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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全389件 21~40 2/20ページ
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迅速に届きました。ありがとうございます。 | ||||
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扱っているテーマ、そして筆力をもって表現されたリアリティは類をみない。 テーマは「弱者の神」。棄教した司祭である。ユダのように裏切るのに、それでも自分は弱いと自白するキチジローを許せるのか。 そして、丹念な取材によるリアリティ。匂いやうめきまでもが伝わってくる。 かなりサディスティックで特殊な状況だけれども、特殊な状況であるがゆに、突きつけられたものに真実性を感じることができる。 | ||||
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自分がクリスチャンで信仰があり、聖書の内容も分かっていたが、現代社会に生きるクリスチャンと、江戸時代の禁教された中でのクリスチャンとは、生き方も何もかも全てが違って、比較もできないと感じた。 もしこの時代に自分が生まれ、信仰を持ったならば、キチジローのように生きたかもしれない。 キリスト教関係の出版物は、いわゆる証しという、父なる神様がどれだけ自分の人生に良いことをしてくださったかという恵みや感謝にあふれた本が大半を占める。 しかし、この本は創作とは言え、対局のエッセンスが詰まっており、しかも、神の「沈黙」がテーマなのだから、その洞察の深さには恐れ入る。 | ||||
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キリスト教迫害について深く知らなかったが,布教者もとても苦しめられたことを初めて知った。生月島の隠れキリシタンの教えとはまるで違ったものになってしまったことを知っているので,キリスト教と日本人について深く考えさせられた。 | ||||
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ネットフリックスで見たとき余りに"白人"側それもキリスト教の目線だけでびっくりした。 ポルトガルと言えば硝石と引き換えに大量に日本人女性の性奴隷を買って黒人船員の慰安に使っていた奴隷海岸の商人もマッツァオの歴史があります。 羽柴秀吉がキリスト教になぜキレたかとかローマに向かう少年たちの嘆きとか歴史を調べればすぐ分かるはずで差別に厳しいネットフリックスが当時とはいえ奴隷商人の片棒を称賛し罪を隠す様な人種差別的な映画を作れる筈がないと思ってました。 日本人の書籍を映画にしたと言い訳が経つからだったんですね。。納得しました。 | ||||
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何故キリシタンは弾圧されたのか? 何故鎖国政策をしていたのか? 何故オランダとだけ貿易していたのか? 学校の授業で1番大事なところをちゃんと勉強していないと事実が見えてこないでしょう… 先生も、いやいやそもそも教科書が… ネット環境があって自分から正しい情報を取りに行けばこの本の内容に対する評価は180度変わるでしょう もちろん完璧なフィクションであると割り切って読めばお涙頂戴のエンタメとしては少しは… 最期に、何故本能寺の変が起こったか…? ここまで繋がれば歴史を見直すキッカケとして この本も少しは評価できるかもしれません | ||||
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カトリックにかなり媚び売ってますね。 ドストエフスキーやトルストイ(彼らはロシア正教ですが)に比べると信仰描写が拙い。 彼らはキリスト教や宗教というものを猛烈に批判して、それでもやはり信仰は棄てきれないものと描写している(曖昧ではありますが)。 対し、なぜそこまで棄教したくないのか?その肝心なことが書いていない。 なんとなく、雰囲気だけで壮絶なキリスト教文学として読み取って下さい、といういい加減なメッセージすら感じる。 スコセッシの映画もみましたが、監督は最初素晴らしい!と雰囲気だけ感じて、でもよくよく読んで解釈に困ったのではないでしょうか(これは邪推ですが)。 映画が伝えたかったことが原作からかなり曲げられてる感じがしました。 | ||||
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長崎に訪れる機会があったら、これを読んでからだと、さらに旅行が楽しくなるでしょう | ||||
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映画・沈黙の原作ということで、映画鑑賞前に拝読しました。 全編に渡り、モノトーンの画が浮かぶような悲愴な物語の中、パードレとしての苦悩・矜持・諦め、そして、ゴルゴダの丘での出来事と自らを重ねて夢想し絶望する姿は、言葉にならない重たい何かを残した作品でした。画像が美しい映画に、期待を寄せます。 | ||||
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Nothing regretable | ||||
