同時代ゲーム
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彼の作品では比較的低評価なようだが、ハードカバーで500ページ弱の書簡体小説の体裁をとり、それだけで意欲的であり、(初めて大江健三郎を読むには適していないだろうけれど)大江のエッセンスが詰まった、あるいは凝縮した小説だと言えるだろう。凝縮しているとは、先鋭化しているとも看做せ、散文文芸上高度な領域にあり、(そうであればこそ)一方では極度に晦渋だとの批判・感想をもたらすのも当然だと思える。 書簡体小説と言えば『若きウェルテルの悩み』や『貧しき人々』といった文豪の若書きの作品という印象がある(『こころ』は晩年の作品だろうが)。この作品では大江の特徴である方法に意識的である点から導き出された形式としてそれが選択され、「僕」が妹のみに語るという一見閉鎖的な形式でありつつも、地理的にも時代的にもまさに縦横に語られるという奇妙な点は文学的な重層性も感じられる。また『万延元年のフットボール』に代表される森・村の神話と『新しい人よ眼ざめよ』へと続く擬似私小説との交錯が見て取れる。また、終盤は子供時代の「僕」の体験によって閉じられる点も彼の特徴である子供の重視(所謂常識への別視点の提示)という特色を示している。 大江は小澤征爾との対談『同じ年に生まれて』のなかで、プロットが小説を動かすのを横の軸だとすれば、小説において比喩は縦に印象を刻みつけるものだ、という旨を述べていたように思い興味深く感じた。もう少し一般化すると比喩などに用いられるイメージの連なり、そのような小説の随所に配置されたイメージ群が作品を視覚化あるいは立体化させると言えるだろう。(これは前掲書で示された訳ではないが)図式的かつ安直な例をあげると、プロットによって人物が変化あるいは詳かになるとともに、その人物描写に関し楽器による比喩を用いるとすれば打楽器から鍵盤楽器さらに木管楽器へと(剛から柔へと)変化するような謂わばイメージシステムを伴うことで文学的な幅が増すと思える。(大江健三郎の作品におけるイメージシステム、といったもので論文が書けるかもしれない。) この作品でのイメージシステムとは何か。対の、二重の、あるいは分身などのダブル・イメージといったものがそれだろう。双子の僕と妹、アポ爺とペリ爺の二人組、谷間と「在」、壊す人と創建者たち、創造者であり破壊者、村と大日本帝国、五十日戦争と大東亜戦争、神話と歴史、書く者と巫女、苦痛と昏倒、父=神主、女型と野球選手、科学と民話、定住家と他所者、大岩塊あるいは黒く硬い土の塊、伝承と夢、路上の馬鹿あるいは気狂い、老人と子ども、など。これらのペアは、対であったり対比であったり並置であったりし同一の関係ではない。これらペアとともに頻繁に述べられるのが、村=国家=小宇宙、であり、後者が包含しつつも各々対等であるような奇妙な関係を示している。これは多義的な伝承とも通じ、翻ってそこから上のペアを眺めるとそれらの関係も多義的なものを孕むのかもしれない、そのような可能性を暗示させる。 この作品も前作『ピンチランナー調書』と同様に『小説の方法』(1978)で示された、ロシア・フォルマリズム(異化の手法)や民俗学(民話・道化・性的表現)やグロテスク・リアリズム(価値転倒・笑い・揶揄・糞尿・性的転倒)や語りの重層性・真偽の曖昧化(逆転)やポサダの版画(民衆芸術)、それらが端々に有機的に埋め込まれているが、それにも関わらず前作とは全く異なる印象を与える。何を書くか、よりも、どのように書くか。このような問題設定は言語芸術よりも(古典的)舞台芸術(パフォーミング・アーツ)が担うものだろうが(事前の検閲から改変しえるオンタイムでの芸術である故)、時代性や政治性において鋭敏な作者においては合奏や踊りや祭りや斉唱といった(スポーツも含まれるかもしれない)舞台芸術に由来するだろう挿話が語られる。情報媒体が拡充した現在の間接民主制(代表制 representative )からその歴史を顧みれば、舞台芸術の空間とは、直接民主制の空間とも言えるだろう。個人的には、そのような発展・解放の展望をもたらす作品のように思う。 始まりがあり終わりがある、というような単線的(リニアな)物語、神話、歴史、という観点と、現在と直接・間接の様々な過去。それとともに、メキシコ、東独、東京、四国、ニューヨーク、サンフランシスコ、大阪、と言及される点在する地域。また、人的関係においても、(異国での)異邦人、同僚、党派、同郷、地縁、血縁、といった(愛憎も含む)多様な関係。さらに、生と死との物語であるとともに、開拓と追放の物語とも読める。また、読み通した後に冒頭を再読すると、上に述べたように物語は一般に単線的形式を用いるが作者の言葉によれば、この作品は「夢の輪にとじこめるように描」かれていることに気づく。反語的・重層的小説だと言っていいように思う。 | ||||
