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沈黙



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沈黙の評価: 4.41/5点 レビュー 388件。 Bランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点4.41pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全388件 141~160 8/20ページ
No.248:
(5pt)

読み直してみました!

マーティン・スコセッシ監督の映画が封切りになったので、まずは原作を読み直してみました。以前購入していた本が見つからなくて、文庫本を購入しました。遠藤周作の代表作といえる作品で、改めていろいろと考えるところがありました。
名作です。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.247:
(4pt)

一気に読めた

一気に読めた。少し暗〜い。人間は残酷だ。映画も見てみたいな。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.246:
(5pt)

日本人への励ましの手紙

遠藤周作、川端康成、大江件三郎。この3人の作家を並べて論じたのは、おそらくフジムラ氏の「沈黙と美」が初めてだと思う。画期的な文学論でもある。特に、文学者の自死の問題について切り込んだのも素晴らしい。なぜなら、それは、日本人の美意識と切り離せない問題であるからだ。著者が幼少期、鎌倉で川端康成の近所に住んでいたというエピソードも興味深い。

 川端康成の透徹した美とは対照的に、遠藤の文学を以下のように評している箇所がある。

 「遠藤の文章も銀色というメタリックな「第三の色」である。それも、空気に触れて深いチョコトルブラックへと変色したものだ。」(74-75頁より)

 日本画家ならではの描写と分析が面白い。

 日本文化を評する際には、日本人の二重構造あるいは双極性について言及されることが多い。ルースベネディクトは「菊と刀」で、日本人の本音と建前との二重構造について論じており、また、心理学者の岸田秀も「ものぐさ精神分析」の中で、日本人の精神の二極性について述べている。少しだけ紹介すると、岸田氏は、日本国民の精神分裂病素質をつくったのは、ペリー来航の事件であり、それよって惹き起こされた外的自己と内的自己への日本国民の分裂は、まず、開国論と尊王攘夷論との対立となって現れた、と述べている。

 本書の中でも、大江健三郎がこの双極性について言及した以下のことばが紹介されている。

 「開国以後、百二十年の近代化に続く現在の日本は、根本的に、あいまいさの二極に引き裂かれている、と私は観察しています。のみならず、そのあいまいさに傷のような深いしるしをきざまれた小説家として、私自身が生きているのであります。」(大江健三郎のノーベル賞受賞記念講演より)

 しかし、本書が斬新であるのは、この双極性に「踏絵」が橋を掛けていると述べている点にある。

 「遠藤の聡明さは、すり減ってなめらかになった踏絵の表面にこの傷跡を見つけ、そうすることでこの「あいまいさの二極」に橋をを架けたことにある。」(107-108頁より)。

 昨今の社会および政治の閉塞状況の中で益々極端な方向への流れが強くなっていることを感じるが、ここでしばし立ち留まって、押し流されず、著者と共に、この「すり減ってなめらかになった踏絵」の意味を静かに考えてみることも有意義なのではないかと思う。

 また、本書は、斬新な文学論・日本論であると同時に、日本人に対する励ましの手紙であるとの印象を受けた。著者はこのように語りかけている。

 「層の中にある死は、粉砕されて幾重にも重ねられた顔料のように、豊かさを増殖させ、百倍にも反映させる。日本の土壌もそうなのだ。江戸時代や広島、長崎、そして現在の福島のトラウマがあっても、土壌を怪我されてもない。どの死も、どのトラウマも、世界にとっての糧を福音が見出すことのできるオアシスに、日本がなるために準備である。」(251頁6-9行目より)

 この本は、決して急いで読む本ではなく、じっくり時間をかけて読むのがよいと思う。できるならば、本書に登場する数々の芸術家、遠藤周作、川端康成、大江健三郎、利休、長谷川等伯、長谷川久蔵などの作品を味わいつつ、そして機会があるならば、著者の作品も鑑賞しながら読み進めてみると良いと思う。
沈黙と美: 遠藤周作・トラウマ・踏絵文化Amazon書評・レビュー:沈黙と美: 遠藤周作・トラウマ・踏絵文化より
4794969546
No.245:
(5pt)

