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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全338件 1~20 1/17ページ
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ポルトガルの宣教師が日本への布教を通して、自らの信仰、他者の信仰、信仰を超えた慈悲、救済に劇的に迫っていく。他人に信仰を植え付けていく難しさについても小説から見えてくる。小説はポルトガルのイエズス会による布教の最終盤にあたっていて、史実に基づいて肉付けがされているようだ。ネタバレを避けるため、感想のような形でレビューを記したい。ストーリーの展開はここでは触れない。 逃亡、迫害、過酷な拷問、処刑とともに宣教師ロドリゴの心境が語られ、鬼気迫る展開があり、一方で静寂が立ち込めている。静寂は日常の生にあるありふれた光景の中で、恐怖も暴力も淡々と成し遂げていく。劇画のような強烈な音も絶叫もなく、柔らかい日差しの下で恐怖が最高潮に達していく。静寂は、信仰者が苦境にあって神に問いかけようとも、神からの応答はなく、苦しみに対する救いの声も慈悲の声もなく静寂だけがある。苦悶の声だけが響いていて、信仰者にとってこの静寂は残酷である。この時代のキリスト教者の心境に自分をできるだけなぞらえると、本書の衝撃が感得できる。信仰者のような信心にまで、自分を没入させることは困難だが、当時の空気感を歴史事実から類推して、手元に現像することができれば、本書に漂う恐怖と絶望がジリジリと迫ってくると思われる。 キリスト教が擁護されて信仰が賛美されていた時には見えない、生と死に関わる信仰、神の存在の是非が禁教の世に浮き彫りになる。幸福な状況では確かに神の存在を感じやすいかもしれない。その状況に導いてくれたことを神のお陰だとして感謝し、幸福は神からの応答だと感じとれる。一方、逆境の中で状況がどんどん悪化していく時、神頼みでいくら祈ってもそれが止まらない、願いは聞き入れられず何の救いもないのは、神の存在も信仰の意味も感じられなくなることにつながる。この逆境にあっても信仰を持ち続けられるか。どこまで追い詰められても、神の応答はなく静寂のままであっても、信じることはできるか。貧窮と飢えで苦しんでいても、何の救いもない。そんな状況で信仰を保つことはできるだろうか。強い信仰もなければ、何かを強烈に信じることもない私にとっては、信仰者の苦悶に真に肉薄していくことは難しいが、静寂の中に突如殺到する死の表現が信仰者の絶望をありありと示している。 信仰の自由は現代では個人に許されている。内心も自由のうちにある。キリスト教の神でさえも個々人から眺める姿は違っているかもしれない。存在の意味も違っているかもしれない。たったひとりの神であったとしても想いは千差万別である可能性がある。その社会に根差した形に変容して信じられることはあり得そうだ。日本では神仏習合があり、八百万の神があり、アニミズムがあり、様々な物に神が宿ることもある。ひとりのイエス・キリストを一身に信じ、その一生を熟知している宣教師にとっては、信仰の方向は一つであり当然のことで、ブレることなどあり得ないが、無数の神が居る日本ではブレていくことがある。キリスト教者にとっては信仰の裏切りにも匹敵するのかもしれないが、八百万の神を認める人々によるその信仰は無邪気にさえ映る。しかし排他的な信仰は争いを生み、戦争を幾度も起こしてきた。それを思えば、八百万の神が共存するのは信仰の理想なのだと分かる。 重税によって貧困の中にあり、神にすがる。さらに禁教によって苦境に陥り、迫害の危機にあって信仰に助けを求める。宗教は救いを前提にした信念の在り方であり、存在意義としても、困窮に対する素朴で率直な救済が主眼であるはずである。しかし宣教師が直面したように、救いは訪れないことがある。いくら祈っても助けは来ない。そして絶望して自分の生きる意味すら見失っていく。強烈な信仰心はある時には毒になるとさえ思う。そこまで信仰に身を委ねてしまって、その梯子が外された時のことを思わないのは無謀だと感じる。現代の推し活にしても、信心が高じるのは没入感を得られる反面、危うさをはらんでいる。科学が発達して人はAIという神のような存在を作ろうとしている。それは神のような人間が喜ぶ応答をしてくれるだろうか。的外れな答えがいつまでも響いているのではなかろうか。 しかし信仰を諦めるのは容易ではない。一生を注いで積み上げてきた信仰であればなおさらだ。生活に根付いて、それを頼みにして支えにしてきたとしたら、生活から取り除けるだろうか。信仰に軸を置くのではなく、思い悩む自分の方に軸足を置いて、そこから外れないように保つことは大切かもしれない。推しに軸足を置き過ぎない。信じる対象を自分のところに引き寄せておく。自尊心として自分を高みに置いて、自信を持って社会を眺める。信仰によって高みを眺めるのもいいが、自分も自信を持って高みに立ち眺める。自分を尊び、他者に染まらないものを持つ。そして維持する。信仰という美名に隠して、他者に自分を委ねることをしない。依存するのではなく、自ら立ち、他者と共存する。他者を信じることはするが、盲目的に信仰することは避ける。信じることは、いつの間にか委ねることになっていないか。自分を根っこから抜いてしまって、相手に放り投げてしまっていないか。高みを仰ぎ見ていたとしても、自分は自分でそこに立っているか。 本書から自分なりの教訓を得たので、ネタバレを避けるためにもつらつらと感想を述べてしまった。『利他・ケア・傷の倫理学』(近内)ではロドリゴが教会の道徳(規範)を破り、他者へのケアのために自分が変容していく。規範から飛び出し自分の足で立ち、他者との共存のために自分が変わり、利他に及んでいく。信仰が教会の規範に絡め取られて、個人の元にない。それが神の沈黙に行き着いていないか。そういう読み方もできる。 どちらにしてもとりとめのない感想になったが、ロドリゴの心境の変遷は劇的であり、読者のこころの声に乗り移ってくる。 | ||||
