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長いお別れ
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【この小説が収録されている参考書籍】
長いお別れの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.36pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全290件 21~40 2/15ページ
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1953年に刊行されたレイモンド・チャンドラーの長編六作目である。 アメリカ推理小説作家クラブで1955年の最優秀長編にも推薦されており、チャンドラーの作品の中でも代表的傑作との呼び声も高い本作は、一番ページ数の多い著作でもあり、読み応えも十分。そして匠の技をじっくりと味わえることは非常の悦びだ。 たまたまテリー・レノックスという片頬に傷を持った酔っぱらいと出会った私立探偵 フィリップ・マーロウは、なぜか嫌いになれない、そしてどこか危なっかしさを感じさせるレノックスに対し、無償の親切心を度々表す。 そして二人は、夕方の落ち着きのある時間帯のバーで、頻繁にギムレットを酌み交わす仲になっていた。 結婚生活と自分自身に対して自暴気味な態度を見せるレノックスはいう。 「アルコールは恋愛のようなもんだね。最初のキスには魔力がある。二度目はずっとしたくなる。三度目はもう感激がない。それからは女の服を脱がすだけだ」 或る日の早朝、レノックスは不意にマーロウの自宅を訪ねてくる。その手には拳銃があった。 またマーロウにトラブルが舞い込んできたのだった。 じっくりとした文体、比喩の巧さ、会話のセンスの妙味、切れ味鋭い語り口、クールなキメ具合、その筆力は成熟の域に達している。 また、登場人物も数多いが上滑りしておらず、それぞれが魅力的だ。 これは、マーロウの第一人称で進む語り口こそ従来通りであるものの、これまでの作品に比べてみると、対峙する人物たちの心情までマーロウが汲み取って述べているからこそ、それぞれのキャラが存分に立っているのだと思う。 マーロウも本作中において既に42歳である。彼自身のキャラクターも熟味を増しているのだ。 この稼業の人間にはよくあるように暗い路地で往生しても、悲しがる人間は一人もいない、とうそぶくマーロウ。 数々の登場人物たちとのやりとりも争いも、ロマンスめいた出来事も彼にとっては一抹の泡のようだ。 いつだって物語の終わりには、マーロウは独りに還る。 「ただ、警官だけはべつだった。警官にさよならをいう方法はいまだに発見されていない」 | ||||
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エドワード・ホッパーの<Nighthawks>をカバー。田口俊樹堂々の新訳で読むことのできるチャンドラーの最高傑作。ううむ、何という贅沢なのだろう。 ぼくがこの作品を清水俊二訳で読んだのは、一体何十年前なのだろうか。マイPCにレビューが残っていないということは、冒険小説フォーラムでレビューを発表するようになる前だから、パソコン通信以前のアナログ時代だろう。ハードボイルド読者になったのは、きっと二十代。私的には登山全盛時代。山の中でニューヨークやロスの私立探偵の物語を読んでいた。例えば大雪山系クヮウンナイ川をザイルや草鞋で遡行しながら、夜にはテントの中、酒を飲みながらヘッドランプでミッキー・スピレインを読んでいたことは今でも覚えている。 少なくともPCやパソコン通信に参加したのは30代だ。チャンドラーのフィリップ・マーローも、ハメットのサム・スペイドも、亜流と言われたスピレインのマイク・ハマーなど、全作読んでいるはずだが、ぼくの読書ノートにはほとんど読後文章の類いが残されていない。 それなのに、心の中に彼ら個性的な私立探偵たちはぼくの人生を通じて生きているような気がする。とりわけマーローは、ハードボイルドというジャンルの代名詞として。マーローに語らせる一人称文体は、磨き上げられたその成果として歴史に刻まれて然るべき存在だろう。文体こそが、ハードボイルドなのだから。 ぼくの世代では、ネオ・ハードボイルドと言う言葉もよく使われていた。その中で一番のめり込んだのは、ローレンス・ブロックのアル中探偵マット・スカダーだろう。そこでこちらが一方的に親しく感じてやまなかったのが、田口俊樹という翻訳家である。記録によれば、現在までに田口訳作品を66作読んでいる。