モレルの発明
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機械という概念をどう使うかという一つの始原例として活用することができそうな著作である。ドゥルーズ・ガタリ以降の機械という発想は、どこからきたのかを考えるとき、ひとつのポイントになるのではないだろうか。 | ||||
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ヌーヴェル・ヴァーグの傑作と言われる『去年マリエンバートで』が観たいのだが、 超難解らしいので躊躇していた。 そうしたら町山さんが解説している動画を 発見して拝聴。 その中で元ネタのひとつと言われていたこの本に興味を持って 読んだ次第です。 町山さんが完全にネタバレしてたので、全然楽しめなかった(笑) 一方的で 激しい片思いというものがあまり好きじゃないのも原因のひとつと思われる。 最後の解説に『去年マリエンバートで』との類似性などが詳細に語られていて とても興味深かった。 映画ファンはここだけでも読むと楽しめると思います。 | ||||
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町山智浩のポッドキャストでディカプリオの「インセプション」の解説の際、別の映画「去年マリエンバートで」がインセプションの元になっているのではという話があり、さらに、「去年マリエンバートで」は、この本「モレルの発明」が発端になっているといわれていたので興味をもって読みました。 「去年マリエンバートで」の監督は「モレルの発明」がベースになっていることを公言していませんが、訳者の清水徹さんがあとがきで書いているように、設定やストーリーが似ているだけではなく、マリエンバートなどあまり聞かないチェコの避暑地がこの本ではっきりと登場していることから、本の影響を受けていることは明らかでしょう。 何かの理由で終身刑の判決を受けた主人公が必死の思いで船にのって流れ着いたのが、エリス諸島にあると思われるこの無人島。ここは太平洋戦争の激戦地だったのでときどき日本の巡洋艦や潜水艦の話が登場します。 満潮になれば沈みそうになり食べ物も確保するのがやっとの島で、突然人影、しかも避暑地で休暇を楽しんでいるような場違いな男女の出現に主人公は驚き、見つからないようにしながらもその人々に興味を持ちます。とくに、フォスティーヌという若い女性に惹かれはじめ、ついには自分を抑えきれなくなって話かけます。ところが、彼女はまるで主人公が存在しないかのごとく振る舞い、主人公の心は激しく傷つきます。やがて、主人公はこの島の重大な秘密を知ることになります... SF的なエッセンスはありますが、この作品は何か哲学的な要素を含んでいます。インセプションの夢と現実もそうでしたが、現実と仮想、鏡のこちら側と向こう側。私でない他人がどういう人かを判断するのは私であり、それはあくまで、私が見て感じたものが全てなのです。逆に言うと、自分の存在というのは、他人が見てくれるから存在するのであり、そうでなければ存在しないのと同じになってしまうということを語っているような感じがしました。 | ||||
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ボルヘスとの共著でも名高いカサーレスの代表作です。小説でありながら、読了後、自己の在り方や、自己に内在する他者性といった抽象的な思考にいざなわれます。フォスティーヌという他者に思いを寄せることで生じるモレルという障害が<私>との共通性ゆえ、実は<私>が乗り越えなければならない、自身に内在する「他者性」そのものであるという、ある意味においてモレルと<私>に「鏡像関係」を生ぜしめ、つまりフォスティーヌに寄せる<私>の思いは、実は自己の内面に向けられたものであり、フォスティーヌの<私>に対する無視あるいは軽微な仕草は、<私>の内面における他者性の目覚めを意味しているように読めました。しかし、逆に<私>の内面における他者性の目覚めは、それを明確に認識、超克することで初めて為される、現実における他者とのつながり、あるいはつながることの不可能性を暗示しているようにも思われます。また、フォスティーヌとモレルとの関係も、巻末の「訳者解説」にあるように、モレルを「男装をした同性愛の女」と考えると、モレルを障害とする<私>の煩悶自体が無効になり、それがモレルのような存在そのものが無意味と言っているのか、そういった存在を通して煩悶することが無意味だと言っているのか、僕は後者のようにも思うのですが、それをかなり曖昧に書いているところから考えると、その曖昧さ自体が著者の意図するところではないかという気にもなります。ところで、訳者も述べているようにボルヘスによる序文は、この作品にスムーズに入っていくためのすばらしい先導役になっています。これからこれを読む人は、まずこの序文を十分に吟味して本文に入ると、作品の全体像がより鮮明になると思います。 また、唐突な映画化は思わぬ僥倖という感じでたいへん嬉しいです。未見ですが、こちらの想像力を書き立て煽動するかのような表紙の写真は、奥行きと多層性を兼ね備えたこの作品をどこまで映像で描けているのか、期待と不安の入り混じった複雑な気持ちにさせられます。 | ||||
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ボルヘスとの共著でも名高いカサーレスの代表作です。小説でありながら、読了後、自己の在り方や、自己に内在する他者性といった抽象的な思考にいざなわれます。フォスティーヌという他者に思いを寄せることで生じるモレルという障害が<私>との共通性ゆえ、実は<私>が乗り越えなければならない、自身に内在する「他者性」そのものであるという、ある意味においてモレルと<私>に「鏡像関係」を生ぜしめ、つまりフォスティーヌに寄せる<私>の思いは、実は自己の内面に向けられたものであり、フォスティーヌの<私>に対する無視あるいは軽微な仕草は、<私>の内面における他者性の目覚めを意味しているように読めました。しかし、逆に<私>の内面における他者性の目覚めは、それを明確に認識、超克することで初めて為される、現実における他者とのつながり、あるいはつながることの不可能性を暗示しているようにも思われます。また、フォスティーヌとモレルとの関係も、巻末の「訳者解説」にあるように、モレルを「男装をした同性愛の女」と考えると、モレルを障害とする<私>の煩悶自体が無効になり、それがモレルのような存在そのものが無意味と言っているのか、そういった存在を通して煩悶することが無意味だと言っているのか、僕は後者のようにも思うのですが、それをかなり曖昧に書いているところから考えると、その曖昧さ自体が著者の意図するところではないかという気にもなります。ところで、訳者も述べているようにボルヘスによる序文は、この作品にスムーズに入っていくためのすばらしい先導役になっています。これからこれを読む人は、まずこの序文を十分に吟味して本文に入ると、作品の全体像がより鮮明になると思います。 | ||||
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