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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全388件 221~240 12/20ページ
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マーティン・スコセッシが本作を映画化している、と言う。 そのため、映画をみる前に、読むことにした。 中学生のときに、友人が読んでいたことを思い出す。 昨夜、一気に読んだ。 江戸時代初期のキリスト教の信者たちは、苛烈な弾圧に苦しむ。 簡単に生命を奪われることがある。 長く地獄の苦しみを味わうこともある。 それらを目の当たりにする、ポルトガルの司祭たちも、苦しむ。 一方、弾圧する者たちの権謀術数には、瞠目する。 そこまでの苛烈な弾圧の数々を、なぜ、どのように考えつくのか。 肉体も、精神も傷つけ、ことごとく奪い去ることには、極めて巧みである。 しかも、表情はにこやかで、笑みをたたえている。 なぜ、神は沈黙するのか。 沈黙は、言葉に勝るのか。 沈黙は、語りではない語りなのか。 沈黙に耳を傾けるなかに、生きるしかないのか。 司祭たちは、棄教する。 棄教は、真のそれなのか。 それは、見せかけなのか。 見せかけであっても、真の棄教へと向かうのだろうか。 後日、映画をみた。 浅野忠信、イッセイ尾形、塚本晋也、小松菜奈らが出演している。 しかも、彼ら・彼女らが生き生きと演じている。 スコセッシは、俳優の力を引き出すことに、たけているようである。 しかし、不満が残った。 それは、映画が説明的だからである。 沈黙ではなく、語っている。 沈黙について、語っている。 この点では、スコセッシもどうなのか、と疑念を持った。 ハリウッド的だ、と思えるからである。 やはり、「タクシー・ドライバー」が忘れられない。 あの力強い不条理を、みたかった。 | ||||
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キリスト教の根本に関わる問題を、これほどまでに掘り下げた作品はあるだろうか? 主人公の司祭に感情移入して、ずっと一緒に感じ、考えざるを得ませんできた。ありがとうございます。 | ||||
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「沈黙」とは神の沈黙である。神の存在をめぐる素朴で本質的な疑問。神がいるのなら、なぜ苦しんでいる人間を助けてくれないのか。なぜ全身全霊の呼びかけに答えてくれないのか。 神の沈黙のなかで、棄教をせまられた者は苦しい自問自答を繰り返す。もし平穏な時代であったならよい信徒として生きられたのに、この迫害のなかで自分や身内を守るために信仰を捨て、同志を裏切るのは赦されざることなのか。家族もろとも殉教することを神は望むのか。本当は、神はそれすらも赦すのではないか。そうでなければなぜイエス・キリストはユダが自分を裏切ると知っていながら見逃し、自ら十字架にかかったのか。 自分の意思とは関係なく洗礼を受けさせられた遠藤周作は、自らに接ぎ木されたかのようなキリスト教思想に違和感をもちながらも生涯をかけて向き合い、終生信者であり続けた。日本はキリスト教にとって不可能な土地なのか。終盤に向かって司祭ロドリゴは神に、自分に、とい続ける。それはそのまま遠藤の生涯の問いだったのだろう。 「この日本国は、切支丹の教えはむかぬ国だ」。ロドリゴを追い詰め、転ばせることに成功した筑後守は言い放つ。彼もかつてキリスト教の教えを乞うたが、日本では無理だという結論に達した。ロドリゴが踏み絵を踏んだとき、キリストの声を聞いた。「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」。その話を人づてに耳にした井上筑後守は、それはロドリゴ自身の弱さの言い訳であって、真のキリスト教の教えではないと詰め寄る。その基準で言えば、転べば救えた信徒たちとともに自らも海の藻屑となったガルペ司祭は切支丹の教えを立派に守ったことになる。ガルペの溺死を見届けた通辞がロドリゴに言う。 「パードレ、お前らのためにな、お前らがこの日本国に身勝手な夢を押しつけよるためにな、その夢のためにどれだけ百姓らが迷惑したか考えたか。見い。血がまた流れよる。何も知らぬあの者たちの血がまた流れよる」 殉教という概念は仏教にはない。信仰を守り抜くためなら命をささげることもいとわないキリスト教の教えは日本人には向かない、と井上筑後守は言う。その言葉の裏には反乱の温床となることへの恐れもあったかもしれない。あるいは、一度はこの宗教に可能性を見たことがあったのかもしれない。 