そして今日家に届いた新作が奇しくも田口訳、今日から67作目にとりかかろうとしているわけだ。 その田口俊樹という翻訳家が書いた『日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年』の読書会は昨春、コロナ下によりZoomで行われた。それにより北海道の僻村からも参加することができたのは幸運だった。田口先生とPCを通して動画での会話もできて嬉しかった。 そしてとうとうこの≪『長い別れ』新訳刊行記念トークイベント(全国翻訳ミステリー読書会YouTubeライブ)≫にも、視聴者として無言参加。田口氏の柔らかく、楽しく、人間味たっぷりの翻訳裏話を聴くことができたのだ。感激ったら、ないよね。 さて本作。4/28発行。ライブイベントは6/12であった。 本来、一度読んだ本(清水俊二訳『長いお別れ』)を再読する時間はあまり取りたくない主義のぼくなので、本書についても翻訳者がたとえ村上春樹に変わっても(村上訳では『ロング・グッドバイ』)あまり関心がなかったのだが(ちなみに、村上訳作品は結構読んでいるのですよ)、田口先生のこのネットライブでの入れ込み度、そして本気度、この翻訳家がこの再々訳に取り組んだ経緯・意気込みなどをお聞きして俄然ふつふつと好奇心が湧いてきてしまったのだ。 というわけで遅まきながら本書を取り寄せ、過去既読のストーリーに再度取り組んだのだ。なるほど、本作、チャンドラーの世界だが、いつもの田口訳の伝でやはりとても読みやすい。忘れていたディテールを追うにつれ、本書が少しも古びていない名作であるということもしみじみとわかる。 半世紀以上前の作品なのに人間は、その頃も今も少しも変わらない。悲しく、愚かであり、情と非情をやむなく使い分けたり、損得勘定だけでは動けないくらいにものわかりが悪かったり、譲れないものを持ち合わせてしまっているために、自分自身が厄介ごとに巻き込まれたりする動物なのだ、そうでない軽々しい生き方は人間の屑みたいな存在になることを容認するか、人間であることをやめても構わないという後ろ向きの愚かな存在だ、云々。そんなことをぼくはマーローの言葉から勝手に読み解いているようだ。 映画版も記憶に強く残る。大好きなエリオット・グールド主演、大好きなロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』で1970年代に物語を移し替えたものだが(既にこの時代すら古いのだが)、年代ばかりではなく原作から大幅に転換し、探偵像そのものも変更した自由度の高い映画なので、こちらはアルトマン作品という別物として楽しみたい。何と言ったって『M☆A☆S☆H』の監督なのだ。自由にさせておいた方がよい人である。 閑話休題。本作だが、さすがに詳細は忘れても、ラストシーンは覚えている。当然ネタばれモードでの再読となるが、やはり清水訳と異なるのは、現代の人間が、70年前の作品を訳していることによるからだろう。語り口のこなれ方を感じる。それが本書の魅力だと言ってよいと思う。 僕の子供時代は、映画館へ入ると大抵、洋画の字幕は清水俊二だった。自分が俊司なので、親しみやすい名前なのだ。だからそれなりに清水訳にも思い入れはある。字幕と小説は違うと思うけれど。 しかし、2022年現在の言葉で、それもこれまでもスカダーのシリーズを訳してきた筋金入りのハードボイルド作品の翻訳家によるものとなると、文章の流れは流石にスムースで、頭に入りやすい。それが本書の最もよいところだし、若い世代にもこの古い作品を読んで頂きたいなと思う。この文章なら読めるんじゃないか。この私立探偵をカッコいいなあと思えるのではないか。 そもそも何故いろいろな方がチャンドラーを訳したいと思うのか。それを考えると、チャンドラーの良さもわかる。一人称文体、そのものがフィリップ・マーローという人物なのだ。会話も文体ともに、へらず口とメタファーに満ちている。説明文に入り込まない一人称ならではの、世界への批判や挑戦とアイロニー。文体こそが命と言ってよい。それがハードボイルドであり、それがチャンドラーだろう。 本書では、日本語化された新訳での作品をストレートに楽しむことができる。また70年という時間を経てなお錆びることのない、人間と人間の間に起こる発火現象、せめぎ合い、駆け引き、情の繋がり、孤高の志といったものを伺読み取ることができる。ハードボイルドの手本となるのが頷ける教本のような一作だ。未読の方にも既読の方にも、変わらないもの、人間の起こす悲喜劇、卑しい街に生きるからこそ、しがみつくべき手綱のような誇りを、最後には味わって頂ければと思う。 傑作は決して錆びることがない。半世紀後の未来では半世紀後の言葉でまた誰かがこの作品を新しく訳すことになるのかもしれないが、それはまた別の話である。 | ||||
