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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全388件 41~60 3/20ページ
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当時は日本人は奴隷にして西洋に売られていた?しんりゃくの為のキリスト教だった。 | ||||
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要領の良い宣教師たちの心の揺れ動きがもっと有ればよかった。 この書籍の隠れキリシタンは随分と酷い目に遭っていますが、実際は役人に守ってもらっていた隠れキリシタンもいたそうです。踏み絵に関してもプロテスタントの人は割とあっさり踏んでいたとも聞きます。 | ||||
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話には聞いていましたが、随分と経って今ようやく読みました。 軽妙にて精緻な文体はまるで古さを感じさせません。驚くべき解りやすさと理解させる力があります。今年の新作だと言われても通じる文筆力はまさに驚異。これが数十年前の作品と思うと恐るべきことです。 さて、私はクリスチャンです。そしてこの作品に全く同意できます。都合のいい神ではない。死ぬ時にこそ恵は完成される、という事でしょうか。人の作りし教会よりも、一人の信心にこそ神は宿るという事なのでしょう。全く納得できる事です。 | ||||
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キチジローが頻繁に登場し、ユダと比較されるのが不自然でした。キリストのお顔を思うシーンが頻繁にあり、神はお顔よりも魂ですので、不自然な感じがしました。宣教師を世界中に派遣する本部では、恐らく、マニュアルの様な物があり、拷問を受けたり、強迫されたときの対処方法が決められていたのではと思います。非常時に、信者の命を脅迫されたとき、その場で転んだ振りをするのは許されるはずです。本部でも、事情を勘案し、一時預かりになって当然と解します。そもそも、キリスト教では、転生輪廻を認めておらず、死後、天国に行けても、生まれ変わりがありませんので、この世限りとなり、その都度"神の声"を期待するのではないかと推察します。一方、仏教では来世、来来世がありますので、この世で叶わなかったことは、来世で実現できるように頑張ることになります。 | ||||
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ようやく手にとった。 日本がキリシタンを弾圧する中、現地に赴いている布教使が「ころんだ」(踏み絵を踏んで棄教の意を示した)と聞いたロドリゴは、自分はそうはならぬと思いながら苦しい海路を経て日本にたどり着く。隠れるように過ごし、司教である彼らに儀式を求める日本人の信者たち。ロドリゴは、「なぜ神は沈黙しているのか」そう思いながら、彼のために命を捨てていく日本人信者たちのむごい最期を見ていく。 この小説は、キリシタンの話であって、なぜか日本的、自分には浄土真宗的に読んでしまうものがある。これが遠藤周作の宗教観を反映しているところなのかと思う。 自分はキリスト教の教義をよく知っているわけではない。しかし、この物語の中で、「これがないと生きていけない」という人たちの姿は、尊いというか、自分自身の大事なところに切っ先をつきつけられているような気持ちで見るしかなかった。自分は考える。「なにが正しいのか」それは宗教的ななにかを軸としての正しさを考えて登場人物を見てしまう。なんという傲慢な読み方だ。でも読者の自分はそれしかできない。宗教的な正しさって正しいのだろうか。ロドリゴと同じように自分がガタガタに揺すられる。ロドリゴが揺さぶられるのはきっと自分が感じる揺れより激しいのだろう。 キチジローという登場人物がいる。詳細はストーリーに関わるので省略するが、ロドリゴが蔑んでみるような行動をする人間だ。この人物は、どうしてもロドリゴの行く先に現われる。執拗に。苦難があっても現われる。共にあったのではないか・・・と感じる。 ”自分が闘ったのは自分自身の信仰にたいしてだった” ロドリゴの言葉。自分が必死で堅く信じて守っていくことと、赦し。自分が見せられてきたのはこの物語だ。正邪の区別が出来ない物語を見せられていたのだ。 メインのストーリーとは離れて思うことがひとつあった。日本のキリスト教は日本において別のものになってしまっていたという話。それが本当かどうかわからないけれど、堅く信じた人たちだけの間で「これが正しい」と狭い狭い世界に閉じこもっていたならば、変質してしまうものはあると思う。自分はこれをたまに今の仏教においてもみている気がする。なんだかそういうことが重なって、そのタイミングでこの本読んでしまったのだ。宗教の力というのは、自分になくてはならないかもしれない(断言が出来にくい)が、同時に畏れを感じている。 タイトルの「沈黙」は、ロドリゴがこの物語の中において静寂に身を委ねるときに考えていること。最初は、次々と迫害されて死んでゆく信者に救いの手が差し伸べられないという意味を含んでいた。でもこれは静かだということじゃなくて、なにかが聞えそうなのに聞えないことなのかなと最後は思った。わかりそうでわかれないもの。 人間がなぜ宗教を必要としているのか。その本質を明確に言い当てるのではなく、読み手の中にいろんな衝撃を与えることで思考のスタートを促しているような本。このキャラクターはこうだって判断出来ない。自分はこんなにも他人のことがわからない。そのことも絶望的に思うのだった。本当にわからない。 | ||||
