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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全388件 301~320 16/20ページ
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この作品の執筆前の取材模様は紀行エッセイ「切支丹の里」に詳しいが、その中では本書に登場する実在のポルトガル人神父フェレイラ、表面上は転びつつも隠れ切支丹としての信仰を守り続ける集落が昭和になってもカトリック教会を拒みながらその信仰を頑なに守り続ける様子等に触れている。そして、このエッセイの中で作家は転び者達に触れながら「私が彼らに近い」(30p)と語り、正宗白鳥を引きながら「どんな人にも、どんな作家にも彼が人間である限り、「打ちあけるよりはむしろ死を選ぶやうな秘密」が暗い意識の裏にかくれている」(126p)と謎めいたことを語っている。遠藤周作の信仰の核の部分でどんな「秘密」が作用していたのかは分からないが、作家が転んだ切支丹達に自身の姿を投影していたことだけは事実のようだ。 さて、この作家は本作以外にも徹底して「救済」の不可能性を描き続け、また「キリストの誕生」等の随筆では原始キリスト教まで遡りながら、イエスの死後、彼の意図に反して神格化とカトリックの教義が生まれるメカニズムを探ったりもしている。つまり、かなり宗教としてのキリスト教に対して相対化した視線を持っていたにも関わらず、彼が信仰の内側に留まり続けた理由は何だったのか。これが僕の長年抱いていた疑問だったのだが、本書の佐伯彰一氏の解説で少し謎が解けた気がする。ヒントはロドリゴが転ぶ瞬間にあるのだが、現世的な「救済」がたとえ来ず、転び者達が表面的に信仰を否定してみせたとしても、「行きて汝のなすことをなせ」というイエスのユダに対する言葉が残響する様子。救いを経験しなかった転向者だからこそ神との関係がよりパーソナルなものに深くなるという逆説。この当たりにこの作家の信仰のかたちがあるのではなかろうか。 星を一つ削ったのは、着の身着のままで逃亡する主人公による書簡体の前半が不自然に長いこと(=こんなに自然描写と心象風景ががきちんと対応している長い手紙は普通書かんだろう、と思ってしまう)、会話を成り立たせるために主人公が短期間で日本語ペラペラになってること、など不自然なことが設定に目立つ点だ。でも、こんな技術的な穴にもストーリ―自体の持つ力が勝っているため、さして気にならない。表紙の写真もこの作品の内容とマッチしていて、お見事だ。 | ||||
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この作品には大きく分けて二つのテーマが二重の螺旋が絡むが如く上手く相乗しながら描かれている。 まず、一つは異物(キリスト教)をたたき台にして日本人の気質をあぶり出そうと試みた作品である、ということ。 個の倫理に勝る場の倫理。 徳川時代を安泰に導いた屋台骨を担うこの普遍的な意識こそが今日にまで連綿と続く日本人のナショナリティなのだろう。 それは我が国がその骨格において思想・哲学の領域においても形而上的なコペルニクス的転換を経験してはいないと言うことに他ならない。 仏教も儒教もキリスト教も、そして神道すらも場の倫理というブラックホールのような習合性に飲み込まれ、均される。 この物語は島原以降の、日本に於けるキリスト教受難の最も苛烈な時代を舞台にしているのだか、 信者に対する迫害者側のスタンスが〜例えば西欧に於ける魔女狩りのようなヒステリックな短絡さは微塵もなく、日本ではキリスト教は決して根付かないという不動とも言うべき知見を拠り所に、早急さを必要としない懐柔策で真綿で首を絞めるが如く政策を実行していく。 諸外国との軋轢を避け、国庫の現実に於ける生産者たる農民の損失を防ぐ一方、要所要所で効果的にみせしめを仕立てる。 対処療法としての過剰な弾圧は、そこにはない。 全ては徹底したリサーチと、人間の一筋縄ではいかない心理の綾を知り尽くし、マクロに見通しを付けようとする恐るべき日本人の特性の為せる業だと思う。 …この物語のもうひとつのテーマである、「信仰とは何か?」という問い掛けもはるばるポルトガルからやって来た一人の宣教師の心の変遷を辿って描出する。 宗教は決してイデオロギーではない。 教えを体系化し、組織化することで顕現せしめるものではない。 頑なに信念を曲げることを拒み続けた宣教師は、隠れ信徒が拷問を受け死に行く姿を見せられ選択を迫られる。彼自身が踏み絵を踏めば、助ける、と。 その時、彼は内なる声を聞く。 (踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じよいに痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみを分かち合う。そのために私はいるのだから。) 宣教師は“転び”、日本名に改められキリスト教対策〜机上におけるスパイ活動の仕事を強いられる。 それでも彼はキリスト教徒である自分を、教会という組織に属していた時よりも強く感じているのだ。 彼はそれまでの苛酷な状況の下、何故キリストは沈黙を破り、事態を一変させる奇跡の御業を施してくれぬのか…ずっとそのことばかりを思い続けてきた。 その答えを彼は踏み絵に彫られたキリストの磨耗した絵姿より得るのである。 それは彼がキリストを想う愛の質が、エロスからアガペーに昇華した瞬間だったのかも知れない。 自分がどのような境遇に置かれても、いちばん惨めな者になろうとも他者が苦しむ姿を見たならば、それに寄り添うだけの力だけは失わない心でいること… “沈黙”を破るとは、それを識ることに他ならないのだ。 | ||||
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長崎に住んで、キリシタンの村を訪れたり、遠藤周作記念館の建つ断崖から夕日を眺めたりすると、どうしても、その作品は気になります。 読むと、悲しい、美しい物語でした。 「だがその足の痛さだけでもう十分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。」 「強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」 何でもない人たちの苦しみ、「あの人」のやさしさ、小説は遠藤周作の創作であるけれども、私たちは、この物語が生まれるにいたった過去の事実を、果てしなく思いめぐらさなければいけない。 | ||||
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クリスチャンでない私にとって、どうして神をここまで信じられるのかが 理解できなかった。 どうしてそれをほかの国まで広めようとしたのかもよくわからなかった。 (ただの知識不足ですね、馬鹿まるだしですみません) 馬鹿の私が思ったことは、 たとえそれが真実で正で万国共通で普遍的なものだとしても、 それが必要かどうかは、また別の問題ではないか?ということ。 たとえば科学は(今の世の中、この地球上では)普遍的で真実で万国共通だけど、 本当に必要なものなのかは、誰にもわからない。 それによって恩恵をあずかる人たちも大勢いるけれど、 それがなくても幸せに生きていける人たちも大勢いる。 この主人公も、宗教をそこまで真髄のように信じない人だったら もっと人間らしい幸せな人生を送ったのではないの? そこまでして何がしたかったのか、私には本当にわからなかった。 人間よりも神が大切にする意味がわからなかった。 個人的にはもうちょっと「本当に神はいるのか」という問題 に深く踏み込んだものが読みたかった。 クリスチャンのキリストの存在を信じる思考がどのようにできているのか 知りたかった。 途中までは引き込まれるように読んでしまったが、 語り手はクリスチャンであるので、その思考だけで最後まで進んでいく感じ。 | ||||
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この本は遠藤周作が17世紀の日本の史実、歴史文書に基づいて創作さた歴史小説です。 ポルトガルのイエスズ会の高名な神学者クリストヴァン・フェレイラが穴吊りの刑に屈して棄教しました。 それが事実かどうかとセバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルベの二人の神父がポルトガルからマカオを経由して日本に密航してきました。(史実によると二人はスペイン人)五島列島に潜入した二人が隠れキリシタンの布教をするが長崎奉行に追われる身となる、二人は一緒に捕まるよりは別々に逃亡して少しでも生きながらえる方法を選ぶがそれぞれ捕らえられてしまいました。キリスト教徒の殉教を見る度に神は何故沈黙しているのかと悩みます。 それまでの壮絶な逃亡生活、苦しい悩みに感動しながら読みました。 そう言えば、キリストの12人の弟子たちも皆殉教しているがこの時も神は沈黙していたのでしょうか? キリスト教と言うのは殉教の中に成り立っているのでしょうか? それにしても政治的理由があるにしても、日本国のこの秀吉の様にキリスト教が布教するのを拒んだ国は他に有るのだろうかと日本の強固な拒絶の姿勢にも驚いてしまいました。 | ||||