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本書はレイモンド・ソーントン・チャンドラーの第6長編"The Long Goodbye”の新訳版である。 大昔に清水俊二訳で最初に触れて以来、村上春樹訳、そして田口俊樹訳と合わせて4回目となるが、スカダーものでハードボイルド・ミステリ翻訳者として評価を高めた田口氏の訳だけあって、たしかにスルッと分かりやすく読めた。村上春樹によるチャンドラーの新訳は全部読んでいるのだが、なぜか期待ほどの読後感ではなかった記憶があり、印象を確かめようと思って、せっかくなので続けて15年ぶりに村上訳「ロング・グッドバイ」を読んでみた。 結論としては、たしかに田口氏の訳は読みやすかったが、村上春樹訳、そしてチャンドラーを日本に定着させた清水訳に比べて、翻訳文体の格調やチャンドラーらしさという点で及ばない、というのが私の印象である。 たしかに、田口氏はハードボイルド翻訳に強く、私自身もローレンス・ブロックの「八百万の死にざま」や「聖なる酒場の挽歌」で読みやすい田口流ハードボイルド節を堪能したし、ミステリ翻訳者らしく本書のプロットも(無いに等しい小説だがw)わかりやすく、だからこそ読後感がスッキリしていたのだと思う。 ところがその後、村上訳を読むと、村上氏が「ロング・グッドバイ」巻末の解説「訳者あとがき」で、「本当に意味での魂の交流の物語であり、人と人との自発的な相互理解の物語であり、人の抱く美しい幻想と、それがいやおうなくもたらすことになる深い幻滅の物語」(チャンドラー著、村上春樹訳「ロング・グッドバイ」(早川書房)「訳者あとがき準古典小説としての『ロング・グッドバイ』」P.554より引用)と記しているように、正に現代文学の頂点の一つに昇華するような、ミステリ小説という狭い枠を超えた読み物として、あらためて心に印象付けられた。もしかしたらそれは、田口訳によってプロットや語り口がミステリ小説らしく整理されたからこそ、再読して味わえたのかもしれないが。しかし、両翻訳を比較すると、今回の新訳は村上訳に比べて、翻訳を通じてとは言え、印象としてチャンドラーらしさが伝わってこなかった。そもそも、プロットを読ませる(味わう)小説ではないので、チャンドラーらしさ、いわゆる「チャンドラーの文章はあらゆる意味合いにおいてきわめて個人的なものであり、オリジナルなものであり、ほかの誰にもまねすることのできない種類のものだった」(チャンドラー著、村上訳、前掲書P.536より引用)とチャンドラーの文体の本質を喝破した村上氏のあとがきを体現した、翻訳言葉としての日本語の使い方も品格の高い村上訳に比べると、本新訳はよくできたハードボイルド小説の翻訳書に留まっている(そもそも、プロットを読ませる(味わう)小説ではないので)、というのがあらためて翻訳文体を比較しての感想である。 あと一点、言及すべきは、巻末の解説についてである。本書「長い別れ」の巻末には、「訳者あとがき」と書評家による「解説」があるが、解説の冒頭がいきなり、「田口俊樹がレイモンド・チャンドラーを翻訳する。素晴らしいことである。」(本書P.584より引用)となっている。まあ、ミステリ・マニアからすると、"The Long Goodbye”の新訳で気になるのは翻訳者であろうし、また前述の通り本書には訳者あとがきがあって、田口氏がけっこう、解説の領域まで踏み込んで記しているので重なりも多く、冒頭からこうぶち上げたいのはわからないではないが、そもそも本書のターゲットはミステリ・マニアだけでなく(マニアならぶち上げなくても翻訳家の田口氏は知っているだろうけど)、初見・初読で創元推理文庫の本書を手に取るマニアでない一般読者もあろうと思うが、いきなり訳者の名前から解説を始められても戸惑ってしまうのではなかろうか。海外文学の名作だったら、各出版社から文体の異なる翻訳が出版されるのは当たり前なので、海外文学の名作に比肩する(あるいは入れられる)本書であれば、ミステリ初学者でもわかるような解説の構成にするべきと思料する。本書の解説はまさに、マニアックなミステリサークルの内輪受けと言わざるを得ない。同じ創元推理文庫の新訳の解説でも、ベンスン殺人事件(日暮雅道訳)の戸川安宣氏の解説は、「本書はS・S・ヴァン・ダインのデビュー長編・・・(中略)・・・の最新訳である。」