沈黙する力

ハリウッド映画化されたので読んでみました。「神の沈黙の力」を得ることは真の信仰であり信仰への力の源となり本人を支える。キチジローは沈黙の力を得られたのか?読み終わっても分からない。信仰は人間の弱さへの拠り所である。しかし遠藤周作は海と毒薬だな。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.244:
(5pt)

沈黙と美:遠藤周作・トラウマ・踏絵文化

遠藤周作についての文芸評論で、もっとも優れていると言えよう。
 とにかく、何かと誤解をも招いている遠藤の人柄を、芸術家の鋭い洞察力で分析しているのではなかろうか。
 従って、遠藤文学を理解するための必読の書と言えよう。
沈黙と美: 遠藤周作・トラウマ・踏絵文化Amazon書評・レビュー:沈黙と美: 遠藤周作・トラウマ・踏絵文化より
4794969546
No.243:
(3pt)

難解

最近ハリウッドで映画化されました。不朽の名作と名高い作品ですが未読だったので購入してみました。
ページをめくる手が中々進まず、淡々と進んでいく(内容は波乱に満ちてますが)文章にハマりきれず、読みきるのに時間がかかってしまいました。
私の知識不足故ですが、最後の漢文のページなんて何が書いてあるのかさっぱりでした。
映画の方はまだ観てませんが、映像に向いてる作品だと思うので機会があれば是非観てみたいと思います。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.242:
(4pt)

映画と原作

「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」
「基督教と教会とはすべての国と土地とをこえて真実です。でなければ我々の布教に何の意味があったろう」
「日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在をもつものを神と呼ぶ。だがそれは教会の神ではない」
「あなたが20年間、この国でつかんだものはそれだけですか」
「それだけだ」フェレイラは寂しそうにうなづいた。(236p)

映画を観たので原作を紐解いた。どうしても確かめたかった点があったからである。それは後述するが、フェレイラとドロリゴの対決場面や井上筑前守との対決場面は、基本は映画と同じで流石に詳しく描かれていた。

この会話は、加藤周一の「日本文化史序説」を読んでいる私には頷く所の多いものだ。日本の「土壌(文化)」には、確かにそれがある。しかし、それと日本人一人ひとりにその能力が有るか無いかとはまた別問題であるし(実際に「ホントの神」を信じた宗教家は何人かいる)、ましてやそういう文化的土壌があるからといって、人間の思想を権力が強制・弾圧するのは言語道断ではある。と、370年後の私が言っても仕方ないのだが。スコセッシ監督は、台詞をかなり選んではいるが、原作にかなり忠実であったことを確認した。問題のキチジローの描き方も、彼の存在そのものの解釈は様々に出てくるかもしれないが、基本的原作に忠実であった。

「主よ。あなたがいつも沈黙しておられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」(294p)

私の解釈は、キチジローはやはりロドリゴの揺れる心の分身であったのだ。

映画ではロドリゴの日本人妻が彼の葬式時に密かに聖像を含ませた。紐解いて確かめたかったのは、これは原作にもあるのか、ということだった。「あれは妻を教化するほど、信仰を捨てなかったことだろう。あの場面の意味をどう考えるか、でこの作品内容は大きく変わる」という映画仲間もいたほどだ。結論からいえば、あれは映画のオリジナルだった。しかし、

聖職者たちはこの冒瀆の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日(こんにち)までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。(295p)

このラストのロドリゴのモノローグを映画的映像に「直した」のが、あの場面であったことがわかるのである。

無神論者の私が映画の時に感じた「一般的な思想弾圧」に対する感慨は、原作の時には微塵も感じることができなかった。純粋にキリスト教について、私は様々な感慨を持った。そしてそれこそが、おそらく小説と映画との違いなのだろう。

2017年4月13日読了
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.241:
(5pt)

感動的です。

マーチン・スッコセシオ監督の映画を見たあとに、購入しました。内容が手に取るように理解でき、映画と比べながら読み終えました。
映画もさる事ながら、こちらの本のほうがやや情景豊かに表現されています。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.240:
(5pt)