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「イエスの生涯」と「キリストの誕生」で人間心理からキリスト教誕生の本質に迫ろうとした 遠藤周作の問題意識”神の沈黙”と”キリストの愛”について、 基督教弾圧下の日本におけるポルトガル人司教ロドリゴの苦悩を通して描いた作品です。 「なぜ神は沈黙し続けるのか」 傍らで拷問に苦しむ信徒の命と自らの信仰のどちらを選ぶかー 異邦人信徒を自認する著者ならではの問題意識ともいえますが、 司教の心理を克明に描いた先の遠藤周作の答えは……。 キリスト教は普遍的であるというロドリゴに対して 日本人信徒の信じた神はキリスト教の神ではないとする 棄教司教フェレイラの言葉など 宗教とは何かを考えさせられる作品です。 | ||||
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信教の自由がなかった時代にカトリックの信仰を持ったが故に直面する肉体的苦痛と信仰的、霊的葛藤と苦痛が描かれている。当時、果てしなく遠い日本へ宣教のためにこられて、苦痛と苦悩の中で殉教せざるをえなかった神父さんたち・・・。 当時はキリスト教に対する正しい理解がなかったから、といってしまえばそれまでではあるが、真実なものに対する「人間の無知と誤解」の恐ろしさを感じた。 翻訳もされて、あまりにも有名である遠藤周作氏の代表作ともいえるこの小説に関しては、多くを語る必要はない。 | ||||
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読むまでは沈黙という題名から沈黙する神がテーマかと思っていましたが、全く違っていました。 私達のすぐ傍にいるキリストをキリシタン禁制の時代の信仰を扱いながら強烈に描いている作品です。 遠藤氏の作品はどれもキリストは高い所におられるのではなく我々と共に苦しまれる方として、登場します。「沈黙」においてもキリストにあなたが生きるためには自分は踏まれてもそれで良いのだと語らせています。過酷な状況の真っただ中で凍える魂を温めるキリストのぬくもりが読者の心にも広がります。 | ||||
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このタイトルは、私たちが神様の御声を聞きたい、幸せになるにはどうしたらよいかを教えてほしい、と切に願いながらも、神様の御声がその肉の耳には決して聞くことができないというジレンマを象徴しているように思いました。 物語は、長崎県での島原の乱が鎮圧されて間もない日本を題材としています。キリスト教徒は徹底して弾圧される真っ只中の日本に潜入したポルトガル人宣教師ロドリゴが主人公で、ともに潜入した友人が磔にされて海水で溺れ死んでいく姿を目にしたり、ロドリゴはまるでユダの裏切りに遭ったイエスのように日本人信者であるキチジローの裏切りに遭い、役人に捕らえられ、徐々に信仰を捨てる淵に追いつめられていきます。 自分が踏み絵をしなければ、捕まっている他の日本人信徒たちが恐ろしい拷問に遭って、次々と死んでいってしまう。しかし信仰を捨てることなどしたくない。「神様!」と、何度祈っても神様の言葉は返ってこない。嗚呼。神様は本当に存在するのだろうか・・・。 そして、終にロドリゴが踏み絵をしようとしたその時、危機に直面するたびに何度も祈り願ったイエス・キリストの言葉がようやく聞こえたのでした。 高校で現代文のテキストとして配られたこの本のラストシーンは、とても衝撃的であり、また一種の救いを感じる素晴らしい作品として、その感動は今も鮮烈に記憶していました。今回はそれを思い出して、はじめて手に取って最初から最後までを読みました。 ロドリゴが踏み絵をしたことで教えられたもの。それは、神様は私たちが犯す一切の罪をどこまでも許してくださっているということでした。そこへ目を通すたびに涙が溢れでてきます。何か苦しい場面に遭遇しては読み返す、私の愛読書になるという予感がしています。 あわせて遠藤作品からお奨めしたいのが、『イエスの生涯』『キリストの誕生』という二部作。キリスト教の教義の本である『聖書』には、予言者イエスが徹底して神聖化されていて私には長年にわたり味気なく感じていたのですが、ここに描かれるのはひとりの人間であるイエスと、その教えを受けた信徒がイエス死後を伝道ひと筋に生きぬいた物語です。 | ||||
