カンガルー・ノート
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綺麗でした | ||||
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なにこれ、と言う感じで、読んでいました。 | ||||
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表紙カバーの写真と装幀が恐(こわ)かったです。 ついでに、本文も恐かったです。 恐いんですけど、読みながら時々くすっと笑ってしまいました。 ブラック・ユーモア小説なんです。 「ためらい傷」を思わせる痛々しさで、自虐的な「危険な冗談」が多数見られます。 一気には死ねません。 「笑っていいのかどうか、釣り針らしいものが見え隠れしている危険な冗談」(154頁)だから。 おお恐(こわ)。 昔は、人さらいにさらわれた子供たちを親がさがしたものです。 「いまは子供たちが / 人さらいをさがしている」(204頁)んですもの。 「殺人なんかじゃない、死人をもう一度殺すだけのことです」(195頁) これも恐い。 「ぼくは人殺しなんだ」(217頁) もっと恐い。 「人間って、一度死んだら、二度と死ねないんだ」(217頁)から。 あれれ? なんか、人を食った学生の話ですか? 生病老死。 老いて病んで、 病院のベッドに縛られて動きのとれない安部公房の末期の姿が垣間見えます。 そんな哀れな姿を自虐的に笑うように、自画像のように描いた安部公房の作品。 「《かいわれ大根》病」という奇病に悩む患者のふざけた妄想録? 『カンガルー・ノート』の最後は、新聞記事からの抜粋で終わります。 「脛(すね)にカミソリを当てたらしい傷跡が多数」(236相当頁) 自分で脛の《かいわれ大根》にカミソリを当てたのでは? 恐怖小説のように、 「恐(こわ)かった」(234頁)の一言で終わっています。 くすっ。 怪奇小説? 冒険小説風? 私小説? 死小説? 純文学? 「カンガルーという言葉は小説の中に数回出てくる」(246頁)とドナルド・キーン。 「数回」とは何回でしょう? 数回、数えたら、19回でした。 10回越えたら、十数回では? ひとつ 「《カンガルー・ノート》」(9頁) ふたつ 「ぼくは、ただ、カンガルーに興味があって……」(10頁) みっつ 「いいじゃないの、カンガルーなら私も好きさ」(10頁) よっつ 「ぼくはただ、カンガルーの生態学的特徴に関心をもっただけなんです」(10頁) いつつ 「ノートの何処(どこ)がカンガルー的なの?」(10頁) 「ワラビーもカンガルーの一種だね?」(10頁) 「まさか膨らんだカンガルーなんてことはないだろう」(54頁) 「伸びたランニングの裾を持ち上げ、カンガルー風の袋にして、老人たちに迫っていく」(101頁) 「カンガルーの袋の賽銭をキャンバス地の鞄(かばん)に集金しはじめた」(102頁) 「カンガルーなんかだったら、親孝行も親不孝もないらしいけど……」(130頁) 「カンガルーがどうしたって?」(130頁) 「カンガルーについては、ちょっぴり関心があるけど、哲学と言われると……」(158頁) 「カンガルーの一種なんだって」(159頁) 「キラー君、きみの哲学からみて、カンガルーなんかどう思います?」(165頁) 「カンガルーの毛皮を敷いて腹ばいにさせられる」(168頁) 「カンガルー・ノート……」(216頁) 「嫌いなんですか、カンガルーが?」(216頁) 「ぼくもカンガルーみたいに、没個性的だってことかな?」(216頁) 「カンガルーにしては小さいので、ワラビーかもしれない」(228頁) なるほど、「カンガルー」だけかんがえると、分かりました。 この小説のタイトルを『カンガルー・ノート』としたわけを。 でも、<かんがえるーノート>としたほうが、哲学的ではないですか。 「みどり(緑)」も、結構な回数出てきます。ついでに数えてみますね。 勝手にどうぞ。 いろいろな「みどり」がありましたので、いちいち数えてみました。 「薄いグリーンの縦縞(たてじま)のワイシャツ」(70頁) 見たことない! 「脛は緑に覆(おお)われているが、緑面でもなければ、詩人でもない」(71頁) 脛も面も緑だったら。おお恐(こわ)。 「緑色の顔の男って、本当に女にもてるんだろうか?」(75頁) 「全身緑に覆(おお)われてしまったら、遊園地の怪獣コーナーにでも雇ってもらうしかないじゃないか」(83頁) 「とおにもたらぬみどりごが」(88頁) 「かのみどりごのしょさとして」(88頁) 「十にもたらぬ嬰児(みどりご)が」(98頁) 「ただいま『みどりご』の役を熱演して下さったのは」(101頁) 「『みどりご』たちがいつまでもこのすばらしい芸を演じつづけられますよう」(101頁) 「みどりご予備軍の編成を検討中でしてね」(110頁) 「濡れて鮮明度が増した黄緑色の熔岩塊(ようがんかい)」(115頁) 「月明かりだと、緑が紫にみえるのかな」(118頁) 「緑と茶の大柄(おおがら)なチェックで」(121頁) 「オレンジ色の花模様をあしらった緑のベルトを反転させて白に替えた」(144頁) 「十にもたらぬみどりごが」(151頁) 「緑色の警告ランプが点灯する」(155頁) くすっ。