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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全388件 101~120 6/20ページ
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私は無宗教だが、この本を読んでいて、キリスト教という信仰の人間的なあたたかさを感じた。 | ||||
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本当に読む意義のある本だと感じました。 一言では言い表せません。 | ||||
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遠藤周作の文章ってこんなに読み易くすっきりしていたんですね。 この問いは全編を通じて主人公より創造主たる神に投げ掛けられます。 様々な登場人物達の様々な信仰の形 その中で次の問いが浮かびました。 「如何にあなたは創造主と向き合うのか?」 | ||||
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昨年、いつも会うと本や映画の話しで盛り上がる友達が、この作品にかなり感銘を受けたと話していた。先に映画を見たらしく映画のほうも感動したそうだ。 それならと、映画は未見だが、本を手に取った。サラサラと読めて、あっという間に読了。遠藤周作の作品は「海と毒薬」以来だ。 さすがに上手い作家だな、と思う。無駄なものが一切なく、登場人物ひとりひとりの心情がよくわかる。わかりすぎるくらいだ。 だから、誰も悪くないと思えた。 それぞれに事情があり、それぞれに思いがあり、守るものがあり、信じるものがある。 キリスト教、神という主題を掲げながら、ここに普遍的な命題がある。 信じることで救われる、沈黙する神の中に見出す救いの光、それぞれの思いを昇華しながら人間はより良いステージへと進んでいく。 踏み絵を踏むことが「転んだ」ことにはならない、と気づいたロドリゴ。 司祭を売ることが裏切り行為ではない、と思わせるキチジロー。 過去にキリシタンでありながら、キリシタンを取り締まる井上。 それぞれの信念を貫く登場人物たち。 沈黙とは神のことを指すのではなく、沈黙することによって、自己を肯定する行為そのものではないだろうか。 複雑な心情を内に秘め、信念の拠り所としての信仰を描いた見事な作品であると思った。 | ||||
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聖書キリスト教会東京教会のSeiji Oyama牧師の推薦で、本著書を読みました。日本にキリスト教が伝わったのは、日本の学校で教えている年代よりもずっと以前であり、日本全体が、キリスト教の影響を受けている事実が、本著の中で、明らかにされています。「隠されているものは、神様が明らかにする。」の神様の約束が表されている名著です。 | ||||
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少し位読み物でしたが、理解出来キリシタンの訳が良く分かりました。早い対応有難うございました。 | ||||
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極限まで追い詰められた個々の人間の行動。どれもわかる気がします。読後感は悲しみ。 江戸時代の隠れキリシタンと宣教師たちの話ですが、現代でも寛容さに欠ける宗教がらみの争いは続いていることが残念です。 | ||||
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キリシタン弾圧の時代背景や心情のリアリティは感じられましたが、 大どんでん返しを期待していたので最後は「あれ?」という感じがしました。 あまりに評判が高かったので ハードルが上がってしまったのかもしれません。 | ||||
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神について考えるとき、誰でも一度は考えたことはあるのではないでしょうか。 神は存在するのか、と。 そのこと自体考えることが、もしかしたらおこがましいことなのかもしれません。 だが、私たちは人間です。理不尽なことに出くわした時には、とてもやるせない気持ちになります。 ですが、そんなとき神様はいる、これも神様からの試練だと思うことで、 気持ちが楽になるというのは多くの方が経験したことのあることなんじゃないかなと思います。 ですが、もし神様がいなかったら? 今嘗めている苦汁も単に運が悪いだけで、そのこと自体に意味がないとしたら? そのことを考えるとき、自分は世の中の不公平を思ってやるせない気持ちになってしまうことがあります。 子どものころ母に、”悪いことをしたら神様が見ているよ”と言われたことがあります。 今の時代には価値観の多様化で、何が良くて何が悪いのかを決めること自体がナンセンスなのかもしれません。 それに、自分では真面目に生きている、と考えること自体がおこがましいのかもしれません。 こうなってくると、もはやなんだかよくわからなくなってきます。 ここまで書いてきて思ったのは、結局は自分の人生を神様のせいにしたいだけなんじゃないのかと。 なんだか愚痴っぽくなってしまいましたが、最近神様のことでとても印象深いものを読みました。 それは須賀敦子さんの「ユルスナールの靴」の中にありました。 須賀さんにはようちゃんと言う友人がいました。 ようちゃんはあるとき須賀さんに戒律の厳しいところでシスターになる修行をすると須賀さんに告げます。 そして、シスターになったらもう会うことはないかもしれないということも。 これを読んで思ったのは、ようちゃんが何を思い、何を感じてシスターになろうと決めたのかと。 勝手な想像で、また不快に思われる人もいるかもしれませんが、女性にとって男性に愛される道を断つというのは、 比べられないものなかもしれませんが、男性のそれよりも切実で辛いものなのじゃないかと思っています。 そんなことを考えなら読んでると、自分は神様がいようがいまいが 何かを強く信じるというのはとても気高く美しいことなんだなと感じました。 もちろんその描写は須賀さんの筆致があってのことなのかもしれませんが、なんだかとても救われたような気がしました。 この気高さが神様を信じる心からくることなのか、神様という仲介者を通して自分の信念を貫こうとするその姿勢からくるものなのか、 はたまたそれらは分かつことのできないものなのか。 どちらにせよ、信じる者は救われるというのをその本の中で垣間見れたような気がしました。 | ||||
