(短編集)
伝奇集
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ボルヘスの愛読者なら、必読の本。ボルヘス思想のエッセンスが集結した作品。国書刊行会で「バベルの図書館」のシリーズが出て、すべて読んだけれど、「バベルの図書館」という構想はこの作品集に収録された短編に由来するんだね。 | ||||
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きょうから寝るまえの読書は、ボルヘスの短篇集『伝奇集』にしよう。むかし、同志社国際高校に嘱託講師で行ってたときに、図書室で「エル・アレフ」や「汚辱の世界史」といっしょに入っていた集英社から出てたラテンアメリカの文学1『伝奇集』を借りて読んだ記憶がある。いま、目次を見て思い出せるのは、「円環の廃墟」のみだが、というのも、ジュディス・メリル編集の 『年刊SF傑作選6』や、河出文庫の『ラテンアメリカ怪談集』にも載ってて、何度も読み直してるからだけれど、ほかのも、おもしろいかな、どだろ。純文学もときどき挟み込まないと、脳みそがSF脳や怪奇ものの脳になってしまいそうなので。 ボルヘスの『伝奇集』は2部仕立てで、その第1部は「八岐の園」で、プロローグは8篇からなることを告げている。 1篇目は、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」トレーンという架空の惑星の百科事典の話。 2篇目は、「アル・ムターシムを求めて」このタイトルの小説について書かれている。むかし読んで印象に強く残っていた言葉があった。「今日の書物が遠い昔のものに由来するのは名誉なことだと思われる。なぜならば、同時代の人間に負い目があるということは、(ジョンソンもいったとおり)何人にとっても好ましくないからだ。」(鼓 直訳)そういえば、この篇には、むかし、ぼくが書いた作品に引用した言葉もあった。「一月十日の」という言葉も引用した。二度、文面に出てくる。引用したのは、それが、ぼくの誕生日だからだ。 3篇目は、「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」メナールが書いた『ドン・キホーテ』の話。 4篇目は、「円環の廃墟」男は夢見ることでひとりの人間をつくりだした。ところが、男が火に囲まれて悟ったのは、自分もまた、誰かが夢見てつくられた人間であったということ。 5篇目は、「バビロニアのくじ」バビロニアではくじが絶対的であると言う。 6篇目は、「ハーバート・クレインの物語の検討」タイトル通りの作品である。原注にある、次の言葉が印章的である。「より興味を引くのは、「時間」の逆行を想像することである。その状態のなかでは、われわれは未来を記憶しているが、過去は知らないか、かすかに予感するだけである。」(鼓 直訳) 7篇目は、「バベルの図書館」無限の数の本を有する図書館。じっさいは有限の数の本を有する図書館。これも原注におもしろい記述が見られる。「いかなる本も同時に階段ではない。おそらく、その可能性を論じ、否定し、証明する本があり、構造が階段のそれに対応しているべつの本が存在するにちがいないが。」(鼓 直訳) 第1部のさいごの8篇目は、「八岐の園」時間を超克した本であり迷路でもある「八岐の園」という本があり、その本を書いた者の子孫が主人公であるが、原注を読むと、子孫ではなさそうである。主人公はスパイだった。殺された。 ボルヘスの『伝奇集』の第2部は、『工匠集』というもので、「プロローグ」を除いて、9篇が収められている。「プロローグ」では、その9篇について軽く述べている。 1篇目は、「記憶の人、フネス」フネスは驚異的な記憶力を持っていた。見たことだけではなく、読んだものや、頭の中に思い浮かんだことなんかもすべて記憶していた。 2篇目は、「刀の形」額から頬にかけて刀の傷の痕のある男の話。詩論に使えそうな言葉があった。「一人の人間のすることは、いってみれば万人のすることです。ですから、ある庭園で行われた反逆が全人類の恥となっても、おかしくはないわけです。また、一人のユダヤ人の磔刑が全人類を救っても、決しておかしくはないのです。ショーペンハウアーのいったとおりだと思いますよ。わたしはべつの人間たちであり、どの人間もすべての人間であって、シェイクスピアは、ある意味で、卑劣なジョン・ヴィンセント・ムーンなのです。」(鼓 直訳)主人公の男に、刀の傷のある男が、刀の傷を負った日のいきさつを語る。仲間を裏切ってつけられたのであると告げる。 3篇目は、「裏切り者と英雄のテーマ」アイルランドの一人の英雄がじつは裏切り者であったという話。その話を劇にして本にして、という話。劇は登場人物が全市の大集団である。 4篇目は、「円とコンパス」推理小説仕立ての物語。 5篇目は、「隠れた奇跡」ユダヤ人の作家がナチスに捕まって銃殺刑になる話。奇跡とは、作家が死のまえに神にあと一年ほしいと願った願いが銃殺される寸前に起こったことである。周囲の時間がとまっていたそのあいだに、作家は、自分の詩劇の詩を推敲していた。推敲が終わったときに時間がもとの瞬間に戻り、作家は銃殺されて死んだ。 6篇目は、「ユダについての三つの解釈」イエスを売った売り切り者としてのユダ。イエスの神性を増すためにイエスを裏切ったユダ。そして、イエスがユダになったのだとする説。 