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同時代ゲーム
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同時代ゲームの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.91pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全22件 1~20 1/2ページ
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彼の作品では比較的低評価なようだが、ハードカバーで500ページ弱の書簡体小説の体裁をとり、それだけで意欲的であり、(初めて大江健三郎を読むには適していないだろうけれど)大江のエッセンスが詰まった、あるいは凝縮した小説だと言えるだろう。凝縮しているとは、先鋭化しているとも看做せ、散文文芸上高度な領域にあり、(そうであればこそ)一方では極度に晦渋だとの批判・感想をもたらすのも当然だと思える。 書簡体小説と言えば『若きウェルテルの悩み』や『貧しき人々』といった文豪の若書きの作品という印象がある(『こころ』は晩年の作品だろうが)。この作品では大江の特徴である方法に意識的である点から導き出された形式としてそれが選択され、「僕」が妹のみに語るという一見閉鎖的な形式でありつつも、地理的にも時代的にもまさに縦横に語られるという奇妙な点は文学的な重層性も感じられる。また『万延元年のフットボール』に代表される森・村の神話と『新しい人よ眼ざめよ』へと続く擬似私小説との交錯が見て取れる。また、終盤は子供時代の「僕」の体験によって閉じられる点も彼の特徴である子供の重視(所謂常識への別視点の提示)という特色を示している。 大江は小澤征爾との対談『同じ年に生まれて』のなかで、プロットが小説を動かすのを横の軸だとすれば、小説において比喩は縦に印象を刻みつけるものだ、という旨を述べていたように思い興味深く感じた。もう少し一般化すると比喩などに用いられるイメージの連なり、そのような小説の随所に配置されたイメージ群が作品を視覚化あるいは立体化させると言えるだろう。(これは前掲書で示された訳ではないが)図式的かつ安直な例をあげると、プロットによって人物が変化あるいは詳かになるとともに、その人物描写に関し楽器による比喩を用いるとすれば打楽器から鍵盤楽器さらに木管楽器へと(剛から柔へと)変化するような謂わばイメージシステムを伴うことで文学的な幅が増すと思える。(大江健三郎の作品におけるイメージシステム、といったもので論文が書けるかもしれない。) この作品でのイメージシステムとは何か。対の、二重の、あるいは分身などのダブル・イメージといったものがそれだろう。双子の僕と妹、アポ爺とペリ爺の二人組、谷間と「在」、壊す人と創建者たち、創造者であり破壊者、村と大日本帝国、五十日戦争と大東亜戦争、神話と歴史、書く者と巫女、苦痛と昏倒、父=神主、女型と野球選手、科学と民話、定住家と他所者、大岩塊あるいは黒く硬い土の塊、伝承と夢、路上の馬鹿あるいは気狂い、老人と子ども、など。これらのペアは、対であったり対比であったり並置であったりし同一の関係ではない。これらペアとともに頻繁に述べられるのが、村=国家=小宇宙、であり、後者が包含しつつも各々対等であるような奇妙な関係を示している。これは多義的な伝承とも通じ、翻ってそこから上のペアを眺めるとそれらの関係も多義的なものを孕むのかもしれない、そのような可能性を暗示させる。 この作品も前作『ピンチランナー調書』と同様に『小説の方法』(1978)で示された、ロシア・フォルマリズム(異化の手法)や民俗学(民話・道化・性的表現)やグロテスク・リアリズム(価値転倒・笑い・揶揄・糞尿・性的転倒)や語りの重層性・真偽の曖昧化(逆転)やポサダの版画(民衆芸術)、それらが端々に有機的に埋め込まれているが、それにも関わらず前作とは全く異なる印象を与える。何を書くか、よりも、どのように書くか。このような問題設定は言語芸術よりも(古典的)舞台芸術(パフォーミング・アーツ)が担うものだろうが(事前の検閲から改変しえるオンタイムでの芸術である故)、時代性や政治性において鋭敏な作者においては合奏や踊りや祭りや斉唱といった(スポーツも含まれるかもしれない)舞台芸術に由来するだろう挿話が語られる。情報媒体が拡充した現在の間接民主制(代表制 representative )からその歴史を顧みれば、舞台芸術の空間とは、直接民主制の空間とも言えるだろう。