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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全388件 321~340 17/20ページ
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彼は自分の宣教師としての人生(そしてそれは彼の人生の全てだった)を全否定する という究極の挫折の象徴である踏み絵を行った時に イエスの究極の愛を始めて体験することができた。パラドックスだが、それは キリスト教でもっとも大切なことかもしれない。 旧約聖書にすでにこういう記述がある。 「主(神)は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。 」 遠藤周作はイエスを「奇跡を行えなかった人」と彼の数々の著書の中でも 書いていて、それは論争になっている。 しかし受難の中、圧倒的多数の人に蔑まれ、痛めつけられ、裏切られ、誤解されても 何も言い返さなかったばかりか、最後の最期まで神に彼らの罪の赦しを嘆願した イエスの、この聖性と慈愛が完全に両立された人格の持ち主が、人間の全てのmessを 背負おうと、人間の無知と暴力にただ従ったことこそ最大の奇跡に思える。 彼は人生の中で奇跡を数多く「行えなかった」のではなくあえて 「行わなかった」のではないか。 人の目を奇跡に向かわせるよりも、魚くさい貧しい村人の様な人の生活のmess、 宣教師の踏み絵行為であり、キチジローの裏切り行為でもある人の内面のmess の中にイエス様が裸一貫で入ってきて寄り添い続けたという とんでもない慈愛に気付いて、応えて欲しかったのではないか。 このような人の全ての暗い部分の一つ残らずを自分の苦しみとして どこまでも共に負い、時には身代わりになってくれる存在にどれだけ多くの人が 救われてきたのだろう? | ||||
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高校生の時に読んで以来、久し振りに読みました。 内容的には覚えていたものの、小説の構成など全く予想外のものでした。それだけ、当時は内容に圧倒されてしまっていたのでしょう。 歴史書のような「まえがき」から始まって、主人公の書簡の形式、そして客観的な観察の文章と、その構成が徐々に変わってゆきます。 この主観と客観の間の押したり引いたりのころ合いが絶妙で、非常に重たいテーマ(「神の不在」)を受け入れやすくしているように思います。つまり、テーマよりも物語の進行、なりゆきに、より関心が移るように上手く構成されているように思います。そうでないと、このように重いテーマですので、なかなか一気に読みとおすということが難しいと思います。 内容は、タイトルが「沈黙」と言う通り、「神の沈黙」(「神の不在」)です。 作品中、主人公のロドリゴが、何度も「主よ、あなたは何故、黙っておられるのです。」と呟きます。 これだけの切支丹の弾圧がありながら、民衆の苦しみを救えない自分のもどかしさ、宗教の無力感、それは自分が信じてきたキリスト教への疑問です。 この本は、最初から最後まで、ロドリゴのこうした「神の沈黙」に対する心の動揺を延々と描いています。それでいながら、全く退屈せず一気に読ませてしまうのは、作者の筆の力でしょう。 | ||||
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農民たちが迫害にさらされている間ずっと沈黙を守り続けていたくせに、ロドリゴが踏み絵を踏む瀬戸際になって 「踏むがいい。…私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」 などとのたまうことに相当な違和感があります。 そして、五本の足指が愛するものの顔の真上を覆った瞬間、この激しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかったとありますが、ホント、人というのは、とどのつまり何でも自分に都合よく解釈する不思議な思考回路をしているもんだな…と。 信仰というのは、その結果が明確な現証として顕現しなけりゃ意味がないと思ってますので、信仰ゆえの苦難に沈黙するでしかない無慈悲かつ非力な神に怒りが込み上げ、やはりキリスト教の教義など絵に描いた餅でしかないと改めて認識した次第。 もちろん、物語の主題はもっと深いところにあると思いますので、改めて読み返し、自分なりの思索を重ねたいと思います。 | ||||
