気分になる。 | ||||
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10代からのマーロウファン。ギムレットにあこがれて、酒を覚えました。 マーロウの男らしさやストーリーのすばらしさは、従来の清水訳と比べても、ひけをとらないと思います。 もちろん細かいところの描写は違いますが、どちらがよいかは好みの問題でしょう。 村上さん訳だから、マーロウが知られる。なんだか私から見ると本末転倒な気もしますが、これも時代の流れなんでしょうね。 村上春樹も大好き。マーロウも大好き。な私にとってはうれしい一作です。 でも、わざわざ村上訳っって騒ぐほどもないかな。 | ||||
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このところ通勤電車の中でしか本を読めなかった者にとってあのぶ厚さは殺人級で、 発売直後に買ったは良いものの、ずっと本棚に放置していました。 やっと本日読了です。 フランクフルト空港といえば「ノルウエイの森」を思い出しますが、 フランクフルトから成田に戻る機内で読み始めたら止まらなくなって、 トイレにも行かず一気に読んでしまいました。 正直、チャンドラーは初読でして、原文も清水訳も読んでいません。 だから村上訳の巧拙はサッパリなのですが、とにかくチャンドラーの文章力に 衝撃を受けました。明らかにミステリの範疇を超越しているというか・・、 昔フィリップ・k・ディックの「ヴァリス」を読んだときのような、強烈に個性的な 世界観への吸引力を感じます。面白い。 ただし、幾つか難点もあるかと思います。 物語の内容に関して言えば、本来終わりにするべき地点は もう少し早かったほうが良いのでは?なんて思いました。 あるいは、51章の後に49、50章を入れる構成のほうがカッコ良かったかも、なんて。 村上訳について言えば、概ね素晴しいと思いますが、「新訳を問う」という割には 少しばかり古めかしさが残りすぎている気もします。 まあそんなに気にはならない程度ですけど。 そもそも新訳が必要かどうかはケースバイケースですよね。 ヘミングウエイなら大久保康雄訳のままが良いと思うし、 カラマーゾフなんかだと光文社が出した新訳があることで、 旧訳をギブアップした人には助かるし。 最後の難点は、装丁が比較的ダサいことでしょうか・・。 物語としては☆5つですが、そんなわけで☆4つにしておきました。 | ||||
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レイモンド・チャンドラーという名前は知っていたが、その作品は通俗的な探偵小説というイメージがあったため、これまで素通りしてきていた。しかし、先日、本屋で村上春樹が翻訳した『ロング・グッドバイ』が山積みされているのを発見し驚いた。村上がチャンドラーを読んでいるというようなことはまったくの予想外だったからだ。そのときは村上の「あとがき」をパラパラと立ち読みしたのだが、村上が引用しているJoyce Carol Oatesの言葉(この言葉はVintage版の裏表紙にも載っている)にただならぬものを感じ、すぐさま原書を注文することになった。読み始めてみると、「格調高い」というのとは少し違う気がするが、たしかに文章はうまい。自分の頭にあることを淀みなく書くことができるという点では、ポール・オースターなどにも同じものを感じる。また、ほとんどの章の始まりと終わりには感情を抑制した静的な描写が使われており、1つ1つの章がまるで1つの完結した小宇宙を形成しているかのような構成は見事である。もう1つ感じたのは、女性の描き方が非常にうまいということだ。例えば、第13章のバーで待ち合わせをしている場面で、Eileen Wadeがさりげなく登場してくる。この女性の描写はまさに息をのむ文章である。字面を追っていくだけでもその艶めかしさがこちらに伝わってくる。 | ||||
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まだこの小説の翻訳を読んでいない方はもちろん、従来の訳ですでに読んだという方にも強くお奨めします。理由はあとがきで村上氏が書いているのですが、従来の翻訳「長いお別れ」ではかなり多くの文章の細部が意図的に省かれている、とのことで、いままで数回この小説を読んだことがありますが、「あれ、こんな場面あったっけ」と、新鮮な驚きがありました。 かなり分厚い本ですが、村上氏の語り口のうまさでぐいぐいと一気に読み進んでしまいます。 こうなると他のチャンドラーの作品もぜひ村上訳で読みたいところです。 また、この小説を読むと村上氏の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」や「ダンス・ダンス・ダンス」がこの小説から強い影響を受けていることがわかります。村上氏のファンの方は必読です。 特に「ダンス・ダンス・ダンス」での刑事との会話の場面などは「ロング・グッドバイ」そのままです。 唯一の難点は最後に明かされるプロットが現代からみればあまりに古臭すぎる、ということでしょうか。 また、フィリップ・マーロウが最後に「徳義」というあまり聞き慣れない言葉を語る(ちなみにこの徳義という言葉はあとがきと帯にも使われています)のですが村上氏がなぜあえてこの「徳義」という古臭い言葉を選んだのか、がこの訳の最大の謎です。 | ||||
