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新しい人よ眼ざめよ
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新しい人よ眼ざめよの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.10pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全20件 1~20 1/1ページ
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「新しい人よ眼ざめよ」は「個人的な体験」と呼応するような物語の閉じ方になっていること、そして、自分が死ぬことを君は惧れることはない、自分が死ぬ事で君たちは新しい人間を生きていく、もし新しく生まれ変わってくるとしたら、君と共にある、というメッセージを、ブレイクの詩を引用する形で閉じられる。 このメッセージは長男・光さんに向けられたものであり、また、大江さん自身の心の支えになっていた一編でもあった。深い感動と、いつまでも余韻が続く。 《惧れるな、アルビオンよ、私が死ななければお前は生きることができない。/しかし私が死ねば、私が再生する時はお前とともにある。》 | ||||
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読み始めた当初は、大江健三郎って鼻につくし、何ならちょっとむかつくなって思ってしまい『この話最後まで読めないかも〜』となったんですが、1話目の最後からだんだん大江健三郎が好きになってきて、こういうところがこの人の魅力なんだなと感じました。この人って迂闊なところがあって、それもそのまま本に書いている。そういうのも狙って書いているのかもしれないですけど、やっぱり書き方がうまい作家です。話が進むにつれて、自分のこの家族への感情が優しいものになっていくのが不思議な感覚でした。彼自身も年を経て変化してきた家族への感情や在り方を、彼の目を通して私たちも追体験できる。とにかく最初と最後で印象が全く違う作品で面白いです。おすすめ。 | ||||
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色が沢山あればいいですね | ||||
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大江健三郎のよい読者ではなかった(ましてブレイクはなおさらの)私ですが、本書の真摯さと救いを求める心の強さに感銘を受けました。 愛を夢見る10代のころ、大江氏の初期短編を幾つか読み、性と暴力への強い衝動が基調にある冷徹な作品世界に共感できず、それ以来氏の作品を進んで読む事はありませんでした。(ホルマリンプールに浮かぶ献体の話を読んで、献体はしないでおこうと強く思ったものです) それでも、著者逝去後の朝日新聞の書評で、初めて読む人へのおすすめとして本書が挙げられていたので、読んでみようと思いました。長男光さんの音楽をテレビで見たこともあり、家族との暮らしが作品でどう描かれているかにも興味がありました。 前半のほうは、長男が産まれて早々に手術をしなければならない大変な状況なのに、妻に寄り添うでもなく自らの思索に沈積していく所に何なんだこの人は…と思ったり、体格よく成長した長男がパニックを起こし留守家族に向かって暴れてしまうあたりは、弟妹が安心できる環境も考えなくてはいけないのではともやもやしてしまいました。 ただ、読み進めるにつれて、この人なりの独特な仕方ではあるが長男や家族を強く愛している事、家族もまた個性的な父と長男を愛し受け入れている事がとても伝わってきます。 混乱、怒り、諦観、苦悩、団欒の楽しさ。他者の無理解と優しさと時に受ける攻撃。理屈を超えた意味不明の出来事。家族と共に歩む日々の中、折にふれて著者が思索を巡らすのがブレイクの詩画です。その神秘的な作品は難解で狂気のような恐ろしさすら感じさせますが、例えば聖書のように、平穏な日常生活を超えた深い悲嘆を抱えた人の心に届くものなのでしょう。その時々の状況や心情とブレイクの詩文が恩寵のように一致して響き合うとき、著者が慰めを感じて安らぐ所に、本当の芸術が持つ力というものを感じ、深く心を揺さぶられました。 共感するのが難しい所や、わからない所も多々あるのですが、食わず嫌いをせずに読んでよかった、何年後かにまた読み返してみたい作品です。 | ||||