「かつて余はそこもとと同じ切支丹のパードレに訊ねたことがある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもならぬ己の弱さに、衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。だがそのパードレは、はっきり申した。切支丹の申す救いは、それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみるとそこもと、やはり切支丹の教えを、この日本と申す泥沼の中でいつしか曲げてしまったのであろう」。 キリスト教が伝来したころの日本の仏教は僧兵化して世俗の権力と争い、民を救うところではなく、宗教の役割を果たしていなかった。そこにキリスト教の入り込むすきがあったわけだが、やはり精神的土壌として人間と神の絆の強さを信仰の強さとするキリスト教は、神と結びつく主体としての「個」の概念もない日本においては無理なのではないか、というのが本書を通じて投げかけられている問いである。 テーマはシンプルで、登場人物も少ないが、「最も苦しんでいるものたちがなぜ救われないのか」という、「神の沈黙」はユニバーサルなテーマであり、なにより、殉教も覚悟の強い信仰心を持ったロドリゴが潜伏、逃亡、投獄、拷問(身体的というよりは精神的な)を経て、棄教に至るまでの苦悩と、キチジローの醜悪なほどの弱さの描写にひりひりする。この小説のもっとも印象にのこった場面のひとつが、潜伏中のロドリゴが、廃屋のなかにまだ真新しい排泄物を見つけるシーンである。それは明らかに健康な肉体をもった若い人間のものだった。なんとなくわたしには、その排泄物がキチジローの弱さ、愚かさを補ってあまりあるふてぶてしいまでの生命力の象徴のように思えた。 | ||||
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ラストで「沈黙」の謎がドラマティックに解き明かされていく事を期待しながら読み進めていったが、まったくの期待外れであった。そのことを通して、自分の中にある超人的な英雄や、納得のいく答えを、文学の中に期待していた自分に気が付かされた。文学とは作者から突きつけられた問いに対して、自分の中で議論を戦わせ、自分の哲学を構築していくことだ思った。 「沈黙」とは神や悪魔が人間に突きつけた最大の難問であり、神さえも信仰者の祈りに対する明確な答えを持っていないからこそ、未だに「沈黙」せざる得ないのではないか?、神さえも絶対的な善を解らず、人間の進化に干渉することはできず …、それ故、踏み絵を踏まずに信仰を貫くのか?踏み絵を踏んで「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為」をするのか?あるいは、日本をキリスト教国家にすべきか?このままキリスト教文化圏とは違う日本文化圏をつくりあげるべきか?神さえも絶対的な答えを持っていない。 すべての答えは自分自身の中にある。神だけで天国をつくることはできない。天地創造の完成は人間が担わなければならない。そのために人間は神から「愛」「思考」「勇気」という最大の恵みを与えられた。 | ||||
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本書は文芸作品の最高峰といっても過言ではないであろう。 装飾と娯楽性を排除し、明確な主題の下で芸術性が研ぎ澄まされている。 神は存在するのか?なぜ沈黙を続けるのか? 信者として誰しもが内包する疑念を遠藤周作氏は文学の主題として提示した。 ただ、提示はしたものの自らの答えを明らかにはしていない。 神への畏れの感性が著者をして謙虚に思い留まらせているのであろう。 その答えをつきつめていく行為そのものに人間の傲慢さがある。 疑念はある。「それでも信ずる心」こそ、宗教の礎となっていて、 それは論理ではなく、感性の結生であろう。 | ||||
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重い内容だけど、良かった。神の存在、時代、日本人の残酷さ、布教活動の意味などいろいろ考えさせられることはあった。様々な時代を経て今の自由な時代があるのだなと。その時代に生きなければいけなかった人たちのことを思う。 | ||||
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とにかくすごい。 あの時代にポルトガルから日本まで船で来るだけで、どんなに大変だっただろう。 また、隠れキリシタンの弾圧のすさまじさ、信仰の深さに驚きました。 映画公開が近く、観る予定なので、読みました。 | ||||