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僕は何故、こんなにもマーロウに惹かれるのだろう。 偏屈で、強情で、己を通すことに周りをかえりみない。 そんな人間に、何故惹かれるのだろう?。 マーロウは強い。肉体のみならず、何よりも意志が強い。 マーロウは弱い。財産は全く無く、誰の後ろ盾も持っていない。 マーロウは自由である。 マーロウは束縛されている。己の稼業(しょうばい)に、束縛されている。 マーロウはスーパーヒーローではない。やれる仕事は高が知れているし、 家賃を払うためには、気の進まない仕事もやらざるを得ない。 とても不完全な男。フィリップ・マーロウ。 だがそれ故に、鈍く光る刃物のような魅力を放ち、人を惹きつけるのだと思います。 マーロウの中にある、堅く揺るがない精神。 その強さは生きて行くために必要なだけだと割り切り、 それでいてなお、優しくなければ生きている資格がないと言い切る、男。 故に、ハードボイルドである。 そして僕は、生き方に迷ったとき、マーロウを思い出す。 マーロウという強い男の、強さを。 弱い人間が、挫けそうになったとき、 その強さに少しでも近づける勇気を、分けてもらうのです。 | ||||
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岐阜の多治見駅前の本屋で17時頃に購入し 多治見ー名古屋ー東京ー国立と読み続け 家に帰ってもそのまま読み続けて 23時に読み終えた。普通なら車中では眠ることにしているのだが 眠る機会を逸した。 まず 原作が面白い。本作はうかつにも初めて読んだ。抜群に面白い。チャンドラーの本は 数冊を20年前に読んだ程度だった。20年前の僕は尻が青かったということが良く分かった。 洒落た会話や描写が有名なのが チャンドラーだ。それは分かっていたが チャンドラーがそもそも持っていた 乾いた叙情性を 今回初めて感じた。これは 高村薫にも感じるものがある。高村がチャンドラーを好きだという話が出てもおかしくないと思う。両者は似ている。サスペンスという題材を選んだ純文学者という点で。 次に 当然の事だが 村上春樹とチャンドラーの関係である。 本書を読んでいて いくども 村上の本を思い出した。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」や「ダンスダンスダンス」に出てきた 尋問の場面などは もうそっくりである。村上は以前から チャンドラーから受けた影響について 語ってきたわけだが 今回 村上が本書を訳した事で そのことがはっきりと見えた。 その意味では 村上にとっても いささか「ネタを明かす」というようなリスクはあったのではないかとも思う。しかし それを超えた部分で 村上がチャンドラーをいかに敬愛し 尊敬しているのかという事だと思う。 実際 本書を読んだ事で チャンドラーを読むきっかけになる人は きっと 凄く多いと思う。それは 極東の島で 村上という作家にして訳者を得た チャンドラーの幸せなのだ。 読み終える事が本当に惜しかった。そう思える本も そうざらにはない。 | ||||
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春樹村上の好きな作家の一人にレイモンド・チャンドラーが挙げられていたので、その存在は知っていたが、読んでみるとなるほどと唸るのみ。すごい世界だ。男の世界。 しかし、春樹村上のファンで彼の小説を読んで分かったが、初期の彼の作品の中の乾いたクールな表現がレイモンド・チャンドラーと重なり、「あ、これはレイモンド・チャンドラー的だな」と、特に文末の表現(締め方)で感じることが多い。 何はともかく、次の小説にとりかかる。 | ||||
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いまどき、チャンドラーもないだろうって感じで最後まで読んでしまったけど、これでも、面白いっていうのかなあ。村上は、16、7歳くらいのときにはじめて読んで、以後、原書と清水訳を交互に読んできたらしい。翻訳は、25年くらいで新しく訳されるほうがいい、と村上は言っているが、ついに自分でやってしまった。 お世辞にもいいとはいえない安っぽい装丁に、村上は一言、「ありがたい」とは言っているが、内心、「なんでこんなんやねん!」と思っているのは見え見え。 これを読んだ直後、向田邦子の「男どき女どき」を読んだ。余りの現実感とギャップに戸惑い、不思議な感じになるよ。 | ||||