沈黙という叫び

正直、ベースにあるストーリーは驚きを含んだものでもなく、実にシンプルなものだと思う。

しかし、それを感じさせてくれない程のドラマティックな描写に、いつしか夢中で読み進めていることに気付かされた。

神の沈黙という、信仰を持つ方にとってはある種普遍的なテーマであるのではないだろうか。

届かぬ叫びはいつしか沈黙になる。
裏切りを恨み突き放すのでなく、その弱さを知るが故に放つのである。

語らぬことは誤解を生むこともあるが、
それは語れぬ者にしか語れぬ領域でもある。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.239:
(5pt)

単なるキリスト教に関連した作品ではない

遠藤周作の作品はこの記事を書いている時点でこの作品及び『海と毒薬』を読んだことがある。『海と毒薬』の方は非常に印象的な作品だったが、それは作品が秀逸である、というよりもその陰鬱で生々しい雰囲気が記憶に残っている。そしてこの『沈黙』も当然といえば当然ながら同じような特色である。

 舞台は鎖国直前の日本であり、話の内容はキリスト教徒と踏み絵を取扱っている。端的に言えば踏み絵を踏まないことにより己の信仰を守るか、それとも己と他人の命を守るかという確かに物語においてよく見られるものといえばそうである。それをこの作品を独創的な作品たらしめているもの、いわば「文学」たらしめているものは何かと聞かれれば、やはりその作品全体に流れる「空気」というものであろうか。形容しがたい陰鬱な空気が作品内において充満しており、それが読み手を物語に引き込む。

 この物語は決してキリスト教徒だけに向けられた作品ではなく、また彼等だけが堪能できる作品でもない。人間誰しも矜持というものは持っており、なるほどそれが虚栄といった悪徳の原因にもなろうが、ともかくもそれがその人間の核となる。しかしながら、人は金なり地位なり業績なり理想なりを求めるが、その際世間という雑踏の中へと飛び込ん行かなければならない。そしてそこで己の持つ矜持が侵害されることがままある。それが侵害された時、人はどのような行動をとることができるのか。いや、というよりどのような行動を「取らざるを得ないのか」。
 私は単純に人の持つ矜持をどこまで守り通せるかとか、生き様を貫きとおせるとかどこか凡なことを言いたいのではない。社会において自分の存在核となるものが侵害された時の痛みを、自分の(世俗にしろ崇高にしろ)望みにどこまで天秤にかけられるか、ということである。このことを踏まえてこの作品を堪能するための条件はキリスト教徒か否か、という表面的なものではなく、この存在核をどれだけ人は持っているか、そしてそれが侵害された時の痛みをどれだけ痛感できるのか、という点にある。

 作品の独特な空気が、主人公である司祭のその存在核を蝕んでいく。しかしその陰鬱な空気は何も作品内だけではない。やはり現実生活においても自分の存在核を蝕んでいく。我々は司祭と同じく闘い、そして司祭とは異なり戦い続けなければならないのか。その判断は各々の読み手に委ねることとしよう。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.238:
(3pt)

