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(短編集)
砂の女
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【この小説が収録されている参考書籍】
砂の女の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.34pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全209件 21~40 2/11ページ
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日常の煩わしさから一時逃れるために、砂とハンミョウに魅かれてやって来た主人公が、ハンミョウに砂漠の奥に誘い込まれ捕食されてしまう小動物のように、砂に閉じ込められ自由を失う。当初は反抗していた主人公も、時間を無為に過ごすことに耐えるよりどころを砂かきに感じるようになったりと、徐々に順応してしまう。渇望した自由を手に入れてみても、拠り所をつまらない物に求めてその自由を手放してしまう人の悲しさが面白い。組織で働いていると共感するところが多い。ユーチューブに映画がアップされている。失礼な言い方だが、岸田今日子の若い頃が美人だったので驚いた。 | ||||
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仁木は、村の住民や女に負けたのだと思う。過酷な状況の中で「生きること」が、第一優先の課題になり、生物としての人間そのものになり、思考回路も不条理を受け入れた(不条理とさえ感じなくなってしまった)。 しかし(ラストのところで)残されていた縄梯子を登り、「砂の穴の中の世界」と「砂の穴の外の世界」を見比べることができた時、我に立ち返って欲しかった。 「べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。」とまで神経を侵されてしまった仁木は、本当に不憫だ。ただ言えるのは、人間だれしも、ある日突然、仁木と同じ境遇に突き落とされる可能性があるということだ。もしかしたら、今の自分の生活そのものが、砂の穴に(知らぬ間に)突き落とされているのかもしれない。自分が仁木になってしまわないための心掛けは、外の世界を極力見ようと努力することだ。縄梯子があったら取りあえず掴んで登っていくことだ。 | ||||
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今更ですが、読みました。古い時代を全く感じず、砂の世界(異空間)みたいな場所に すっぽりと入り込める本で、籠もりたい時には最高ですね。 (現実の逃避の世界が楽しめる本でした) | ||||
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某NHKの番組で紹介されているのをきっかけに拝読した。 まず正直な感想として、全体的に単調な文体であり、娯楽的な面白さは薄いと感じた。サスペンスの要素があるので、途中まではワクワクしながら読んでいたが、だんだんと読むのが億劫になり、半ば放り出しかけた。 とはいえ週一回の放送もあるので、なんとか最後まで読み終えたが、結果として挫折せず読み通して正解だった。というのも、この作品は終盤・ラストが最も面白いからだ。 主人公の男が砂の中の生活を通して見せる変化の描写には、著者の「社会という砂の中で生きる人間」への鋭い観察眼が表れている。砂の穴という模型(=モデル)を用いて構造をシンプルにする事で、この本質を際立たせている。 最後の一文の衝撃は凄まじく、『雪国』の第二文と同じくらい忘れがたいものとなった。どうやらラストをある種の教訓として捉える方々も一定数いるようである。しかし、私にはどうにも、ここには価値判断はなく、あくまでも冷ややかな、社会に生きる人間の姿に対する写実のように思われた。 私はこの先ふとした時に、この小説のラストを思い出しては、物思いに耽る事になるだろうと思う。娯楽作品ではないので、読んでいて楽しくなるものではないが、不思議な魅力のある作品である。 | ||||
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100分で名著に取り上げられていたので、読んでみました。 テレビで見た時の印象はもっと幻想的な怖さをはらんだ物語と感じましたが、実際読んでみると主人公の理論的な考えや、科学的な描写があまりにも細かくて、途中で少しうんざりしてきました。 生き物の環境に対する順応性。 住めば都という概念だろう。 そこに住む人と人との繋がりが生まれ、風景や馴れ親しんだ家や道具に取り絡められ、身動きができなくなっていく。 私も空調の効いた快適な部屋に居ながらも、もしかしたら砂のすり鉢の底にいるのかもしれない、自分から落ちたのかもしれない。 | ||||