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遠藤周作はもともと、この作品に「日向の匂い」とい題名を考えていたが、編集者の申し出によって「沈黙」という題名になった。 この作品のラストは、踏み絵を踏んだポルトガル人司祭ロドリゴの、この言葉で結ばれている。 「そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」 この作品には、西欧キリスト教的な完全なクリスチャンは出てこない。 殉教を遂げた農民モキチ達の信仰さえ、ポルトガル人司祭ファレイラから見れば、「この国の者達があの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神々だった。デウスと大日と混同した日本人はその時からわれわれの神を彼等流に屈折させ、そして別のものを作りあげはじめたのだ」 しかし、この作品世界の中では、その不完全なクリスチャン達の一人一人に、「あの人」イエスの呼びかけや働きの痕跡が残されている。 水磔に処せられた青年モキチは、息たえだえに切支丹の歌をうたう。 参ろうや、参ろうや、 パライソ(天国)の寺に参ろうや 日本信徒の殉教は、西洋人ロドリゴが夢みていた輝かしいものではなく、みじめで辛く、讃美歌も日本風であったが、紛れもない殉教であった。 「この国は沼地だ」と日本布教に絶望して踏み絵を踏んだファレイラ司祭も、暗黒の牢獄の壁に「LAUDATE EUM (讃えよ、主を)という文字を刻んでいた。 司祭を裏切り踏み絵を何度も踏む臆病者キチジローは、それでも最後まで司祭ロドリゴから離れず、江戸でロドリゴが死ぬまで彼に仕え続けた。 そしてロドリゴ司祭が踏み絵を踏む時、司祭に向かって、銅板の「あの人」は言った。 「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前に踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」 「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断定できよう」 モキチ達にも、キチジローにも、ファレイラやロドリゴの上にも、この小説の中で、「あの人」の呼びかけの痕跡が、くっきりと見られる。 「あの人は、沈黙していたのではなかった。」 この小説世界の中では、すべての登場人物に (だがその足の痛さだけでもう十分だ。 私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあおう。そのために私はいるのだから) と呼びかける「あの人」の声が届いている。 後にロドリゴは、自分に踏み絵を踏む事を勧めたファレイラと再会し、ファレイラの中に自分の深傷をそのままみつけ、鏡にうつる自分のみにくい顔を見ることに耐えられない思いがした。 「ロドリゴは、ファレイラの嗄れた声とくぼんだ眼とそして肉の落ちた肩を黙ってみつめる。 その肩に陽が落ちていた。あの西勝寺で彼と始めて会った時も、この肩に陽射しがあたっていた。」 「夕暮になって雲が少し割れ、弱々しい陽がさした。」 この小説世界の沈黙の上には、雲が割れ、弱々しい陽がさしているのである。 | ||||
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初めまして。本日本が届きました。迅速な対応で喜んでおります。状態も良く早速読みたいと思います。ありがとうございました。 | ||||
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初めまして。予定より早く届きまして喜んでおります。本も状態も良く早速読みたいと思いました。 | ||||
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かつてヨーロッパ列強諸国は非ヨーロッパ地域を自分たちの植民地にするために、まずキリスト教の宣教師を派遣して現地の先住民を教化、洗脳した。つまり彼らは態の良い侵略者だったことを私たちは忘れてはならない。頼まれもしないのに勝手に他国にやってきて布教して時の為政者に弾圧され、私たちは正しいことをしているのに、神はなぜ助けてくれないの?、沈黙するの?、と嘆く。ずいぶんと勝手な話だな、と思う。キリスト教徒は異教徒をキリスト教に改宗されるために彼らが崇拝していた神をキリスト教における悪魔とした(サタン、ルシファー、デーモン、みなそうである)。アフリカ、中東、アジア太平洋地域、みなこの手法で先住民を改宗(洗脳)させ自分たちが支配しやすいようにコントロールした。・・・たとえて言うと、あなたの家の玄関先に、ある新興宗教(カルト)の人がやってきて、あれこれ勧誘する。家族が入信した、困った。何とかしてくれ、と弁護士やその他、脱会を支援する団体に相談する。そして団体に抗議する、法的措置をとる。カルトは前代未聞の宗教弾圧だ、と自分たちこそが被害者だと主張する。・・・いつか、どこかで聞いたような話である。基本構造はカルトもかつて大航海時代にヨーロッパ、バチカンがやったことも同じである。本来は星なしだが、つけないと掲載されないようなので、ひとつ。このみなが大絶賛する「世紀の大傑作」の意味を考え直す契機にして頂きたいと思い書きました。 | ||||
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長崎に縁があったので以前から読もうとは思っていたが、読む口実ができたので購入した。 こうなるのかなという予測を立てながら読み進めていたが、結末が予想とは違ったものだった。 詳細は伏せるが少し意外性もありつつ、しかしながら味わい深いもので、信仰とは何かといったことを改めて考えさせられるきっかけになった。 | ||||
