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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全388件 181~200 10/20ページ
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遠藤周作の大ファンである母からずっと奨められていて、 映画化すると聞いてスコセッシ監督なので必ず素晴らしい作品にはなると思いますが、 無神論者の僕としては小説の出だしから退屈極まりなく、 直ぐに読むのをやめました。 芥川龍之介が好きな僕的に冒頭の繊細な描写で読者をハートをつかまなきゃだと思うのだけど。 | ||||
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遠藤周作の作品は今まで読んだことがありませんでした。途中で暗すぎる部分があり2-3日読むのをやめましたが、その後を読んで作品の扱う対象のスケールの大きさに感嘆しました。もっとこの作家の作品を読もうと思っております。 | ||||
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マーチン・スコセッシ監督の映画を観た後、原作買って読みました。キリスト教文学最高峰だそうです。すごいです。江戸時代のキリスト教弾圧の話ですが宗教と関係ない人も信念や愛が揺らいだとき人はどう生きるのか考えるヒントが書かれています。人生のこととかじっくり考えるのがイヤな人は読む必要はないです。 欲を言えば最後の日記の部分の口語訳があった方が良かったかな。 | ||||
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映画の公開で話題になって、原作を知り読んでみました。内容は重く、暗く、救いようがなかったけど、そんな日常を家畜のように働いていた農民達にとっては、切支丹のみが心の拠り所、救いなのだと理解できます。 最後に「転んだ」ロドリゴが死ぬまで日本で暮らし、火葬されたと一番最後に記述がありました。非常に悲しい終わりです。なぜなら本文中に切支丹は火葬してはいけない、土葬しなくてはならないとあったからです。 物語の舞台の場所とは違うのかもしれませんが、世界遺産候補となっている長崎の教会群に行ってみたくなりました。 | ||||
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マーティン・スコセッシの映画『沈黙』を見てから原作を手に取った。というのも映画を見て非常にモヤモヤしたからである。映画が伝えていることは小説が伝えていることなのだろうか、日本原作の作品が残念な形でハリウッドで映画化されてしまったのではないだろうか。特に、日本人の残虐な迫害のシーンが多く、宣教師=善、幕府=悪という簡単な図式にしているように思えた。歴史の事実を考えると、イエスズ会はキリスト教を布教しながらアメリカ大陸の原住民たちを殺しまくり、野蛮だと当地の文化を見下し駆逐していった。もし日本に国力がなければ同じ運命を辿っていたのは間違いないわけで、キリスト教の弾圧は自国を守るためにはしかるべきであったと思っている。事実、島原の乱が起きてから取り締まりを厳しくしている。国の侵略を防ぐのは国としてはしかるべきである。なので、そこを説明しないまま映画を進めるのは卑怯じゃないか、スコセッシ!と思ったわけである。しかしながら、映画は原作に忠実だった。宣教師の本当の意味の問題はここではあまり関係がないのかもしれない。本題は「信仰」というところにあった。 さて、小説に戻ろう。まずはじめに遠藤周作は「日本で迫害された宣教師ってまるで、キリストそのもの!」と思ってこの小説を書こうと思ったのではないかと思う。そう、迫害される者たちは十字架で吊るされ、街中を馬で引き回されて、人間に石を投げられる。ゴルゴダの丘に向かうキリストにそっくりなのである。キリストの経験したことが400年前の長崎にあったのだ。主人公は何度も何度も自分の人生にキリストを重ねる。そこから、この小説の本題「信仰」に洞察を加える。ここからが遠藤周作ならではの切り込み方である。 切支丹が、仲間が、自身が迫害を受ける、でも、神は沈黙している。つまり、奇跡はずっと起きない。そして、主人公の信仰心は揺らいでいく。そして、最後に神の言葉を聞く。ぼくは考える。主人公はキリストになりたかったのだ。聖者になりたかったのだ。その英雄になりたいという気持ち、それこそが、イエスズ会の本質、傲慢さではなかろうか、と。これは信仰ではなくエゴなのかもしれない。迫害されて、結果、主人公ロドリゴは神になれなかったのだ。ロドリゴは最後まで神の奇跡を求めていた。 最後にドストエフスキーの言葉で結ぼう。 