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さらば愛しき女よ
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【この小説が収録されている参考書籍】
さらば愛しき女よの評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.18pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全72件 21~40 2/4ページ
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| アメリカを代表するハードボイルド小説作家レイモンド・チャンドラー(1888 - 1959)の〈私立探偵フィリップ・マーロウ〉シリーズ第2作 “Farewell, My Lovely”(1940)の邦訳。旧訳『さらば愛しき女よ』(清水俊二訳、1956)と同じ早川書房から、村上春樹氏により『さよなら、愛しい人』として出版された新訳です。 本作はシリーズのなかでプロットのひねりぐあいが控えめで、読みやすいほうの作品でしょう。くわえてシリーズ前期の作品ということで、主人公マーロウもまだ若く、後年にくらべてシニカルになりすぎず、さほど厭世観にひたってはいません。 のろのろとしてか進めず、なにを探しているのかもわからず、たとえ転げ落ちても、それでもどこかに向かおうとする小さな虫に感情移入するマーロウ。愛について悲観的な想いを抱きつつ、それでも愛にかすかな希望を持とうするマーロウ。本作を読むたびに、それらの描写に胸をうたれてしまいます。 (以下、訳について) 訳文の傾向でいえば、清水訳は意訳が多く、テンポ重視。清水氏が映画のなかで話される英語をかぎられた文字数の日本語に移し替える字幕の仕事を手がけていただけあって、清水訳では原文の単語や文章が削られている箇所が多い。ばあいによっては数行にわたる文章が一行くらいに要約されているところもあります。 反対に、村上訳は直訳調で、なるべく単語や文章を削ることなく忠実に日本語に置き換えようとされています。個人的には村上訳のほうがマーロウの皮肉屋っぷりや天邪鬼っぽさがよくでていると思います。ただし重要な描写で間違いがあるということはないものの、村上訳は訳に違和感を感じる箇所が散見されます。 たとえば、林のなかでマーロウが依頼人マリオ(村上訳では「マリオット」)の乗っている車を一度離れ、ふたたびそこに戻り、依頼人に話しかけたすぐあとのシーン。清水訳は1976年に再刊された版を参照しています。 “There was a vague movement behind but he didn’t answer. I went on trying to see something besides bushes. Whoever it was had a nice easy shot at the back of my head. Afterwards I thought I might have heard the swish of a sap. Maybe you always think that - afterwards.”(原文) 「私の背後で何かがかすかに動いたような気がしたが、マリオは返事をしなかった。私は叢のそばのものを見ようとその方へ歩いて行った。 誰が殴ったのかしらないが、私の頭をうしろから殴ったものがった。狙いがはずれるはずはなかった。後で考えてみると、私は背後で物音を聞いたような気がした。いつも、後になってから、そんなことを考えるものだ。」(清水訳、p.77) 「後部席で定かではない動きがあった。しかし返事はなかった。私は茂みのわきに何かがあるのを目にとめ、そちらに行って確かめようとした。 そのとき誰かが、私の首の後ろに手際の良い一撃を食らわせた。どこかの誰かだ。ブラックジャックがさっと空気を切る音を耳にしたような気が、あとになってした。人はいつもあとになって思うものなのかもしれない。そういえばと。」(村上訳、p.98) “behind” が清水訳では「私の背後で」、村上訳では「後部席で」と訳されています。村上氏は、マーロウが一度車を離れる前のシーンで依頼人が後部座席にいたため、「後部席で」と訳したのでしょう。 けれど、そうするとマーロウは「後部席で定かではない動き」を見てとったのに、その直後に茂みにもなにかを見てとり、前者ではなく後者に意識を切り替えたことになります。それでは、移動や連続性を示す “went on” という次の文章の語句とに齟齬がでてしまいます。