映画を観損ねて原作を読んだが・・・

主人公であるロドリゴには、ジュゼッペ・キャラというモデルが実在する。もちろん、小説的な変改は加えられており、作品は史実というわけではないものの、扱われている事件や人物の大方は、史実に基づいているらしい。
 とはいえ、この作品を読んでも、特に時の幕府のキリスト教弾圧が惨いだとか、拷問された宣教師が可哀想だとか言った感情は、不思議と自分には湧いてこない。なぜだろうか。それは、宣教師たちが、日本に行けばどういう運命を辿ることになるのかを分かった上で、敢えて来ていたからだ。当時の日本が採っていた宗教政策も、また切支丹が拷問にかけられることも、ポルトガルやその他の国にいるキリスト教宣教師は全て知っていた。それでも敢えて日本に潜入したのである。つまりそれは、違法だとわかっていて確信犯的に違法行為に手を染めるようなものである。で、あれば、同情の余地はない。むろん、当時の切支丹を取り締まっていた政策が良いか悪いかは全くの別問題である。
 しかも、井上筑後守(映画ではイッセー尾形)やその部下の通辞(映画では浅野忠信)は、何度も何度もロドリゴ(映画ではアンドリュー・ガーフィールド)にも、フェレイラ(映画ではリーアム・ニーソン)にも棄教を促し、棄教しなければどんな目に遭うかも教えていた。それにもかかわらず、断固として棄教に応じなかった。その結果が拷問だったのである。ならば、それは宣教師本人の自業自得なのであって、それもまた日本に来る前からわかりきっていたことなのである。よって、時の日本政府の拷問が酷かったという批判も、一概に適切な批判とは言い難い。
 さらにもっと言うならば、井上筑後守がロドリゴに語ったように、宣教師たちの身勝手なキリスト教拡大の“野心”のために、無辜の百姓たちが無残にも拷問されたのではないか。キリスト教が拡大しようとさえしなければ、そもそもそんな悲劇は起こらなかったのではないか。宣教師たちが身の程をわきまえて余計な拡張・拡大を試みたりさえしなければ、自分たちが拷問されることも、百姓が酷い目に遭うことも、そもそも無かったのではないかだろうか。まぁ、そこまでいってしまうと、「鶏が先か、卵が先か」という類の議論になってしまうのだが・・・。
 さて、作品名の『沈黙』とは結局、どういう意味だったのだろうか。やはり、「神は助けてはくれない」、「神は沈黙を貫くものだ」という意味に自分としては解釈する。そして、それはひいては、「天は自ら助くる者を助く」という意味に転ずるのではあるまいか。つまり、ただ祈っているだけでは神は助けてはくれない。何かを語ってもくれない。自分で自分の運命を切り拓こうとする者だけしか助けてくれないのである。
 キリスト教の信者数は世界の宗教の中でも最も多いそうだが、日本に限ってはその例外で、日本でのキリスト教信者はわずか260万人に留まっており、日本の全人口の50分の1程度しかいない。歴史上、宣教師たちが幾人もやってきてはその布教に挫折していった。世界では通用したかもしれないが、日本では通用しなかった。それは、日本が歴史的に持っていた、八百万の神々を奉るという日本古来の考え方があって、キリスト教もまたその中に呑み込んでしまったからなのではないだろうか。世界的にみれば世界最大の宗教といえども、日本において八百万の神々の中では、キリストもまた神々の中の1柱にしか過ぎないのである。しかも、キリスト教という宗教そのものさえも、日本流にアレンジしてしまった。つまりそれは、作中でもフェレイラが言っていたように、本来のキリスト教では決してなく“日本版基督教”なのである。
 他の諸国と比較して、日本はなんと懐が深く、奥行きがあり、幅は広く、なんと深遠なことだろうか。たかが一宗教ごときで、世界最古の国たる日本國を、日出ずる処の国たる日ノ本を、支配したり白人の思うように従えようなどと考える白人たちの、なんと愚かで浅はかなことか。図らずも、この『沈黙』は、そういうことを露呈してしまったのではないかとさえ、思えてくるのである。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.237:
(5pt)

