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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全388件 261~280 14/20ページ
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宗教の話というよりも、一人の外国人宣教師が異国の地で自分の理想を実現しようとするが、実際はそれほど甘くはなく、迫害と裏切りを受け、深く悩み、結果傷心の中で現実を受け入れてしまうという話です。ここまで壮絶ではないけれど、仕事で似たような立場にたたされたことのある自分の姿と重なりました。理想と現実、絶望、無力感、様々な思いが錯綜する状況の中で、結果的に自分の今置かれている現実を受け入れざるを得なかったパードレの気持ちが痛いほどわかります。世の中そんなに格好いいことばかりじゃないんですよ。 大きな挫折を経験した方にお薦めします。 | ||||
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日本のキリシタンたちには、実に敬服する。あんなに長年あんなに徹底した迫害に耐え続けた類のクリスチャン人口は、世界でも有数だろう。脅迫の際、無実の人々を人質にとられることは、最もつらいだろう。自分は拷問されたり殉死できても、他の人々の命が自分の犠牲になるのは・・・。選択は非常に厳しい。でも主なる神は、うわべではなく、心と物事の真実をご覧になる。「沈黙」の主人公もそれを確信し経験したのだ。そして、生ける神の沈黙は、沈黙ではなかった。神はご覧になられ共に苦しまれ、人間の理解力を超えたところで、常に御業をなさっていた。信じ難い苦しみを経て、神の主権に安心できる作品である。日本には知られていないが、全世界22億人のクリスチャン人口には、「殉教者の血は、そのまま教会の種となる」という真理が常識だ。天では別の現実が存在するし、地の歴史も悲しいことばかりじゃない。現に、日本の地の教会は存続した。これはまさしく、神の沈黙ではなく神の奇跡だ。たとえ現時点では地上で苦しくてたまらなくても。薄幸・儚い美への嗜好のあるアジアかも知れないが、キリスト教信仰がテーマである以上、「沈黙」とはそういう観点で読むべき本である。個人的には、遠藤周作は単に、「俺の母国は、国を挙げて少数のクリスチャン人口にこんな酷いことをしてきた。しかし悔い改めと神の赦しが人間に希望を与える」と訴えているように聞こえる。彼のような作家と作品こそ、世界中が必要とする。 | ||||
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キリシタン禁制の日本を背景に、ポルトガル司祭ロドリゴが日本と言う異国の地に宣教に旅立つ。それは、自分の師であるフェレイラの背教の事実を確かめることが目的であった。宣教の地で経験する、あらゆる信仰の試練を題材にし、神とは何か?キリスト教とは何か?異国文化とキリスト教とは?そして、神は何故に沈黙をしているのか?といった神学的疑問に迫る衝撃作。 ラストシーンのロドリゴの悟りは、自身の新たな悟りを引き起こす衝撃があった。何故、神は沈黙しているのか?これは、素朴であるが、幼いころから漠然と心にあり続けた疑問であった。神議論と併せて、神が人間とどの様に交わられるのかを考える上で、大いに参考になった。著者は「同伴者としての神」というテーマを常に持ち続け、それをテーマにした数々の作品を生みだしているが、その基となるのが本作になるのではないかと、思う。自分の生涯をささげた信仰を守ろうとする司祭たちの美しく力強い姿のみならず、キチジロ―に代表される人の心の弱さとそれによる葛藤も描く本作は、人間の信仰とその試練を考える上で、大いに勉強になる。また、役人たちとの信仰問答はキリスト教と言う根を持たない日本と言う異国での宣教とその困難を扱っている。 神との対話を基本姿勢とするキリスト教の司祭たちの生き方は、神と人間の関係性を考える上で、多くの示唆を与えるものであった。 | ||||
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何故ゆえ神は沈黙されたのか。罪とは何か。深く考えるきっかけとなった作品です。 現代日本では考えられないような、宗教迫害。そして殉教。 登場人物があるときはこの人、あの人というように、自分に当てはめてみるのもいい。 死をもおそれず信仰を貫いた方たちが日本にはいた。 日本精神を考えるうえで、非常に参考になる本。 | ||||