個人的には、そのような発展・解放の展望をもたらす作品のように思う。 始まりがあり終わりがある、というような単線的(リニアな)物語、神話、歴史、という観点と、現在と直接・間接の様々な過去。それとともに、メキシコ、東独、東京、四国、ニューヨーク、サンフランシスコ、大阪、と言及される点在する地域。また、人的関係においても、(異国での)異邦人、同僚、党派、同郷、地縁、血縁、といった(愛憎も含む)多様な関係。さらに、生と死との物語であるとともに、開拓と追放の物語とも読める。また、読み通した後に冒頭を再読すると、上に述べたように物語は一般に単線的形式を用いるが作者の言葉によれば、この作品は「夢の輪にとじこめるように描」かれていることに気づく。反語的・重層的小説だと言っていいように思う。 | ||||
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四国の山中に伝わる村独自の神話と歴史を、主人公が、妹への手紙として書き記していく。この過程で様々な出来事が、伝承なのか妄想なのか、はたまた現実のことなのか判然としない形で提示される。登場人物達に感情移入することが難しく、最初は違和感しか感じなかったが、読み進むうちに、何か大きなものに飲み込まれていくような気持ちになっていった。良い作品なのか判断する能力は私には無いが、これまで経験したことのない稀有な読書体験をさせてもらった。 | ||||
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難解な本とのコメントがあり断念覚悟で読み始めましたが、第二章以降は物語にぐいぐい引き込まれました。 四国の山中に創られた共同体(国家)の神話と歴史が、非常に長い六つの長い手紙の形をとって繰り広げられます。 メキシコから日本やアメリカ、江戸時代から戦中、現代、語られる話はどれも荒唐無稽なのに、ありうることのように思わされてしまう魔術的な力強さに溢れています。 森の中の異界というモチーフは他の作家さん達も取り上げていますが、現実の世界と折り合いをつけて描き出す筆力はさすがと思いました。 言語、国家、家族についての考えも刺激させられました。 「百年の孤独」や「緑の家」、あるいは「ドグラマグラ」なんかが好みの方はいい読書ができるのではないでしょうか。 | ||||
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1時間くらい読みましたが 私には難解すぎるようで諦めました | ||||
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"そうだとすれば、その眼はそれらほとんど無限に近い空間×時間のユニットのなかからゲームのように任意の現実を選びとって、人類史をどのようにも組みかえることができよう・・"1979年に発刊され賛否の起きた本書は著者の一つの集大成的な魅力が難解さと娯楽さの中で両立していて興味深い。 個人的には、とは言え、本書は【主人公から妹への手紙】として各章が構成されているわけですが、唐突に(おそらく意図的に)矢継早に語られる【冒頭のあまりの読み難さ】に小林秀雄曰く"2ページで読みのをやめた"といったのと同種の不安が私にも早くも起きかけたのですが。 兎にも角にも中盤まで読み進めて、江戸末期以降から現在にかけて辺りからは急に明瞭となり"戦史(歴史)もの""スポーツ""青(性?)春ドラマ"といった様々な文学的要素が【複雑にミックスされた娯楽性】が楽しめました。 一方で、本書の軸となっている主人公たちの故郷である四国の山奥に位置する谷間の村の独自の神話と歴史【村=国家=小宇宙】からは、近代社会によって、書き換えられる前の【異質で原初的な、神話的世界】が中央(国家)と周縁(村)といった対比で【破壊(死)と再生】【アジールとしての森】【壊すものと育てるもの】といった要素で虚実織り交ぜた様々なメタファーと共に語られていて刺激的でした。 確かに前述した前半部分の難解さ、加えて語り部たる主人公の共感しにくい立ち位置、また幻想的な部分もあるが、やや生々しく頻出する性描写と、読む人を選ぶであろう部分もたくさんある様にも感じましたが、個人的には流石だな?と脱帽するかのような読後感でした。 【百年の孤独】の様な、家族を描きながら神話に挑む様なスケールの大きな意欲作好きな誰かに、また柳田國男的な民俗学好きな誰かにオススメ。 | ||||