ここは清水訳のように「私(マーロウ)の背後で何かがかすかに動いた」ので「(マーロウの背後にあった)叢のそばのものを見ようとその方へ歩いて行った」とすべきです。 そのあとの段落の文章も村上訳のほうがうまいのですが、マーロウが誰かに殴られる箇所での “the back of my head” は「首の後ろ」ではなく、清水訳の「後頭部」と訳したほうが適切です。下記のように、次のシーンで「帽子があって助かった(The hat had helped)」という記述があるからです。たしかに “head” は「首」という意味もありますが、マーロウがかぶる帽子はハットです。ハットは首まで守ってくれません。 “I felt the back of may head. My hat was still on. I took it off, not without discomfort and felt the head underneath. Good old head, I’d had it a long time. It was a little soft now, a little pulpy, and more than a little tender. But a pretty light sapping at that. The hat had helped. I could still use the head. I could use it another year anyway.”(原文) 「私は後頭部に手を触れようとした。私はまだ帽子をかぶっていた。私は帽子をとって頭に手を触れた。永らく使っている頭だ。少々ふらふらしていた。だが大したことはなかった。帽子で助かったのだ。まだ、使える頭なのだ。とにかく、あと一年ぐらいは使える頭なのだ。」(清水訳、p.79) 「私は首の後ろをそろそろとさすってみた。帽子はまだ頭の上に載っていた。帽子を取ったが、それは少なからぬ痛みを伴った。それからその下の頭を撫でた。昔なじみの頭だ。長い間それひとつでやっている。今ではいくらかソフトになり、いくらかぐずぐずになり、かなり大幅に脆くなっていた。しかし完膚なきまでに殴られたわけではない。帽子が衝撃を和らげてくれた。今しばらくこの頭でやっていくことはできそうだ。少なくともあと一年くらいは。」(村上訳、p.101) 上の文章で一番違うのは、“It was a little soft now, a little pulpy, and more than a little tender” の訳。清水訳では(適訳なのかわかりませんが)「少々ふらふらしていた」とすっきりと訳されていますが、村上訳では逐語訳です。 チャンドラーの文章にはひねられすぎて意味のとりづらいものが多く、そうした文章は清水訳ではコンパクトに意訳される一方、村上訳ではひとつひとつ漏らさずに訳そうとされています。テンポのよさを求める方には清水訳、多少の違和感があっても全文訳を求める方には村上訳のほうがいいように思われます。 | ||||
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| 何気ない出来事から、1つ1つ疑問を解決する姿が、チャンドラーらしく明快で好気を感じます。 | ||||
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| 随分前に清水訳でチャンドラーの本をほとんど読んだのですが、すっかり内容を忘れていました。 探偵小説というよりは、普通の小説っぽいなと当時から思っていました。 今回村上さんの新訳で新たに読み直してみて、あまりに面白くて電車の中で読んでいる時など降りる駅をすっ飛ばしそうになりました。 確かに、人物や風景の描写が凝っているので、テンポが遅く感じられるかもしれないけど 人物の描き方がとっても魅力的で生き生きとしているので、思わず引き込まれてしまいます。 村上さんの小説にも共通する特徴なのかもしれません。 Farewell my lovelyの原題についてですが、「さらば愛しき女よ」だと少しカッコよすぎるかも。 私にとっては、My lovelyという言葉は、俺の愛しい女というニュアンスです。とくにムース・マロイの言葉なのだとしたら。。 それにしても、、チャンドラーの小説は、善悪の彼岸を行く、、、といった感じで 善男善女ではない、欠点だらけの人間の愛しさ、魅力をたっぷり堪能できて、人生悪くないなと思わせてくれる稀な小説だと思います。 単なる犯人探しのミステリーではありません。 | ||||
