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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全388件 341~360 18/20ページ
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ずいぶんと昔、小学校時代に初めて読んだときはいたく感動しました。何と深淵な小説かとも思いました。 しかし、歴史をいったんひもとき、 キリスト教布教とは何か、貿易商との関わり、宣教師たちの実際の思想や振る舞い、などを学んでしまうと、それぞれに個人差は大きくあるといえども宣教師たちの言動の真実というものも、ある程度は理解せざるを得なくなります。 そうすると、小説そのものは変わらず素晴らしいとはいえ、これは当然ながら完全な架空の舞台の創作ではなく史実を元にした創作であるが故に、今の私では単純に深く感じ入ることが難しい小説になってしまいました。 本小説は端的に言ってしまえば、キリスト(教)のひとつの現代的解釈を伴天連追放令時代を舞台に再演出した内容となるのでしょうが、逆に歴史背景などを一切無視してしまえば、キリスト教に限らない一般の深い命題を問う小説であることも確かだろうと思います。とはいえやはり無視するのは難しい気もしますね……。 | ||||
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この小説は「転んだ者」の話では決してないし、 この小説は「神の沈黙」が貫かれた話でもない。 これはキリストの体験を別の時代背景で書いたものである。 これにおいてロドリゴはキリストの体験を経験する。 ロドリゴはキリストと同じように渇き、裏切られ、窮地に立つ。 そして自らの貶めによるほかの者の生存か、自らを守り他者が死ぬと言う究極の二択に迫られる。 そしてロドリゴはキリストと同じく、自らの貶めによる他者の生存を選ぶ。 キリストはロドリゴに言う“私は踏まれるためにこの世に来た”それこそ沈黙が破られた瞬間ではないか? またキリスト教とは本質的には弱き者の宗教で、何度も転んでしまう者を愛す宗教である。 聖書でペテロは三度“踏絵”を踏んでいる(実際はキリストとのかかわりの否定) しかしキリストはペテロに対し世界を救う使命を与えた。 | ||||
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この作品は「宗教小説」と分類されているようです。キリスト教の知識や経験は、この小説を読む上で、助けにはなるかもしれませんが、この作品の真の素晴らしさは、むしろ私のように、宗教というものを殆ど考えたこともない人間の心に、この先、決して消えることのない印象を残した、ことにあるのではないかと思います。 若きロドリゴは、初めはナイーブな理想に燃えた宣教師としてクリスチャン弾圧の渦中にある日本にやってくる。そのロドリゴが、いかにして踏絵を踏むに至るか。そしてその「転んだ」後の人生をいかに生きたか。この単線的な筋立てのお話を、ページをめくるのももどかしいほどのドラマにし立てあげたのは、一重にその類い稀なる心理描写にある、と感じます。なぜここまで彼らの心が分かるのか?それは遠藤氏のキリスト教に対する強い情熱と、それゆえの深い懐疑があったからだと察します。その意味で、これは制度としてのキリスト教と、それに安住する人々への、異議申立ての書、とも読めるのかもしれません。 一級のサスペンスでもあり、また時にはホラーのように恐ろしい物語でもあります。自分では存在することすら気付いていなかった心の中の深い部分に触られたような気がします。読む人を思考の混沌の中に投げ出すお話でもあり、また未知の世界への窓を開けてくれる小説でもある。まさに偉大なクラシックです。 | ||||
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遠藤周作の代表作と言ってよいと思う。 ストーリーに意外性はないが、宣教師の心理描写を中心にじっくりと読ませる ものがある。絶望の中に見えるはかない希望の描き方は見事。ラストの数行で みごとに物語は収束する。泣ける一冊である。 | ||||