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著者は、神への崇拝と人の命はどちらが尊重されるべきかという問いかけをしたのではないか。 熱心な信者ほど、踏み絵という偶像に過ぎないものを拒み、弾圧されたことに 強い怒りを感じたのではないか。 幕府によるキリスト教徒迫害の是非はさておき、 キリストは自分への崇拝を求めてるのではなく、人々を救うことのみを 願っていることを思い起こすべきだと言いたかったのではないか。 題名『沈黙』とは、キリストを超える大きな存在として絶対的な神がいて、それはすべてを知ってるが なにもしない、文中にキリストの声のようなものが出てくるが、それが神とキリストの区別を明示 していると思う。(私もキリスト教徒ではないが、神は信じる) 主人公のロドリコ司祭よりも、簀巻きにされ海に落とされた信者を救うべく死んでいったガルベ司祭 に共感した。 | ||||
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キリスト教の信仰をテーマに書かれた物語。 主人公のポルトガル人司祭ロドリゴは、かつての師として仰いだ司祭が日本で 棄教したという噂を聞く。 日本での宗教弾圧・迫害を覚悟しながらも、その噂は真実であるはずがないという 希望を胸に、ロドリゴは日本へ向かう。 日本で待っていたのは、想像を超える絶望。そして、祈っても祈っても、 祈りにこたえてくれない神の『沈黙』であった… 本当に深く、切ないまでに司祭の心情を丁寧に描いている。 私個人は、信仰を持つ人の考え方、感じ方を知ることができた。 強い信仰心をもつと自負している司祭と、彼を何度も裏切っては 再び現れ、罪の許しを請うキチジロー。 この二人を見比べると、どちらが罪深く、弱い人間なのか、それは一見キチジローのように 見えて、実はわからないな…と思ったりした。 | ||||
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自分の内面を打ち明けることの難易度を考えてみました。 1. 自分はカトリックの信者である 2. 自分はカルト宗教の会員である 3. 自分は同性愛者である 3は勇気がいると思います。下手をすれば職場にも居辛くなるかもしれません。2は一部の人から嫌われるかもしれません。1はどうでしょう。悪いイメージはないと思います。気取っている、エリート意識を持っているなどと誤解されるのではないか。打ち明ける前に心配するのはその程度です。自分のようなものが信者と名乗れば、カトリックとはその程度のものかと思われるのではないか。そう心配する人もいるでしょう。 ですが、それは現代の日本の話です。この本の舞台の封建時代なら、逆に3は問題ないかもしれませんが、1は生死に関わります。そこまでいかなくても、もしも今の日本で「カトリックである」ことが「同性愛者である」ことと同じ評価を回りから受けるとしたら、どの程度の人が打ち明けるでしょうか、入信するでしょうか。 カトリックの信者の一部にはおかしなヒエラルキーがあります。幼児洗礼は成人洗礼より上、成人洗礼でも洗礼が古ければ古いほど上。でも、「自分はこの年になって初めて神を知りました」という人が一番偉いと思います。人生経験を積んだ上で選んだんだから、一番信仰が強いと思います。ピカピカに輝いています。そういう人は踏み絵を拒むと思います。 信仰の強さ、神学の知識、洗礼の有無は全く別のことだと思います。洗礼を受けていても秘蹟の意味を知らない人はいます。神学の知識があっても真の信仰のない人はいます。洗礼も受けず神学も知らず、それでも強い信仰を持つ人もいると思います。 現代のキリスト教徒の中で踏み絵を拒める人は何人いるでしょう。聖職者であってもです。 著者がこの本で伝えたかったことを、未熟な私がすべてを理解できたとは思えません。代わりに、この本を読んで考えたことの一部を書きました。もっとたくさんのことを考えさせられましたが、とても書き切れません。 宗教とは、信仰とは、神とは、人間とは、人生の目的とは、ということを改めて深く考えさせられます。忙しい現代を慌しく生きる人には、日常と離れた視点から様々なものごとを、特に宗教を信ずる人であれば信仰を、考え直す良い機会を与えてくれます。 遠藤周作さんは「信者を見てキリスト教を判断しないでほしい」と何かに書いていました。もしも身近に鼻持ちならないキリスト教の信者がいる人ならば、そういう人にこそ、真のキリスト教を考える(理解する、ではなく)ためにこの本をお勧めしたいと思います。 [追記] 遠藤周作さんは「カトリックの信者が増えたのはミ−ハ−な女が洗礼を受けたからだ」という意味のことを何かに書いていて、それを読んだときは反発を感じたものです。ですが、もしもアジアの宗教のままだったら、宗教的な美術や音楽がなかったら、興味を持つ人は少なかったのではないかと思います。