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この本は、 「神の沈黙」‥ 神はなぜ黙っているのか が書かれているように見えて‥‥ 本当は 「キリストの愛」‥ キリスト・イエスが、いかに人間を愛しているか が書かれた本のように思います 主が沈黙していると思い苦悩する主人公に キリストは、 「私はお前たちを見捨てはせぬ」と言い 共に苦しんでいたと話します 最後には 踏み絵を前にした主人公に対して 「踏むがいい」 「私はお前達のその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」 と言います キリストは沈黙しているかに見えて、 深い愛を持って人を愛し、 常に人と共にいて、苦しんだり悲しんだりしているのだ‥と 読み解く事ができます。 ただ‥ 遠藤周作は、 この深い「キリストの愛」は、 もしかすると‥ 主人公のように「苦難」を通さなければ 人間には、見る‥感じる‥知る事ができないものでは無いか‥ という、重いテーマを 読者に投げかけているように思うのです 但し、それで終わりではなく 最後には主人公が キリストへの新しい愛の形を見つけたように、 人間は苦難を通して 「キリストの愛」を知った時、 キリストとの新しい関係が始まる と言う事も、 遠藤周作は書きたかったのではないでしょうか いや 主が遠藤周作に 書かせたかったのかもしれません‥ だとすれば この本は、 私達が弱くて、どのような苦難にあっても、 他の人に捨てられ苦しめられても 逆に自分が愛した者を裏切り絶望の中にあっても、 一筋の光がさす事を教えてくれる 「希望の書」 ではないでしょうか (すべて彼を信じる者は、失望に終る事がない。新約聖書ローマ10ー11) ※何故キリストがそこまで人を愛しているのか? キチジローはどうなるのか? 拷問され死んで行ったキリシタンは無駄死にか? と疑問を感じた方は、近所の教会で神父や牧師に聞いてみて下さい | ||||
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私が小学生のとき、オウムのサリン事件がTVのどのチャンネルでも流れていた。 「宗教って怖いものなの?」そういう問いが、無条件に肯定されそうな、そんな空気だった。 人を殺すことを、「良いこと」と言える考えってなに? いったい、「信仰」とか「宗教」ってなに? 私は、宗教というものが不思議でたまらなかった。 仏教の本、イスラーム解説本、新・旧の聖書、道端で配られる現代宗教の冊子…手に入るものを、読み続けた。 でも、わからない。どの本も、みな同じことを言っているのに、どれも互いを否定する。 そして、高校生の時にこの本に出会った。 宣教師が見たモノはいったいなんだったのか?神などというものは、存在するのか? 「信仰すること」「信仰している人」について、この本は鮮やかに私に提示してくれた。 けして謎が解けたわけではないけれど、ここから私は社会学と宗教学に興味を持つようになった。 社会学、国際社会学を学ぶ学生、宗教学を学ぶ学生は一読した方がいいと思う。 文字だけの存在だった、「信仰者」たちに、きっとこの本で触れることができるから。 | ||||
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鎖国した日本において、キリスト教を拡めようとした司教の物語です。 信仰心と慈悲の間で揺れ動く人間の心模様が印象的です。 かくも生真面目な生き方は現代的ではありませんが、ちょっと昔の生き方としてはある意味、共感します。 | ||||
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この本を初めて読んだのは高校生の時でした。 吸い込まれるように読んだ記憶があります。 「信じる」とは何なのか。 「信じる」ことによって人は救われるのか? 戦争には,その背景に宗教観の問題も含まれています。 人間が神によって生かされているのであれば,なぜ,戦争なんてするのでしょう? 神とは「自分こそが正しい」ことを武力をもって照明するような人間くさい存在なのでしょうか? この本は,「信じる」ということの深さをまざまざと見せ付けてくれる一冊です。 私は誰かを信じぬけるのか? 恋に迷った時に読んでみるにもお勧めの一冊です。 また,この本を片手に長崎を旅してほしい。 外海から長崎市内へ海を眺めながら旅してほしい。 | ||||
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重い。重いです。実在の人物をモデルに書かれた小説。 時は江戸時代、島原の乱が鎮圧されて間もない頃。日本に潜入したポルトガル司祭ロドリゴは背教を迫られる… 私は171ページと191ページの言葉が印象的でした。気になった人は読んでみよう!(笑) キチジローがキーマンです。 本書と対をなす『死海のほとり』を読むと理解が深まる。 | ||||