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何十年かぶりに遠藤周作を読みました。 本はとても綺麗な状態でした。 | ||||
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遠藤周作氏は、グレアム・グリーン氏にも多大な影響を受けており、「沈黙」はグリーン氏の「権力と栄光」の切支丹迫害日本版との感触もありましたが、内外のキリスト教団体・信者などの原理主義者から批判にも晒された様です。 遠藤周作は、1966年長編小説「沈黙」を上梓し、同年谷崎潤一郎賞を受賞しましたが、この作品は、内外のキリスト教団体・信者などから批判されました。 ・基督はユダさえも救おうとされていたのである(4 ロドリゴの書簡) 批判:背教者であるユダをイエス・キリストが救おうとする訳がない。 ・主よ。こんな人生にも頑なに黙っていられる(8 ロドリゴの心中) ・神は何もせぬではないか(8 フェレイラのセリフ) 批判:神の声が聞こえなかったと言うことは、信仰がなかったと言うことだ。 ・ロドリゴが踏絵をしようとした瞬間、基督が「踏むがいい」と言った(8の最後) 批判:キリストが棄教して良いなどと言う訳がない。 「沈黙」が翻訳されて海外での評価が高まり、グレアム・グリーン氏が、この作品を絶賛したのは有名です。著者の「弱いイエス」は多くの共感を得たのでしょう。 神の子であるイエスでさえ、磔刑にされる直前に「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と神の沈黙に対して疑問を投げかけたのですから、ロドリゴ神父が迫害される信徒を救うべく棄教すると言う人道的行為は許されることであって、一概に人間的弱さとは言えないと思うのです。 | ||||
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発注後の発想手配早く予定通りに入手でき、熱のさめやらぬ前に読み始めることができた。書籍もきれいだった。 | ||||
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若い時辛くて辛くて途中で投げ出し読めなかった本。 自分がキリシタン(カトリック信者)になったので 今回は読み切ることができました。 洗礼前と洗礼後では全然違う味わいがあります。 洗礼前は神は沈黙していてあんまりだああ。。と思いました。 この辛い中神はいるんだと思えました。 神様は空から天使を降らせたりしません。 辛い時ただ一緒にひたすらひたすら一緒に耐えてくれる方 その神を遠藤周作は書きたかったですね。 ーーーーーーーーーー 再度(3回目)読み返しました。 今度映画になるというので。監督は子供の頃カトリック司祭になりたかった方だと知ったので。 先日カトリック教会某講座でー沈黙の読み方ーというのを神父が語ってくれたので。 何故カトリック教徒でもある監督がこれを映画化するのかなと。 もしかしたらこの本読んで、この映画を見てカトリック嫌いになっちゃう人もいるような気がしないでもない。 でもこの弾圧に耐えた日本人がいた。 生まれながらのカトリック信者でありながら司祭は信仰を捨てちゃうけど日本人は捨てなかつた。 この当たのことをどう描いているのかな。気になる。 しかし何故ーーこの映画の地でロケしなかったのか。もったいないよ。。 未来永劫語り継がれる地になったであろうに。 この小説よむ都度に考えること昔は 自分の信仰が大事なので踏み絵はできません。さっさと拷問受けますよ。受けてさっさと死を望みますよ。 (この時代の拷問は人を殺すためではありません。カトリック信仰を捨てされる為でもあるのです) 今は家族に影響与えるなら踏み絵踏んじゃうなあ。甥っ子達の未来を守る為に。 そしてポケットに十字架の欠片を入れて隠れキリシタンとして生きていくのかもしれない。 | ||||