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面白かった。 | ||||
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相手に何かを伝える時、相手がどういう人なのかを知らなければいけません。 それが、宗教のように個人の世界観の根幹に関わるものであれば、なおさらです。 自分にとって何より大切なことでも、相手にとってはそうでないかもしれない。 そもそも、自分の大切なことが何なのかを自分自身もちゃんとわかっていないかもしれない。 そういう視点を持つ大切さを学べる物語でした。 | ||||
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以前読んだのですが、ふとまた読みたくなって購入しました。 踏み絵を踏むか、それとも踏まないか、どちらが正解なのでしょうか。 踏まないのが信仰でしょうが、踏んだ人がいたからキリスト教が残っているのでは? などと、様々な思いが頭を駆け巡ります。 踏み絵も所詮は偶像じゃん、踏んでもキリストは赦すのでは、などと思ったり。 | ||||
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神はついに言葉を放つ! いま宗教を異にする国同士の戦時下で宗教とは何か?を語りかけている遠藤周作(狐狸庵先生)の代表作は素晴らしかった。 | ||||
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重たかった。延々と続く閉塞感。どう考えてもバッドエンド。でも投げ出せませんでした。主人公が最後に一体どんな決断を下すのか。どう選択しても何かが失われる状況で、最後に彼が何を選び何を思うのか。この結末は確かに自分を変えたと思います。もちろん、いい方にです。 (ここからネタバレあり) 神は確かに存在し、私たちが助けを求めるときに、沈黙しているように見えても、そのとき神は私たちと共に苦しんでくださっている、決して傍観しているわけではない。そして信仰とは他人が自分の信仰をどう思うかということ以上に、自分が神をどう思うかが大切なのだと、そんな作者のメッセージを強く感じた作品でした。 | ||||
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遠藤周作の代表作。その内容と結末については賛否両論あるが、小説としては面白い。最後の文章はあまり読まれていないが、そこにこそ遠藤周作の意図が込められている。 | ||||
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書棚奥深く、二度読み。・・・さらに、もう一度? そだねぇー。 | ||||
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中学の時オカルトのようなこ様に思っていたのが今になってよくわかってよかったです | ||||
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無事に届きました。有難う御座いました。 | ||||
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こみ上げてくるものがありました。が、溢れ出てくるまでではありませんでした。読もう読もうと思っていて手をつけずにいて、ようよう。文章が意外に拙いですね。拙いというのが辛辣にすぎるというのであれば、たどたどしくぼそぼそと艶がないと言えばよいのか。ただし、それは主人公である宣教師の個性と捉えれば、似つかわしいとは申せましょう。キリスト教だとか、日本におけるキリスト教の受容のされ方、そこにおける日本の風土などの著者の解釈に、私は正直疑問をもちます。そういう捉え方もあろうが、それはまた一つの捉え方にすぎず。とはいえ作品の根幹であるわけですが。私が胸うたれ、熱くなった箇所は、宣教師が転ぶところですね。転ぶとは、もちろん転向すること。徹底して追い詰められ、そのなかで転向を決意するに及び、踏み絵をするわけです。徹底的に追い詰められ、それは徹底的な求道にも通じ、そこから見えてくる自分の素の姿。貧相で醜い様相。それを見ざるを得ず、受けいれざるを得ない。その軋みをあげるなかに、その火花に、私は光明を見るものです。それこそがハライソ(天国)でありましょう。いや、ハライソへと到る唯一の門。ひょっとすると地獄への門かもしれませんが。人が生きながら到達でき得るハライソであり地獄。人は誰しもに生きてその境地に到れるものではなく、そしてその境地一瞬で消え去さり持続するものではありませんが。それこそが生きる意味、醍醐味であろうと私は思うものなので、そういう意味で胸震えました。 | ||||