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感動しました。神の沈黙。もし神がいないとしたら… クリスチャンにとっては、本当に恐ろしいテーマだと思います。 日本には、日本独自のキリスト教の形があるのではないか。遠藤周作の この考えは、本作発表当時、相当批判を浴びたようですが 非常に分かりやすいと思います。 現に長崎は、あれほどの迫害を受けながらも、現在でも日本で有数の クリスチャンの街なのですから。 スコセッシの映画が、本当に楽しみです。 | ||||
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1650年ごろの宗教の強い束縛を感じました。もちろんいい面だけではありませんが、今、ほとんどの人は宗教的呪縛から開放されています。キリスト教を含め、ゆっくりと変わっていくしかないでしょう。さもなくばいつかは人は去っていくと思います。 | ||||
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神は本当に存在するのか? そんなキリスト教の根源的な問いに対し、1人の宣教師の心の葛藤という形で読者に導きを与えている。 神の救いを求め、祈り続けた主人公ロドリゴ。どれだけ祈っても、決して神は彼に救いを与えてはくれなかった。 しかし、この物語を通してロドリゴが教えてくれるのは、その「信仰心」そのものが救いになるということである。 溢れかえる情報、無数にある選択肢。こんな時代の中で、人は迷い、さまよい、救いを求めて生きている。 神や仏。夢、愛、音楽、ジブン。。。 何でも良い。ただ一つだけ、心の底から信じることのできる何かがあれば、人は力強く生きていけるのではないだろうか。 生きることに迷った人に是非、読んで欲しい。 | ||||
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「踏むがいい。踏むがいい。お前たちに踏まれるために私は存在している。」 沈黙をやぶって、踏み絵のイエスの目から、主人公ロドリゴが感じ取った、イエスのセリフが印象的です。この言葉に応えて宣教師ロドリゴは「ころぶ」(踏み絵を踏む。キリスト信者ではないと証明する)。キリスト教弾圧の激しかった江戸時代の日本で、容赦ない拷問の様子は読むに堪えないぐらいですが、「日本は沼地でどんな苗を植えても根が腐ってしまう」というフェレイラの話の内容も考えさせられました。 | ||||
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江戸時代、幕府による隠れキリシタン弾圧の最中、信徒達を救済すべく、長崎に潜入したポルトガル人司祭の奮闘が描かれる。 圧倒的な弾圧の嵐の中、捕らえられた司祭は信徒達のために踏み絵を踏むのか。 非常に分かり易いテーマであり、また読み易い文章でもあり、遠藤周作文学の傑作の一つとして数えられています。 しかし、扱われている題材は重く、深く考えさせられるものです。信仰とは何なのか、神は存在し奇跡を起こすのか。 近くハリウッドでも映画化されるみたいですが、国境を越えて心打たれる作品だと思います。 | ||||
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読みたかった本なので、楽しみにしていました。 ちゃんとビニールで包装もされていて、とても嬉しかったです。 | ||||
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この本を読んだのは中学生のとき。正直、ひっかかりを感じてあまり好きになれず、生意気な中学生としては世評の高さを、世間一般の見識の低さくらいに見積っていい気になっていました。 ひっかかったのは何度も踏絵を踏んでしまう弱い信者について、主人公の司祭が「こんな時代でなければ陽気なクリスチャンとして楽しく生きられたのに」というような意味の述懐をする場面。いや、弱い人は時代が違ったって、同じように何かに躓いて結局一緒だろうに...と。 大人になって、つくづくそのときの自分の考えが思い上がりだったと感じます。 人間の強さ,弱さなんて、それを出すべき状況にならないと発揮されない。それもタイミングや、色々な条件によって、どちらの面が出るかなんて本当にわからない… 徐々にそう実感するようになり、さらに多様な事件を見聞するにつけ、ああ「沈黙」のロドリゴ司祭は正しかったんだ、状況に翻弄された中で最善であろうとした彼は宗教家としてはともかく、人としては実に誠実だったんだ、と、最近とみにこの作品が思い出されてなりません。再読したわけでないのに、頭に作品が残り、たびたび思い出し、自分の考えを拡げるきっかけとなる--これだけでも名作の証といえるのでしょう。 こんな風にこの作品の評価を自分の中で組み直していた折、スコセッシによる映画化の報が入りました。良いチャンスなので、当時の私のような生意気な中学生も含めて、多くの人に読んでほしいと思います。 | ||||
