象牙色の嘲笑
- リュウ・アーチャーシリーズ (19)
- 失踪 (242)
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著者初読み。私立探偵物のハードボイルド、1952年のアメリカが感じられて楽しめた。ライセンスと銃を持ち、警察に同行して捜査に協力する。なるほど、日本での私立探偵物が成立し辛いはずですね。物語のプロットは結構複雑で、隠された真相が虫食い穴から少しずつ見えて来る感じ。文学的な表現と言うのか、比喩に装飾された分かり辛い説明で、より混乱させられたのかも。何時の時代も皆生きて行くのは大変なんだなぁ、抑えたトーンで人間の悲喜劇を読ませて貰いました。最後までタイトルの意味が分からず他の方の感想で理解出来た、ゾッとした。 | ||||
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今回も彼は完膚なきまでに質問する。読んでいるこちらが当惑するほどに、個人の領域に立入る。そのあまりある執拗さは、終いには犯人が「なぜきみはおれを苦しめるのだ」と身震いさせられるくらいまでにもなる。 | ||||
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会話文の中で「それって」「何様」と言う言葉が出てくると、首をひねってしまいます。この本がいっぺんに薄っぺらなものに思えてしまいます。 | ||||
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1952年に発表された私立探偵リュウ・アーチャー・シリーズの第四作。 物語の背景には50年代当時のアメリカにおける人種差別や戦争従軍、警察の不当捜査等の世相が反映されており、かつ登場人物が皆悲しい影を持っているせいか全編を通して独特な暗黒と哀愁が漂う。 主人公のリュウ・アーチャーは家族も友人も恋人も居ない孤独なタフガイで、私生活について語ることはなく謎に包まれている。しかし、こと事件捜査に関しては執拗な執念を持ち、ひとつずつ嘘や矛盾を暴き、真実を解き明かしていく。その姿は時に強引だが魅力的なのである。 ラストに明かされる事件の真相は、複雑な人間関係を象徴するものであり、ショッキングな出来ばえ。 発表から60年以上が経過した古い作品であるにも関わらず、現代でも十分に読み手を満足させるミステリーである。私はロス・マクドナルドの筆力に感動した。 蛇足だが、ロス・マクドナルドの作品で現在入手可能なものは本書と『さむけ』『運命』の3冊になってしまった。新訳でなくとも他の作品も再販して欲しい。はじめてロス・マクドナルドを読まれる方は『さむけ』がいいかもしれない。 | ||||
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1952年に発表されたリュー・アーチャー・シリーズ第4長編。 ワイズクラックを口にし、必要とあらば暴力を辞さない本作でのアーチャーのタフガイ然とした姿は、後年のカメラアイに敢えて徹した傍観者的探偵像とは全く異なり、多彩な登場人物たちの描き方は良くも悪くもチャンドラーの影響が色濃い。だが卓越した比喩や情景描写、急速に変貌を遂げつつあるアメリカ社会への批評的眼差しや、錯綜したプロットの興趣は後の傑作群を髣髴とさせ、タイトルに秘められた意味が明らかにされる最終盤の展開は極めて衝撃的。 ハメット、チャンドラーの単なる模倣者ではない、独自の個性が既に明確になっている。『さむけ』などの重厚な代表作と初期の軽快な作風とを繋ぐ存在の傑作であり、ロス・マクドナルドのキャリアにおいて重要な作品だ。 なお本書は小鷹信光氏の最後の翻訳作品であるという。『パパイラスの船』などの優れた批評やエッセイを通して小鷹氏から受けた恩恵は計り知れない。改めて追悼の意を表したい。本当にありがとうございました。 | ||||
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ダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラーとともにハードボイルド小説の御三家を形成するアメリカの作家、ロス・マクドナルド(1915 - 1983)の〈私立探偵アーチャー〉シリーズ第4作 “The Ivory Grin”(1952)の新訳。 私立探偵リュウ・アーチャーは社会の観察者である。彼は家族や友達や恋人をもたず孤独で、自分自身が社会から疎外されているからこそ、社会を怜悧な眼差しで見つめることができる男だ。 けれど見つめ方も時代により変化している。作家のテーマやスタイルが確立した後期では、家族の崩壊から精神分析的に「病めるアメリカ」が描出されているが、初期のころはハメットゆずりの社会派リアリズム的な色彩が色濃い。たとえば初期作品に数えられる本作では、50年代の公民権運動を引き起こす人種間にくすぶる火種が、地理的な対立の描写のなかに示唆される。 