戦国時代や江戸時代に、ヘンテコな顔つきで訛りの強い言葉を話す見ず知らずの人の話に耳を傾け、その教えを受け入れ、最後は命をも賭した信者たちの動機に興味があります。当時の日本はヨーロッパと比べ文化の違いはあっても、文明の差は少なく、病気を治したり珍しいものを見せたりという方法は使えなかったはずです。 現代にあって、キリスト教を信ずるというのは大変難しいことだと思います。遠藤周作さんのようなインテリならなおさらです。処女が妊娠する。死者が復活する。パンと葡萄酒がキリストの体と血になる。キリスト教徒だから信じられるというのは安易すぎます。懐疑を克服して初めて credo (我信ず)と言えるのです。 | ||||
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この作品は日本のキリスト教史とキリスト教徒の苦難を伝えるためと、棄教した神父の名誉回復のために書かれたのだと思う。遠藤周作は弱者の視点を作品のテーマにすることが多い。 神が沈黙を守っているのはなぜかは多分各人で考える必要がある。主人公ロドリゴも自分で考えて、物語終盤までの苦難は「あるもの」のためだったんだと思い至っている。この作品とともに遠藤周作が自身の棺に入れるように言い残した『深い河』の中で大津が言ったように、神とは「働き」(目に見えにくい作用)であり、日常的常識に反する奇跡をもたらす存在ではないようだから、なぜ神が沈黙しているのかと思わざるを得ない状況は誰にでもあると思う。それならば、やはり各人がそれについて考えて答えを見つけないといけない。多分遠藤周作を含む他人から「こういう理由ですよ」と言われて納得できるものは得られないだろう。 神についてのこの考え方は唯一絶対神教の本来のキリスト教とは相容れないものであり、多分に(「日本化」したキリスト教徒である)遠藤周作的な示唆だと思う。 | ||||
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神父のフェレイラが背教したという知らせを聞いた ロドリゴ神父は本当にそうなのかと思いつつ日本の地に 降り立った。 しかしそこは確かに想像を絶するような、切支丹弾圧の 暴力、殺人が行われていた。 日本の歴史にうとい私は切支丹弾圧が行われたと知っていても 踏み絵を拒否すれば殺されたらしい。という軽い見地しかなかった。 しかしここに書かれていることを知り、ここまで人間は凶暴になれる ものなのか…とショックをうけた。同じ日本人として理解できない。 ロドリゴが捕えられ牢獄で聞いた『鼾』は実は穴吊りにされた信徒の うめき声だった…。自分が背教すれば、苦しみの中にる信徒たちを 助けられる。祈るロドリゴ…「沈黙」する神。 神とは?人間とは?命とは?信仰とは? あらゆる意味において考えさせられた作品である。 | ||||
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沈黙とは、神の沈黙の意である。 極東の地で、日本人キリスト教徒がお上から棄教を迫られ拷問を受ける最中、主人公であるポルトガル司祭ロドリゴが救いを求めてどんなに祈りを捧げても、ひたすら沈黙を守る神。神は本当に居るのか?もし居るなら、何故こんな過酷な受難の最中も、主は救いの手を差し伸べるどころか、励ましの言葉さえかけてくれないのか?牢に入れられ、転ばぬ自分の身代わりとなって穴吊りの刑に処せられる棄教者らの呻き声を耳にして、ロドリゴがひたすら唱える祈りの言葉にも応えることなく、沈黙を守る神。それでも転ばぬロドリゴに師フェレイラは、転ばぬ理由は教会を裏切ることを恐れるからに過ぎず、もしキリスト自身が同じ立場であったとすれば、きっと転んだ筈だと諭す。ついに踏み絵に足をかけたロドリゴの眼に映ったキリスト像は、哀しげに『踏むがいい』と語りかけていた。そして生き延びたロドリゴは、教会を裏切っても、キリストを裏切りはしなかった、と自らに言い聞かせる。 キチジローが言うように、もしこんな迫害さえ受けなければ、彼らは真っ当なキリスト教徒として、その救いを頼みに現世の苦難に耐えながらも、幸せな人生をおくることが出来ただろう。しかし現実には、キリスト教徒であること自体が苦難の元になると言う、理不尽な境遇に追い込まれる日本人教徒ら。そして、自らの存在が教徒らに苦難を齎すことになってしまう、という矛盾に苦しめられるポルトガル司祭たち。 著者が長崎で見た、実物の踏み絵に喚起された想像力が、史実を元に生み出した小説。無論、ロドリゴのモデルとなった現実のポルトガル司祭が如何なる思いで棄教したかは、知る由も無いが、主人公ロドリゴが自らに言い聞かせた理屈は、著者遠藤のクリスチャンでありかつ作家としての解答であろう。 