(ヴァン・ダイン著、日暮雅道訳「ベンスン殺人事件」(東京創元社)P.385 戸川安宣「ファイロ・ヴァンス登場」より引用)と冒頭にあり、その後も、「ファイロ・ヴァンスの横顔」「ヴァン・ダイン作品の特徴」、、、と章立てして初学者でもわかりやすいように説明されており、せっかくマニアに限らず多くの読者を呼び込める本書なのだから、私自身はこうしたスタイルの解説が望ましいと思う。 なお、解説の構成が散漫だとか、自己陶酔型の筆致や文体が好みに合わないとかあるが、それは個人の主観なので多くを語らないとして、一つ読んでいて看過できなかったのが、本書P.598 6行目「村上訳の特徴を一口に言えば中立的であることだろう。・・・(中略)・・・文句なしに及第点の翻訳と言うことができるだろう。」 「及第」の由来は、昔の中国で、科挙の試験に合格すると大きな屋敷で働くことに手が届く、とうことであり、よって、試験や審査に合格するという意味である。「及第点」は及第に必要な点ということであり、それもギリギリ届くというニュアンスなので、あまりいい評価ではないという、上位者(審査官)が下位者(受験者)に向かって使う言葉である。無論、翻訳(書)に資格や合格点がある訳ではないし、作家、翻訳者、評論家(書評家)は対等の立場だと思うので、村上春樹でなくても、訳者に対し「及第点」という言葉は失礼だと思う(文句なしに及第点とか日本語がよくわからないw)。私は点数をつけるなと言っているのではなく、評論家は良くないと思えば星2つとか、60点とかつけるのはおかしくないと思うが、この言葉を使うのは評論家としては失格だろう。 私はハルキストではないし、この書評家の言葉によって、世界のムラカミの評価が落ちるとはこれっぽっちも思わないが、こうした言葉をそのまま世に出してしまう編集者、そして出版社の見識を疑わざるを得ない。出版不況の中大変だと思うが、評論家・書評家の育成も出版社の使命なので、短編ミステリ・シリーズの発刊などチャレンジしている東京創元社には不況に負けず、ミステリ業界のレベルアップに向けて頑張っていただきたい。 ちなみに、本書と異なり、早川書房の「ロング・グッドバイ」の村上春樹氏による訳者あとがき「準古典小説としての『ロング・グッドバイ』は、チャンドラーへの愛情に満ちつつ冷静な筆致と質の高い日本語で書かれた、この文章だけでもお金を払う価値のある巻末解説となっており、必読である。 本書の評価だが、これだけの名作なら読者の選択肢を広げる意味で良いと思うので、新訳の意義としては十分あると思うし、田口訳のミステリ翻訳書のとしての読みやすさは高く評価できるので、星4つと言いたいが、解説で星1つ減点して3つとしたい。初読の人には、清水訳か村上訳をおすすめする。 | ||||
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ハードボイルド小説の金字塔。 35年以上前に読みました。 男の友情の物語です。 傑作ですが物語は面白くはありません。 「ギムレットには早すぎる」 この台詞が有名でとても印象的です。 まだお客さんが少ない開店したばかりのバーでギムレットを飲みたくなりますよ。 しみじみと沸き上がってくるような矜持ある歴史的な作品です。 こんな時代があったのだと灌漑深く思います。 | ||||
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こんなに厚い本だったかと、改めて嬉しい。ハードボイルだと思わないで読了した経験から、また。読みたいと思っていました。まさかの新訳。期待しつつ読んでいます。新訳っていいですね。マーローの魅力が改めて蘇りました。これからが楽しみです。 | ||||
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ハードボイルドは読まず嫌いだったのですが 翻訳が 名手・田口氏だったので読んでみました そこには 軽妙洒脱であくまで真実を追い求めるマーロウの姿がありました 先の先のそのまた先を見通す推理力に脱帽です 田口氏の訳で 他の作品もぜひ | ||||