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主人公と一体になって、読み手のわたしも苦しんだ。 読後、10年以上が経過したのに、 この小説を思い出すと、いまでも胸が痛む。 こういう作品を、真の名作と呼ぶのだと思う。 | ||||
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キリスト教弾圧下におかれた時代のお話。神を崇めて命を落とす人々。遠藤氏はクリスチャンであり、踏み絵については他の作品でもよく触れておられる。 どうしょうもない中で一筋の光を見出す点に人間の尊さがあると訴える作品。神の沈黙とは、本来絶望か?ご加護か・・・。悲惨な経験の元にも神を信じる人々の信念と絶対的な忠誠心。いつまで沈黙を続けるのかと、最後は涙がとまならない。 私はこの作品に出会ったことが、生きていて良かったとも思えるほどの経験だった。それほどインパクトが強く脳裏から離れない。終始暗い、重く苦しい雰囲気で淡々と物語は進むが、最後はなぜか生きたい、もっと強くありたいと、じわじわとこちらが勇気を与えられる。 ただ、神の存在自体を「母」と表現する多くの日本人には、理解できない点もあるだろう。キリスト教についても一考するきっかけとなる。 | ||||
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軽い気持ちで購入してしまったのだが、軽くない。 軽く読めない作品です。 最後には号泣してしまった。 『隠れキリシタン』とは、どんなに辛い状況なのか。 現代では、到底理解出来ない。 想像を遥かに超えてしまう辛さ・厳しさだったでしょう。 厳しい拷問に耐える強さ。 転んでしまったからといって、決して弱い訳でもない。 転んでしまっても、きっと神は赦してくれるのであろう。 しかし、何故、いかなる状況でも、神は『沈黙』しているのか? 人間の強さや弱さ、醜さ・・・非常によく表されている作品ではないでしょうか。 いろいろ考えさせられます。 改めて、遠藤周作氏の作品の崇高さ、素晴らしさ、奥深さを感じました。 本当に素敵な作品です。 | ||||
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宗教弾圧という状況の中に置かれる聖職者が主人公。 神の沈黙という重大な問題に気付かざる終えない状況におかれる人間の心理がストレートに書かれてる。 また人間の「信じる」という行為の強さともろさ感じた。主人公が転ぶ直前に「人間は虚栄心から逃れることができない」と述べているがこれが信じると言うことのもろさの核心をついているのではないか。本来キリストを信じる行為だったはずが、危険な行為を犯して日本に来たことやキリシタンが殉死していく中で信仰心そのものよりもそちらの方が大きくなっていったのではないか。また「聖職者」という身分が組織を守る物としてのメンツや周りを見る目を気にしてしまっていたのではないか。それが、「神の沈黙」を神の裏切りと感じてしまった要因のように感じる。転んだ後さらに宗教の本質にせまっていく主人公に「信じる」強さをを感じた。 | ||||
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カトリックであった遠藤周作の描く本書の世界観は圧巻でした。舞台となった江戸時代、ポルトガルからのキリスト教の伝来は衝撃的なものであったに違いありません。1549年にザビエルによって伝えられたキリスト教に対するポルトガル人からの視点から物語は描かれます。とても日本人に書いたものとは思えないほどの客観性に満ち、それでいて日本人の宗教観もはずしていない。実在する人物や史実を巧みに物語の中に混ぜ込み、リアリティ溢れる文体で、終始一貫読者を魅了してやみません。 多くの日本人にとってキリスト教―宗教自体がそうなのかもしれません―はなじみの少ないものであると思いますが、キリストに限らず、宗教というものの本質を理解することは、なかなか難しかった。宗教のために命を捨てる覚悟、神が沈黙をやぶることを信じて待つ苦難にたえる忍耐力・・・どれも現代日本では、そのような事実があったことすら俄かに信じがたい雰囲気があるのではないでしょうか。 そんな私を含む日本人が読む、本書『沈黙』。神とは一体どのような存在なのでしょうか。人の信仰心の中に生まれるものなのか、人の外部に客観的に存在するものなのか・・・。 自分が困難な状況にある時に、神という存在があることによって、「沈黙」「試練」という言葉によって楽になるのかもしれない。だからこそ、常に神への感謝をキリスト教は重んじているのだと思います。 多くの人間の生き方に関する哲学的・宗教的課題を私にもたらしてくれた、重い一冊でした。 | ||||