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四国の山中に伝わる村独自の神話と歴史を、主人公が、妹への手紙として書き記していく。この過程で様々な出来事が、伝承なのか妄想なのか、はたまた現実のことなのか判然としない形で提示される。登場人物達に感情移入することが難しく、最初は違和感しか感じなかったが、読み進むうちに、何か大きなものに飲み込まれていくような気持ちになっていった。良い作品なのか判断する能力は私には無いが、これまで経験したことのない稀有な読書体験をさせてもらった。 | ||||
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難解な本とのコメントがあり断念覚悟で読み始めましたが、第二章以降は物語にぐいぐい引き込まれました。 四国の山中に創られた共同体(国家)の神話と歴史が、非常に長い六つの長い手紙の形をとって繰り広げられます。 メキシコから日本やアメリカ、江戸時代から戦中、現代、語られる話はどれも荒唐無稽なのに、ありうることのように思わされてしまう魔術的な力強さに溢れています。 森の中の異界というモチーフは他の作家さん達も取り上げていますが、現実の世界と折り合いをつけて描き出す筆力はさすがと思いました。 言語、国家、家族についての考えも刺激させられました。 「百年の孤独」や「緑の家」、あるいは「ドグラマグラ」なんかが好みの方はいい読書ができるのではないでしょうか。 | ||||
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1時間くらい読みましたが 私には難解すぎるようで諦めました | ||||
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"そうだとすれば、その眼はそれらほとんど無限に近い空間×時間のユニットのなかからゲームのように任意の現実を選びとって、人類史をどのようにも組みかえることができよう・・"1979年に発刊され賛否の起きた本書は著者の一つの集大成的な魅力が難解さと娯楽さの中で両立していて興味深い。 個人的には、とは言え、本書は【主人公から妹への手紙】として各章が構成されているわけですが、唐突に(おそらく意図的に)矢継早に語られる【冒頭のあまりの読み難さ】に小林秀雄曰く"2ページで読みのをやめた"といったのと同種の不安が私にも早くも起きかけたのですが。 兎にも角にも中盤まで読み進めて、江戸末期以降から現在にかけて辺りからは急に明瞭となり"戦史(歴史)もの""スポーツ""青(性?)春ドラマ"といった様々な文学的要素が【複雑にミックスされた娯楽性】が楽しめました。 一方で、本書の軸となっている主人公たちの故郷である四国の山奥に位置する谷間の村の独自の神話と歴史【村=国家=小宇宙】からは、近代社会によって、書き換えられる前の【異質で原初的な、神話的世界】が中央(国家)と周縁(村)といった対比で【破壊(死)と再生】【アジールとしての森】【壊すものと育てるもの】といった要素で虚実織り交ぜた様々なメタファーと共に語られていて刺激的でした。 確かに前述した前半部分の難解さ、加えて語り部たる主人公の共感しにくい立ち位置、また幻想的な部分もあるが、やや生々しく頻出する性描写と、読む人を選ぶであろう部分もたくさんある様にも感じましたが、個人的には流石だな?と脱帽するかのような読後感でした。 【百年の孤独】の様な、家族を描きながら神話に挑む様なスケールの大きな意欲作好きな誰かに、また柳田國男的な民俗学好きな誰かにオススメ。 | ||||
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