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信仰とはたとえそれがカルトであっても信じることから始まるわけだが、その信仰が打ち砕かれる事態を前にしたときに人は信仰を保ち続けることができるのか?そういったことを人々に投げかけているのがこの小説だと思う。 棄教を迫る幕府側の人間が元キリスト教徒というのも興味深い。彼はキリスト教と人間を知り尽くしている知恵者で 棄教というものをシステム化してしまっている。形だけでもいいからと踏み絵を勧め踏んだ者は許し、踏み絵を拒む者にはすさまじい責め苦を与える。 キリスト教の宣教師にはお前が信仰している神は信者がどんな目にあっても救いもしないという現実を突きつける。彼が凄いのは神が救わないなら私が救うと宣教師に思い込ませてしまうことだ。 その結果、宣教師は棄教という道を選んでしまう。 棄教者となってしまった宣教師を救うのは作中で弱きものの代表みたいなキチジローである。この男は踏み絵をし 十字架に唾を吐きかけ、家族が殉教しても自分は殉教できなかった苦しみを抱えて生きる弱者である。 宣教師はそんな彼の告解を一人の人間として聞き、一人の人間として許す。そうすることで宣教師もまた自分の弱さを許せる。 信仰とか人種とか体制とかを全てはぎ取った先にある救済をこの小説は見せてくれる。 最後に気になったのは主人公の恩師である宣教師が日本に対して「ここでは観念の神が存在しない、皆、物を欲しがるばかりだ」というセリフがあるがこれは言い過ぎだろう、だったら、なぜキリスト教にはイエス像があり十字架があるのか壮麗な教会があるのか矛盾すると思う。 | ||||
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商品の状態も良かった。 | ||||
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遠藤氏の筆致から、切支丹迫害へのリアルさが伝わる。また、主人公の苦悩と心の葛藤が痛いほど感じられる。 | ||||
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基督教を棄教せざるを得なかった司祭たちの苦悩。 | ||||
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映画「沈黙~サイレンス」を、友人から、アンドリュー・ガーフィルド(アメイジングスパイダーマン)やアダム・ドライバー(スターウォーズ)、リーアム・ニーソン(スターウォーズ)が出ていると聞き、軽い気持ちで見てみました。 これはスゴイって素直に思えたので、これまた安易に原作を買い求めました。 正直、大変です。軽い気持ちと安易な行動が、難解な本に行きついたわけです。 大まかなところは映画と同じなのでしょうが、それでも基本日本人の作家とアメリカの映画監督です。 根本的に違うものがあるでしょう。 頑張って読み解いていこうと思います。 | ||||
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映画「沈黙~sirens」で興味を持ち、原作「沈黙」、「沈黙の声」と読み進み本書にたどり着きましたが。 作品を語るっていうより作者・遠藤周作を語る感じ。 映画作品を語るっていうよりも映画ウラ話を話すっていう感じに取れてしまい、かなり残念でした。 そういう意味では「シンポジウム」自体の空気は伝えられているのではと思います。 悪い内容とは思いませんが、自分が欲しかったものとは違ったようなので、☆-1で。 | ||||
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佐藤優氏がどこかの本でこの本を推薦したか、再読しようと書いてあったのか忘れたが、佐藤氏が読みたいものであれば面白いはず、と思い私も読んでみました。期待通りの本であった。 日本で棄教したとうわさされる師を探しに3人の若い宣教師がはるばるポルトガルから日本に潜入する。日本はその時、キリスト教弾圧が激しい時期であった。当然のごとく、宣教師は幕府につかまり、師と同じく棄教してしまう。その間、隠れ信者達が虐待を受けているのを見て、聞いて、主人公である宣教師はもちろん、隠れ信者達も神に慈悲を乞う、必死に祈る。しかし神は何も応えない。ただ沈黙を守っているだけだ。果たして神がいるのだろうか。こんな重いテーマの本にも関わらず、ぐいぐいと引き込まれるように読んだ。面白いミステリーとは異なる迫力で引き込まれた。この本はそんな本だ。 | ||||
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内容は陰鬱かつ平坦。 しかしながら、丁寧かつ緻密な心理描写によりチリチリとした緊張感が全編通して漂っている。 キリスト教に対する姿勢について、異国の宣教師を通して一つの答えを示している点が特徴。 小説として、ここまで真摯に回答を出しているものは中々無いのではないか。 私はキリスト教徒では無いので共感することは出来ないが、理屈を納得することは出来た。 宗教への教養が深い人であれば、より心に響く作品と思う。 | ||||
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ストーリーが下落した世界だけど神髄とはと悩ましげな作品でしたが読めました。 | ||||
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仏教の土壌に西洋の教えは必要ではない。 日本人にキリスト教が受け入れられないのは、宗教が問題なのではなく、 宗教と軍隊が一体となって日本へ持ち込まれたことだろう。 鉄砲が伝来した戦国時代がその最たる例であり、 そのことが、江戸時代の鎖国に繋がる。 また、人身売買が平然と行われていたことも判明している。 近年、人身売買というと韓国が有名だが、 その韓国は、キリスト教徒が国の大半を占めているのである。 キリスト教が若年層に広まって以来、韓国は反日に傾倒している。 | ||||
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