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己の馬鹿をさらすようだが、世の翻訳ミステリファンや読巧者各位たちが高評価している、 この作品の面白さがよく理解できない。 読み落としているところがあるのだろうか。 おれは猛烈にさみしいぞ。 いつか老人になって読み直したら視界が開けているだろうか。 その時のジブンのために、ちょっとだけ記す。 ほんの端役も含めアタマやココロの螺旋が緩んでいるか外れている人々による群像劇。 として受け止めている。 主人公で一人称による語り手であるフィリップ・マーロウだって、 あんないかれた人々がうごめく世界を受け止めているのだから相当にいかれている。 これは第一作からずっと感じていることで、 チャンドラーの描く登場人物たちに、おれのココロは共鳴しないのだ。 本作では、そもそもマーロウとテリー・レノックスとの出会いと友情からして、よくわからない。 なにこれ。どんな関係なんだ。 日常生活においては周囲の配慮が多めに必要だと思われる人々は、 その後も続々と登場する。 探偵を逮捕して尋問する刑事たち、 作家を捜索する過程で探偵が出会う連中。 全員が実にもう結構な壊れ具合だ。 それだけを延々と書き連ねた小説であったなら、 おれはきっと夢中になってのめり込んだかもしれない。 長くなりすぎる。 続きは酒場で。 | ||||
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清水訳は原作路線に沿っていい感じだった。まあ、省略が多いものの、それなりの完成度はあった。 村上訳はぐちゃぐちゃだった。省略が少ない分、誤訳のあらが目立ち、意味不明な文が各所にあった。なにより、原作の、切れ味、ウイット、皮肉比喩などが消し飛んでしまっていた。たとえばマーロウが元妻に皮肉を込めて「あなたがテリーの身を心配しいるのはわかります」というところを村上訳では「あなたはテリーの身など気にしていない」と身も蓋もない訳になっていた。この本は比較的誤訳、意味不明か所も少なく、雰囲気も出ている。大きなジャンプアップ。読むなら断然こちらをおすすめします。 将来決定版、これで打ち止め、が出ることを期待しますが、この本は決定版が出る予兆を感じさせる画期的な名訳じゃないですか? | ||||
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一言でいって原作の雰囲気が伝わってこない(あくまでも個人的意見)。テリー・レノックスはアメリカのギムレットは偽物で、一度英国で飲んだらそれが分る、と言った。この本も同じだ。これがチャンドラーと思ったらチャンドラーが泣く、と思う、個人的意見。清水訳のほうがまだましだし、この本は訳していないがチャンドラーを多く訳している田中小実昌がすきだ。この文体は銭形平次にはぴったりだがチャンドラーにはちょっと、と思う 状況がわからないシーンが多いが、特にアイリーンと出会う、バーの場面は謎だらけ。女を座らせるためになぜウエイターがテーブルを引くのか?普通椅子だろう。また女が「夏の雲を刷毛で書くような声で」とはどんな声だ? それから頭にきていたコメディアンがなぜ最後の一言で機嫌を直したかさっぱり分らなかった。私だけだろうか? | ||||
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このたび田口俊樹氏による新訳が出たので手に取ってみました。チャンドラーの「The Long Good-bye」を読むのは清水訳と村上訳も合わせて5~6回目ですかね。 今回の翻訳はミステリーの読者に寄り添った訳なんだそうで、なるほど、今まで読んだなかで事件の真相の説明が一番スッキリしている気がします。まぁ、やはり本格ミステリーが好きな方にはお勧めしにくい話ではありますが。 個人的には、メインの上流階級の事件よりも傍役の刑事やギャングたちのエピソードの方がよりハードボイルドらしくて面白かったかな。あいも変わらずマーロウはひとこと余計で、事あるごとにボコられるし。 以前NHKでやったドラマ版ではテリーの役は綾野剛でしたが、正直私にはピンときませんでした。“雨のなかに捨てられた子犬”感を出せたのは若い頃の奥田瑛二ぐらいかも、となんとなく思っています。 | ||||
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チャンドラーのこの作品は、三人目の訳者を得た。読み始めてすぐに、これは好きな小説だとわかった。だからマーロウとの時間をできるだけ楽もうと、じっくりと時間をかけて読んだ。今は心地よい読後感に酔いしれている。 清水訳の長いお別れが垣間見せてくれたハードボイルドの世界は、初めての海外旅行のときのように何もかもがキラキラして見え、一気に翻訳小説の魅力にはまってしまった。ロング・グッドバイは探偵の一人称が物語をドライブしていくのがよくわかったけれど、どういうわけかそれほど心は躍らなかった。今作、長い別れで、遠い日に一目惚れしたマーロウにようやく再会することができた。漠然と抱き続けてきたイメージはそのままに、人間味のある台詞に惚れ直した。会話がとてもいい。