水死
- 劇団 (96)
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夏目漱石先生が、こころというタイトルに結構悩んで心にしたと。そうかもしれない、性別抜きにして、時折自分の姿を見る他人の目が、私にはこころだか、相手はきっと心で見てるんだと思う時がある。嫉妬心と性的欲望、あわよくば油断するとめんどくさい暴力になるような。この本の主人公はある意味、何とか生き延びるためにた私が殺した、水死した私なのであり、人間のもってる暴力性に無頓着で純粋なまま生きてる、それがどんな結果を生んでも、生きていけるこの主人公はいつもどこか、死と隣合わせなのだろうと思う。ものすごく私的な感想だけど。この年までなんとか生き延びて、逃げ切れてよかったとは思えないけど、水死したもうひとりの私に弔いの気持ちを込めて。おやすみなさい。また、あちらに戻る日まで。 | ||||
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例によって古義人サーガだが、実質の主人公は、ウナイコと呼ばれる女性。 冒頭爽やかな女性として登場する彼女が、成功と共に政治的に面倒くさい女になっていく話と、単純化すれば言えなくもない。そう書くと「Vガンダム」のカテジナさんみたいだな。。。 その劇、無理に松山でやらんでも、受け入れてくれる地方でやったら良いのでは、と、思ってしまった。 古義人サーガとしては、アカリとの関係の変化とか、死んだと思われていた大黄が実は生きていたとか、展開があって結構面白かった。 | ||||
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「『赤革のトランク』の材料で『水死小説』の続きを書けるかもしれない」―― 母の死から10年、「『赤革のトランク』を兄さんに渡す約束の年」、小説家・長江古義人は 自身の「晩年の仕事」と位置づける「水死小説」に挑むべく、郷里の「森の家」を訪ねる。 「水死小説」、すなわち「戦争にこの国が敗れる夏の、森に嵐が吹き荒れて川が増水した、 ついには洪水になった夜に、……短艇で乗り出して水死してしまった」父をめぐる最後の記憶。 その舞台化を企てる劇団「穴居人the cave man」とともに、その構想を固めるべく、 長江はひたすらに彼らとの共同生活と対話に臨むこととなる。 「水死小説」ってつまり天皇制と戦争責任をめぐる寓意でしょ? なんて読者のツッコミを 待つまでもなく、あまつさえ「日本軍中枢を相手にした叛乱の一味どころか、自分の計画が 恐くなって逃げ出した田舎オヤジですよ」とまで宣う傍ら、「自分もついて来て舵をとれと いわれたのにノロノロして」結果として生き延びた自己批判も籠めてみせる。 とりわけ前半は、インタヴューを主軸に、過去作を振り返るとの構成を取っているため、 物語の組み立て方なども含めて、ある面では大江健三郎の簡潔な自作解説としての性質を もった作品となっている。 天皇と国民、父と古義人、古義人と息子――そんな幾重にも織り込まれたパターナリズム 表現が巧みに構成されていることは明らか。 その上で、私が生理的に合わなかったのは、『食堂かたつむり』的な無菌空間として 作品世界が貫かれてしまっている点。思想的に相容れない人々が、もはやご都合主義とすら 呼べないほどに、支離滅裂で悪質なキャラクターとしてのみ描き出され、実のところ、 向き合うべき他者を欠いたセカイ、向き合うにも値しない他者を外に置いたセカイとしてしか 全体が機能していない。 無論、知的障害を抱えた息子・アカリという絶対的な他者といかにして交わるか、というのが 主題のひとつでもあるわけだが、思わず口走ったたかが「きみは、バカだ」程度の一言が、 両者の決裂の契機となってしまうような親子関係に何らのリアリティをも見出せないのは、 私のこころが荒んでいるからなのだろうか。 私には民主主義の比喩としか見えない「死んだ犬を投げる」芝居というギミックが終始、 肯定的に語られる点も疑問。 論理は絶えず数の前に敗れ去る。無名、無数の思考を欠いた群衆による祝祭空間としての この世界を見事に告発してみせた世紀の傑作『万延元年のフットボール』の作者が、 大衆の暴力性の発露としての「死んだ犬を投げる」行為を賛美してしまうのか、と 私としてはただただ愕然とさせられるばかり。 クライマックスにしてもフィクショナルに過ぎて、まるで完結していないとの 印象が否めない。 大江自身の手による小説の形を借りた創作ノートとして読めば、かなりの収穫が 期待できるだろう一冊。 ただし、歴史的名小説家の「晩年の仕事late work」としては、氏へのリスペクトが あればこそ、残念と評する他ない出来。 | ||||
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例の「超私小説」の手法で、あらゆるぺーじにおいてあらゆる登場人物はあらゆる発言をもって主人公=「分身かされた大江健三郎」にかんしてしか関心をもっていないみたい。つまり「大江健三郎」とかかる小説しか存在しないような世界があいかわらず描かれているのは(いかに欺瞞的なエゴ露出であろうと)まだいいが、いままでエッセイにだけあって小説には(すくなくともそのままの形で)露出してなかった例の政治的言説が、今度の作品をしかも異常に露骨なやり方で満たしているのに反吐がでるほど失望した。 (自分としてはほぼ同じ政治的立場でいるつもりであろうとも) ご自分の極端なまでに単純化された政治的ヴィジョンを(自己)主張するために、氏はもはや手段を選ばないということか。 (漫画的な)政治的悪党どもを打ち負かすためにそれらの強姦の《被害者》までを平気に動員して、かかる「モラール」とは、「男は強姦する、国家は強姦する」、と。 氏の60年間通して主張して来た政治思想はつまり、この程度のものか。 これほどやすっぽいかつ逆効果的な隠喩にこそ反吐がでる。 「私は民主主義者です」と最後まで「言い張る」ためにだけこの稚拙な政治劇を書いた作者へ、 ちがう、「君は、馬鹿だ」としか答えようがない。 | ||||
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作者のこれまでの作と比べれば読みやすくはある。だがそれでいて、なにか平らすぎてとっかかりがない分だけいろんな解釈を生みそうな作品だ。 大江氏の作品の面白いところは、他の日本の小説に比べると、思い入れがしにくいというか、読者のイメージを砕いてしまうようなところなのか。あるいは抽象的というか。「今ここ」でない、遠く離れた世界でも似たような語りがあるのではないかと思わせる。 もっとも、偏屈な面もたしかにあると思うが。 感想はいろいろだが、三島由紀夫よりは大江健三郎の方が好みだ。 | ||||
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