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作品自体は良いけれども、届いてきた本の状態はひどい。 新品だといいつつも、僕がもらった品は、なんと平成18年印刷の、日焼けがすごく目立つもの。新潮文庫の紙質のせいかもしれないが、Amazonから買った「可」と評価された中古品の「万延元年」よりも使われきった感じがする。 | ||||
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世評に反して、私は冒頭と終盤の主人公(語り部)の家族について書かれた部分が面白く、中盤の神話部分は面白くなかった。 大江健三郎の地元の四国の話らしいので、「お前はまだグンマを」とか「翔んで埼玉」とか、地方物の嚆矢なのだろうか。 | ||||
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裏表紙が少し欠けている、本自体が曲げられた状態で保管されていたような違和感。 読むことに支障はないが、もうここでは買わない。 | ||||
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当時は話題になり、けっこう毀誉褒貶あったらしいが、実際に読むと普通である。大江の魅力はややこしい文章にもあるが、実はストーリーテリングの巧みさもあって、このようなファンタジーもそれなりに読ませる力がある。が、『万延元年のフットボール』などの衝撃には及ばない。 | ||||
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大江健三郎さんの作品を読むのは久しぶりになる。学生時代は短編集などの凄みに圧倒されたものだ。そして『万延元年のフットボール』の圧倒的な迫力には相当な感銘を受けた記憶が鮮明だ。 さて本作だが、結論からいうとあまり面白くはない。著者の熱心な読者ではないのだが、活動後半期には文章が悪文になり、その事でかなり批判をされていたが、そうなる前の貴重な作品だと思う。 冒頭のメキシコの件は何の事かわけがわからず、「何のこっちゃい?」と感じていた。だが、読み進めていくとこれは村落共同体と近代化の軋轢ではないかと読めてきた。特に『村』と『大日本帝国軍』との戦争は、近代化に取り込まれず、過去から連綿と続いてきた村落の神話性を死守しようとする村落側からの抵抗と読めるのではないか? 本書で展開されるテーマは大きい。『森』は著者の作品にかなりの頻度で頻出するモチーフだ。大江さんの昨今の作品はほとんど読んでいない為、いつから『森』が作品のコアを占めるようになったのかは知らない。 だが、ラストの主人公の子供時代の森の中での彷徨は圧巻だった。それは『壊す人』とその再生を狙う旅のように思えた。 ただ、幾つかのレビューにも散見されるよう、全体のストーリテリングが冗漫で、観念的な描写が多少読みずらい。 しかし、僕は本書のラストに心の高揚を覚えた。 ストーリテリングが冗漫で、無条件に面白いとは言えない作品だという事は否定しない。だが、本書は人間の根源に迫るテーマを描いた逸品であり、著者は剛腕で本作を普遍の地平へと導く。 結論として---執拗なのだが---無条件に面白い小説ではないのでその点を引いて星四つなのだが、本書に潜在している深いコアと貴重なテーマを伺い知るためにも、一読する価値のある大力作だと思う。 | ||||
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日本史上、二人目となるノーベル賞作家、大江健三郎さんの大長編小説です。 他のレビュアーさんの中には、読みにくいとおっしゃっている方もいますが、それは最初の10ページ、20ページほどのことで、本題の『手紙』の章に入るやいなや、怒涛の物語がはじまります。 (『個人的な体験』や『飼育』などの実存主義文学の時代からは考えられないほど、超エンタメ級のストーリーが展開されます) 物語は、主人公が数百年に渡る自分の産まれた村の歴史と神話を妹への手紙の形で語り、分析していくという形で、途方もない時間と規模を描いてゆきます。 巻末の四方田犬彦さんの解説でもあるように、この作品はレヴィ・ストロースなどの文化人類学や神話分析理論が縦横無尽に駆使され、大江さんは、自ら創造した架空の『創世神話』を自ら分析するという、一種の大江流メタ文学を提示しています。 これだけで、圧倒的なはなれ業ではないでしょうか? しかもストーリー自体もガルシア・マルケスやカルペンティエールのような、まるで魔術のようなドラマを矢継ぎ早に繰り出してきます。 (特に、村vs日本陸軍の戦いの章があまりに凄まじく、私は読むのを止めることができませんでした) 一方で、もしこの作品を難解だと感じた方は、山口昌男さんの新書『文化人類学への招待』やレヴィ・ストロースの著作(『やきもち焼きの土器作り』がわかりやすくて名著!)などを読んでから再読すると、喉のつっかえみたいなのがすんなり取れて納得出来ると思います。 もっとも、難しく考えずに一気読みするほうが、かえって楽しめると私は思います。 超エンタメ作家の大江健三郎さんが、ここにいます。 | ||||