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江戸時代のキリシタン弾圧さなか、日本に上陸したポルトガル司祭の波乱に満ちた人生。 読者によって読み方が異なる本、聖書など読み、キリスト教について多少知っている人には 読みやすい(聖書の言葉や登場人物が度々引用)。 まず、文章表現が繊細で生々しく、まるで映画を観ているかのように一気に読める。 隠れキリシタンである貧しい農民たちの汗や干した魚、藁の臭いまでもが漂ってきそうな 作品。頻出する拷問場面は筆者がまるでその場に立ち会ったかのような強烈な印象。 「信仰」を守り広めるためにポルトガル司祭は命がけで潜伏するが、「信仰」を守る ために殉教する信徒の姿を見るうちに疑問が生まれる。 「このような酷い状況のなかで、神はなぜ、沈黙しているのか?」 やがて捕らえられた司祭は拷問を受ける農民たちの苦悶の声を聞く。 「司祭であるおまえが信仰を捨てれば、農民たちを助けてやる」と迫られる。 長年自分がキリストに捧げてきた全生涯(信仰)を否定し、ユダのように神を捨てるか、 それとも農民の命を救うか。 キリストの存在を心から信じ愛してきた司祭は、踏み絵を前に「一番つらい愛の行為」 をする。 「信仰」という表面上の名の下に、ひとの命を捨てるか、 「信仰」という表面上の名と「司祭」のプライドを捨て、ひとの命を守り、 心の中で神を深く愛し続けるか。 宗教的には「信仰とはなんなのか?」という問いかけを与えるが、一般的な読み方を すれば、「ほんとうに大切なものはなんなのか?」という問いかけに変換されるだろう。 自分の面子を守り、自分を中心に据えて、誰かを蹴落とすか。 それとも、自分が退いても誰かを守り、心の中を凛と保っているか。 | ||||
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遠藤氏が本作を書く際、このような本を書いても日本人に分かるだろうかという疑念があったと思う。実は私も本質的には理解していない。内容は単純でバテレン転びの話である。宣教師が日本人の役人に拷問を受け、窮地に陥った時「何故このような時に神は姿を見せてくれないのですか」と問いかけるのだが、神は"沈黙"を守るのである。日本人なら「そんなの当たり前じゃん。だって神なんていないんだもの」と言えるが、ここでの対象は宣教師なのである。このように作者は信仰のあり方、宗教における神の存在などの根源的な問題を問いかける。このような重いテーマを掲げながら、作者は淡々と筆を進める。特に宣教師が役人に連れられ海岸線の道を行く姿は美しささえ感じさせる。宗教に関わる永遠の問題に敢えて挑戦した作者の意欲作。 | ||||
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ある日の新聞によりますと、とある日本人女性が拝火教を奉ずる男性に「人間と動物を分けるものは信仰のあるなしである。あなたも何かを信仰し、早く人間におなりなさい」と、諄々と諭されたとか。 なるほど、ならばこの本にある苦しみは、その悉くが「人間」の苦しみ、ということになるでしょう。神を信じて苛まれるもの、神を裏切り神の救い人の許しを這い回るようにして乞いつづけるもの、神を奉じることを使命としながらその神の沈黙にただ葛藤するほか手立てのないもの。彼ら彼女らの苦しみはすべて「動物」としては生きえない「人間」ならではのものなのです。 この作品の最後には、この物語の登場人物の後日談、つまり「転んだ」のちのことが、オランダ商人の記録文または当時の公文書という形をとって描かれています。人は「転」んでまっさらな動物として生まれ変わるわけではありません。「転んだ」伴天連は、ただの「転んだ伴天連」としていき続けるのみです。その「転んだ伴天連」の、あるいは「転んだ人間」の、悲劇的に滑稽な悲痛さが、それら淡々とつづられた事務文書から(いやむしろ淡々とつづられたものだからこそ)滲んでくるようです。 | ||||
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作品に登場してくる人物や時代背景はフィクションであるが、ここに書かれた出来事は事実に基づいたオリジナル作品と言える。徳川幕府が禁教令を発布したときには、確かに隠れキリシタンは存在し、迫害がおき、転びキリシタンは大勢いたと思われる。遠藤先生自身、信者であるので、キリシタンの調査には余念がない。天からのキリストの「踏み絵を踏みなさい」発言が問題化し、世界の各国で翻訳されセンセーションを巻き起こしている。 「沈黙」の舞台となった長崎県の外海町には遠藤周作文学館があり、少し距離を置いて出津文化村には「沈黙の碑」が建てられていることは観光地としてそれぞれ有名である。その碑には「人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに青いのです。」と浮彫りされていて、そのバックには澄み切った東シナ海が目に飛び込んでくるのは絶景である。遠藤先生の語録を記しておく。 「長崎の歴史を知れば知るほど、それを学べば学ぶほど、この町の層の厚さと面白さに感嘆した。さらにわたしの人生に問いかけてくる多くの宿題も嗅ぎとった。それらの宿題の一つ一つを解くためにわたしは『沈黙』から今日までの小説(『女の一生』)を書いてきたと言ってもいい」:『長崎県の歴史散歩』 山川出版社 | ||||