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ギャツビーからは情感を、チャンドラーからは会話を、そしてカラマーゾフの兄弟からはストーリーテリングを、学んだように思える。ギャツビーでは良く分からなかったが、村上春樹のネタ帳を垣間見るような翻訳作業の一冊。 もちろんテキストの優秀さあってのことなのだろうが、こと会話に関してはもうストーリーや何かに関係なく楽しめるものに仕上がっていると思う。そのうえ丁寧な翻訳作業をなぞるように、もともとハードボイルド特有の含みの多い会話の意味を、ひとつひとつ消化しながら読み進められる。必然的にスピード感は殺されてしまうが、緊迫した球技の試合を解説付きで見ているように、素人が玄人の貴重な技の隅々まで味わえるような魅力がある。雰囲気とスピード感を取るか、驚嘆すべき文章芸の味わいを取るかで旧訳との好き嫌いが分かれるのではないだろうか。それはこの原作をミステリとして読むか、文学作品として読むかの違いかもしれない。 自分としては慣れ親しんだミステリ「長いお別れ」を捨てきれないのが正直なところ。新訳マーロウは少し年をとってくどくなった気がする。でもチャンドラーの文章芸にはあらためて感心させられたし、読むのに時間が掛かるので、長時間楽しめたことは○。本代のモトは取れます。 | ||||
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久しぶりにチャンドラーを読みました。いつも飛行機や列車に乗っているときに読むのですが、この翻訳は、最初の助走部を過ぎると、段々乗ってきて、「いやー、ネズミかギャッツビーが出てきそう」って不思議な感覚で、とても楽しかった。清水さんの翻訳ももちろん素敵でしたが、小説家としてのチャンドラーの『細部への拘り』や『苦味』は村上さんの翻訳にしかないものだと思います。きっと、村上さんは『ギャッツビー』を読むのと同じ姿勢でチャンドラーを読んでいるのだと思います。いつか文庫本になって持ち運びしやすくなったら、また旅のお供にしたいですね。ああ、それから、複数の翻訳は、それぞれ別の世界だと思いますので、比較をするなら原文を根拠に徹底してやって欲しいですね。単なる好き嫌いを、翻訳の良し悪しや、日本語の上手下手と言われてもね。私の比較論はただ一つ。清水訳は、「原文読もうかな」という気にさせますが、村上訳は「こりゃ手に負えない英語だろうな」と原文で読む気をなくします。 | ||||
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ハードボイルドにはまっていた学生の頃にさんざん読みましたが、 村上春樹さんの訳が出たことで、懐かしく読み返す機会をいただきました。 キャッチャー・イン・ザ・ライもそうですが、 大好きな作品を現代によみがえらせてくれた村上春樹さんに感謝です。 一度もチャンドラーを読んだことのない方がいたら、これは絶対におすすめです。 | ||||
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あとがきからも伝わってくるように、非常に訳者の思い入れの強い作品である。 しかし、得てして思うのだが、訳書の場合、作品の思い入れが強すぎるほどに文体から訳者の顔がのぞいてきて、読んでいてうっとうしくなるものである。評論家の豊崎氏が「村上氏の訳したものは全部村上氏のトーンになっていて、つまらない」と語っていたが、これは当てこすりでもなんでもなく、一抹の真実なのだと思う。 90ページにも渡る大部なあとがきにおいて、村上氏はフィリップマーロウを純粋仮説の存在として定義している。つまり、生身の人間が抱える自意識のくびきを超え、あらゆる二律背反・逆説を同時に体現することの出来る仮説的な存在(実際にはありえない存在)であると。しかし、そのような仮説された自我を呈示される必要のないほどに、我々生身の人間が小説以上にアンチノミーかつ混沌とした存在であるのは新聞の三面記事を読むまでもなく自明である。生身の人間にはもちろんマーロウのような一貫性はないが、それは一貫性自体が小説(しかもハードボイルドという領野における)という結構の上で初めて可能なものだから仕方がない。 いずれにせよ、訳者の思い入れの強さが翻って小説へのアプローチを迂遠なものにするという逆説がこの訳書では体現されている、と個人的には思われる。 作品自体は過分もなく優れたものであり、そのストイックさと親密さの同居はやはりこの領域におけるマイルストーンだと思う。次は原書で読むとよいだろう。 | ||||
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村上春樹は自作の日本語はうまいのに、翻訳となると、サリンジャーの場合もそうだったけど、どうしてこんなに日本語が下手になるのか? 彼の下手訳によって昔の上手訳が悪貨が良貨を駆逐するみたく、なくなってゆくとすれば、日本語英米文学にとって、これほどの弊害はない。一般に日本語翻訳の質は上がってきているだけに、ここに唯一の例外のように、のさばる亡霊がいるのは慨嘆すべきことである。 | ||||