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人間の強い部分と弱い部分の2つを見ることができる。強い人間の例として殉教者を弱い人間としてキチジローをだしていると思う。 ただ、これはあくまで個人の信仰が原因で命を落としかねないような時代背景だからこそのものであり、上記に述べた強い・弱いは現代とは異なる定義なのではないかと思う。 | ||||
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2018.07.04 映画から来ましたけど本じゃないと解らないことがたくさんありました。 | ||||
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40年以上前、高校生の頃読んでおもしろかったけれど「ころびキリシタンの話」としか記憶になかったので再読。 やはりおもしろかった。 | ||||
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とてもすばらしく感動しました。 キリストとユダの関係を、日本を舞台にして上手く表現していると思います。 そして、この作品には、神の沈黙=神は無力なのか、といった。 大テーマが横たわっています。 今の人間は「神」をとうの昔に越えています。 人間は病気を治し、命を救って、宇宙や地球を解明し操作しています。 今後は、人間が人間をつくり、記憶を持ち運び、ロボットに移植して 生きることも可能です。 その時、神は非常に小さな妄想でしかなかったことに気づくでしょう。 その時、人間はどうケジメをつけるのでしょう。 登場人物が話す通り、殉教は無駄死にです。 神はいません。人間がいるだけです。 | ||||
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厚い信仰心にもえるポルトガル人の宣教師ロドリコが、日本に来て幕府から隠れながら布教活動をしていくが、その結果、自らが関わったせいで多くの日本人キリシタンが残虐な拷問をうけて死んでいくのを目にする。そしてついにロドリコ自身が幕府(奉公)につかまり、精神的かつ肉体的に痛めつけられ棄教するよう強いられる。 信仰が人生の全てであるロドリコにとって、棄教することは命を捨てる以上の屈辱である。しかし奉公ら役人たちにより極限まで追い詰められたロドリコは、ついに棄教するにいたる。 物語とは多かれ少なかれ、登場人物の心の変化を描くものであるが、この小説の主人公(ロドリコ)が経験する心の変化は桁違いである。そしてその心の変化を生じさせるストーリーが実に丁寧に、見事に描かれている。丁寧ゆえに、途中やや退屈に感じるところもあるのだが、それもご愛嬌だろう。 ロドリコや他のキリシタンは、なぜそこまで、と思えるほどに棄教を拒んでいる。 その信仰の姿は、もはや狂気であり、滑稽ですらある。人はなぜそこまで実体のないものを信じ、血を流すことができるのだろう。 信仰について、学問的に考えるととても退屈で面倒くさい代物になるが、この小説は机上の空論以上のものを確かに心に突きつけるし、退屈ではない一つの知的エンターテインメントとしても読むことができる。 そう、まさにこの点につきる。日本にこんなヤバい時代があったんだ! そんな発見ができる小説である。 | ||||
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何故、キリストが踏み絵を踏む事を許すのか、人々が踏み絵を踏めないのは、地獄に落ちないように日々拝んで天国や極楽を望んでいる自分の心に存在する神や仏を失うような行為は、それが偶像であっても無かってもできないはずである。 | ||||
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映画を観て原作を読みました。 ストーリーも心の葛藤描写も素晴らしい。 | ||||
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キリシタン禁制の時代に長崎に潜入した司祭の物語。自分のために次々と死んでいく日本人信徒、祈り続けても答えない神の沈黙に苦悩する司祭の内面を描いた本書を通して、キリスト教に対する理解を少しは深めることが出来たと思います。 「その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」 | ||||
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キリスト教徒にとっての永遠の命題である神の沈黙 身の危険を呈し様々な妨害にも屈せず信仰を守り続けている時でさえ何故、神は沈黙を保ち続けているのか。神がいないのだとしたら何故、信徒たちは信仰のために死ななくてはならなかったのか。 そういう司祭の葛藤の中で導き出される遠藤周作なりのキリスト観に感動しました。 | ||||
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宗教について考えさせられる内容であった。自分の信じていた物と現実のギャップを百姓達の拷問の様子を見せられ、神が居れば助けてくれると信じたが結局神が何かをしてくれる事はなかった。結局キリスト教とは何なのかを考えさせられろル事であった。 | ||||
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長いこと「神はいるのか」という思いを抱えて生きてきて、遠藤周作さんの「沈黙」を読んで、これまで言葉にできなかったモヤモヤとした気持ちを明文化して、腑に落ちたことがたくさんありました。こちらの本を通して小説「沈黙」の取材の様子や背景を知ることで、遠藤周作さんと思索の旅を一緒に体験できたようで、自分の中で神に対する思いをさらに整理できたように思います。 | ||||
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