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読み出すと止まらなくなった。一気に読み切った。 断っておくが小生はクリスチャンではない。 遠藤周作氏は芥川賞受賞後の37歳から、結核で2年もの入院をしている。 手術で7本の肋骨と肩肺を失ったが、「私が得たものは方肺よりも、もっと大きなものだった」と語られている。 それは何か? 命に及ぶ大病との格闘を通して、悩める人や弱い立場にある人への温かな眼差しを獲得したということだろう。 その極限から蘇生した著者の魂が綴られたのがこの「沈黙」だと思う。 残酷で非道な“穴吊り”という刑に処せられた切支丹の農民を救うため、司祭フェデリコは遂に”転ぶ”。 棄教したフェデリコは岡田三右衛門という名前を与えられ、しばらく長崎に留められる。 弱虫で臆病で卑劣、何度も転び、フェデリコをさえ売った五島出身の農民キチジローは、 それでも岡田となったフェデリコのもとへさえ、告侮を聴聞してもらうためにやってくる。 この小説の終わりは「切支丹屋敷役人日記」で終わる。 この「役人日記」によると、江戸の牢屋敷に移された岡田の中間として”吉次郎”が共に住みんでいることが記述されている。 吉次郎は首にお守り袋に入った切支丹の本尊を隠し持っているのを見つけられて問いつめられている。 岡田の、いな、フェデリコの信仰は破られていない、キチジローの信仰も破られなかった。 そして、岡田三右衛門ことフェデリコは日本に来て三十余年、江戸へ出て三十年の六四歳で病死する。 ドフトエスキーが「悪霊」で描き出したように、多くの切支丹を殺し、フェデリコをも棄教させた、 洗練された口調と無表情の顔、非常なやり口をもつ、井上築後守を初めとする権力者達こそ、 精神の尊厳を失った哀れな人間、悪霊となった人間だったのではないか。 クリスチャンとか仏教徒とか、そんな狭隘な批判を越えて、人間の限界まで迫った この「沈黙」は間違いなく戦後の日本文学の代表作の一つだと確信する。 | ||||
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島原の乱が鎮圧されて間も無い「キリスト教禁制」下の日本において、棄教を迫られるのポルトガル司祭・ロドリコを描いた、余りにも有名な小説です。 考えさせられる事が数多ある作品でした。 宗教とは何か、信仰とは何かという事のみならず、生死に拘わる困難な状況に直面した際に人は何を考え思うのかといった、人の在り方という根源的なものも描いている様に思えてなりません。 事の正邪を論じた単純な作品ではありませんが、敢えて述べるならばロドリコ、フェレイラ、キチジロー、誰もが正しいと言えるのではないでしょうか。 作品中、キチジローこう叫びます。 「(前文略)踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏み絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。(中略)俺を弱か者に生れさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい」 人が生きていくうえで生じる迷いや恐れといった、負の感情を除いて幸福へ導き生きる力(希望)を与えるもの、いわば人の弱さを補うものそれが宗教、そして信仰だと私は考えていました。 では、キチジローのこの苦しみは何なのか? 読了後、私は天を仰いでこの事について考えましたが、考えはまとまりませんでした。おそらく愚陋な私には生涯、答えを出す事が出来ないでしょう。 余談ながら遠藤周作といったいわゆる「純文学」的な作品は、難解な語句の使用と高遠な表現などで、さぞ読み難いものなのだろうという先入観がありました。 しかし、実際にはその様な事は殆どありません。 平易な文体に因り人口に膾炙するからこそ「名作」と称されるのだと気付き、自分の不勉強さを思い知らされました。 | ||||
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どうして苦しい目に遭う人間がこの世界に生きているというのに、神は黙ってそれを見ているのか? 神の沈黙、それがこの本の主題である。 島原の乱が鎮圧されてから数年の後の話。主人公は日本におけるキリスト教迫害によって、教義を捨てたと言われるかつての師を追って日本へ向かう。航行は嵐など困難を極めたが、神の救いを信じる主人公はひたすらにキリストの慈顔を思い浮かべて長い苦難の日々を耐え抜き、日本へたどり着く。が、そこで目にする物が貧しい(日本の)殉教者に対する神の沈黙であり、朋友の死であり、かつての師の零落した姿だった。 だいたいこんな感じだが、あらすじを簡単に拾い上げみても、この本の中で語られる壮絶なドラマが読了直後の感覚でよみがえってくる気がするほど。しかも、それだけ骨格のしっかり整ったプロットに遠藤氏の熟達した文章構成が重なり、素晴らしい仕上がりとなっている。一般の宗教家が絶望を前にして抱える苦悩や葛藤をえぐり出し、キリスト者でない自分にも深い印象を与えるこの作品は、「巧い」を通り越して「えぐい」ほどだ。事実を基にして書かれたとはいえ、登場人物達の悲痛な叫び声や堂々とした態度には胸打たれる。主人公の幻想も、著者が全く知ることのない世界の話だとは思えないほどに現実味を帯びている。 感動的な小説は多いけれども、これほどのリアリティをもって迫ってくる作品は初めて読んだ。この本との出会いに感謝し、もっと多くの人にこの本を読んでほしいと思う。 | ||||
