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国宝
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国宝の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.37pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全144件 141~144 8/8ページ
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400年にわたって、その時代ごとの生き血を吸いながら生きながらえ、成長してきた歌舞伎。 入ってしまえば、二度と出てくることができない魔窟のようだ。 作中の幹部役者のあるセリフに「朝から晩まで、こいつは舞台のことしか頭にねえんだぞ。お前が病気したって、いくら苦しくたって、いくら泣いてすがったって、こいつは舞台に上がるんだよ」という言葉がある。 そもそも、この「俳優」という奇妙な業を抱えた職業人たちは、いったいなんなのか。 他人が書いた言葉をずらずらと覚え、それを口から発し、観ている者を感動させるという奇妙な行為で食っているやつらは、いったいなんなのか。何を目的にしているのか。 歌舞伎ではないが、現代における最高の名優の一人である山崎努は、演じることは「自己発見」の物語だと言っている。 演出家の蜷川幸雄は演技において「ありえたかもしれない、もう一つの自分の生を生きる」と言っていた。 役の先には自分という人間があり、生きる意味や、人生そのものを見つめ直す、というのが「現代の演技」なのかもしれないが、歌舞伎には「自分」というものが、必要ないのかもしれない。 本作の途中、名声をほしいままにした名女形の万菊が全てを捨てて行方をくらました先で暮らしたドヤ街で語った「ここにゃ美しいもんが一つもないだろ。妙に落ち着くんだよ。なんだか、ほっとすんのよ。もういいんだよ、って誰かに言ってもらったみたいでさ。」という言葉が胸を打つ。芸を極め抜くということは「自分」を空っぽにして偉大なるモノ(something great)に身体を譲り渡す作業だ。 万菊には、誰も到達しえない偉大なる芸に手が届く才能があった。しかし「人間」であるうちは、当たり前だが、自分というものは手放せない。その苦しみ故の「万菊出奔」だったのではなかろうか。 一方、本作の下巻も終わりに至ると、主人公の喜久雄を「狂っている」と表現する人間が出てくる。しかし、その狂人を、お客が、いや歌舞伎そのものが求めているのだという。その頃の喜久雄には、もはや「自分」というものが邪魔になっている。 万菊が、かつて喜久雄に稽古をつけた際に放った「あの人は良くも悪くも人形みたいだ」という言葉が、紙数も残りわずかになったところで読者の脳裏によぎる。「良くも悪くも・・・」ここに芸に殉じる人間の業がある。 空っぽの人形になって、そこに役を注ぎ込む。喜久雄にとって、それがたまらなく幸福であり「幕が閉じることが怖い。一生舞台に立っていたい」という。しかし、それは人間を捨て、狂人になることである。 その一線を超えることができるかどうかが、万菊と喜久雄との決定的な違いであった。 そしてラスト、喜久雄、いや三代目花井半二郎は、前人未到の芸域に到達する。 至高の芸域に達した最晩年の半二郎の絢爛にして透徹した描写は必読。 そして、その後、幕は降りたのだろうか。喜久雄は俳優としての幸福をまっとうできたのだろうか。 ぜひ(目撃ならぬ)読撃してほしい。 人生の浮き沈み、嫉妬と愛欲を乗り越えて芸の頂にのぼりつめた喜久雄の姿は、 たとえば、そこに全てがあるようで、実は、何もない 真冬の夜に、ぽっかりと浮かぶ真っ白な満月のようなものだと思った。 長崎生まれのヤクザの息子が、至高の芸を極めるまでの、昭和平成にかけての一代記。 | ||||
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下巻の「花道篇」は、理不尽ないじめや、あることないことを書き立てるマスコミにも耐え、どこか陰のある雰囲気が美しい容姿と相まって、まさに完熟の域に達した、喜久雄30代半ばから、還暦を迎え、遂に頂点に登りつめ国宝となった先までの物語です。 しかし、喜久雄の人生は、歓喜に包まれた栄光をつかんだかと思いきや、それもつかの間、これでもかと何度も絶望に突き落とされ世間のバッシングにあい、それでもまたそこから這い上がるという運命の繰り返し。 上手くなりたいとの一心で、全力で技を磨き、道を究めようとするあまり、一人究極の世界に突き進む喜久雄。 喜久雄が求めていた世界にたどり着いたとき、その完璧な芸の世界を超えてしまったとき、喜久雄が見る世界は果たしていかなるものなのか。 道を究めた者しか見れない世界、それは常人の価値観からすると尋常ならざる世界、狂気の世界、もしくは生を超越した世界なのかもしれません。 しかし、その者にしか見ることのできない世界にたどり着いた本人にとっては、まさに至福の時なのかもしれません。 本書は、喜久雄の数十年間にわたる人生を凝縮した物語ですので、章が進むたびに数年が進み、多少駆け足に感じる点がないでもありませんが、読後感はズシリと重いものがあります。 そんな中、下巻でも徳次の行動が渋いです。 特に、喜久雄の娘を助けるため、暴力団事務所でのセリフがとても良い。 「兄弟の盃かわしたんが、あいにくの色男。しゃーないですわ」 | ||||
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主人公と、15歳から兄弟のような関係の俊ぼん、師匠であり養父のようなその父、地元で子どもの時から忠実に世話をする徳次など、男と男の関係は美しく、リアルに描かれているといえる。その関係は確かに心を打つ。 しかし、母親を除いて、主人公の子供を産む市駒、娘の綾乃、妻となる彰子などは、主人公の都合よく動くお人形のようで、性格描写に一貫性がない。最初は存在感があったのに、途中で急にその他大勢の役割に変わってしまう。ここで作品の魅力が半減している。 このような現象はほかの作家でもあり、私は「キャッチボール小説」と名付けている。おそらく、作者の男性の女性観が現われたものと思う。 | ||||
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のっけから申し訳ないのだが著者の作品はいくつか読んだものの正直「悪人」以外はいまいちピンと来なかった。が、本作は歌舞伎座皆勤賞の私としては外せないので発売日に購入、即読了。 最終的には実力が物を言うと言いつつも世襲が軸になる歌舞伎の世界に血縁無く大名跡の部屋子として飛び込んだ主人公・喜久雄。その大名跡の御曹司・俊介と鎬を削り高みを目指す。 芸を極めることと家・血の継承。歌舞伎を愛し、人生の激しい浮き沈みを乗り越えて芸の道に精進する内、二人は愛した歌舞伎に埋没・自身を磨き、ともすれば摩滅させて終いには歌舞伎と一体化・同化して行くような迫力の筆致。中途で巻を措く能わず。 四百年の間、人々を魅了し続けてきた歌舞伎の魅力・魔力は、何人もの役者・喜久雄や俊介を食い尽くし、咀嚼・消化することで育まれてきたかのような錯覚を覚えた。これこそが歌舞伎の「業」なのだろうか。 登場する役者は全て架空ではあるが、随所に散りばめられる歌舞伎の人気演目名場面を演じる彼らの描写はまるで歌舞伎座の舞台を見物しているよう。著者は執筆にあたり、役者の中村鴈治郎の知遇を得て三年間歌舞伎漬けの日々であった由でこの完成度は納得。 因みに作中の興行会社「三友」のモデルは松竹。そう、歌舞伎は上場会社が仕切る純然たるビジネスであり、文化の継承だけでなく利益を上げなければ継続できない宿命を持つ。裏返せば四百年間、そうして生き続けてきたと言うこと。本作の「三友」にも歌舞伎を続けて来られた松竹のノウハウ・冷徹さを垣間見ることが出来る。 個人的には著者の最高傑作ではないかと思う。 | ||||
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