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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全388件 61~80 4/20ページ
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日本がキリスト教を拒否していた江戸時代。 ポルトガルから司祭がこっそりやってきます。 キリスト教を維持するために。 そこで見たこと、体験したこととは。 本当の愛とはいったい何でしょうか。 | ||||
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難しいが面白い | ||||
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読むのは二度目。「知ったかぶりキリスト教入門」から再び辿りついた。同じ頃、NHKでこの映画が放映され、それと並行して読んだ。 パードレと慕われる限り、学校の先生のように振る舞い、解釈を求められる。しかし、イエスは解釈を与えたのではない。自らを犠牲にした愛なのだということを、拷問を通して、司祭としてではない、個人的な宗教心を描いたのだろうと思う。 酷さの中に信仰を見出さねばならないのか、この宗教というのは。 | ||||
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なかなか異教を受け入れることはできない けれども信じてみようと想う人の心を弾圧して見せしめをして いくら神父様でも耐えられない 初めに映画みて原作を読んでみたくなった | ||||
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ひとは自分に加えられた迫害には耐えられても 自分が転宗しないことで仲間を殺される責め苦には耐えられない。 その歴史に目を背けてはならないと思いました。 | ||||
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キリスト教徒にいくら神がいないと日本人が説いても、彼らの心から「神」の存在を取り去ることはできない。 何故なら神はキリスト教徒の心の中で創り出され、その心はキリスト教によって「神」が存在する事が当たり前だと思いこまされているからである。 神が存在しない事が当然だと考える日本人だからこそ、正反対の考え方を持つキリスト教徒について理解を深める必要がある。 | ||||
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面白い本 | ||||
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久しぶりに読み返してまたかんがえさせられました。 | ||||
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きれいな状態でした。ありがとうございます。 | ||||
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なんだこれって感じでした。 | ||||
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キリスト教迫害が続く日本で棄教したと噂されるフェレイラ神父。彼の弟子、ロドリゴはその真偽の程を確かめるため、そして日本の信徒を救うべく日本に渡る。地下組織として潜伏しながらも布教活動を続けていたが、ある日当局に日本の貧しい信者たちとともに逮捕される。拷問にかけられ、ロドリゴの目の前で何人も殉教していく。 殉教とは強い感動を伴なうもの、と思っていたロドリゴが愕然としたのは、その前後で何も変わらなかったこと。神はなぜ黙っているのか?いったい神とは?神に対する疑いすら抱き、師フェレイラと再会する。変わり果てた姿になったフェレイラ。そしてロドリゴが最後に出した結論は・・・棄教。踏絵を踏むこと。自らのアイデンティティかつ自分の一部たる神を足蹴にする行為で痛みを感じた時、始めて神からの語りを聞く。 「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためこの世に生まれ、お前たちの痛みを分かち合うため十字架を背負ったのだ」 神とは何か?生きとし生きる全てに等しく愛を授ける。それは強きもの、弱きものに等しく授ける。信仰を貫き通して死んでいった人たちにも愛を授ける。彼らは彼等で自分の運命と苦痛を納得して死んでいった。信仰を貫くことが出来ずに己を曲げて生き続ける者たち。彼らは生き続けることで、葛藤を持ち続け、苦痛を持ち続ける。体の痛み、心の痛み、そのすべてを受けとめる。それが神。そして神により我々の苦痛はいずれ癒され昇華される。 たとえ神を否定したとしても、自分自身の中に生き続ける。神は我々一人一人の中に存在し、かつ我々自身でもある。神を愛する行為とは、自分自身を愛することに他ならない。そして、それは人を愛することでもある。それがたとえどのような人であっても。 「たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」 | ||||
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苦痛と信仰との間での懊悩はキリスト教っぽくないと思う。神父牧師がここに煩悶しないというわけではない。これまでに多くの聖職者の葛藤があったんだろうと思います。これをテーマに信仰を考えるのはキリスト教っぽくないと思う。 | ||||