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数ある大江健三郎の作品の中でも、面白いのか面白くないのかよくわからない作品の一つのように思う。ブレイクの高踏的な引用と障害児のトンチンカンな(と思える)セリフとなかば自嘲的な語り手による三つ巴のアンチクライマクス。暴力や死(の予感)といったものがテーマにあるようだが、ブレイクの詩と物語との対応の屈折さが、その屈折度合いがかなり強い。 大江健三郎は創作の手法について意識的な作家だが、この作品はかなり実験的なものだと思う。『個人的な体験』への批判を受けてなのかわからないが、本作辺りからアンチクライマクスの手法を確立していくように思うが、この作品の実験的な性質からか読み終わったというような感覚に乏しい。あるいはこの作品は(近代)小説ではないのかもしれない。 その文体は『レインツリーを聴く女たち』と同様に、時に冗長かつ緩慢かつ説明的な擬似私小説風のもので、『取り替え子』や『憂い顔の童子』などの晩年の作品に通ずる。 ブレイクの預言詩とイーヨーによって啓示される「僕」。ここにもやはりグロテスク・リアリズムにおける転倒をみることができるだろう。そのように思うと、障害児との生活が悲劇と喜劇との限りない往復運動であるようにも感じられる(これは文学的創作とも通じるかもしれない)。あるいは若い人にとっては、この作品は陰鬱な小説だと感じられるかもしれない。しかし、作者は「小説のたくらみ」によって作為的な虚像を作り出してもいるだろう(部分的には実際に起こったことを用いているにせよ)。そのような現実と虚構との往復というのも、上のことと対応する。感動というよりも私は脱臼というか肩透かしというかモアレのようなものを感じた。所与のものでやりくりする(それでもって成功する)というのは、フランスというよりも鴎外的な価値観であるように思う。 2023年3月3日に作者大江健三郎は亡くなった。この作品では自分の死後の息子の状況に思いを馳せる場面が度々あり現実の生活を案じてしまうが、推敲を重ね不自然且つ読み難い文体を作り出し屈折し解決の不鮮明な物語を編み出し(これらは「現代音楽」に通じる)社会や家族といったものを相対化する視点を提示しているだろうことから、いわば直情的同情には抑制的であるべきだろうと教えられる点もあると思える。 | ||||
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ついていけない | ||||
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ごめんなさい。初めて読むのを途中で断念しました。 | ||||
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上記の通り。ふと再読しようと思い、現在は日本国外に住んでいるのでKindle版を買おうと思いましたが……。Kindle本セール期間中の価格であっても紙の本よりはるかに高い(それも誤差程度の価格差ではなく、数百円も高い。セール期間じゃなければ電子版が倍以上します)って、どういう価格設定なんですか? 正当な価格設定とは言えないレベルだと思います。 | ||||
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ウィリアム ブレークからの興味で初めて苦手感のある大江作品を読んで見たが、この本を通じてブレークへの興味が拡大していった。自分も住んでいたハンブルクにハンス エッペンドルフが居たことなども今更知って驚いた。記憶と想像力は陰陽だというブレークの思想など自分・大江・ブレークが串刺しでシンクロ出来る。赤裸々な大江の私小説としても深読みが出来る内容だ。ノーベル賞をとってからもなぜか日本ではキワモノ扱いの大江やブレークに陽を当てよう。 | ||||
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列車の中で キンドルで読んでいる。 一気に読ませる。 筆致にも難解さがなく 分かりいいというだけでなく 表題作の前まで 読了したが 大変に感動した。 | ||||
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内容は難しかったけど、お腹いっぱいにはなった。つまりとても良かったと思う。 | ||||