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キリスト教を信じている人が読んだら、気が変になってしまうんじゃないだろうか。信仰の核心を突き崩されてしまう。 著者がキリスト教徒であることに尊敬の念を抱いた。「神を信じるということ」について、ここまで突き詰めた小説は読んだことがない。泣ける。 | ||||
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物語の舞台は島原の乱の後の日本。 キリスト教が禁止されている中で、いわゆる日本の隠れキリシタンのために、またさらに信徒を増やすために日本へ侵入し、布教しようとしたポルトガル人の司祭が主人公。 表題の「沈黙」とは、神の沈黙のこと。 江戸幕府の役人によって、自分の目の前で日本の信徒が拷問され、殺されていく。 神に「救い」を求めても状況は何も変わらず、神は沈黙したまま。 何故神は、これだけ信仰しているにも関わらず地獄のような試練を与えるのか。 自分と神との関係というのは、家族・友人との関係を超越するものなんだと思う。 子供の頃から拠り所にしていたものが、実は嘘っぱちだと実感した時の辛さってどんな感じか(辛いとかの次元ではないはず)、特定の宗教を信仰していないほとんどの日本人には、本当のところわからない気がする。 にしても、学校の歴史の授業でなんとなく習った踏み絵。実際にそれが行われた時の描写はすごい。よく考えてみれば、親の写真を踏むのとは訳が違う。キリスト教徒でない自分でさえ、読んでて痛かった。 遠藤周作の作品はまだ『海と毒薬』しか読んだことなかったけど、こんなに面白い作品が続いてしまうとは嬉しい誤算。 本当に素晴らしい本。映画化されるようなので、楽しみで仕方がない。 | ||||
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他者や書物の中に、自分と同じ悲しみ、苦しみを見つけたときの喜びは大きい。 たとえそれが共に泣く、苦悩の共感だったとしても、この喜びと比べれば、 世間でもてはやされている幸福論は、騒がしいだけでなんと安っぽいものか。 この、苦悩の共感こそが、遠藤文学の屋台骨だと私は思う。 そしてイエスこそ、遠藤周作にとっての「共に苦しんでくれる者」だったのでしょう。 主人公が苦悩の頂点でキリストの声を聞くラストシーンは、よくぞこんな話を書けたものだと驚いてしまう。 ただ、信仰を持たぬ人が読んだ場合、退屈な歴史小説にとどまるかもしれない。 さらに、読む人にとってイエスは何者か?ということで評価はまるで変わってくる。 強く神格化されたイエスを信じる人にしてみれば、これはゆるしがたいと思うかも。 史的イエスの問題はさておき、人間イエスが好きな私にとってこの小説は、★10個あげたいくらいの大傑作。 理解を深めるためには、「沈黙」より先に「イエスの生涯」を読んでおくべし。 | ||||
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摩滅した銅版のあの人を踏んだロドリゴに対して、筑後守は岡田三右衛門という和名をつけ妻帯を勧める。そして奉行所はもう切支丹を捕える気はないという。 「あれはもはや根が絶たれておる」 「五島や生月の百姓たちがひそかに奉じているデウスは切支丹のデウスと次第に似ても似つかぬものになっておる」 「やがて……その元から離れて得体の知れぬものとなっていこう」 「日本とはこういう国だ。どうもならぬ。なあパードレ」 また筑後守は「この日本と申す泥沼」とも表現している。 外来から取り入れたものを日本流にアレンジして発展させてきたというのは、日本の特徴としてよく言われていることだが、筑後守のように否定的とも諦めともつかぬニュアンスで言われることは少ない。どうして筑後守はこんなことを言ったのか、筑後守は日本のあいまいさや鵺的ありように憤りを感じていたのか、切支丹が伝えられるまま存続することを願うかのような言葉は妙にひっかかる。そして、遠藤周作もまた、このように日本をとらえていたのかもしれないとも思う。 この部分が深い余韻をこの作品に与えてくれていると思う。 | ||||
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