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初めて純文学の本で面白いと思えた本である。夢中になって読んでしまった。 神とは、信仰とはなんなのか。どれだけ祈ろうと願おうと現実はあまりにも残酷で冷酷である。主はずっと沈黙を貫いている。なぜあなたは何も言わないのか。口を閉ざすのか、沈黙を貫くのか。あなたはいるのか。 宗教とは何なのか、とても考えさせられる。 舞台はキリシタン弾圧下の長崎。日本での布教を目的にイエズス会から2人の司祭が長崎に上陸する。 自分も歴史は割と好きで個人的にフラッと調べたりするけど基本的に自分は日本の奉行寄りの考えでキリスト教の布教や宣教師に対していい思いは持っていない。 免罪符の販売でルターから批判されて自国で信者を失って焦って食い扶持と権力を絶たれることを恐れたイエズス会本部の肥えたおっさん達が、若い活力のある宣教師達にハッパをかけて危険な海外布教に行かせて、命令した本人達は自国で踏ん反り返り、野心に燃えて布教に行った宣教師達は酷い目にあう、そんな感じだったんだろうなきっと。 歴史を紐解くとヨーロッパ諸国の常套手段で 宣教師が来て信者を増やす→商人が行って市場を掌握する→最後に軍隊が行って植民地化する。 という流れで植民地を増やしていったらしいけど、日本は島国であり、そしてそう簡単に行くほど日本人は馬鹿じゃなかったから植民地化はされなかった。 本だけを読むと宣教師が正義で日本奉行側が悪のように描かれてるけどその背後の歴史まで知ってから読むとまた見方が変わる。植民地化する一歩目を歩もうと日本に入ってきた憎き宣教師に対して棄教すれば日本での住居と妻を当てて生活の面倒まで見るって言ってくれてるんだからかなり良心的だと思う。 いろんな見方ができて面白い。 | ||||
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ヨイ商品でした。 | ||||
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苦境の中で神を信じることは難しいのだなと思った。教えを体現することも。 | ||||
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中学生の子供のために購入。世の中の理不尽について学んでほしい。 | ||||
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これも利用したいです。 | ||||
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宣教師の思い、農民信者の基督教に対する理解度、幕府が弾圧しなければならない理由が良く理解出来る内容です。 | ||||
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2022年9月11日読了。 踏む場面はもちろんのこと、かつて師と仰いだフェレイラが変わり果てた姿で自己否定に走る、そのうえでロドリゴと問答していく場面がなんとも虚しい。 棄教は自分の信じるもの、生きがいを捨てること。 なにも殉教しなくてもと思うかもしれないが、既存の仏教などで救われぬ人々が新しい宗教に助けを求めるのもまた自然なのだろう。それを棄てることは、自分を自分で焼き捨てるも同然。 身のつまされる思いのする作品。 | ||||
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永遠の名作 | ||||
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前半は名作「沈黙」の裏話を散りばめつつ、軽い文体で西欧キリスト教の表象について解き明かし、日本人の常識と西欧キリスト教の違いや、キリスト像も時代につれて変遷する事などを取り上げています。 しかし。 「母なるもの」の章で、文体は一変します。 長崎県浦上町の隠れキリシタンを訪ねる旅の話ですが、この一章は本格的な短編小説として屹立しています。 冒頭の研ぎ澄まされた簡潔な文体による船着き場の描写の数行から、著者がこの一章を渾身の思いを込めて書いている事が伝わります。 岸壁に打ち寄せる波の音や漁村に沁みついた魚の匂いまで感じられる風景描写、長崎県浦上の隠れキリシタンと「私」自身の母の思い出を交互に描出していく緻密な構成に、著者の卓越した技量を味わえます。 (もちろん、ここに描かれた私小説的な「母」を事実と考える必要はありません。) 今は亡き「私」の母、母の遺品の戦災に焼けた「哀しみの聖母」像の面影は、隠れキリシタンの納戸神、「胸をはだけ、乳房を出している、この島にどこにもいる女たちの顔」をした聖母像へと繋がります。 「この涙の谷にて」という隠れキリシタンのオラショは、旧約聖書の詩篇を連想させます。 そして、 「むむ 参ろうやなア 参ろうやなア パライゾの寺にぞ、参ろうやなア」 という長崎県浦上町の次郎さんの唄は、「沈黙」のあの名シーンに出てくる唄です。 この渾身の短編小説は、前半部の一編一編のテーマと密接に響き合っています。 この一冊を通して 名作「沈黙」の遥か彼方に響いている「声」を読者は感じ取る事ができるでしょう。 (ちなみに、まったくの私見ですが、日本人は母性的な観音信仰だけで生きてきた訳ではない気がします。戦乱、病魔、災厄、人間の力だけではどうにもならない数々の苦難にあえいでいた日本人は、毘沙門天、不動明王など、外敵を打ち払い、災厄から守ってくれる力強い仏像も信仰していました。日本人の信仰には、災厄や魔から守ってくれる父性的信仰、観音像に象徴される母性的信仰の両方が存在していた気がします。) 本書「父の宗教、母の宗教、マリア観音について」の章で、著者は 「新訳聖書は、むしろ「父の宗教」的であった旧約の世界に母性的なものを導入することによってこれを父母的なものとしたのである」と言っています。 旧約の時代は、血で血を洗う復讐を繰り返す時代でした。その時代に、守らなければならない明確な行動規定としての律法、「父の宗教」は必要だったのかもしれません。 しかし新訳の時代に「母性的なものを導入することによって、父母的なものとなった」と著者は言っています。 日本人の魂にも、父性的信仰と母性的信仰が存在し、さらに「父母的なもの」超越的な信仰があったのではないでしょうか。 | ||||
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親に頼まれて注文しました。 | ||||
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