遠藤周作の日本人への警告。

最近寒くてまったく外に出ていなかったのだが、ニートになると、結構やることが多い。バイト探したり本を読んだり、とくに最近、小説ばかり読んでいるんだが、名作小説は、つまらないものに当たると時間を消費することが多い。ところがついこないだ映画化で話題になっている遠藤周作「沈黙」を読んだら。これがまた久々の大当たりであった。むちゃくちゃ面白い小説だったので紹介したい。まー。どういう話かというと、フェレイラ神父っていうエライ神父さんがいたわけ。その人が「信者救いに行くわ」つって、ひとりで日本に向かっちゃうのである。颯爽と。潔く。生徒たちその後ろ姿、見ながら、「かっこいいいいいいい」ってなるんだけど。しばらくたって、向こうの伝来から「拷問キツイから信仰辞めるわ」って連絡が来て、「なにやめとんねん」みたいな。そういうズッコケからはじまって、オレたちも日本に行こうぜ!ってことで、この始まり方が、とにかく最高なのである。
 それで日本に行くぞってなった神父たちに悪代官イノウエが襲いかかる。もうひとつ。オモシロポイント。イノウエ。神父達を苦しめる悪代官。フツーのおジイちゃん。なんだけど、冷酷。かつ論理的にキリスタンを血祭りにあげる悪代官で。やってることはサイコでも、ちゃんと筋の通った思想をもっていて、しかもなぜか元キリスト教徒、っていう、こちらの世界を一回見わたしたバイリンガルです、みたいなキャラクターで「穴吊り」とかいう(遊び心に満ちた)拷問もしかけてくる。とにかくこのイノウエは、風格ありまくり。この小説において、悪の華ともいうべき存在感をはなっていて、キャラ立ちまくりなんである。
 そんであっさりイノウエにつかまっちゃうんだけど、ご飯までくれるイノウエ。なぜか拷問もされない。あれ、イノウエ優しいやん。って思ってたらフェレイラ神父と再会。でも。なんかおかしい。いつもと様子が違うって、よく見たら、和服きてる。しかも周りから「沢野さん」って名前で呼ばれてて、「え!?・・・た、沢野さんwwww 沢野さんってどういうことですか?沢野さんってどういうことですかwwww」ってつめよったら、「うるさい。あんま沢野さんさん沢野さん言うな」みたいな。本人が一番気にしてるみたいな。 しかもキリスト教を捨てて反キリスト的な活動に準じていたフェレイラ。あのフェレイラ神父がなぜ!?・・・っていう。実はイノウエ、フェレイラに「棄教しろ!」と詰め寄ってほかの信者を拷問していた。その戦法に、最初はフェレイラも耐えてたんだけど神に祈るうちに「あれ? こんなに罪のない人がやられてるのに、神様が黙ってるっておかしくない??」「なんか一言ぐらい「がんばれよ」とかフツーあるんじゃね?」みたいな根本的な疑念にとりつかれて、キリストを捨ててたの。そんで「さぁ踏めぁああ」って主人公も踏み絵のまえにたたされて・・・。神様ーーーー!!!!!!って、思いながら、拒んでたら、そのときにどこからともなく「気にしないでええ」みたいな。えー・・・キリスト様ですか!? いんですか?ってきくと、「別にいいいよおお」みたいな。いやー、そういわれて、あぶなかったー。ギリギリなんとか踏めました。あぶなかったっす。みたいな、・・・まぁ、そういう感じで終わっていく小説なんだけど・・・。
 反キリスト的な行動を強いられる主人公の生活がマーティンスコセッシの映画では、原作よりも「だらだら」と描かれていて、そのだらだら感が原作よりも絶望的でよかった。イッセー尾形の原作の井上より怖い。役者陣がとにかく素晴らしく、映画も文句なしに傑作だった。
 でも、このハナシ結局、何が言いたいのかよくわからない。「深く考えさせられた」みたいな薄っぺらい感想しか湧いてこず解釈に戸惑った。遠藤周作は何が伝えたかったのか。いや、これ俺の勝手な解釈なんだけど、実は、この小説、日本人に対する批判が込められているんなんじゃないかな。と思った。作中で日本人が「カタチだけでいいよお」という言い方でキリスタンに「棄教しろ」と迫るわけ。つまり行動は規制するけど内面の信仰は自由やと。でもキリスタンにはそれが理解できない。内面と行動は表裏一体だから。こと信仰に関しては、内面と行動が矛盾するのは西洋人には理解できない。ここに遠藤周作の問い掛けがある。なぜ日本人は、西洋人に理解できない内面と矛盾した行動がとれるのか。表向きの「タテマエ」がやたら強調されて、日本人はそれにペコペコと従えるのか。天皇のご真影に頭を下げろ、と言われたら頭を下げる。戦争反対を言おうにも周りに同調して戦争に協力する。子供には死んで欲しくないのに「バンザイ」と言って家族を戦場へ送り出す。死にたくないのに特攻に行く。こういう『ホンネを封殺して「タテマエ」だけに従う姿』が小説の中で痛烈に皮肉られている。
 つまり心の「ホンネ」が封殺され表向きの「タテマエ」が過剰に強調され始めたら、それは日本が滅びる寸前の傾向だから気をつけろ。という警告が込められているのである。本音や信仰を告白できず「タテマエ」に盲従し始めたら、日本は坂道を転げ落ちるように転落するぞ。という戒めが込められているのである。
 まー、そんな堅苦しいことを考えなくても、十分おもしろいので春の読書日和に読んでみてはどうか。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.236:
(5pt)