「キリストよ、人々がお前をからかい、あざけりながら『十字架から降りてみろ、そしたらおまえだと信じてやる』と叫んだときも、おまえは十字架から降りなかった。おまえが降りなかったのは、改めて人間を奇跡の奴隷にしたくなかったからだ。奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んでいたからだ。囚人のような奴隷的な歓びではなかった。自由の身になった人間たちは、ひざまずくべき相手を少しでも早く探し出そうとするぐらい、たえまない心労はない。しかし、人間というものは常にひざまづく相手を常に求めている。それも、申し分のない、すべての人間が膝を折ることができる、そんな文句無しの相手だ。なぜなら、こういう惨めな人間たちの心労というのは、単に自分や他人がひざまずける相手を探せばよいという訳ではなく、だれもがその相手を信仰し、だれもがかならずいっしょにひざまずける相手を求める、という点にこそあるからだ。まさしくこの、いっしょにひざまずける相手を求めるということが、有史以来、個人のみならず、人類全体のもっとも大きな苦しみだった。普遍的にひざまずける相手を探し求めようとして、彼らはたがいを剣で滅ぼしあってきた。 〜人間というこの不幸せな存在にとっては、生まれながらに授かった自由という贈り物をだれにいち早く手渡すべきなのか、その相手をみつけるための心配ほど、苦しいものはないのだ。〜人間というものは、神よりもむしろ奇跡を求めているからだ。自分自身で勝手に奇跡をこしらえて、まじない師の奇跡や、女の魔法にすぐひれ伏してしまう。」 そう、「沈黙」は人間が神を求める真摯な話。神に仕えるものが神を求める人間らしい話。 | ||||
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沈黙の意味について、遠藤周作のキリスト教価値観を詳細に語るペンテコステ派の牧師・青木によれば<「神は沈黙していたのではない。私たちと共に苦しんでいたのだ」主人公は「宣教師」という肩書きを捨て去る(棄教する)ことで、真にキリストの福音を伝える、否、福音を生きる者となることができた、>ということである。 このような遠藤周作のキリスト教価値観に基づく「声無き声」は多くのクリスチャンにとって納得ができる唯一の筋書きとも考えられる。確かに「教理」としての信仰からの脱却と「実践」としての信仰への転化という側面は認められるだろう。 しかし、それがキリスト教における主の「沈黙」といえるだろうか。果たして疑問である。 解釈は聖書に委ねられるべきだからである。 遠藤のキリスト教価値観は弱者に対する思いやりがその神髄であると読み取れるが、その点に重きを置きすぎているきらいがある。シモーヌ・ヴェイユは『神を待ち望む』で神への呼びかけに対する「沈黙」は「真空」だと述べる。真空に光が差すのはキリストの受難の調べを聞くことという。 「彼は……我々の不義の為に 砕かれたのだ。 彼は自らこらしめを受けて, 我々に平安を与え その打たれた傷によって 我々はいやされたのだ(イザヤ書53・5)」 この調べと不幸への同意こそが信仰に対する告白なのであるとする。 そうだとすれば、沈黙は信仰に対する告白であるとデカルト演繹的に導かれる。そこからは、遠藤のいう沈黙すなわち棄教、実践としての信仰への転化という結論は直ちに導き出されないことになる。 しかし、ロドリゴは神から「踏め」と教示を与えられている。これは沈黙を破ったことであり、信仰に対する告白は虚空に変わる。最後のシーンで十字架を握っているのは紛れもなくその事実と激しく矛盾する。 | ||||
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正直、遠藤周作の作品は「宗教色が濃い」と、取っつきにくい印象をもっていました。 しかしマーティン・スコセッシ監督による映画化をきっかけに読んだところ、 ページをめくる手が止まらないほどストーリーに引き込まれてしまいました。 わたしは無宗教ですが、いや無宗教だからこその読み方がある本だと思います。 タイトルの「沈黙」をめぐって、人の心の深遠をのぞいた気がします。 ちなみに映画の方は、後半パートがよりミステリアスに描かれているなと感じました。 原作から読んでも、映画から鑑賞しても、どちらも素晴らしい体験ができると思います。 | ||||
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ロドリゴの意識が全て。彼を襲った強烈な圧力。これはキリストの最後の日に重ねているのでは、という思い。 ピラトと井上、ユダとキチジロー。なんとなく、ロドリゴを巡る外部環境、村民や長崎の描写などはどこかおざなりです。 ロドリゴの心理に読者を誘います。神の沈黙への疑問。これについて、遠藤さんは何の答えも用意していません。読者の判断に。 井上、通詞、キチジローや責められる農民たちなど、日本人の意識は殆ど描かれていません。映画の書評で日本人の意識の描写がない、というのを読みましたが、原作にもないよね。だから、迫害する側、される側の意識は遠藤さんが議論するつもりではなかったのですね。 中編小説で、思ったほどカトリックの教義に対する議論がされることはなく、普通の文学作品のように読める本です。私は、覚悟した重さがなく、意外にさらっと読めたので、むしろ驚きでした。カトリックの方はどう読まれたのでしょうか。 | ||||
