死霊
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第三巻では、存在の革命が描かれる。実際には無いものを創造していく。無限大となる精神の拡張。第二巻まで、意識=存在が示されたが、さらにその先の宇宙が描かれる。結末の津田安寿子の言葉には救いが込められ、暗示的である。著者は、4人兄弟が登場するカラマーゾフの兄弟に模して、神の存在、悪の存在に続く、存在自体の革命を描きたかったと感じられる。 | ||||
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第二巻では、三輪高志が、究極の革命を語り出す。そして、究極の秘密を打ち明ける夢魔との対決。意識=存在とする夢魔は、光あれといえば、光ありき、と宣言する。 | ||||
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我が国初の形而上学小説。存在しなかった、また、これからも存在しないものを虚体(無)と呼び、探究する主人公。無は決して捉えることはできない。そして、意識を意識しようとする意識。自同律の不快は、誤って同一化してしまう意識の誤り。西田幾多郎は、我が国初の哲学書の「善の研究」で、唯一存在するものは意識のみとしたが、存在を意識とすると、多くの聖典・古典を理解できる。究極の革命に繋がる「存在」に取り憑かれた三輪四兄弟は、存在の秘密を明らかにしていく。無の観点から存在を追求した稀有な本書をこれからも繰り返し読んでいきたい。 | ||||
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三輪家の悪 悲 狂 喜 世界文学だな | ||||
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仰天するほどつまらないですね。ドストエフスキーのことに『悪霊』をオマージュというのかインスパイアというのか、遠景において造り成されたものらしいですが。つまらない、というと理解力が及ばないだけだろうと憤慨した方や、せせら笑う方もいらっしゃるでしょうが、それに反駁するつもりは毛頭ありません。ただし、貶しているわけではありません。おもしろくない、という言い方に語弊があるとすれば、こう言い換えましょうか。物語のおもしろさ、活き活きとした躍動感、喜怒哀楽を織りなす彩り、それらが悉く抜かれてあると。喩えれば、臀部のあたる部分が鋭角になった椅子といったところか。読み手も坐り難いが、第一の読み手となり、より深く坐ることとなる本人はより辛いことだろうと推察します。だからこそ、永年かかったわけで、完結しなかった(可能性がある)のだろうと思われますが。それでいて、読めないわけではないんですよね。そう苦痛ではない。退屈ではありますが。退屈であるためか、どうしてここまで書けるのか、いや、書かざるを得ないからやむを得ずでしかあり得ませんが、それはなぜだろう。作者本人に意識がむきます。登場人物らにでなしに。もしかしたら、今までにない画期的なものを造り成されたのかもしれませんね。私が似かよったものとと連想したのは『正法眼蔵』でした。 | ||||
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