警告なら赤では? レッド・カード。 「緑色の RUN というやつ?」(158頁) 合計18回でした。「みどり」さん、残念。おっしいー、負けです。 (19回の「カンガルー」さん、オメデトウ。きわどい勝利) 回数で、勝ち負けを競ってみて、どうするってえの? 巻末の、ドナルド・キーンの書評「『カンガルー・ノート』再読」には脱帽しました。 「安部さんは『緑色のストッキング』が示すように、緑色に対して特別な関心ないしあこがれを覚えていたようであり、語り手の不思議な病気は同時に彼の生命であることを暗示していたかも知れない」(245頁) なるほどね。 「《かいわれ大根》病」という奇病の「緑色」は「生命」力を感じます。 対して、「カンガルー」は、ぴょんぴょんジャンプする移動。 話もぴょんぴょんブッ飛ぶ。 ベッドに縛り付けられて身動きとれない急病人の夢。 不自由で素早い救急移動。 移動の先には<死>しか待っていないとしても。 安部公房は 「この小説で死を嘲笑(ちょうしょう)して、死の無意義を暗示したが、勝負は死の勝利で終わった」(238頁) とドナルド・キーンは書いています。 詩人ジョン・ダンも「死よ、お前が死ぬのである」という言葉を残して死にました。 この小説『カンガルー・ノート』のテーマは、「死」。 この小説は、死の勝利で終わるのだから、 生を暗示する「みどり」には勝ち目がありません。 でも、でも。 「緑色の RUN というやつ?」(158頁) 何者でしょう? 「カンガルーにしては小さいので、ワラビーかもしれない」(228頁) 「なにか灰色の小動物の群れが飛び出してきたような気もした。すごいスピードでジャンプしながら、ホームを横切り、闇のなかに散らばっていく」(228頁) 「緑色の RUN というやつ」、矛盾を矛盾とも感じない若者たち。 緑色の信号で、夢中になって走りだすような、次世代の子どもたち、 ではないかと思いました。 次の世代の若き小説家たち、なのかも知れません。 「カンガルーの袋の賽銭をキャンバス地の鞄(かばん)に集金しはじめた」小鬼たちのように、 とおの昔の作家たちや老いた作家たちの作品の小さな文言をよせ集めている作家たち。 鏡に自分を写しながら、鏡のなかの自分を描く、若き私小説家たち。 そんな作家たちの作品も読んでみたくなりました。 | ||||
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20代前半に安部公房にハマりました。特に好きな作品が、最後の3作品。「方舟さくら丸」「カンガルー・ノート」「飛ぶ男」。「飛ぶ男」は未完なので、当作品が実質遺作となります。 ・社内の公募企画に「カンガルー・ノート」とだけ書いたものを提出したら、採用されてしまった。カンガルー・ノートってなに? ・脛からかいわれ大根が生えてきたから病院へ。 ・病院であてがわれたキャスター付きのベッドが勝手に動き出だした。行き先は地獄。 というストーリー。 地獄の風景は不気味かつどこかユーモラス。恐らく、作者が見た夢がモチーフになっていると思われます。 並の作家では思いつかないようなイマジネーションの世界に浸るのが、この作品の楽しみ方の一つかと思います。 遺作となったこの作品、主人公が死の直前に見た幻覚と解釈しましたが、作者は自分の死期が近いことを感じていたのでしょうか。 作品内で語られなかった、その他の夢の断片などが記載されているであろう作品メモも読んでみたい。ぜひ発表してほしい。 この作品を読む前、「左手親指の付け根から雑草が生え、それを引き抜くとぽっかり穴が開き、中を覗くとそこは空洞だった」という不気味な夢を見ました。この作品を読み、その夢を思い出し、その夢が忘れられない記憶にw。 また、この作品を読んでから夢日記をつけたり、バンド名を「kangaroonote」にしたりと影響されまくりでした。 | ||||
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読み終わって既に何日も経っているのですが、作中に明滅していたイメージがふと脳裏をよぎったりして、意外に尾を引く余韻があります。夢そのものの、現実の文脈を断ち切るイメージの迫力が、安部公房の筆力によって見事に束ねられています。 しかしそこで束ねられて向かう所が、他の作品で見られた文明批評や人間存在への問いかけではなく、直接的に「死」であるところがこの作品の特色なのでしょう。 しかしさすがのこの作家にとっても、死を直視することには躊躇があったのでしょうか。作中に随所に表れる滑稽と汚穢の表現によって茶化されて、なおのことグロテスクで有無を言わさぬ死の重みが読み手にも迫ってくる気がします。賽の河原での情景などにしても、日本的な湿っぽさが微塵もなく、やがて嗤うしかなくなる死の不条理に、読み手も苦い笑いを強いられる感じです。 (オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ) この間の抜けたコーラスに、私たち全てが逃れることのできない死への私たち全ての無力さに対する、可笑しさと懐かしさが込められているかのようです。 | ||||
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