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若い頃からいつか読みたいと思ってなかなかチャンスがなかった作品でした。今回映画化とキンドル入手した事で読みました。 とてもとても深い感動がありました。 私は、キリスト教の事は、ほとんど知りませんが主人公は、たとえ人々に軽蔑されて屈辱の中で現世を生きても最後の時は、いちばん優しい神様の愛の手に抱きしめられて召されると思います。 | ||||
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ポルトガル宣教師が布教先の極東の島国で突然消息を絶った。 音信不通。生死不明。 宣教師は原住民たちによって 邪教に転向させられたという驚愕の情報も。 師を救出するため、 弟子たちは異国宗教者の惨殺が繰り返されている 極東の島国へ決死の潜入行を試みる――。 スコセッシの「沈黙ーサイレンス」を観た後 原作を読んだ。 冒険小説として楽しんでしまったが、 これは正しい読み方なのかどうか。 ひとつの宗教が異国の風土や風習にさらされるうち、 なんだか分からないものに変容して オリジナルとは異なる姿かたちになってしまう。 ということは確かにあるだろう。 その布教に取り組んだ者も 変容から逃れることはできなかった という物語と受け取ることもできる。 信仰を持ち続ければ、 死後はパライソで永遠の安楽が約束される。 キリスト教は、このような宗教ではないのだが、 そう信じる人々にとって、 棄教とはパライソ行きチケットを手放すことであり、 「踏み絵」とはチケット購入代金の積立を 反故にする行為と考えていたのではないか。 などと考えながら小説を楽しんだ。 コンラッド「闇の奥」 コッポラ「地獄の黙示録」と重ね合わせてしまった。 | ||||
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神などいない。そんな当たり前のことを納得するのに一生を無駄遣いするバカな信者たち。 | ||||
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イエズス会のドン・ロドリゴとフランシスコ会の宣教師フライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った手紙には「日本には住民が多く、城郭も堅固であるため、軍隊の力による侵入は無理であるから、福音を宣伝する方策を持って日本の国民が殿下に悦びいさんで臣事するように仕向けるほかなし」とある。 この書簡に見るようにキリシタン・バテレンたちの正体は、対日諜報員であり、対日工作員である。 また西暦1596年サン・フェリペ号事件では、フィリピンからメキシコに向かったスペイン船が土佐に漂着し、その水先案内人が、秀吉の五奉行の一人増田長盛に世界地図を見せて「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中に渡って領土を占領できたのだ」と説明している。 永年にわたって彼らは大量の映画、書物、テレビ、新聞を通じて事実を捻じ曲げた宣伝を行なっている。 また教科書にも事実が載らないように、日本人が事実を知ることがないように力を及ぼしている。 キリスト教の歴史は、まさに虐殺と侵略、強制改宗、植民地、奴隷、の歴史である。 キリスト教は人々をコントロールするための道具である。 聖人のイメージに騙されず、キリスト教の虐殺の歴史を知るべきではないか? | ||||
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映画を観てとてもよかったので、改めて原作を読んでみました。大変深い物語で、信仰について考えさせられました。 | ||||
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初めて読んだのは中学生の時でした。読みやすい文章のため中学生でもすいすい読めましたが、30歳を超えて再読し、その内容の深さに感動しました。 以前はユダを象徴していたかのように思えていたキチジローが、最後の最後までロドリゴの側にいて、実はキリストを象徴しているのではないかと思えてきました。 またキリスト教を布教させようとした宣教師たちを日本を近代化させる目的で、一神教である天皇制を導入し、それが意図せざる方向に進んでしまった当時のインテリ達の挫折を描いているようにも読めました。執拗なキリスト教への弾圧は戦時中の言論弾圧と置き換えても読めるような気がします。私がキリスト教やヨーロッパの歴史に知識が浅いのでこれらを知るとより深く理解できるのでしょう。 あらゆる解釈の幅を残しつつも、難解になりすぎず物語に引きずり込む文章にこれぞ名作だと感じます。 | ||||