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無事に読み終え、夏休みの宿題を完了できました。読みやすいので一気に行けますよ!中学生以上の歴史好きな人の読者感想文にお勧めですよ。 | ||||
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遠藤周作の作品を読むのは初めてだったが、非常にすばらしい読書体験になった。遠藤は日本を代表するカトリック作家で、本作は40年ほど前に邦画で上映された上、多くの困難ののち今年度ようやく米国でも新たなリメイク映画が上映される予定だ。 沈黙で取り扱うテーマは「もしキリスト教の愛の神がいるとしたら、なぜ彼は殉教者に対して報いず、ただ沈黙し、見殺しにするだけなのか」という、神について考えたことがあるならば、誰でもぶちあたるであろう問題である。これへの回答が遠藤固有の「同伴者キリスト」という信仰に集約されていくのだが、そこまでに至る主人公の心的苦難の道のりの描写がすばらしい。キリスト教徒でなかったとしても(むしろ遠藤は非クリスチャンを想定して書いている感じがするが)、必ずある種の苦しみへの救いが感じられるだろう。 本作の主人公は17世紀、禁教令の布かれた日本に密入国し、布教を試みるポルトガル人司祭ロドリゴ。忠実の人物である中浦ジュリアンやフェレイラなどが登場人物のモデルになっており、また17世紀の日本民衆の描写がまるで時代劇のセットの中にいるかのような気分にさせてくれて、そこもまた面白い。 | ||||
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久々に衝撃をうけた内容の本でした。 異国の地へ潜入した司祭が、キリシタン弾圧の元どのような運命を辿っていくのか。。。 想像を絶する内容、登場人物の息遣いが聞こえるほどの見事な描写です。 この本は「神は何故沈黙を続けるのか」と考える、全ての人に贈る珠玉のストーリーであると思います。 | ||||
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速やかな対応に、非常に満足しています。コストパフォーマンスも抜群です。 | ||||
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人生、信仰、愛情、などを考えさせられました。 もしも、自分が、司祭の立場だったら… 想像出来ません。 深く、苦しい、物語だと思います。 しかし… 救いのない話で… どうしたらいいか分からなくて… なので、再度読もうとは思いませんし、 他の人にも勧めたくないです… 苦しい話だと思います… | ||||
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会社の上司の推薦で本書を読んだ。本書は名高い一冊ゆえ署名は前から知っていたが読む機会が無かった。 僕はキリスト教徒ではない。従い、本書をどこまで深く読むことが出来るのだろうかと常に 思いながら頁をめくった。結論的にはキリスト教徒でなくても、この怖ろしい本の読者になれる ことが分かった。 本書のテーマは「転ぶ」ということにある。これは僕らの日常にもよくあるテーマだ。自分で 不本意だと思うことをやらなくてはならない場面等はいくらでもある。「不本意な事をやらなくてはならない」 という状態を「転ぶ」と呼んでも良い。 やりたくないことをやる理由は何か。当然ながら無数の理由があるが、いずれにせよそこに 自分の弱さを見ることは容易である。本書を読む人が救いを得るとしたら、そんな「自分の弱さ」 に対するある種の肯定を本書に見出すからだと僕は思う。 但し、「転ぶ」にしても「積極的な転び」と「消極的な転び」の二種類がある。僕らが不本意な事を やらされる場合には、明らかに後者である。では、本書の主人公の「転び」とはどちらなの だろうか。僕は前者であると考える。若しくは、前者で無い限り本書は成立しないのではない だろうか。 ロドリゴが「転んだ」理由は何か。自身の信仰が結果として自己満足でしか有り得ず、救おうと してきた他者を滅ぼすという自己欺瞞に気が付き、そこから積極的に脱却する為に「転んだ」 と読むことが出来る。 「積極的」といっても、決してそこには明るさは無い。著者はその後のロドリゴに明るい人生を 与えていない。むしろ「沈黙」の中に沈んでいったであろうロドリゴのその後を淡々と描き出して いる。そこが本書の怖しさである。 | ||||
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