ロバート・ミッチャムでもエリオット・グールドでもない、チャンドラーのフィリップ・マーロウがここに生きていた。 最近は、翻訳小説の名作がいくつも新訳されている。新訳といっても、今時の言葉を多用するから新訳だというわけではない。舞台となっている時代の空気を、かつてよりも解像度を上げて描きだすことが新訳する意味なのだと、本作を読んで感じた。長いお別れを読んだときは、台詞や行動にところどころ謎があると感じていて、それもチャンドラーの作風なんだから、と自身を思い込ませていた。が、この新訳ではそうした疑問を抱えることなく一文一文を楽しみながら読み終えた。考えてみると、翻訳文学というのは面白い。原文を元に、日本語でその国の文学を表現するという、そもそも矛盾しかない芸当をしているわけだ。この作品でも、オリジナルにあったハードボイルドのフレーバーを損なうことなく、いや、読者のことを考えていくらかは味付けもしてくれてはいるだろうが、日本文学とは違う小説世界を提示してくれている。この作品は本当にいい翻訳だと思う。田口氏風にいえばエンタメ翻訳だが。 今回、この本を読んで特に感じたのは、人間を描こうとするチャンドラーの思いだ。探偵は犯人捜しや謎解きのために行動をしているわけではない。様々な人物が行き交う場に誘い込まれ、会話し行動していく中で、出来事と出来事をつなぎ合わせ、大きな絵を描いていく。読者は、探偵とともにさまざまな登場人物に会い、理不尽な目に遭わされ、ときには探偵の言動を俯瞰で見たり、ときには探偵の考えがわからずに置いて行かれたりしながら、物語の中を進んでいく。そして最後のページを迎えるころには、探偵とともに出会ってきた人物に思いを馳せ、物語の余韻のなかにもう少し佇んでいたいと願う自分に気づく。警察官だって善人もいるんだよ、などとほんの少し訳知り顔になった自分に。この余韻にまだまだ浸っていたいと思わせる素晴らしい一冊だった。 | ||||
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主人公の探偵が酔客と知り合い・・・というお話。 この小説に関しては今まででも色々な人が色々な事を語ってらっしゃっていて、それぞれ意味があると思うので、ここで私が何を書き込んでも屋上屋を架す事になるであろうから、一般論にならない個人的な感想を書き込んでみたいと思います。 著者のチャンドラーが推理小説の評論で名高い「簡単な殺人法」で、推理小説は文学でなければならないと指摘したという事は有名ですが、本作もそういう意図の元に書かれたそうで小説は如何にしてリアルになるか、現実を写し取る鏡になるか、という目論見があったのは読んで判りました。ハードボイルドでも、特にハメットを意識したという事で、作中の写実さ等はまさに現実を写し取った様にリアルに感じました。 それと主人公のマーロウから端役に至るまで登場人物に存在感があり、ほんの少し登場するだけのキャラクターでも読んでいる間は忘れずに憶えていられる様なプレゼンスがある事で、著者が如何に端役までに気を使って書き込んだかが判ります。 という様にこの作品が出て時点での、リアルな小説の最高峰だったらしいのはよく理解できたし、小説として素直に面白かったです。 今回の新訳はハードボイルド/クライム・ノベルの翻訳に定評のある田口さんという事で期待したら、想像通りで良かったです。村上さんの翻訳も一応持っているのですが、なんとなく読まずにスルーしていたもので。 田口さんにはクラムリー氏の「さらば甘き口づけ」とか他にも色々新訳でだしてもらいたいですね。 ここでまた個人的な事を申すと、以前に読んだのが14歳か15歳くらいで感動しましたが、今40代後半になっての再読なので、初読から45年くらい経ってつまらなかったらどうしようと思いましたが、杞憂で終わってほっとしました。 この作品も色々な訳で出て正に古典というに相応しくなってまいりましたが、これからもまた新訳ででるのでしょうか。 もはや20世紀の古典のハードボイルド/私立探偵小説。必読。 | ||||
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「さよなら、愛しい人」に続きAudibleで聴き始めたが即リタイア。登場人物の1人ならともかく前編朗読が鼻づまりじゃ牢獄だよ。 ついでに言えば男性専門職でも会話部分の女性パートを芝居っ気たっぷりに読むのは気持ち悪い。ジェンダレスの時代とはいえ、会話の多い作品は性別を意識して男女二人を起用して欲しいものだ。 | ||||
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前半から飛ばしてくる 下手な訳や意訳どころか誤訳ときた なにが『牛のけつ』だ そういうせいくが | ||||