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スコセッシ監督によって映画化されたということで、改めて読むことにしました。 慶應義塾大学文学部を卒業した遠藤周作さんは、キリスト教という宗教を深く考え、祈りのように言葉を綴っていたのだな、と感動します。 日本が世界に誇れる作品であり、少しでも多くの方に読んで貰いたいです。 | ||||
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映画になり話題になっているようなので、読んでみた。徳川家光の時代に長崎に潜入したポルトガルの宣教師が主人公である。当時の厳しいキリシタン弾圧の様子が何度も出てくるため、映画はアメリカではR指定されているようだ。すでに島原の乱は鎮圧され、鎖国とキリシタン禁制が定着しつつある時代。厳しい監視の目をくぐり抜けまだ多くの信者が隠れキリシタンとなって潜んではいるが、宣教師による日本での新たな布教はもう絶望的な状況である。厳しい試練。裏切り。連行される百姓たち。過酷な取り調べ。狡猾な要求。そして究極の選択。主人公の問いかけに、神は沈黙を守る。 主人公の宣教師とともに、この物語を立体的なものにしているのは、キチジローの存在だろう。キリストのユダを明らかに連想させるこの男は、本書のテーマにおいて決定的に重要な役割を担っている。 非常に重い作品だった。しかし、同時に、沈黙の意味が明らかにされてゆくとき、深い感動がこみあげてゆくのを禁じえなかった。 読み終えて、日本の江戸時代のキリシタン禁制下の弾圧という特殊な状況でのカトリックの宣教師の葛藤をテーマにした本作品が、海外でどのように受け止められるものなのか、ちょっと気になってAmazonの米国のサイトをのぞいてみた。映画化効果もあり、これを書いている時点でAmazon.comに掲載されている英語訳版のレビュー本数はAmazon.co.jpの日本語版のレビュー本数を大きく上回っており、うち78%が5つ星をつけている。内容的にも、高く評価するものが多かった。いずれにせよ、傑作中の傑作であるように思う。 | ||||
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此の拙い書評などではとても語りきれない、魂に響く物語である。神の存在を問い、神々の沈黙から神性の否定という禁忌に踏み込む、文学史に残る名作。 日本での基督教の布教は、伝来以来主に西日本で栄えたが、豊臣秀吉以降禁教令が強化され、徳川家光の頃に鎖国が完成される。日本の信徒達は激しい迫害に曝され、司祭達も信徒と共に地下に潜伏したが捕らえられ、或る者は殉教し、或る者は棄教した。 ポルトガルのイエズス会司祭セバスチャン・ロドリゴは、師のクリストヴァン・フェレイラ教父が激しい拷問の末、棄教したという信じ難い報告に衝撃を受け、自らの目で真実を確かめるべく、遥かな日本を目指した。1638年3月25日に本国を出港、7月25日喜望峰通過、10月9日ゴア到着、1639年5月1日澳門(マカオ)へ到着。航海中に日本では島原の乱が発生、鎮圧され信徒は皆殺しとなり、日本での布教は絶望的な状況となっていた。 司祭達は、『基督は美しいものや善いもののために死んだのではない。美しいものや善いもののために死ぬことはやさしいのだが、みじめなものや腐敗したものたちのために死ぬのはむつかしい』という、鉄の信念を抱いて、激しい迫害の待つ日本へ、数多の先達伝道者達の足跡を慕い、自ら踏み込んで行った。 首尾よく日本潜入を果たし、キチジローの先導で潜伏信徒に会い、暫くの間、洗礼、告悔やミサを続けていたが、遂に役人の探索が及び、信徒が逮捕され、棄教を拒む者には激しい拷問が加えられる様になる。 「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに」キチジローの此の言葉は、基督教の司祭達が最も怖れる疑念を問いかけるものであった。ロドリゴもまた激しく苛まわれる。その書簡の言葉を借りれば『迫害が起って今日まで二十年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻きがみち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。』信徒達が殉死しても尚、黙した儘何の奇蹟も起きる事はなかった。つまり、神の沈黙である。 疑念は愈々深まる。