「幹線道路はこのコミュニティを明半球と暗半球にざっくり二分する社会的赤道だった。北側には白人が住み、銀行、教会、服飾店、食料品店、酒屋などを所有し、経営している。南側のもっと狭い地域には製氷工場、倉庫、洗濯屋などが雑踏に並び、その隙間に肌の色の濃い人々、メキシコ人やニグロが住み、ベーラ・シティとその周辺の肉体労働の大部分を引き受けている。」(p.21) 惜しいのは、成熟前の作品だからか、そうした社会問題への関心が物語の本筋とさほど関係しておらず、テーマまで昇華されていないことだ。 くわえて後期に支配的な乾いた諦観とは違い、本作のアーチャーの姿にはチャンドラー的なヒロイズムがいまだに残存している。(短編を除く)第7作『運命』以降、頂点となる第11作『さむけ』までいたる作品群とは異なり、完全に独自性を発揮しているとは言いがたい。初期作品群における世評の高さでは、第5作『犠牲者は誰だ』の方が上だろう。 しかしながら本書でも作家お得意の詩的表現は存分に発揮されているし、「象牙色の嘲笑」に隠された人間の暗い情念が明らかにされるラストは傑作中の傑作『さむけ』を彷彿とさせ、思わず背筋が凍りつく。 なにより今回の新訳が意義深いと思うのは、旧訳が誉められた出来ではなかったからである。とくに前訳者によるアーチャーの一人称は地の分では「おれ」、会話文では「ぼく」とチグハグで、誰に対してもニュートラルなアーチャーのイメージとは異なっており、作品の雰囲気が損なわれていた。 本書の訳では一人称が「私」に変わっただけでなく、日本語として格段に読みやすくなっている。ほとんどの作品が古本でしか入手不可能になっている状況で、古書のカビに悩ませられながら読まずにすむのもありがたい。 最近、古典の新訳が進んでいる早川書房さま。これに続いて絶版になったロス・マクドナルドのほかの作品も新訳で出版していただけると助かります。 また本書の翻訳が小鷹氏による最後の仕事とお聞きしました(松下祥子氏がまず全訳し、次に小鷹信光氏がチェックし、その後ふたりでブラッシュアップしていったという)。評者はハメットを読むときにはいつもお世話になっていました。ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。 | ||||
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私立探偵はある日、素性を隠した女から怪しげな依頼を受ける。それは女から宝石を盗んで逃げた黒人少女の居場所を探り出すというものだった。アーチャーはすぐに少女を見つけることができたが… 内容としてはアーチャーのなかでは「ふつう」かなと思いますが、翻訳があまりうまくなかったです。ロス・マクドナルドは作中に「詩的な」比喩や簡潔な箴言を取り入れるのを好みますが、それが日本語として伝わってきません。たとえば 「アメリカ人は決して老人にはならない ー 老死するだけだ」 “Americans never grew old: they died” (原文) とありますが、“died”を「老死」と訳している意図がわかりません。「老死」は「年老いて死ぬ」ことを意味するのであって、「老人にはならない」と矛盾します。素直に「アメリカ人は決して歳をとらない。死ぬだけだ」で十分でしょう。 ほかにも一人称の訳について疑問があります。本シリーズはアーチャーの一人称で語られるのを特徴としますが、本書の訳では、地の文では「おれ」、会話文では「ぼく」と使い分けているからです。 地の文の一人称を「おれ」と訳した理由について、訳者は「日本語の〈おれ〉は対人関係をまったく無視した ー つまり、敬語や尊譲語(原文ママ)などの意識のない ー ある意味では孤独な男の一人称代名詞だから」と述べています。しかし日本語の「おれ」は基本的に、話し手と聞き手の関係性がある程度近いときに使われる一人称ですし、オフィシャルな場では使わないという意味で「プライベートな」一人称です。地の文で「おれ」と使うと、語り手と読み手の距離が近く感じられてしまいます。誰に対しても中立な一匹狼というアーチャーのキャラクターにふさわしい一人称は、やはり一番ニュートラルな一人称である「わたし」でしょう。 会話文での一人称が「ぼく」なのもアーチャーに合っていません。それは「おれ」と同じ理由からです。しかも二つの人称を使っているからか、アーチャーの口調に統一性が欠けています。たとえば 「しがねえひら巡査あがりさ。ぼくはサービスを公開市場で売っているのだ。しかし、だれにでも売らなきゃならない筋合いのもんじゃないんだ」 とありますが、一人称を「ぼく」と言う人物が「しがねえ」というべらんめえ口調を使うのも、「〜さ」「〜じゃないんだ」という語尾と「〜のだ」という語尾を同一人物が同一文脈において使うのも違和感があります。 そもそも地の文と会話文で一人称を変えている理由について訳者は説明していませんが、そうした訳者としての姿勢にも問題があるように感じられました。 | ||||
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