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超ざっくり言うと、主人公の宗教観が変わりましたという話だと思います。 当初は祈ることで何らかの見返りがあるはずだと思っていた。だから信徒が苦難の時でも現状を変えてくれない神に対して、『なぜ沈黙しているのか』『そもそも実在しないのではないか』と懐疑的になった。ところがどっこい、キリストは何かを与えてくれる存在ではなく、ただ祈る者たちと気持ちを一緒にしてくれている、共に苦しんでくれている。宗教に善悪はなく、力もない。よくも悪くも個々人の心の拠に過ぎませんよ、みたいな感じ。 | ||||
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とても面白かったとおもう すごい昔の作品なのにすんなり読める キリシタンのことも分かりつつ宗教の深さも やはりうすうす感じていたが日本にキリスト教が根付かない原因が少し分かった | ||||
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ヴァチカンやカトリック教会の一方的視点からこの作品を批判することは自由だが、そうした教条主義、固定化した正統主義がもたらす弊害をも見据えて(布教をするなどという目的を持たずに)あえてこうした作品を書いたのが遠藤周作という作家であることを念頭に置いて読んだ方がいいと思う。 むろん遠藤は死ぬまでカトリック教会に属した信徒だったし、彼の思想や作品をカトリック教会の視点から批判すること自体をおかしいと言うつもりはない。しかし教会に属している訳でもなく、ひとつの文学作品としてこの作品を読もうとする読者には、そうした権威主義や正統主義的な視点から自由になって、この作品に向き合って欲しい。これは単に神やキリスト教といったものを取り扱っているだけでなく、日本人というものの思想や思考方法、日本という風土、罪悪と許し、他者を裁くことなどについて広く文学的に取り組んだ作品である。 遠藤自身、自分の作品に書いたような考えだけが、キリスト教やカトリシズムの本来の姿だなどと主張している訳ではあるまい。そして、「もしかしたらこうした見方もあるのではないか、こうした考えをすることも出来るのではないか」という問題提起をするこそが、文学なり思想なり哲学なりのひとつの役割であることも間違いないだろう。 | ||||
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この小説は史実をかなり変えています。単行本では「あとがき」で遠藤氏自らタネ明かしをしていますが、文庫本では「あとがき」を削除しているので、すっかり騙された人が多い。実在の人名を使用していますが、中身はかなりフィクションです。例えば「まえがき」の終わり、 「今日、我々はポルトガルの「海外領土史研究所」に所蔵された文書の中にセバスチャン・ロドリゴの書簡を幾つか読むことができるが・・・」 この文章がもうすでにフィクションです。(南蛮のバテレン 松田毅一 1991年 P60 ) この小説は遠藤氏の作り話です。 ところで遠藤氏の歴史観はかなり偏っています。一貫してキリシタンは迫害された、役人はひどい、と言っていますが、そうですか? 当時ポルトガルの政策は宣教と貿易で始まり、植民地で終わっていました。宣教師が来ると、もれなく悪徳商人がついてくる。舟を出すのは商人。信仰のためだけに船を出すお人好しはいません。 また、秀吉がキリスト教を禁じたのは理由があります。ポルトガルは日本人を奴隷にして売っていました。 「南蛮船が入港すると数百人の男女が黒船に買い取られて手足に鉄の鎖をつけられ船底に追い込まれ、地獄の苦しみよりひどいものである」(九州御動座記) 秀吉はイエズス会に抗議した「なぜ奴隷売買を容認しているか」 イエズス会は非を認めたが実効性のある対策を取らなかった。 さらに宗教弾圧はキリシタンが先です。キリシタン大村純忠は「神社仏閣を焼亡、且つ僧徒を殺害す。」(大村郷村記) したがって当時の禁教は適切な法律。 違法行為をしたキリシタンは犯罪者。 これを全く無視する遠藤氏の見方は、独善的且つ一方的です。 参考 「ポルトガルの植民地形成と日本人奴隷」 北原 惇 2013年 | ||||
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全く宗教とは縁がない人生だが、 読んで考えれば考える程 宗教の意味がわからなかった 結論 程々に生きる指針として宗教は◎だが 傾倒しすぎるのは問題 問題は宗教ではなく 本人の問題だ | ||||