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神の「沈黙」に少しなりとも疑問を持ったことのある人なら、大変興味ある内容だと思う。(多く愛したから、その多くの罪はゆるされている)という話はよく知られていると思うが、踏み絵を踏む苦しみ、その苦しみが深いほど、神もまた愛したのではないかなぁと思った。その悲しみ、苦しみが深ければ深いほど、より深く、より強く神はその人を愛したのではないか・・・。読み終えた後大変感動したのだが、時がたち、ゆっくり考えると、結局神は沈黙の理由を語ってはいないように思う。踏んでもいいと答えるだけだ。結局神は沈黙する。殉教してもしなくても、沈黙については何も語らないのだ。 | ||||
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切支丹には転ぶという道があった。なぜ彼らは転ばず、苦しみに満ちた死を選んだのか。地獄に堕ちることを恐れたのか?本当に天国を夢見たのか?信仰の故に殺されたのが一人や二人なら、宗教的に修練を積んだ人なら、そういう人もいるだろうと理解できる。なぜこれほどの大規模な迫害にこれほどの犠牲者が生まれ、それでも隠れ切支丹が密かに信仰を守る、いったいその秘密は何なのだろう。 それは彼らが神父から教えられた言葉にあるのではないか。身分制度の厳しい時代、領主である武士と言葉を交わすことなど考えられなかった農民・漁民たちに、領主に招かれた伝道師たちは語りかけ、聖書の言葉を教えた。いわく「心貧しき者は幸いなるかな…」この言葉を聴いた農民たちは生まれて初めて光を見たと思ったのではないか。これほどの身分の方がこれほどの祝福をもたらす言葉に嘘があるはずはない、と。 ロドリゴの使命は神の沈黙を嘆くことではない。言葉を伝えることにあったのだ。彼はそれを果たした。 | ||||
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「キリスト教の話かあ」なんて思わず、先入観なしで読んで欲しいのです。文章は難しくも固くもなく、するすると読めますが、ただツライです。ただひたすら神に救いを求める農民達、どんなに祈っても神は表れてくれません。農民も司祭も切ないのですが、私はキチジローに強く共感しました。あまりに弱く、肉体の恐怖に負け幾度も踏絵を踏み、それでも神にすがり許しを請うキチジロー。弱さゆえ殉教も出来ない自分をなじり、何故こんな世の中に生まれたのかと嘆く。心が弱い者はそれだけで罪なのか?私も弱い人間なので、彼の弱さが自分と重なりやりきれず、哀れです。 長崎が舞台なので他地区の人には言葉がわかりにくい部分もあるかもしれませんが、私には懐かしくさらに農民達が身近に感じられました。 | ||||
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とても深遠な世界だ。 目の前で次々と殉教者が拷問にかけられ殺されていくさまを見て、司祭は神に問う。「神よ、なぜあなたは沈黙したままなのですか? 助けてくださらないのですか?」 それに対する答えはない。このような神の『沈黙』が延々と描写され続ける…と思いきや、この話の『沈黙』はもっと深いところにある。 クライマックスで、究極のパラドックスが用意されているのだ。自分が殺されそうになった時に、大抵の人は(無神論者でいたとしても)神に命を乞うだろう。しかしここでは、拷問を受けている人質を救うために、司祭は神を棄てなければならないのだ。 信仰は果たして命より重いものなのだろうか。もちろんこれがすべてと言うわけではないが、これはこの小説が問いかける究極の問いではないだろうか。司祭はこれに対する答えを一応は提示したものの、苦悩して暮らしていかなければならないことになる。このことは、司祭が行った答えが必ずしも正しくはなかったことを意味しているように思う。正しいことを行ったのなら、そのあとの生活で苦悩する必要はないのだから。