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発刊後すぐに読んだので、三十数年ぶりに再読したことになる。 まず、感じたことは、直接の影響を受けないように注意しようということだ。私は、盗作者を激しく軽蔑し憎みさえする。直接の被害さえ受けた。従って、盗作者と受け取られかねない語句や文章を書かないように細心の注意を払ってきた。大江のこの作品も同様の注意の対象だ。もっとも、全集あるいは著作集を全て読んだ日本人作家十名ほどの中に、大江は入っているので、彼の影響はぬぐえないし、私に肉化している部分さえある。たとえば、連載中のネヴァーランドにおいて、集団が川を遡り上流に定住するという構想はこの作品からヒントを得ているだろう。しかし、そこ以外は、類似する所は自分ではないと思っている。そもそも、小説の形式と、その内容と、双方とも、その神話化に、私は真っ向から対立する立場をとっている。大江は後に構造論的な知のもろもろがこの小説に流入したという意味のことを書いている。私は、構造論、構造主義にも対立する。学生時代、あからさまな構造主義的教育を受け、大いに反発したという思い出もある。森毅が、典型的な構造主義的教科書であるブルバキ叢書について、詳しく自らの体験したところを書いている。森はブルバキの翻訳者の一人でもあるが、耽溺することなく、ブルバキは整理整頓はしたものの、新たなものは何も生み出さなかった、とクールに総括していた。事は数学に限らず、例えば、悲しき熱帯の悪名(?)高い親族関係の構造分析なども、私は整理整頓のための体裁のように思ったものだ。 さて、大江は、この作品自体を異化しようとたくらみ、M/Tと森のフシギの物語を書いたという。私は、M/Tを読んだ時、これは、同時代ゲームを子供向けに書き直したのかと思った。同時代ゲームは、七編の中篇を、一編を落として、長編に組み上げた作品である。確かに整合性とつじつま合わせに苦労した結果らしい文章も散見されるが、その過程で、大江は、みずからの作品を批評し、自己批判し、異化でもって応じた。同時代ゲームという作品自体が、分散した中篇内部での異化の後、長編への組み上げにおける第二の異化を経て成立したのだ。したがって、M/Tは必要がなかった。同時代ゲームそのものが異化につぐ異化の産物であるのだから。 神話あるいは構造と、それにいかにも見合うキャラクター設定を批判することはできるが、充分な異化の複合連鎖の結果出現した大迫力を持つこの傑作は、その種の批判をなぎ倒してしまう。 | ||||
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この作品は全てにおいて抽象的である。そして抽象的なもの、つまり実際には永遠にわからることの無い境地を、どこまでも写実的に描いている。 物語の舞台となる「村=国家=小宇宙」は、おそらく何かのメタファーになっているのだろうという事実のみはわかる。しかし、その何かとは何かが、読者には永遠にわからない。どの文芸評論家でもわかったという人物はいなかった。わからないことを忌避する人はたくさんいる。大江健三郎の作品は未来には読まれることがないだろうという憶測があるのは、大江が悪いのではなく、読者が、わからないというものから逃げるということから来ていると思う。 わからないならわからないなりに考えればよい。私は大江作品を読んだのはこれが初めてであるが、「村=国家=小宇宙」や「壊す人」や「メイスケサン」などが登場する作品はまだまだあるらしい。個人的には最終章の宇宙から来る塊と言語についての挿話が気になった。読書なんてものは、そんな感じでいいのではないだろうか? 大江健三郎には小説家としては行き過ぎなぐらい政治的発言が多い。それを左翼だとか反日だとかいう、いわゆるポジショニングトークで位置づけようとする人もいる。確かに大江は戦後民主主義者を自認しているのだ。ただ、悪を悪と自認しない者こそが本当の悪なのではないか。