本当は、ロドリゴはどんなに日本人が苦しめられようと、転ぶべきでは無かったろうか?どんなに過酷な拷問にかけられても決して棄教せず、死んで行ったトモギ村の教徒らのことを思えば、理屈の上ではその選択肢もあった筈であろう。今風に言えば、人質を盾に自らの要求を通そうとするテロリストの脅しには、断固妥協すべきではない、という立場だ。確かに、一度でも要求を呑めば、テロの連鎖は止まらなくなる恐れがある。そもそも、教徒らを苦しめているのは、司祭らではなく、お上である井上筑後守らであり、司祭らではない筈だから。しかし、実在の司祭も小説中のロドリゴもその選択肢は選ばなかった。 なぜか? 恐らく実在の司祭は、神の存在など腹の底では信じてはいなかったのではないか。だから教徒らが拷問に合い、自ら殉教に身をゆだねることに意味を見出せなかったのでは無いか。何故なら、本来殉教は神の国への切符を約束している筈なのに、敢えてその切符を拒ばむのは、本当はそんな切符など与えられはしないと分かっていたからではないのか。でなければ、神の国を棄ててまで、教会を裏切る理由が分からない。しかも、苦しんでいるのはキリスト教徒ではなく、それを棄てた者たちなのだから。つまり、実在の司祭は、極めて現世的な価値基準に従って行動したのではないかと思われる。 一方、小説中の司祭ロドリゴは、逆に神の救いを信じていたとしても教会を信じてはいなかった可能性がある。それが、ロドリゴの最後の言葉にいみじくも表明されている。 『聖職者たちはこの冒涜の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない』 しかしこの言葉は、極めて危うい言葉だ。何故なら、この言葉は、誰にも証明できないから。ただ、ロドリゴがひとり心で思っているだけだからだ。他人から見れば、先の実在の司祭と同じように現世的な価値判断をしただけだ、と受け取られ兼ねないのだ。否、これは自分にとっても証明できないとも言いうる。つまり、自己欺瞞の危険すら孕んでいるのだ。意識ではそう思っていても、無意識に自己防衛本能が働き、保身に走ったとも言いうるのだ。 そういう意味で、私にはこの結末はやや不満が残る。このままでは、ロドリゴが極めて小さな人間のまま終わってしまうように思えてならないのだ。つまり、本当の所は別なのに、自分が自分にそう言い聞かせているように思えてしまうのだ。そういう意味で、先のロドリゴの最後の言葉は、自ら語るのではなく他者から語られるべきだったと思う。でなければ、ロドリゴに真の救いは訪れることは無いのではないか?私には、そう思われてならない(H22.3.14)。 | ||||
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島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリスト教徒に対する弾圧は激しさを増していった。司祭という立場に置かれながら、神の存在、背教の心理、文化の違いによる思想の断絶などの問題と対峙する。 祈りという一方向的な事柄に対する沈黙は、認識の差こそあれ相互的な事柄へと昇華できる可能性を秘めているのかもしれません…。 「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」 | ||||
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禁教後、江戸時代初期の日本に忍び込んだ司祭:ロドリゴの物語である。史実を元にしたフィクションである。 カトリックの聖職者としての頑なな信仰を持つ司祭が、禁教国の現実に直面し、 信仰と現実のギャップを埋めるべく、必死に信仰の合理化を図る様が執拗に描写されている。 唯一のテキストを経典とし、頑なで固定的な信仰のスタイルを持つ宗教の不毛さが伝わってきた。 聖書にある神の言葉は大昔に書かれたままであり、現実に合わせて変化することは決してない。 ロドリゴが限られた聖書の言葉を恣意的に現実に適合させるのに心を砕く様は痛々しかった。 幾ら敬虔な信心を捧げても、応えぬ神。 そもそもなんで日本にカトリックを広める必要があったのか。 ロドリゴの師:フェレイラは「我々の神は日本人には理解されない」と言い、 沢山の切支丹を転ばせてきた井上筑後守は「残った切支丹は得体のしれないものとなるだろう」と言うが、 どちらも事実と思われる。特に井上の台詞はそのままに、今につながる隠れキリシタンの存在を指している。 最終的にロドリゴが辿り着いた結論はそれなりに良かった。 しかし、自分から禁教国に忍び込んで苦しんでおきながら、 平和なところで生きている他のカトリックの聖職者を悪しざまに思うのは如何なものかと思った。 これは作者がもつカトリックへの拘りとそれに相反する異端的な思いとの不調和を克服できなかったことの表れに思えた。 そのような不調和があることを、作者は最期まで自覚しなかったのではないかとも感じた。 なんで遠藤周作はカトリックの枠組みに拘りつつ信仰の中身を捻じ曲げようとするのだろう。 キリスト教会よりもキリスト、というのは良いが、それを以て他の聖職者を悪しざまに言うのは違う気がした。 | ||||