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安部公房は自分の叔母(夫は画家)が東京の世田谷区と調布市の境界にある仙川に住んでいた家の数軒先に住んでいました。 ノーベル委員会からノーベル文学賞候補にその名が挙がった日本人作家・安部公房の最高傑作。 主人公はそれまで所属していたそれなりに民主的な秩序ある安定した社会から、あるきっかけで、自分を一方的に支配し従属させようとする「共同体」の支配下に追いやられます。個人の意思や自由は認められず、「共同体」が提示する非民主的な「新秩序」への従属と引き換えに「共同体」から提供される生活を得る。最初は屈辱を感じて反発し、この「新秩序」から脱出する試みを何度も繰り返すが、ことごとく失敗し、やがて理不尽な従属に慣れて順応して行く主人公。 21世紀にこの作品をあらためて読むと、共産党独裁国家や社会主義独裁国家に住む市民の生活はこんなものかと感じます。 | ||||
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実際に読んで、まず気付くのが、著者の昆虫や、砂に対する造詣の深さであろう。 全体は、サラリーマン生活の隠喩であるとされているが、実際に読んでみると、そのことはそれほど意識されない。 題にも『砂の女』とあるように、恋愛小説と読めないこともない。 とりま、一般に言われていることと、実際に読んで得られる印象というのは、概ね異なるものである。 | ||||
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〇 特殊な状況に置かれた男がどのように思考し行動するかを観察するための実験をしているようだ。穴の中に囚われるというその「状況」は読み手の意表を突くものだが、すぐにこれはあり得ないことでもないと思えて来るほどリアリティをもって描かれている。著者がそれだけよく調べているのだ、わが国における失踪者のこと、砂の持つ性質など。 〇 この小説が書かれた当時の時代も感じる。男が勤める学校の様子や、女がラジオを欲しがることなど、いかにもあの頃のことらしい。そのうえで穴の中で繰り広げられるのは時代を超えた世界の物語だ。だからこそ人間にかかる普遍的な実験になり得るのだ。この時代性と超時代性の併存という二重性は見事なものだと思う。 〇 文章にも特徴がある。野卑な言葉も含めた男の内心の言葉を基本としていること、次々に繰り出される振れ幅の大きい比喩、男の意識を追いかける叙述(これも「意識の流れ」なのだろうか)の影響か?)、・・・を含めた句読点の効果的な使い方が、きれいごとではない緊迫した空気を作っている。 〇 総じて、今日読んでも大きなインパクトを受ける小説だった。 | ||||
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孤独とは一人で居る状態と思っていたが、そうでもないみたいだ。 主人公が来るまで、深い穴の底に一人で居た女は、決して孤独ではなく、それまで社会生活を営んでいたはずの主人公が孤独であった。 砂から家を守ること。砂から水を得る装置を極めること。 このことが孤独を消し去り、むしろ生を与える。 砂は流動体であり、決して避けきることはできない。がしかし、その砂が気づけば人の生になっている。 ノンフィクションを生きる我々にも、見えない砂が与えられている。 気づくが幸せか気づかぬが幸せか。 | ||||
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新聞で紹介された本で、興味を持ち読み始めましたが最初から入り込みにくく、途中で止めようかと思いましたが紹介する位の本なら最後まで読まないと…終わってからも何も残らない本でした。 | ||||
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カフカ的な寓話性の強い作品だが、『砂の女』はまず、西洋文学における「砂漠」の位置に鳥取の「砂丘」を据える。そして、直径1/8 mmという「砂」粒を存在論的な単位として、確定し、そこから、個体の生、男女の性の営み、家族、共同体、都市、文明生活のすべてを演繹してみせるスケールの大きな寓話性が素晴らしい。宇宙の存在が時間・空間という枠組みで出来ているように、この地球という星は存在論的に「砂」に依存して、かろうじて存在している。女は究極的には誰もが「砂の女」であり、男も、主人公の31歳の仁木順平が最後にそうなったように「砂の男」なのだ。