しかし、逆を選んでいたとしても、同じように、あるいはそれ以上に、司祭は苦悩していたであろう事は想像に難くない。では……正しい答えは一体どちらなのだろうか? 実は、司祭は神も人質の命も、棄てていなかったのだろうか。こうしてまた読者の中に大きな謎が生まれる。そしてその答えは、おそらく誰に問いかけても返ってこないだろう。あるいは答えは、読み終えた我々が見つけ出さなければならないのかもしれない。 『海と毒薬』でも別のテーマの葛藤が描かれている。神への信仰をテーマとする遠藤周作の作品で、葛藤は不可避の問題となって現れてくる。『海と毒薬』もこの小説も文章そのものは難しくなく、読みやすい。テーマは軽くはないが、考えさせられるいい機会を得られる。お薦めだ。 | ||||
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~とても胸をえぐられる様な作品でした。 キリシタンとしての強さと弱さの対比、日本にやっとの思いで辿り着いた宣教師の日本での道。どれもが決して幸せではない。 それでも、神は沈黙を守って、みなを見守っていたように思う。 それはある意味、信仰を試したものかもしれないし、自分で気付かせる術に気付かせたかったのかもしれない。 窮地に追い込まれ~~たキリシタンの行動にも複雑な想いを感じつつも、自分がその立場だったらと思うと、安易に踏み絵を踏んでしまった者を責められないとも思った。 あまりにも深い内容だったけれど、私にとって生涯の1冊にもなった。~ | ||||
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私は大学の課題で、この作品を読みました。物語上に何度も出てくる「沈黙」という言葉、そして本書のタイトルでもある『沈黙』という言葉がこの物語を読み進めていく上でポイントとなることは言うまでもないように思います。「あなた(神)はなぜ黙っておられるのですか」というロドリゴ師の言葉は、彼が苦難を経験しているとき、苦渋の決断を迫られているとき、そして目の前で切支丹が殺されているとき、常に彼の心に感じられたものであり、確かにそうだと読者を思わせるものです。こうしたときの神の沈黙は、ロドリゴ師をさらに苦しめるものであったに違いありません。 結果的にロドリゴ師は、捕らえられ踏絵を踏むこととなります。読み進めているとき、私にはそうした結末は少し納得がいきませんでした。確かに、彼が踏絵を踏まぬなら彼のために命を落とす切支丹は増えます。それを阻止するためには、彼は踏絵を踏むしか方法はなかったのです。 それでも彼は棄教したわけではなく、彼の胸の内ではその後もずっと神は存在していました。そのことが、彼を更に苦しめたことでしょう。 | ||||
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遠藤氏が生前インタヴューに答えた言葉です。これを記事で読んだ時、 彼のキリスト教観が自分なりに理解でき、バタ臭い(冒涜!)キリスト教が受け入れやすいもの だと感じました。 「沈黙」の決めの言葉(神の声)ですが、なんだか個人に向けた声のようなかんじがします。 神様っていうのは万人のものではなかったのか。矛盾を感じる。 ところが「働き」という言葉はいいヒントです。 人間には共通する感覚がある。暖色を暖かく感じ、短調の音楽を哀しく感じる。ある病気になれば、 同じような症状がでる。老人がならず者に道で殴られているのを見かけたら、冷水を浴びたような気持ちになる。 家族が亡くなれば悲しい。共通した作用「働き」。 それは自分が選んで得たのではなく、生まれつき備わっていてかつ個人が持つものです。 あの言葉が主人公に語りかけてきたというのは、万人にあって個人に所属する神のあり方を証明しています。 キリスト教の国でも評価の高い作品です。 読んで損はありません。 | ||||
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神は存在するのか?それは多くの人が考え、答えの出ない永遠の命題。そのことをを悩んだ作家が日本にもいる。それが遠藤周作でありそれを記したのが本作である。 信じるものは救われる?否、世の中はそのようにはできてはいない。信じ、祈り、縋り・・・結果何も報われない。死後の世界での救済?そんなものは誰も望んではいない。現世での救済。それをみな願っているのだ。しかし・・・ 神を信じるものたちが苦しんでいる時、神は何をしているのか?その答えがこの本の中にある。 | ||||