遠藤の『沈黙』では、読者の為に、神は沈黙を破って、言葉を発した。主人公には、その神の声が、しっかりと聞こえた。そして、それは「生きる力」に変わった。

神よ!「生きる力」を、お与えください!神よ!「生きる意味」を、お示しください!
神よ!貴方は全能です!神よ!貴方に私を委ねます!神よ!貴方に感謝致します!
・主イエスの教えたもうた祈り ・ゲッセネの園でのイエスご自身の最後の祈り 
そこでは、神はまったく「沈黙」であった。
だからこそ、イエスは「一人」「夜通し」祈られた。弟子たちは、体の疲れで、眠ってしまっていた。
○ ○ ○
やはり、「最初の福音書」著者マルコは、すごい!イエスの惨めな死と神の完全な「沈黙」を描き切った。
ヒトラー総統暗殺未遂者ボンフェファーは、『獄中書簡』で神の「沈黙」を、「歴然たるこの事実」を受け入れた。
そして内心震えながら、絞首刑で殺された!
そして、カトリックは、遠藤周作の小説『沈黙』を禁書にした!

イエスが30歳頃、
ヨルダン川で、浸水礼(洗礼)を受けた時には、天からの声が、「イエス一人だけに」聞こえた。
「お前は、我が愛する子。」
ここの時初めて、イエスはキリスト(救世主)に就いた。

他方、イエスが34歳頃、12弟子を引き連れ、わざわざ、首都エルサレムに上って行って、
ユダヤ民族最大の「過ぎ越しの祭り」の直前に、
政治犯の処刑方法の十字架刑で殺される時は、
イエスが必死で、最後の力を振り絞って大声で、
「我が神よ!何故にお見捨てになったのか?」と叫んだが、と祈ったが、
神は一言も応答しなかった。
完全に「沈黙」であった。
イエスはこの「沈黙」を確認した後に死んでいった。
つまり、イエスは、神から、完全に「梯子」を外された、「神に見捨てられた」と思ったまま死んでいった。

この時イエスは「この現実」をどのように考えたのか?
著者マルコは、このことを一切記述しない!
「マルコ福音書の読者」一人ひとりが、考える事であり、
著者マルコは、「正解」を提供してくれない。
著者マルコは「正解」を知らなかったから書けなかったのだ。本当にそうだろうか。???

しかし、他方、マルコは、
ゴルゴダの丘から遠く離れた高台の「エルサレム神殿の至聖所」内の「聖域を隔てる幕」が真っ二つに裂けた、と記述している。
遠い2ヶ所での「同時の出来事」を知る見る事は、原理的にはできない。
これは「神の視点から」見て、初めてできることである。
また、幕が裂ける事は、聖域と俗世間との隔たりが無くなった事でもある。「ユダヤ教の世界観」を裂く破棄する事である!

これで、著者マルコは、何を言いたいのか?
洗礼時には「天からの声」があったのに、十字架での刑死時には、天からの声は、イエスには「一言も」聞こえなかった。

イエスは、この「神の実在」に向って、叫び続けた。
その神が、自分が殺される時、「一緒に」居て下さる、
「神が自分を見て下さっている」ことに、疑いはなかった。
たとえ「沈黙」であっても。

「遠藤周作の描くイエス」も、まったく同じだった。

病人に対しても、病気を治すのではなく、一緒に居て、病人の痛みと不安を伴に感じるだけであった。

「力に満ち溢れたキリスト・イエス」の否定である。
この遠藤の「病気を治す奇跡を行わないイエス」理解は、日本のカトリック教会内では、許せなかった。
遠藤の『沈黙』は、信徒を惑わすものとして禁書にされたという。