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キリスト教の信者になろうかどうかと迷っているときに、この本に出会った。 わたしはミッション系の女子高を卒業したが、それが返って反面教師になっていて キリスト教に対する誤解というか、思い込みのようなものがあった。 それを払拭してくれたのが、この本だった。 宗教家の間には、賛否両論あるだろう。しかし、私にとってはキリスト教を 納得するのに一歩近づけた本だった。 | ||||
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史実(!)を基にした物語です。江戸幕府が切支丹の弾圧をはじめ、高名な神父フェレイラが拷問によって棄教し『転んだ(=キリスト教を捨てること)』ことに非常に驚き、その弟子である司祭ロドリゴなど3名を日本に布教する宣教師として潜入(この当時は既に渡航は事実上不可能)するところから始まります。司祭ロドリゴは神父フェレイラが素晴らしい神父であったことを考えると棄教が信じられず、自ら志願して日本への布教を切望し、命の危険を冒して日本にいるキリスト教信者の為、そして神父フェレイラの真実を確かめるため、日本に渡航する決意なのです。しかし彼らロドリゴの予想を裏切るような日本での生活が彼らを待っています。日本に渡るための最終地点マカオで知り合う1人の日本人キチジローの弱さと狡さ、キチジローを頼らねばならないロドリゴたち。日本での布教と司祭としての責任や重みを噛み締めた上での日本への潜入を誓う神父ロドリゴの見た日本とキリスト教の関係は?また非常に重いテーマでタイトルにもある「神は何故沈黙し続けているのか?」という根源的問いに様々な角度から光が当たります。 史実を基にした構成で、なおこのキリスト教の布教ということに関して困難な時代の、さらに困難な目的の中でより鮮明になる重いテーマに対する明確な著者からの答えがわかりやすい形で示されているわけではありません。様々な角度から、時には掘り返してでも問題を意識させ、そのうえ考えさせるその手腕には小説家「遠藤 周作」の上手さだと思います。当然著者なりの考えがあると思うのですが、どうとでも取れる解釈を提示してくる部分など、かなり凄いです。信仰を持たない私のようなものでも、どう捉えるのか?を考えないわけにはいかないようにある意味苦しめてきます。その取りこぼしの無さはすさまじいとさえ言えます。 また、構成がとても考え抜かれていて、まえがき、書簡(1人称)を経て書かれる本文、そして最後の記述に行くあたりにも凄さがあると思います。非常に練られた構成です。 ある一人の男の生涯という意味においても、読ませる物語(結果は史実)、たとえ神に、信仰に、特にキリスト教に興味がなくとも、日本人であるなら、オススメしたいです。 | ||||
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解決不能な問いを我々に投げかける、重い作品だ。 宗教が無ければ戦争はもっと少ないはずだと言われるし、布教が植民地化と同義であった時期もある。しかし、現場の布教と弾圧の狭間に生きた人々の、信仰と苦しみというのがどんなものであったかと言うことは歴史では習わない。 本書では宣教師の過酷な運命を通じて、異境の中で「信仰する」とはどういうことであるのか、「救い」とはなんなのかと言うことを強く問いかけてくる。別にキリスト教徒でなくても容易に理解できて、考えさせられる作品だ。私は主人公の苦しみの果ての選択を否定する気は全くない。 主人公の司祭は困難に際して「あなた」と「主」に呼びかけて、救いを求める。「主」はそれに「沈黙」を持って答えるわけだが、対話によって信仰が成り立つというキリスト教の宗教としての作法にはちょっと違和感がある。さらに対話の先に奇跡による救済を期待している点に至っては、現実の世で救いが具現化するのを期待するよりは、来世に期待する宗教観の方が健康的な気がした。 | ||||
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