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自分が生きていく中で、人の為に何かをしたいと願い、自分にできることは何なのかと考え、誠意一杯日々過ごしている中で読んだ一冊でした。仕事上、子どもを相手に彼らの事を考えなくてはならない。でもやはり自分の中にもドロドロとした思い、自分本意な気持ちがあることに気づかされ、その事実に押しつぶされそうになっている時に、ある人のすすめでこの作品を手にしました。読み終えた後に少しはすっきりとした気持ちになれることだろうという甘い期待を持ち本を開きました。実際はそれとは逆で、ページをめくりながら考え、読み終えたあとも何とも言えない・・・多くの思いが自分の中でぶつかり合っているような感覚でした。 読み終えてもう数週間たってはいますが、未だに自分の中ではまとまりがつかず・・・。しかしだからといって不快感はない。 生きていく中で私たちには多くの選択肢があり、常に別れ道を前にしているのかもしれない。周りが何と言おうと、自分の中で納得のいく道を選び進んでいくことが大切なのかもしれない。わかる人は心の奥底で感じ取り理解をしてくれる。わからない人ももちろんいるだろう。浮き足立って周囲にアピールするのではなく、地に足がついた上体で自分に嘘のない、歯を食い縛って選択する道もあるのだと思います。 | ||||
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転んで、水責めの刑に処される村人、最後に踏絵を踏む時に「踏むがいい、おまえに踏まれるために生まれてきたのだから」というイエス。「こんなに苦しいのに、主よ、海はこれほどまでに青いのです」と言わしめる信仰告白。これはもう物語りの域を越えて、我々の心に、(仏教でも神道でもキリスト教でもなんでもいい)信仰とは何かを問い掛けてくる。 カスタマーさんが言っているように、確かに表現を捉えれば遠藤作品はアブナイかもしれません。しかし、イエスに絶対の神性をとことんまで追求することへの危険もあるのではないか。つまり、イエスはそこまで弱い人間だからこそ、洗礼者ヨハネから離れ、ユダヤ教感性のために神の愛を説いた。そこに従った弟子は我々自身であり、じゃあ、おまえ、踏絵踏めるかと聞かれたら、どうでしょう。私ならきっと命乞いするでしょう。そしてその罪の中に自分を陥れ死ぬまで苦しむでしょう。こういう独り善がりな私はキリスト者ではないと言われるのでしょうか。 死を持って人類を罪から解放したといえば聞こえがいい。しかし、本当にそうだったか? 本当にそうなら、なぜ今我々には奇跡はこないか? そして逆に奇跡がこないほどに自身の信仰心が弱いのなら、我々は改めて主イエスに帰るべきではないか。 こういうことを言いたいんじゃありませんか? なにもバチカン公文書を持ち出すまでもなく、イエスは確かに存在し、我々のために死んだ。彼が否定したのはユダヤ教じゃなく、そのユダヤ教を盾にしてふんぞり返っている傲慢な人心ではなかったのか? 沈黙…確かにそうです。でも、ここでいう沈黙は主の沈黙ではなく、信仰心の薄い人間の主に対する沈黙と捉えるなら、我々は本当に傲慢な生活をしていませんか? 関係ないけど、私、この前障害児の息子に、左の薬指を思いっきりかまれました。悶絶する痛みと苦しみ。主も、これ以上の苦しみを味わったのです。私にとって主は、そうした苦しみの少しでも味わわせてくれた。感謝です。私はこれに沈黙をもってして答えることはできません。 | ||||
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教科書を通して誰しも踏絵は知っている。しかし、基督教徒側から日本を見た視点で書かれた文を読むことで、あらゆる面について考えさせられた。棄教か死かの選択を迫られる時、直面した出来事から結論を出す所は読み応えがあった。 | ||||
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この作中、主人公が自分と聖者ヨブを比する場面がある。神の沈黙に 人が対するとき、それはきっと誰もが直面することなのだろう。連綿と神学を作り上げてきたキリスト教世界とは異なる、人が神を対峙するという宗教の根本がこの作品には描かれていると思う。 考証学的にいば、いくらかの誤りがあるのかもしれないが、本質はそこにはない。 | ||||
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