7篇目は、「結末」7年まえに弟を殺された黒人が、殺した相手と決闘して勝つという話。詩論に引用できるというか、実作でも応用して使えそうな言葉があった。「平原が何かを語りかけようとする夕暮れのひとときがある。だが、それは決して語らない。いや、おそらく無限に語りつづけているのに、われわれが理解できないのだ。」(鼓 直訳) 8篇目は、「フェニックス宗」印象に残った言葉を引用する。「ハズリットの限定されざるシェイクスピアのように、彼らが世の中のすべての人間に似ているという事実である。」(鼓 直訳)この物語は、あらゆる国においてフェニックス宗の教徒がいるが、彼らは自分たちがそういう名前の宗派であるとは思っていないということである。 第2部のさいごの9篇目は、「南部」居酒屋で決闘を挑まれた主人公。外に二人で出ていくところで終わる。この作品のなかに、詩論に使える言葉があった。「瞬間の永遠性」(鼓 直訳) | ||||
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中途失明者であるボルヘスの世界の認識のあり方が、繰り返し記述されている。私は1994年に初読したがその時には理解できなかったことが読み取れるようになっていた。 「ドン・キホーテの著者ピエール・メナール」に登場するメナールとはボルヘス自身である。メナールはドン・キホーテそのものを書こうとする 「ミゲル・デ=セルバンテスのそれとー単語と単語が、行と行がー一致するようなページを産み出すことだった。」(59ページ) 晴眼者だった頃のボルヘスはドン・キホーテの作品の一部を容易に書き写すことができていたが、視覚が機能しなくなってしまっている作家のボルヘスにはドン・キホーテの作品の一部を書き写すことができなくなっている。しかし、それでも作家のボルヘスが万年筆を持って原稿用紙の上でペン先を動かしドン・キホーテの一部を記述することができていたとすれば奇跡である。 | ||||
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少しこなれていない感じの訳文がかえって良いと感じる箇所もあり、読み比べるのが楽しいです。 | ||||
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ボルヘス作の「ユダについての三つの解釈」を読みたくて、本書『伝奇集』を購入しました。 「ユダについての三つの解釈」は、たった9頁の短い「エッセー」(214頁)でした。 ユダについて、ニールス・ルーネベルクによる書『キリストかユダか』(1904年)、 および彼の主著『秘密の救世主』(1909年)に基づいて、ボルヘス流に解釈しています。 「下位の秩序は上位の秩序の鏡である」(216頁) 「ユダはある意味でイエスの写しである」(216頁) 「神言は人間に身を落とされた。神言の弟子であるユダも身を落として密告者となり」(216頁) イエス・キリストが人間になったとき、 キリストの弟子であるユダは、最低の人間、罪深き人間、裏切り者、密告者になったと、 ボルヘスは解釈しました。 「ユダが使徒の一人であったことや、天国の到来を告げ、病人を治し、癩病患者を清め、死者を蘇らせ、悪魔を追い払うためにえらばれた者であった」(217頁) 「救い主がこのように特別扱いされた男は、その行為についてわれわれの最良の解釈を受ける価値がある」(217頁) ここまでは、ボルヘス流の解釈に問題はありません。 「主の至福で十分だったからこそ、ユダは地獄を求めた」(218頁) ユダは「名誉、善、平和、天国を捨てた」(217頁) ここがボルヘス流解釈の問題点です。 地獄を求め、名誉、善、平和、天国を捨てるような人間なんていない と信じてきました。 悪い夢を見ている気分です。 ボルヘスの解釈は続きます。 「神は人類を救うために身を落として人間となられた、神によって行われた犠牲は完全であって、遺漏によって効果を失ったり弱められたりすることはないと推測し得る、とニールス・ルーネベルクは言う。神が耐えられたことを十字架上の夕べの苦悶に限定するのは不敬の沙汰である」(218頁) 神は人間の全ての汚辱と地獄に耐えた、とボルヘスは言っているのです。 「神は完全に人間となり、汚辱を経験せられた。人間となり、批難と地獄を経験せられた。われわれを救うためには、当惑すべき歴史の網目を織りあげる運命の任意のものをえらぶことができた。アレクサンドロスか、ピタゴラスか、ルーリック(7)か、イエスになることができた。ところが最悪の運命をえらび取った。ユダになられたのである」(219頁) 人間となった神は、イエスになることをえらばず、ユダになられた。 保守的少数派のボルヘスらしい解釈です。 なお、この「ルーリック(7)」という人物は知らなかったので、訳注を読んでみました。 驚きました。ルーリックは、ロシア王朝の創始者なのでした。 「ルーリック(7)」 「九世紀のなかばの神話的なヴァイキングの王で、1598年までロシアを治めた王朝の創始者。内紛を鎮めるようノヴゴロドの住民に要請されて、スカンディナヴィアから赴いたと考えられている」(259頁) ヴァイキングの血が流れる人間について、もっと知りたい。 地獄を求め、名誉、善、平和、天国を捨てるような人たちについても。 | ||||
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