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600ページに及ぶなかなかの長編だが、テンポが良くわりとスラスラと読むことができた。 フィリップ・マーローは自分の新たなヒーローとなった。 ハードボイルドな作品だが、自分はそこそこ村上春樹氏の作品を読んでいるからか、 主人公をどうしても氏の作品の主人公と重ね合わせてしまい、そのハードボイルドさが 薄まった気がしてならない。 どうしてもそこは村上ワールドなのだ。 おそらく清水氏の訳を読むことでその辺の雰囲気の違いが明確になるのだろうが、 もう一度読み直すまでのモチベーションは持ち合わせていない。 割愛されている箇所や誤訳もあるらしいし。 あと、これは不満なのだが、ラストの余韻に浸ることなく唐突に話が終わる点だ。 これはあとがきが40ページにも及ぶ所為だ。 自分は残りページ数の厚さでクライマックスのタイミングを推し量る。 これではまるで、フルマラソンで残り5kmと思ってぼちぼちスパートかけるかな、 と思っていた矢先にゴールラインを超えてしまったような気分だ。 いろいろな作品を翻訳されているようだが、やはりオリジナル作品がこの人の一丁目一番地なのだと再確認した。 | ||||
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レビューの多くは、村上春樹が新翻訳をした事実を 述べるだけ。中には後書きしか読んでいないとい うものもある。いい加減な信者だけが、何時迄も ノーベル文学賞を待ち望んだら良いさ、谷崎潤一郎 や三島由紀夫も取れなかったそれを。 ほぼ全作読んだ者としては、三島由紀夫は無理からない と思う。それほどのものでは無い、文章とか内容が 軽すぎる、最後の『豊饒の海』四部作を除いては。 村上春樹なんて、それ以下だよ。日本人でも間違って 受賞した者(無論川端先生ではない)もいるから 何とも言えないけれど。 あのせいで毎年無駄な期待をさせるのなら酷だな。 | ||||
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友情を得て友だちを失うまでの話 そして長い もともとチャンドラーは描写に力を入れる作家ではあるが、そこを考慮しても長すぎると感じる人はいるだろう しかしいい年をした、それも探偵業を営んでいるマーロウが友情を得て友だちを失うまでを描くにはこの長さが必要だ 和訳は時代性を含めこれ以上は望むべくもない 清水俊二は最高の仕事をした | ||||
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ストーリーとしては面白いのでしょうが、とにかく登場人物の会話が、殆ど全て、ザ・アメリカという感じでウィットに富んでるというか何と言うか、、タフなヒーローやエレガントなヒロインはこんな言い方をするのが格好いいのか、、。要するにテキパキ喋らず、とにかく回りくどい。質問に質問で答える、一捻りした例えを随所に散りばめる、というセリフ連発で、しかも独り言もその調子なので、とにかく何を言いたいのか理解するのに苦労し、話の流れを読むのが大変でした。 | ||||
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ハードボイルド小説をあまり読まないので「こういうものなのかな」という感じで読みました。 オチとは厳密には言いませんが「こういう秘密があるのかな」的なことは割と早くに想像がつくというか・・・なので、そんなに推理要素はない様に思います。 主人公は魅力のある人物ですし、テンポはサクサク進むし、文章も小気味良いし・・・そういう意味では不満はないのですが、ハードボイルドな世界がわからないので「どうしてそういう行動になるの?」と、主人公の行動原理にいまいちついていけないところはあります。 男性ならしっくりくるのでしょうか。 ハードボイルドが好きな方ならきっと楽しいのかなという印象の作品でした。 | ||||
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全体的に漂う無力感。 そのなかでの ピストル感。 やたら興奮した。 文字の力を感じた。 僕はずっと10代から 音楽に触れていた。 今も。 そして今 40代後半にして 文学に触れている。 | ||||
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