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| レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』を、過日何十年ぶりに再読し、『さらば愛しき女よ』を再読してみたくなり家中探したが見つからずアマゾンで古本を購入してしまった。 『長いお別れ』は、1953年(昭和28年)探偵フィリップ・マロウものの第6作である。 本書『さらば愛しき女よ』は、このシリーズ第2作目で1940年(昭和15年)の作品である。 やはり13年の時の流れは随所に読みとることができてなかなか面白い。 この『さらば愛しき女よ』では、マーロウが若くて女性にモテモテなのが『長いお別れ』では、中年になったマーロウをうまく描写しているから13年という時の流れを読者に与えてくれる。(評者は、読む順序を間違えたようである) この『さらば愛しき女よ』が、チャンドラーが私立探偵マーロウのを書いた2作目だからか、『長いお別れ』と比べると勢いはあるが、少し荒削りで繊細さに欠けるように思えた。 ロバート・ミッチャムがマーロウ役で映画化されたのが1975年であるが、本書に登場するマーロウが若いだけになんだかピンとこない映画だった記憶がある。 やはりチャンドラーのマーロウものでは、『長いお別れ』がベストではないかと思いながら本書を何十年ぶり再読したのだが、ベストではないかもしれないが楽しみながら読み終えることができた。 | ||||
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| レイモンド・チャンドラーが1940年に発表した第2作目の長編。 原作は、長く清水俊二訳の『さらば愛しき女よ』(1956年刊行)で親しまれてきたが、本作品は2009年に村上春樹が新訳で発表(単行本。2011年に文庫化)したものである。(邦題は清水訳が優れていると思うが) 本作品の魅力は、やはりフィリップ・マーロウのかっこよさであろう。月並みな表現ながら、これが一番ピッタリくるように思われる。 推理小説としては、巧妙なトリックに優れたアガサ・クリスティーやエラリー・クイーンの作品(刑事コロンボ物が典型か?)に譲るのかも知れないが、発表後70年を経ても新たな支持を失わないのは、マーロウのクールで、ウィットに富んでいて、少しシニカルな語りと、見かけによらないタフガイ振りに、魅せられる読者が多いからであろう。 あるホテルに聞き込みに行ったマーロウが、情報を得るために切り出す場面〜「好きな方を選んでくれ・・・聖書を一章読んであげてもいいし、酒をいっぱいおごってもいい。どっちがいいね?」 事件を解決した後、アン・リオーダン嬢がマーロウに語る場面〜「あなたって大したものよね・・・どこまでも勇敢で、強情で、ほんの僅かな報酬のために身を粉にして働く。みんながよってたかってあなたの頭をぶちのめし、首を絞め、顎に一発食らわせ、身体を麻薬漬けにする。それでもあなたはボールを離すことなく前に前にと敵陣を攻め立て、最後には相手が根負けしてしまう。どうしてそんなことができるのかしら」 なんというかっこよさ。。。 村上春樹は「あとがき」で、「チャンドラーの小説のある人生と、チャンドラーの小説のない人生とでは、確実にいろんなものごとが変わってくるはずだ。そう思いませんか?」と書いているが、言わずもがなであろう。 (2013年5月了) | ||||
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| 気にいったのは、 或る作家が、”チャンドラー小説を読んでいる人と、読んでいない人生では、いろんな事が変わってくるはず.”と言っているが、正にその通り。 探偵小説が好きで、色々な作家の作品を読んできたが、チャンドラーの小説は面白い!! 特にその文章表現は他者とは違う、そういう箇所に出会うとウワ~とタダタダ感心。 読む価値大いにありますよ。 大西塊山 | ||||
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| チャンドラーにハズレなし読み尽しに挑戦 これも一気に読んで後味迄たのしんだ。 | ||||
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| 新刊本同等の綺麗さであった。 知らせ通りの日に到着した。 梱包も問題ない。 しばしば行われている、古本表示の裏表紙への直接貼付がなく良かった。 | ||||