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大江健三郎の作品で初めに読み、三回読んだ。再読・三読させるだけのものがある。ブレイクの作品は、主人公が難所を越えるときの支えになった・・・というあたりは、きづきあきら+サトウナンキのまんが作品『いちごの学校』とも、あわせて読まれるとよいかもしれない。 正直なところ、どうしてここまでこの作品に自分がひきつけられるのか、わかってはいない。しかも、この作品中の父親(主人公)がブレイクの作品に支えられるのと同じようなはたらきすら、僕にこの作品は及ぼした。つまりピンチを切り抜ける助けとなったのである。 (わからないながらもこの作品のしくみをいくらか記してみます。) (1)父親(主人公)の不在・帰還(2)息子の出生時の手術(3)水難(4)禍々しい夢・風雨の中避暑地へ(5)音楽劇(6)誘拐事件(7)息子の不在・帰還 と、七つの連作それぞれに山場(?)がある。主人公や家族にとっての危機が訪れる。緊迫感をもって描かれる。また危機はなんらかのしかたで解消される。第七章にあたる作品で、息子さんはあだ名(『クマのプーさん』からとられたらしい)を卒業する。これは『個人的な体験』のラストで主人公が(父親になることを引き受けることで)あだ名を卒業するのと同じ形である。また第一章にあたる作品と第七章=終章にあたる部分は上に記したように形は似ており、まとまりはよい。 家族間ですら息子さんとコミュニケーションをとる=架橋するのは時にしんどい。心をくめず、苦しむ。むしろそのことは大事なテーマとなっている。 第五章にあたる「魂が星のように降って、あし骨のところへ」から読むのは、ここは(上に記したように)音楽劇を描いていて読後感がよいので、ありかもしれません。 | ||||
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ブレイクの詩を軸に障害を持った息子との共生、再生を描いた作品です。という説明をしてしまうと、氏のどの作品の説明をしているのか判然としないような気がしますが、初めて読んだのが「文学界」等に発表されて間もなく単行本にまとめられた時で、当時高校生だった僕は本書を手に、なにか自分が偉くなったような錯覚に浸った覚えがあります。氏の作品はこの数年後の「懐かしい年への手紙」以降急激に興味を失って読まなくなってしまうのですが、それを僕はこのあたりを境に喩えは適当かわかりませんが、氏の文体が急に物分りがよくなってつまらなくなってしまったことが原因だと思っているので、そういう意味ではデビュー以来、たえず深化を遂げていた氏の文体が最後のピークにあった時期の作品でもあるようにも思います。 しかし、この文芸文庫は値段は割高ですが、この作品のように古本で旧文庫が容易に入手できるものなんかは解説や年譜というオプションを付けたり、文庫になったことすら知らなかったりしたものを出してくれたりとなかなか重宝します。 | ||||
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ブレイクの詩を軸に障害を持った息子との共生、再生を描いた作品です。という説明をしてしまうと、氏のどの作品の説明をしているのか判然としないような気がしますが、初めて読んだのが「文学界」等に発表されて間もなく単行本にまとめられた時で、当時高校生だった僕は本書を手に、なにか自分が偉くなったような錯覚に浸った覚えがあります。氏の作品はこの数年後の「懐かしい年への手紙」以降急激に興味を失って読まなくなってしまうのですが、それを僕はこのあたりを境に喩えは適当かわかりませんが、氏の文体が急に物分りがよくなってつまらなくなってしまったことが原因だと思っているので、そういう意味ではデビュー以来、たえず深化を遂げていた氏の文体が最後のピークにあった時期の作品でもあるようにも思います。 | ||||
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勿論この作品は作家の私生活がある程度素材にはなっているだろうが、それを読む時に過剰に考慮に入れるのは、せっかくの読書を矮小化しはしないか。 この作品は、ある意味では大江とブレイクの共作であると言える。前者が書くのは家族との日常や登場人物の些細な行動、何気ない言葉であり、後者が書くのは幻視によって直感的に捉え得た宗教的・神話的世界だ。一見接点の無さそうな両者だが、大江はそれを作品の中で見事に結び付けている。それは、たとえ何の変哲もない日常生活であろうが、荘厳な超現実的世界であろうが、そこで「生きる」ことには何の違いもない、と大江が考えているからではないだろうか。ブレイクがシリアスな分だけ、イーヨーもシリアスであり、逆にイーヨーがファニーな分だけブレイクもファニーである。美しい傑作。 | ||||