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若い頃に単行本で読んで深い感銘を受けました。最近読み直して矢張り同じ様な感銘を受けました。 Skype で日本語を教えている中国の外語大学の日本語学科の学生に春節祭のプレゼントとして今回文庫本を購入しました。 | ||||
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江戸時代初期の実話を元にした小説です。 キリスト教が禁教となった日本で20年以上に渡り信徒達の支えとなっていたフェレイラ教父が信仰を棄てた(転んだ)、との情報がローマ教会にもたらされます。 これは宗教間の対立の激しかった当時のヨーロッパでは大きな事件でした。 フェレイラ救出に2つのチームが派遣されるのですが、その内のジュゼッペ・キアラ神父が主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルとなっています。 巷に伝わる残忍な拷問が視覚的に永遠と続くような場面はなく、逆に静かに殉教していく貧しい者たちの姿が印象に残ります。 取り調べにあたる宗門改役の井上筑後守は穏やかな老人として描かれていますが、禅問答のような2人のやり取りは次第にロドリゴを追い詰めていきます。 それでも棄教しない彼の前にフェレイラが現れるのですが・・・。 実際の話を知っていたので、どこまでも暗く救いのない内容をイメージしていましたが、読後感は大きく異なるものでした。 これには狂言回しとしてのキチジローの役割も大きかったと思います。 終始どこまでも卑しく狡くダメな男。 ロドリゴからは内心「ユダ」と罵られる人物ですが、読み進めて行くうちに一番感情移入している自分がいました。 グレアム・グリーンをはじめ世界的に高い評価を受けている本作品ですが、現在スコセッシ監督による映画化が進んでいるようです。どのような受け止めかたをしているのか、これも今から楽しみです。 | ||||
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過去の話ですが、親に勧められて入学した女子大はカトリック系でした。 初めて体験するミサや、キリスト教の講義を通じ、遠藤周作氏の作品を読むようになりました。 「ぐうたら人間学、狐狸庵閑話」の様な、おちゃめな作風とは真逆とも思えるこの作品で 人間の内面をえぐる様に追求する遠藤氏の真面目な人間性を感じ、ファンになりました。 目に見えない「神」という存在を、考えさせてくれた一冊です。 新婚旅行は、遠藤氏の一連の小説に出てきた教会巡りをしたのですが、 この一冊を読んでいなかったら、そんな旅行はしなかったかも…。 今は自分を深く見つめる佛教に、とても興味があります。 「神」とは何かから始まり、「佛」に行き着いたことを思うと、 何気に手に取る本との出会いも不思議な縁だなあ…と感じる今日このごろです。 | ||||
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また読みたくなったので購入。 パードレへの迫害と自身の迷いがうまく描写されており、あっという間に読んでしまいました。 遠藤周作の代表作と言える作品です。 | ||||
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上記に記載した通り本はやや古い。新聞掲載時に読んでいるが、名著再読の講師が進めて読んでいくので購入した。 | ||||
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正直最初は表現が若干難しく感じました。 ただ読み進めてみると、「神の沈黙」と向き合う主人公の苦悩が描かれていて引きこまれました。 読み終えたあとのなんともいえない切なさ、モヤモヤした気持ちは忘れられません。 私は宗教に関してまったく無知ですが、おすすめです。 先入観なく、読んでほしい本です。 | ||||
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とても壮大なテーマを扱っており、物語の進み方や最後の終わり方は、宗教とは何か、信仰とは何かということを強く考えさせる。 特に最後の終わり方は、ものすごく衝撃を受けた。 心の中に神を宿す、ということが、形式だとか祈りだとかを超えた、真の宗教、信仰のように感じられた。 | ||||
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