しかし、これはイエスの生涯を、とことん見つめれば、見出される結論である。

遠藤の『沈黙』では、読者の為に、神は沈黙を破って、言葉を発した。
主人公には、その神の声が、しっかりと聞こえた。
そして、それは「生きる力」に変わった。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.235:
(5pt)

読後の「もやもや」する気持ちについて。

映画化をきっかけに、書棚の奥にあった文庫をひっぱりだしてきて読んだ。長年、いかにもかたくるしい日本文学、っぽく見えて、気分がのらなくて放置していたのだが、読後は、案じていたようないやな気分にはならなかった。

遠藤周作自身、日本の数少ないキリスト教徒としての苦悩があったらしいので、ロドリゴやフェレイラが彼の代弁者だな、と最初は思っていたのだが、キチジローや井上筑後守にも思い入れがあるように感じられる。日本人が信じているのは基督教の神ではない、日本人は神の概念をもてない、とフェレイラはいうが、キチジローや井上筑後守も、ある意味で「信心深い」人間として描かれているので、「あれ?」と思う。

つまり、自らの神、信仰を守るためには、他者の神、信仰を否定し、迫害しなければならないってこと? 迫害するかされるかの、二択しかないってこと? 
まあ、宗教に限らず、他人の信念を否定し、揚げ足をとるのは、たやすい。すべてにおいて正しい人間なんているはずがないから、相手が論理的に間違っているところを探して、そこを攻撃すれば良いだけのことだ。
だけど、お互い、それを続けたところで何も変わらない。小説『沈黙』にも、登場人物たちはどうすればよかったのか、という明確な答えは用意されていない。なので、読後ひたすら「もやもや」する。
「もやもや」しながら、こうやって、あいまいで、どっちつかずになることが、日本人のよくないところだって言われるんだろうなあ・・・、なんて、自己嫌悪したりも、する(笑)
だけど、「もやもや」が、かけ離れた意見を、両方理解しようとする姿勢のせいなら、「もやもや」こそが第三の選択肢だ。
だから、もうちょっと、「もやもや」しておこう・・・と思った。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.234:
(5pt)

宗教とはなんなんだろう

宗教の在り方について考えさせられました。
日本人が自分達に都合の良いように基督教の教えを変えていったこと、ロドリゴが踏絵を踏んだことも神の思し召しと考えたこと、キチジローがあれだけロドリゴや基督教を裏切る行為をしてもまだ教えにすがろうとすること、、、。
宗教は弱者を強くしたり、助けてくれたりするものではなく、それぞれの生き方や信念を肯定して、生きる希望を与えてくれる存在というだけなのかな、と思いました。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.233:
(5pt)

日本の難しさ、信仰の難しさ

キリスト教や信仰とともに、日本人について書いています。「とりあえず形式上、踏めばいいじゃん」が許される精神構造はやはり日本独特なんですかね。フェレイラが最盛期の切支丹の信仰が「宣教師が伝えたものとは全く別物だったと解った」と言って自分の棄教を日本人の所為にしますが、そもそも文化の伝播はそういうものではないかと。カトリックのシステムに従ったものだけが信者なのか。そうではない、というロドリゴの悟りに似た解放も日本人作家ならではの宗教観・歴史観かもしれない。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.232:
(5pt)

切支丹

秀吉の時代から一部の地方では明治四年まで続けられた日本のキリシタン弾圧、人にとって宗教とは何なのか考えさせられる本です。拷問など重い内容が書かれていますが、だんだん中に引き込まれていきます。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.231:
(4pt)

神の声

長く読めなかった本だが、読んで良かったと思う。司祭が踏み絵を踏んで初めて神の声を聴くことが出来た。神と人の関係の何たるかを考えさせる読み応えのある本であった。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.230:
(5pt)

当たり前の事

宗教の自由や言論や表現の自由という現代を生きていることがどれだけ有難い事なのかよくわかりました。当たり前を当たり前と捉えるのではなくそこに至るまでの背景を知ることが大切なのだと気づかされました
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.229:
(3pt)

久しぶりに読むと

学生の頃に読んで以来、久々に読んだ。
改めて読み返すと、心理描写が凄いと感じた。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152

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