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キリスト教徒や司祭の迫害は、鬼気迫るようなもので、とても衝撃だった。朝から晩まで働いて、少しの芋しか食べれず、その人生が一生続く農民たちを思えば、神に救いを求めてしまう気持ちもすごくよく分かる。 ただこの本は、なぜ秀吉がキリスト教の迫害を行ったが書かれておらず、一方的に日本が悪のように書かれているのがよろしくない。あの時代には、キリスト教による日本人の人身売買や、有益な家畜を勝手に食すなどの、横暴な行為があったが故に、キリスト教を追放すると秀吉が決めていたのである。一見秀吉が悪に見えるが、先に害悪な行為を行ったのは、キリスト教側であり、秀吉の政策は妥当なものだといえる。だからこの本はもっと歴史的な背景を知ったうえでじゃないと、変な思想の偏りを招くような気がした。 加えて、キリスト教でも異教徒は沢山迫害されてたから、この話を読んでキリスト教が良い!みたいにはならないですね。 | ||||
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本はいい本ですが、アプリを導入するのは一言では言い尽くせない、買っても読めにくい。もっと操作を簡単にしてほしい。 | ||||
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かなり前に読みました。 原罪、律法というよりも、人間の哀しみや孤独を静かに受け容れてくれる母のような神を思い浮かべたことを記憶しています。 「イエスの生涯」も、著者のキリスト教象を理解する上で、とても参考になりました。 | ||||
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必読 | ||||
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ある状況下で人間がどう行動するかという視点では興味深い小説ではあるけれど、これがキリスト教と思い込むと誤解を招きます。キリスト教を含みアブラハムの宗教は偶像崇拝を禁止してしますから、踏み絵の像はただの彫刻でしかありません。踏んだって信者としてはやましいことは全くないのです。「踏み絵」についての各国語でかかれたWikipediaをgoogleで翻訳してみれば分かりますが、普通のキリスト教徒は棄教するくらいなら何で踏まないだろうて思っています。日本語のWikiでも初期ではキリシタンの発見に効果があった絵踏みも次第に「内面でキリスト教を信仰さえすればよい」という考えが広まって後期には必ずしも効果は上がらなかったと出ています。そういう背景があっての小説ですので、凄いフィクションですね。 | ||||
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読む前に祈りました。 「この書籍にあなたを見ることができますように」と。 カトリック信者である著者がどこまで神を知っておられたのかははっきりとはわかりませんが、神はこの書籍をも用いて、ご自身を表されていらっしゃることはわかりました。 主人公が窮地に立った時に聞いた声と、聖書で一番弟子ぺテロが主イエス・キリストから語られた愛の言葉が大きく重なり涙なしには読めない、もし自分が同じ立場ならどうするか、考えずにはおれませんでした。 今この時代、この平和な日本で信仰をしていること自体が再び起こる迫害の嵐の前の静けさということなのかも知れないと感じています。 | ||||
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「沈黙」という主題に立ち向かい続ける点で、ストイックなお話ですね。文章が巧緻というわけでもありませんが、濃厚で真っ直ぐな筋立てでした。 「歩行者の辿った道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには自分の目を用いなければならない」というショーペンハウアーのことばのように、同じ棄教への道を辿って同じ棄教者になっていくのは、惨めでもあり当然な姿でもあり、とても考えさせられます。 長崎の遠藤周作記念館は素晴らしいところに建っているようですね。本作との縁も深いようですので、一度行ってみたいとおもいました。 男・18歳 | ||||
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迅速に届きました。ありがとうございます。 | ||||
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扱っているテーマ、そして筆力をもって表現されたリアリティは類をみない。 テーマは「弱者の神」。棄教した司祭である。ユダのように裏切るのに、それでも自分は弱いと自白するキチジローを許せるのか。 そして、丹念な取材によるリアリティ。匂いやうめきまでもが伝わってくる。 かなりサディスティックで特殊な状況だけれども、特殊な状況であるがゆに、突きつけられたものに真実性を感じることができる。 | ||||
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