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チャンドラーの名作である本書が当代随一の作家・村上春樹によってあらたに世に出ることになった。「長いお別れ」(清水俊一訳)は台詞の素晴らしさとテンポのよい訳で広く人口に膾炙した本であったが原書を大幅に削除した点や古さを感じさせてしまう訳語などの点で些か本棚に埋もれてしまう感は否めなかった。村上訳による「ロンググッドバイ」はこのような問題点をクリアにし新たな古典としての存在として位置づけられる様に思う。村上本人もそのような意図で翻訳作業に及んだようである。名作との格闘という点においては大変評価したいし、違う角度からこのチャンドラーの名作を読書できるは読者冥利に尽きる。しかし、清水訳ではじめて接した時のマーロウの輝きは正直みられなかったように思う。マーロウが村上春樹の小説の主人公の二重写し(カーボンコピー)に見えてしまい、本来のマーロウ像がかすれてしまっているのが残念である。やはり翻訳のリズム、台詞の切れ味などでは字幕屋出身の清水の足下には到底及ばないのだろう。そこでお奨めしたいのが清水訳と村上訳を両方読んでみるという作業である。前者は文庫なので鞄やポケットに入れ暇なときに読んでみると良い。後者はかさばる重さなので週末当たりjazzを聴きながらゆっくりと読んでみるといいかもしれない。いずれにしても選択肢が増えたのは喜ばしい。名作の資料価値という点からもこの本を評価したいと思う。その息吹がよもや文学的になりすぎたとしても。 | ||||
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私は村上春樹さんの本は読みません。いやエッセイくらいは読んだことがありますけど、そのレベルです。 「長いお別れ」は好きで何度か読んでいて、好きがこうじて原書も買っています。それくらいファンなので今回村上さんの「ロング・グッドバイ」が出るのをを楽しみにしてしていて、発売当日に買って読みはじめて、気になるところは清水訳・原書と比べながら読みました。 感想ですが、訳に関しては村上さんのほうが原文に則って訳していますし、言葉も新しいです。ただ、雰囲気としては、マーロウの、とくにラストのテリーとの会話で感じたのですが、心の揺れが、なぜかストレートに伝わって来ませんでした(たんに自分の読解力不足かもしれません)。もし、長いお別れを読んでいなかったら感動は薄かった気がします。 文学者と映画の翻訳家のちがいでしょうか、少なくともラストの雰囲気は清水さんの訳のほうが日本人としては理解しやすいと思いました。 ただ、巻末のあとがきは最高です。これを読むだけでもチャンドラー好きにはたまりません。 そんなことで★5つです。 | ||||
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最近、村上春樹氏の新訳本が出て話題になっていたので、是非まずは原書でと手にしました。自分が生まれる前に書かれたものとは思えないほど新鮮で印象に残る内容でした。テクノスリラー等の最近の小説ばかり読んでいましたが、ハードボイルド小説の代表作はやはり時代を超えてすばらしいものだと思いました。遅くなりましたがこれからチャンドリアンの仲間入りをしたいと思います。 | ||||
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本書の売りは村上春樹訳でしょうから、これを読んでチャンドラーの文体からの影響、 「羊をめぐる冒険」の構造との類似性などを読み解くのもいいでしょう。 しかし、私が強調したいのは、チャンドラーその人が著したこの作品そのものの素晴らしさ! 人物の陰影が深く、語り手の「まなざし」そのものが魅力的で、 単なるミステリの閾を超越しています。 大部ではありますがどのシーンも味わい深いので、退屈せず、堪能しながら読了しました。 モトは十分とれると思います。 | ||||
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2007年は村上春樹が強い思い入れを持つ、ギャツビーとロング・グッドバイが刊行されて、 とても楽しい時間がすごせました。村上春樹訳は、批判する人もいるし絶賛する人も いるけれど、僕にとっては心から楽しめる、素晴らしい翻訳でした。 どちらも今回の翻訳を読んで、初めて本来の意味が理解できた部分が多かったです。 何故なら、どちらの作品も会話部分が多く、しかも洒落た言い回しや、 思わせぶり、皮肉、反語などの修辞技法の駆使が、人物の心理描写に奥行きを与え、 生き生きとした作品に仕上がっているからです。 清水訳を昔読んだときには、読み取れなかった部分がいくつもあって、 ああ、なるほどと思いながら読み進めていくのは、本当に嬉しいことでした。 とても長い作品ですが、多くの人にお勧めしたいです。 | ||||
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ストーリー・翻訳ともすごくよく出来ているし、今読んでも面白いと思うのですが、 どうしてもマーロウには共感できないのです。 それは、言いすぎでは?とか、 それはいくらなんでも冷たいんちゃう?とか思ってしまうんです。 オレがタフじゃないからなのか? あるいは、そうかもしれない・・・・。 なので★3つです。 | ||||
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