トモギ村の信徒2人が水磔で殉教し、遺体を焼かれて海に捨てられるのを見た時、ロドリゴ自身がキチジローの裏切りで逮捕され、牢の中から信徒の斬刑を見た時、共に潜入してきた司祭ガルペが信徒の命を救う為に殉教するのを見た時、神はやはりその犠牲を前にして沈黙していた。ロドリゴの胸に悲惨な殉死の強い衝撃と共に、激しい神の沈黙への疑問が突き上げて来る。 『何という殉教でしょう。私は長い間、聖人伝に書かれたような殉教をーーたとえばその人たちの魂が天に帰る時、空に栄光の光がみち、天使が喇叭を吹くような赫かしい殉教を夢みすぎました。だが、今、あなたにこうして報告している日本信徒の殉教はそのような赫やかしいものではなく、こんなにみじめで、こんなに辛いものだったのです。』『この海の不気味な静かさのうしろには私は神の沈黙をーー神が人々の歎きの声に腕をこまねいたまま、黙っていられるような気がして……。』 「しかし、現実に見た百姓の殉教は、あの連中の住んでいる小屋、あの連中のまとっている襤褸と同じように、みすぼらしく、あわれだった。」 井上筑後守や、棄教して今や沢野忠庵となった師のフェレイラに、数多の信徒の拷問や棄教への説得を繰り返され、ロドリゴは祈り、恐れ、慄き、それらを打ち捨てて更に強く祈れども、何故か神は沈黙した儘であった。精神が崩壊する瀬戸際まで追い詰められ、最後に聴かされたのは穴吊りされた信徒の呻き声であった。ロドリゴは狂乱せんばかりに懊悩する。 井上筑後守はいう『お前は彼等のために死のうとてこの国に来たと言う。だが事実はお前のためにあの者たちが死んでいくわ』 フェレイラはいう『彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで(中略)神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう。(中略)日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない。(中略)日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない』 『わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ。(中略)役人はこう言った。お前が転べばあの者たちはすぐ穴から引き揚げ、繩もとき、薬もつけようとな。わしは答えた。あの人たちはなぜ転ばぬかと。役人は笑って教えてくれた。彼等はもう幾度も転ぶと申した。だがお前が転ばぬかぎり、あの百姓たちを助けるわけにはいかぬと。』 フェレイラは、ロドリゴの信念は教会を裏切る事、教会の汚点となる事への恐怖に過ぎず、信仰は誤魔化しであると告げ、教会の信仰と真実の愛とは別であるという決定的な選択を迫る。 『わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら(中略)たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう。(中略)基督は、人々のために、たしかに転んだだろう。(中略)基督は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても』 そして混濁する意識の中、誰もなしえなかった一番辛い愛の行為を、最も大きな愛の行為をするのだと、師に促されたロドリゴは、踏み絵に足をかけた。哀しげな銅版の基督はロドリゴへ語りかけた。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ、と。 ロドリゴ(史実ではイタリア人司祭ジュゼッペ・キアラ)は岡田三右衛門という刑死した男の名と、その未亡人を賜り、江戸小日向町の切支丹屋敷に移った。延宝9年7月26日(1685年8月25日)、64歳で逝去。基督教では禁忌の火葬で葬られた。戒名入專淨眞信士。 | ||||
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久しぶりに読み返したが、何度読んでも思い。神は心の中にだけ。 | ||||
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現在上映中の映画沈黙-サイレンス-を見る前に見ておきたいなと思い手に取ったのがきっかけです。 私はすーっと文章が入って来てとても読みやすかったです。 日本にもこのような宗教弾圧があった歴史を知ることができたのと、主人公のパードレ・ロドリゴの心の描写がリアルにつたわって来ました。とても悲しい内容だったけど好きな作品でした。 | ||||
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かつて日本で起こった宗教弾圧。 今の平和な時節だからこそ、眼をそらさないで欲しい。 世界での宗教紛争と重ねて、読んで欲しい。 | ||||
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