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えらく汚れていたのですが。 表紙に粘着性のあるものがべったり、裏表紙も汚れが目立ちました。わざわざ新品を購入しているのでもう少し管理してもらえたら助かります | ||||
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とても深い内容で、吸い込まれるようにあっという間に読み終わりました。 まだ映画をみていないので、映画も観たいと思っています。 | ||||
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この時代ポルトガル・スペインは布教の名の下で侵略を繰り返した。 フィリピン・中国・中南米の国々を見ても明らか。 誤った方向に先導するよくない本。 | ||||
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とても綺麗な品物でした。 | ||||
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この作品をこの読む前に、本書の著者の「私にとって神とは」を読んでみた。 彼がクリリスチャンになった動機、きっかけを知りたかった為である。 理由は簡単で母親がクリスチャンであったため一緒に教会に連れられて行き洗礼をうけ クリスチャンになっただけの理由であった。 従って、キリスト教に傾倒する気持ちは毛頭なかった。しかし人生経験を経る中で大病を 何度も患い、また様々な苦労を多く重ねるうちに、子供の頃に洗礼を受けた神についての考 えが繰り返し思い浮かぶようになり、作家となったいま、「神」について作家の目で著作し てみたいと思う様になりこの「沈黙」を描き上げたそうだ。 前置きが長くなったが、この「沈黙」自体、彼のキリスト教に対しての非常に冷徹な 目で見た「キリスト」をテーマにしている。主人公ロドリゴはスペインの宣教師であり自 分の師で大変尊敬していたフェレイラ教父が日本に布教で送られ、結果的に布教に失敗 し、今では棄教してしまったと聞いた。そのことを自分の目で確かめる為日本にはるばる ポルトガルよりやってきた。 フェレイラ師を探す中多くの隠れキリシタンに頼りにされ、又は助けられ師を探し求 める中、多くの隠れキリシタンが役人から死刑を含め各種の拷問を受ける光景を何度も 目撃する。 その都度ロドリゴは「神」に祈り、その拷問をやめさせてもらう様「祈る」が「神」は 一向にその兆候すらみせてはくれず「沈黙」を続けている。 そうしているうち、自分が探しているフェレイラ師と面会するチャンスが訪れる。 フェレイラ師が語る棄教の動機、経緯はロドリゴが経験したと同じ拷問、死刑を目撃し 同様に「神」にその救いをもとめるが、やはり「神」は「沈黙」を続けるばかりで何も してくれなかった。フェレイラ師は自分が「棄教」する事により、多くの隠れキリシタン を救えるなら、それこそ「神の御心」に沿うもので有り、形式的に「踏み絵」を踏み「棄 教」を装うが心の奥では未だに信仰を捨てずに持ち続けている事を知り、ロドリゴ自身も 「棄教」のまねごと「踏み絵」を踏んでしまう。 私の読後感としては主人公達の持つ信仰心はどの宗教についても言える事で、その 宗教の名前と形式のみが異なるだけである。 この本を読んだのは最初に記載した通り遠藤周作がなぜキリスト教(カソリック)を信 ずる様になった事であったが、これまた良くある結果でありチョットがっかりしてしま った。祈りにより病気が治った、貧しかったものが人並みに暮らせるようになった等 色々な理由があると思うが、昔から多くの宗教に接してきてき「奇跡」を体感する機会 は残念ながら一度もなかった。昔一部の信仰は、入信して初めて「体験」出来る物との誘 いに乗りある宗教の信者となった事もあったが「自分の中の“信仰心“を満たしてくれる 「モノ」を感ずる事は一度もなかった。 この作品で遠藤周作が言いたかった事も「そんな簡単に奇跡など度々起こるものではな く、宗教心は自分の心の中で“人生のよりどころ”として持つものであり、 何か絶対的な「モノ」を宗教の形をとって自分で考え、持ち続ける事」であると言ってい る事を強く感じた。 この一冊では遠藤周作の真意を量り知る事は出来ず他の著作も今後 読んでみようと思っている。 | ||||
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面白い | ||||
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映画を見ました。文庫本を読み、友人にプレゼントしました。もう一度読みたくなり、購入しました。 | ||||
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遠藤氏の著作は好きで多くを読んでいますが、こちらは異彩を放つ内容になっています。信仰とは、愛とは、矜持とは何かを問う内容です。 カトリック教会からの激しい批判、長崎で禁書状態など問題作となった事がWikipediaでも読み取れます。キリスト教弾圧の中で、生きる事と信仰の狭間で苦しむ人々。綺麗事ではない、鬼気迫る状況から人々はどうするのか、その心境が描かれており、感動的な内容になっています。 | ||||
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