§20と21にある、砂まみれの硬質な性愛描写が衝撃的だ。私はレネの映画『ヒロシマわが愛』の冒頭を思い出した。我々文明人の性愛は、馴育され、何重にも制度化され、ルール化され、自己意識によって管理された性愛である。しかしそのような性愛しか知らない主人公の男は、ずっと砂の穴に閉じ込められていた女との性愛によって、我々の性の被管理性に気づいて愕然とする。「紐を手で押さえたままの姿勢で、女は男のわきを通りぬけ、部屋に上り、モンペを脱ぎはじめる。前からつづきの動作を、そのまま続けているような、よどみのない自然さだ。こういう女が、本当の女なのだと、男は心の中でもみ手する。・・・ズボンといっしょに、一つまみほどの砂が、指[=ペニスのこと]のつけ根をくぐって、内股に流れる。・・・[砂崩れの]なだれが止んだ。待ち受けていたように、男も一緒になって、女の体の砂をはらう手伝いをはじめる。かすれた声で女が笑った」(p156~159)。しかし直後に男は、こうした性愛も空しいことに気付く。「こんなぺてんを、野生の恋などと、よくも思い込んだりできたものである。回数券用の[パター化された]性とくらべて、はたしてどこかに取り柄があるだろうか?」(p161) 「砂」が存在論的単位である地球の上では、豊饒にみえるものはすべて仮象であり、すべては荒涼としており、性愛もまた例外ではない。そのことを、妥協することなく硬質な文体で描き切ったところに、『砂の女』が二十世紀世界文学に占める傑出した位置がある。 | ||||
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面白かったです。 本の状態もよかったです。 | ||||
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私が『砂の女』を最初に読んだのは、高校生の時だった。その頃には既にこの作品は映画化されていて、だいぶ後になってから観る機会にも恵まれた。しかし映画でダイレクトにイメージされてしまった物語は、主人公が地方の寒村の因習に取り潰されていく哀れな男のよう感じられ、本で読んだ時のような幻想性が後退していた。安部氏の発想は、ハンミョウの幼虫が砂に隠れて待ち伏せて、知らずにやって来た獲物を引き摺り込んで食ってしまうところにある。そのシュールレアリスティックな感性は読んだ人、個人によっ異なっているはずだ。また人間には失踪願望のような隠れた心理がどこかにあるらしい。男は砂塚の中の女の家に閉じ込められた時、そこからただひたすら逃走することだけを考えていた。しかし家の主人の女が妊娠して、村人達に連れて行かれてからも、逃げ出すことができたにも拘らず、どうやら留まることを決心したらしい。何故なら受理された男の失踪届には七年の歳月が流れているからだ。女は蛹のようにくるまれて、釣り上げられていったという表現も、昆虫採集に来た男の幻想が良く表れている。 安部公房の作品の主人公には、固有名詞が全く使われていないか、使われていてもそれほど意味のない場合が多い。『砂の女』でも男の名は仁木順平だが、名前自体には何の意味もないし、物語の中で名前で呼ばれることは一度もない。安部氏は読者が主人公と共有できる心理を隠し持っていることを知っていて、読者が主人公になったように話を追っていくというテクニックを巧みに使っている。閉鎖された空間に閉じ込められた時、選択肢は二つだ。最初に男が画策したように、あらゆる手段を使って逃げ出すか、あるいは条件を受け入れて砂塚に留まるかだ。はっきり言ってこの男が、その後どうなったかは書かれていない。少なくとも元の社会には戻らなかったことだけは確かだが、砂塚に留まったという確信も持てない。 最近カミュの短編『不貞』を読んで、砂の描写が非常に印象に残った。安部氏は、もしかしたらこの作品を知っていたのかも知れないという確信に近いものを得た。勿論安部氏の方が徹底して掘り下げているが、砂に対する感触が共通しているのは偶然とは思えない。 | ||||
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安部公房を高校時代の国語の教科書で知り、読んでみたいと思い購入した。 独特の世界観と表現が癖になり、物語も非常に臨場感溢れる作品である。 序盤は場面が想像しにくいと思ったが、中盤から終盤にかけて明確になり、かつ面白くなっていくので、これから安部公房を読む人はこの作品から読むと良いのではと感じた。 | ||||