そうした場合、脳足りんのネトウヨさん達は前提の時点で大江に敵うことはなく、つまり同じフィールドに立てることは無い。 その根拠はある。この本である。この本でもいわゆる「自虐史観」的な価値観が垣間見える箇所が、おもに「五十日戦争」と呼ばれる章に点在している。ただ、語り手である「僕」はあくまで当事者ではないのである。それはまるで大江の世代のコンプレックスを表しているような気がしてならない。戦争が身近にありながら戦争に関わることが永久に無いというコンプレックスであろう。 安部公房は、戦時中にすでに一つの己の秩序が形成され、それが終戦と共に全て否定された為、あのように「なにものでもない自分」を目指し、全てが否定され全てから解放されるのを目的とした。一方その一つ後の世代である大江の場合は、急速な戦後民主主義教育によって形作られた、ガッチリとした秩序の元から、それを肯定しながらも超越しようとしているのだ。その超越の根本に肯定があるから、ポジショニングトークに於いては左と目されてしまうのではないだろうか。安部の『壁』が芥川賞を受賞した時の選評として、宇野浩二が、 〈写実的なところなどは、ほとんど、まったく、ない。〉 と書き、また大江の『死者の奢り』が芥川賞候補になったとき宇野は、 〈人間というものが殆ど書かれていない〉 と書いている。しかし思うに安部や大江は、現実として事物にないものを写実的に書いているのではないだろうか。 少し話は変わるが、この本は歴史というものが書かれている。それもまた象徴的なものなのだが、古代から、歴史を書くということは、実は事実に象徴的な考察を加えて書かれていることが多い。古代の歴史書には大概神話というものから始まるというがそれを表している。つまり、物理や科学を歴史の中で否定しているという面では、この作品を読み始めて2ページで投げ出した小林秀雄と変わらないのではないだろうか。 これを見るに、昨今現実主義者達が「保守」を名乗っているが、現実を見て現実を変えようとしている面では、解放を目指した安部公房のようなリベラルとまるきり同じである。真の保守とは、夢想したその概念に生命を捧げることができる人間なのだろう。となると、この『同時代ゲーム』ではある意味保守的な啓発をしているの本なのかもしれない。これは大江の意図したものだとは思えないのである。 長い長い旅路のような読書であった。一ヶ月くらいかかってようやく読み終えた。これは凄まじいものである。しかし一回読み始めると止まらなくなるぐらい面白い。長い時間、深く物事を考える余裕のある人には是非オススメしたい。 | ||||
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約45年前に読みかけで挫折した本書を今回読了しました。 途中まで読んだ時の印象の種が発芽して、また読みたくなったのだと思います。 次にまた読む日が来るような気がします。 そのように発酵させながら浸透する読書の楽しみを与えてくれる作品です。 | ||||
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非常に読みにくい作品です。前半はあまりよくわからない。後半すぎからなんとなくわかりかけ、最後まで読むと霧がはれ、全容が見えてきます。大江作品は難しいと聞いていましたが、M/Tを読んでからゲームを読んだのてすが、M/Tのほうがま だ読み やすく、読後感もよかった。ゲームはひたすら我慢して読まないと最後まで辿り着けないくらい難しい。ただ、6割くらい読むと内容に引き付けられてどんどん読んでいけます。くじけそうでも最後まで読んでみて初めて、この作品の良さがわかり、達成感もあじわえます。短編と違って長編はとにかく難しく、読みにくい。苦労して読まないと最後の独特な読後感もあじわえません。これが大江作品の良さなのかも?独特の味のある、まか不思議な作品です。一度読んでみてください。おすすめします。 | ||||
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ある集落を追放された人々が、四国の山奥に小国家を創造した。外来者どうしの両親から生まれた「僕」が、双生児の妹へと向けて書簡の形式でしたためた、《村=国家=小宇宙》の神話と歴史のすべて。 どの語がどの語にかかっているのかわかりづらい、英文を逐語訳したような独特の文章で綴られる、現代におけるあまたのエピソード。そのそれぞれが僕の記憶と結びついて《村=国家=小宇宙》の神話や歴史を語らせる つまりは日本の中にあるもう一つの小国家の創建以降の伝承を語った物語。その意味で小説内において一つの国家を造りあげるような試みを作者は行なっている。それだけでも、まずはこの厖大な想像力に敬服する。 また、場所・時間が複雑に交差し合うエピソード群を読み終えたのち見えてくる、歴史のパースペクティブが無意味なものとなるような《村=国家=小宇宙》の超越的な有り様は、新鮮な読書体験を提供してくれるだろう。 | ||||