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ご存知の通り、著者には障害を持った息子さんがいらっしゃいます。 そして、その息子さんとの関わりを題材に小説を書いておられます。 この本もそういう本です。 語り手の僕は、息子イーヨーと自らを一体のものとしてとらえてきた。 ところが、ヨーロッパ旅行を終えて帰ってきてみると、そんな息子が「パパは死んでしましました!」と叫び、暴力的な態度をとる。 ここに、僕は新たな危機の到来を予感し、それを乗り越えるためにブレイクを読み、今までの人生をとらえなおして、小説を書き綴ってゆく。 その危機とは、僕自身の死である。 僕が死んだ後、イーヨーは一人取り残され、生きてゆかねばならない。 イーヨーは生きてゆけるのだろうか。 ある日、内に秘めている暴力、性欲を解き放った結果、憎まれ、殺されるのではないか。 僕はそのような恐怖にとらわれるが、それは同時に、少年時に父親を失った僕自身の恐怖でもある。 このような恐れの克服の過程は、一言では言い表せないが、最後にイーヨーは、父親から独立した一人の人間として、「新しい人」として現れてくる。 そして、イーヨーは決して一人ではなく、同じく「新しい人」である弟とともに確実に、強く生きてゆくであろうことがはっきりと伝わってくる。 僕はそれを感じ取った瞬間に、自らが死んだとしても、息子たちが生きることによって、また、自分も一人の「新しい人」として再生しうることを知り、死へ立ち向かう勇気を得る。 難しい小説で、正直なところ、よく分からない部分も多々あったけれど、それでも、読み終わった瞬間に希望が、光り輝くような希望が、胸に満ち溢れるようでした。 | ||||
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イーヨーを中心とした父、母、妹、弟の関係の中で、いくつかの組み合わせのやり取りのある中で、兄妹弟の中でのやり取りが将来に希望のもてる興味深いものでした。妹弟は、両親がイーヨーにかかりっきりになっている感情を抱きながらも、各々の成長も表現されているところが安心しました。 障害をもつ人の自立は、障害をもたない人の自立以上に時間も忍耐もかかるわけですが、それを不器用に試行錯誤しながら奮闘している主人公に心が震えると思います。 本作品では、特にイーヨーの断片的な言葉が効果的で、後半部分ではその登場を楽しみに待ちながら読み進めましたが、これが救いの言葉であったのかもしれません。 | ||||
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テンポのよい連作短編集でありながら、本書には、知的障害をもつ長男イーヨーを中心としたストーリーにしっかりとした展開と暫定的な結末が存在しているので、非常に読み応えがありました。ブレイクの詩からの引用、大江氏の過去の自作からの引用が本書にあったとしても、本書は、大江氏が自分の教養や業績をひけらかすためのものではありません。どの人間の人生も非常に無意味な死へと向かうし、人間は愚かな存在ではあるけれども、それでも、決して無意味ではない死に感応することのできる無垢な魂は再生への希望を宿している。たぶん、大江氏はそういうことが言いたかったのでしょう。笑ってはいけないと思いながらも笑ってしまった個所、思わず泣きそうになった個所がいくつかありました。読後、ぼくもまた、ブレイク、大江氏とともに、「新しい人」の眼ざめをいつまでも辛抱強く信じつづけなければならないと痛切に感じました。 | ||||
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「万延元年・・・」「個人的・・・」に並ぶ、大江氏の代表作品です。 ブレイクの詩作を引用し、それを主人公自身の日常体験をもとに、相互的に解釈してゆく、といった内容の作品です。この作品は、僕としては、知的にコントロールされた文体も難解すぎず、とても充実した読書体験をすることができました。最終章の終わりに綴られた文章は暗記してしまいました。大江氏の作品の中でも、特におすすめします。 | ||||
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「性的人間」「個人的な体験」と最近になって大江健三郎を続けて読んでいます。「個人的な体験」は主人公の周りの悪意のある人たちがいかにも作り物めいていて、被害妄想の肥大した産物という感じだったけれど、今回はそんな印象はなかったです。文化人類学者Yとか作曲家Tとか自決した作家Mさんとか実在の人物を思わせる人が登場して、大江家で実際にこんなことがありました、というふうに話が続き、それはそれは大変でしたね、という感想をこちらも抱きそうになるけれど、事件も人物も本当は想像力でできたものなのだろうなと思います。リアリティがすごい。 難点は、それが嫌なら大江健三郎を読むなといわれそうですが、ブレイクについてあまりに多くを語りすぎだと思います。 | ||||
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