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恐い内容だなと思いました。 砂の世界で生活していかなければいけない境遇に陥っている苦悩、 そこから出るために様々な脱出を行っても全てダメになる絶望。 徐々に主人公の男が砂の世界に適応していく様が怖かったです。 学習性無力感というものなのでしょうが、その気持ちに至る過程を 文章化するとこんなにも怖いとは思いませんでした。 人間はどんな環境にでも適応できることも、この物語が語っている ことだと思います。 この本が名著と呼ばれる理由がわかりました。 | ||||
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ミイラ採りがミイラになった、という単純な話でもない人間社会の縮図。安部公房文学の頂点。必読。 | ||||
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砂の穴に閉じ込められて、まず自分のことを反省する人はいない。誰かのせいにしてしまう。 その有様を明確に示しているのは、過去の時代に書かれているにもかかわらず、古さを感じない。 今、コロナ禍に置かれていることを考えると、まだ、誰かのせいにしないだけ良いが、自分の今までを 振り返ることはこれから出発するためには大事で、ばねを圧縮させ、飛び上がるエネルギーを蓄えるタイミングと捉えることはできないだろうか。 | ||||
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河合隼雄氏が、著書「中年クライシス」の中で、 「中年の危機」をテーマにした作品の一つとして本書を紹介されていました。 「あれ、そんな話だっけ??」と思い再読したところ、河合氏の分析に完全に納得。 教師という職を得て、配偶者も得て、しかし充足感を得られない主人公。 何者にもなりえなかった自分の人生を省み、せめて虫の名を借りてでも後世に我が名を残したいと、 未発見のハンミョウを探しに人里離れた砂丘へ行く。 これまでの日常とは一見全く異なる(しかし本質は似ている?)文字通りの蟻地獄の中で、やがて彼は彼なりの人生の真理にたどり着く。 折しも、本書が発表された当時の安倍公房氏は38歳。 人生の折り返し近くで価値観の再構築を迫られる、「中年の危機」を描いた作品という分析は正鵠を得ていると感じます。 また、もう一つのテーマは「男女の根本的相違」ではないかと思います。 与えられた環境を変えるという発想すらなく、同じ毎日を繰り返すこと自体を目的とする女。 自分の環境と周囲を見比べ、少しでもましな生活がしたいと、蟻地獄の中でもがき消耗する男。 女の生き方を向上心がないと切り捨てるのか、禅の境地とみるのか。少なくとも本作の主人公は降伏する。 やや昭和的な男女観かもしれませんが、 現代でも、配偶者との間に似たような断絶を感じている方は多いのではないでしょうか。 | ||||
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読んだ後の感覚を味わって欲しい。 長いレビューはそれぞれの解釈の邪魔になるのでしません。 素晴らしい本でした | ||||
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砂、というものが明らかにこの世の中の社会そのもののメタファーなのだろうがそれが重層的なことが本書の一番の魅力ではないだろうか。 ただ単純に「砂」に埋もれていく恐怖とその生活の単調さから抜け出せないサバイバルものとしても面白い。 それ以上に主人公の人物設定から面白い。 主人公の職業は先生であり己をただ川底に置かれた石であり自分を通過していく生徒は自分を乗り越えて流れ去っていく存在として捉えている。 「希望は他人に語るものであって自分で夢見るものではない」 という厭世観のようなものを抱えている人物がこの不可思議な状態に陥ることがより一層楽しいのだ。 これがもともと生きる希望に満ち溢れている奴が挫かれていくだけであれば起伏はさほど存在しないのだが、元々厭世的だった人物を主人公に据えることにより「本当はあの社会に戻りたくて仕方ないんだろう」というとても意地悪なカタルシスを読者側が感じるような仕掛けになっている。 そして何より私がぞっとしたのが「砂」という流動性あふれる状態はこの世で一番清潔な場所と言ってもいい、と提示しているところだ。 自分を乗り越え流れていく生徒たちを常に妬みながら生きてきた主人公が、無菌状態のように清潔な「砂」に溺れ埋もれていき徐々に慣れていく様子は「この世」に慣れていく私たちのようだ。 時には抗い歯向かってはみるものの、結局引きずり戻されていく。 確かに初心な社会人が社会に染まっていくメタファーとも捉えられるが、私にはもっと大きなこの世の仕掛けのメタファーのように感じました。 重層的なアイロニーに富む大傑作SF。 | ||||
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