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伊坂幸太郎氏「夜の国のクーパー」の"あとがき"で本作に触れていたので手に取ったのだが、長いだけの恐ろしく退屈な物語だった。私は我慢して最後まで読んだが、途中で(それも早い段階で)放り出してしまう方も多いのではないか。「死と再生」及び「現実の捉え方」をテーマにしている様だが、SF世界の「多次元宇宙」と言ってしまえば済む話である(その意味で最後の50頁程度あれば充分の内容)。また、主人公の出身地を四国にしているが、これは「四国=死国」と読み換えた某女流作家と同一レベルの発想である。 これに加え、神話の再構成、吉本隆明氏「共同幻想論」を想起させる国家の成立過程及び国家と個人との関係、天皇制、宇宙・再生の象徴としての子宮、(大東亜)戦争の愚、共産主義革命、主人公の双子の妹へと愛を初めとする様々な禁忌などを採り上げているが、何一つとして目新しいものはない。 また、物語の構成手法及び文体共に拙い。特に、文章の下手さ加減は目を覆いたくなる程で、作家としての資質が疑われる。更に、科学的論考を軽視している節がある。作中で地球型人間は宇宙の中に無限に存在すると述べているが噴飯物である。学者によって具体値は異なるが、地球型惑星の数は全宇宙で1000〜3000というのが定説である。吉本隆明氏言う所の「猿になる」行為を、作者は現在行なっている訳だが、その萌芽が本作からも窺える。作者の思想の幼なさと作家としての資質の欠如とが如実に出た作品と言えるのではないか。 | ||||
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これほど読みにくい本はない。大江健三郎の文章はそもそも読みにくいのだが、英語を直訳したかのような生硬な文体は大江の他の小説よりもさらに顕著であるような気がする。さらに、「壊す人」「村=国家=小宇宙」といったキーワードで表される独特の世界観が何の解説も無しに本の冒頭から展開される。しかも、最後まで読み進めないとこの世界観を理解することができない。本書は大部ということもあり、本書を手に取って読破したのはごくわずかなのではないだろうか。 ただ、辛抱して読み進めると次第に物語に引き込まれて行く。特に半ば以降からは、登場人物や「村=国家=小宇宙」の歴史が暴かれ、目が離せなくなる。6つの手紙によって物語を作るという手法、複数の時代を混然と提示しつつ物語を進めて行く手法、メキシコ、四国、東京、ハワイと舞台を目まぐるしく変えることで物語の普遍性を高める手法が本書ではとられており、大江が前衛的な現代文学の手法に対して貪欲だったことが良く分かる。読破すると、世界観の壮大さに圧倒されてしまう。ここまで壮大な世界観を表現した文学作品はそうないだろう。読み手を選んでしまう小説だが、間違いなく世界最高峰のレベルに達している作品だと思う。 | ||||
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はじめは「壊す人」が、たとえば神だとしても人のかたちをしているのか、というレベルにおいてすらイメージできず苦戦しましたが、そのうちぐいぐい引き込まれます。 こういう作品は世界中を探しても珍しいと思います。 次はチェンジリングを読みます。 | ||||
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読み始めると、風呂の中でも読み、二日三日で読み通した。 (次に記すことは、読んでからかなりたち、頭の中が整理されてから思い着いたことです。 )この作品では「壊す人」という神さまと言える存在が出てくる。 物語の中での役割は、『指輪物語』の、動く森(あるいは意志をもち動く木々)、『もののけ姫』のシシ神様とも重なる。 どちらかの作品に接した方は、これらの神(あるいは精霊)のイメージを手がかりに『同時代ゲーム』の世界に入っていく、という道筋がありうるかもしれない。 いったん物語の世界に入ったなら、きっとはまるでしょう。 | ||||
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