新しい人よ眼ざめよ
- 連作短編集 (232)
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「新しい人よ眼ざめよ」は「個人的な体験」と呼応するような物語の閉じ方になっていること、そして、自分が死ぬことを君は惧れることはない、自分が死ぬ事で君たちは新しい人間を生きていく、もし新しく生まれ変わってくるとしたら、君と共にある、というメッセージを、ブレイクの詩を引用する形で閉じられる。 このメッセージは長男・光さんに向けられたものであり、また、大江さん自身の心の支えになっていた一編でもあった。深い感動と、いつまでも余韻が続く。 《惧れるな、アルビオンよ、私が死ななければお前は生きることができない。/しかし私が死ねば、私が再生する時はお前とともにある。》 | ||||
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読み始めた当初は、大江健三郎って鼻につくし、何ならちょっとむかつくなって思ってしまい『この話最後まで読めないかも〜』となったんですが、1話目の最後からだんだん大江健三郎が好きになってきて、こういうところがこの人の魅力なんだなと感じました。この人って迂闊なところがあって、それもそのまま本に書いている。そういうのも狙って書いているのかもしれないですけど、やっぱり書き方がうまい作家です。話が進むにつれて、自分のこの家族への感情が優しいものになっていくのが不思議な感覚でした。彼自身も年を経て変化してきた家族への感情や在り方を、彼の目を通して私たちも追体験できる。とにかく最初と最後で印象が全く違う作品で面白いです。おすすめ。 | ||||
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色が沢山あればいいですね | ||||
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大江健三郎のよい読者ではなかった(ましてブレイクはなおさらの)私ですが、本書の真摯さと救いを求める心の強さに感銘を受けました。 愛を夢見る10代のころ、大江氏の初期短編を幾つか読み、性と暴力への強い衝動が基調にある冷徹な作品世界に共感できず、それ以来氏の作品を進んで読む事はありませんでした。(ホルマリンプールに浮かぶ献体の話を読んで、献体はしないでおこうと強く思ったものです) それでも、著者逝去後の朝日新聞の書評で、初めて読む人へのおすすめとして本書が挙げられていたので、読んでみようと思いました。長男光さんの音楽をテレビで見たこともあり、家族との暮らしが作品でどう描かれているかにも興味がありました。 前半のほうは、長男が産まれて早々に手術をしなければならない大変な状況なのに、妻に寄り添うでもなく自らの思索に沈積していく所に何なんだこの人は…と思ったり、体格よく成長した長男がパニックを起こし留守家族に向かって暴れてしまうあたりは、弟妹が安心できる環境も考えなくてはいけないのではともやもやしてしまいました。 ただ、読み進めるにつれて、この人なりの独特な仕方ではあるが長男や家族を強く愛している事、家族もまた個性的な父と長男を愛し受け入れている事がとても伝わってきます。 混乱、怒り、諦観、苦悩、団欒の楽しさ。他者の無理解と優しさと時に受ける攻撃。理屈を超えた意味不明の出来事。家族と共に歩む日々の中、折にふれて著者が思索を巡らすのがブレイクの詩画です。その神秘的な作品は難解で狂気のような恐ろしさすら感じさせますが、例えば聖書のように、平穏な日常生活を超えた深い悲嘆を抱えた人の心に届くものなのでしょう。その時々の状況や心情とブレイクの詩文が恩寵のように一致して響き合うとき、著者が慰めを感じて安らぐ所に、本当の芸術が持つ力というものを感じ、深く心を揺さぶられました。 共感するのが難しい所や、わからない所も多々あるのですが、食わず嫌いをせずに読んでよかった、何年後かにまた読み返してみたい作品です。 | ||||
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数ある大江健三郎の作品の中でも、面白いのか面白くないのかよくわからない作品の一つのように思う。ブレイクの高踏的な引用と障害児のトンチンカンな(と思える)セリフとなかば自嘲的な語り手による三つ巴のアンチクライマクス。暴力や死(の予感)といったものがテーマにあるようだが、ブレイクの詩と物語との対応の屈折さが、その屈折度合いがかなり強い。 大江健三郎は創作の手法について意識的な作家だが、この作品はかなり実験的なものだと思う。『個人的な体験』への批判を受けてなのかわからないが、本作辺りからアンチクライマクスの手法を確立していくように思うが、この作品の実験的な性質からか読み終わったというような感覚に乏しい。あるいはこの作品は(近代)小説ではないのかもしれない。 その文体は『レインツリーを聴く女たち』と同様に、時に冗長かつ緩慢かつ説明的な擬似私小説風のもので、『取り替え子』や『憂い顔の童子』などの晩年の作品に通ずる。 ブレイクの預言詩とイーヨーによって啓示される「僕」。ここにもやはりグロテスク・リアリズムにおける転倒をみることができるだろう。そのように思うと、障害児との生活が悲劇と喜劇との限りない往復運動であるようにも感じられる(これは文学的創作とも通じるかもしれない)。あるいは若い人にとっては、この作品は陰鬱な小説だと感じられるかもしれない。しかし、作者は「小説のたくらみ」によって作為的な虚像を作り出してもいるだろう(部分的には実際に起こったことを用いているにせよ)。そのような現実と虚構との往復というのも、上のことと対応する。感動というよりも私は脱臼というか肩透かしというかモアレのようなものを感じた。所与のものでやりくりする(それでもって成功する)というのは、フランスというよりも鴎外的な価値観であるように思う。 2023年3月3日に作者大江健三郎は亡くなった。この作品では自分の死後の息子の状況に思いを馳せる場面が度々あり現実の生活を案じてしまうが、推敲を重ね不自然且つ読み難い文体を作り出し屈折し解決の不鮮明な物語を編み出し(これらは「現代音楽」に通じる)社会や家族といったものを相対化する視点を提示しているだろうことから、いわば直情的同情には抑制的であるべきだろうと教えられる点もあると思える。 | ||||
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