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| 読んでいて大変勉強になった。読後感は二点である。 一点目。村上春樹は気のきいた喩えやセリフで有名であるが、その先生はチャンドラーであることが 今回良く分かった。実際に本書を読んでいると、チャンドラーのセンスの冴えにはいささか驚かされた。 村上はチャンドラーを「文章で戦える人」だとどこかで評していた記憶があるが、その意味が今回良く 分かった。かつ文章やセリフのセンスという点では、チャンドラーは村上を凌駕していることも強く 感じた。先生である以上、生徒には負けられないとでも言うべきか。 二点目。チャンドラーに欠けているものも本書から見えてくる思いがした。 本書には鮮やかな脇役が出てくる点は村上も指摘している。但しきらりと光る登場人物が有っても 背景が書きこまれない重要人物も多い。特にムースマロイに関しては、彼の「哀しみ」にもう少し彫の 深さが有ったら本書はがらりと変わったはずだ。Farewell,My Lovelyと言っているのはマロイだと理解 した僕としては、そのFarewellという言葉の重さをもう少し感じたいと思った次第である。 「一流の文学」という言い方は好きではない。しかし敢えて使うとしたら、チャンドラーは「一流の 文学」という範疇には入らないかもしれない。但し、村上が何故チャンドラーを今再発見させているのか を想像することは楽しい。勿論、村上がチャンドラーを偏愛しているからであろうが、では何故村上 がチャンドラーを偏愛しているのかである。僕としては、それは上記の通り「文章で戦う」という 点で村上はチャンドラーに強く共感したからだと思う。 実際、優れた文章とは、含まれているコンテンツだけではなく、表現形態としての「文章」に因る 部分は非常に大きい。これは文学だけではなく、例えば業務上の報告書でも同様だ。僕自身、例えば 出張報告といった無味乾燥な文章にも妙にこだわりがある。それは非常に稚拙なレベルとはいえ、村上 の「共感」に共感しているからかもしれない。 | ||||
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| ■ハードボイルド小説の大家、レイモンド・チャンドラー(1888‐1959)。彼は生前7つの長編を書いた。全作に探偵フィリップ・マーロウが登場した。『プレイバック』におけるマーロウの台詞「タフでなければ生きてゆけない。やさしくなければその資格もない」はあまりにも有名だ。 ■村上春樹は、チャンドラーをこよなく愛しており、文体にはその影響も見られる。確かに、ある種硬質で、乾いたユーモアの漂う文体は両者に共通して流れている。 ■本書はチャンドラーの長編第2作で原題は「フェアウェル、マイ・ラヴリィ」。これまで清水俊二訳の『さらば愛しき女よ』があり、ロングセラーを続けてきたが、2009年、チャンドラー没後50年の節目の年に村上春樹が新訳の単行本を発表、邦題も『さよなら、愛しい人』として決定版とした。その文庫化が本書だ。 ■私立探偵マーロウは、しがない人探しの仕事をしている最中、殺人事件に遭遇する。刑務所帰りの派手な服を着た大男、ムース(へら鹿)・マロイが、熱を上げていた踊り子のヴェルマを探しに来ていて、かつての店が黒人の店に様変わりして相手にされなかったことに逆上、オーナーの首をへし折って店を去る。マーロウは、ナルティー警部からヴェルマ探索を持ちかけられる。 ■かくして探偵はロスの街を彷徨するのだ。渋い顔つきで、ほろ苦い余韻漂うラストに向かって―。イヤー、泣けます。 | ||||
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| 30年以上も前、高校時代に読んだきり(当然、その時の本は清水訳の『さらば愛しき女よ』だが)で、村上春樹訳になったということで再読した。マロイの印象があまりにも強いのだが、実はあまり登場していなかったことに気づいた。著者は本当に印象の強い人物を創造するのがうまい。 ロング・グッドバイ (ハヤカワ・ミステリ文庫 チ 1-11)では、村上春樹訳を堪能したが、本書は意外に冗長だった。ロング・グッドバイの時のように、一気には読めなかった。あとがきもあっさりしていて、そこは少し残念なところである。 | ||||
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| 旧訳を以前読んでいたので比較してみようかなと思って本棚を眺めたら、ない。なので、純粋に本書単品のみを読んだ感想。 読書は通勤電車の中でしているのだけど、周りの状況や目の具合(遠近両用メガネのピントが合わないときがある)によって、集中力がそがれる時がある。そんな事情はあるのだけど、本書を読みながら地の文がかったるく感じられる時がままあった。訳者があとがきで「細部をできるだけ正確に日本語に置き換えようとすると、場合によってはだんだん頭がこんがらがってきて・・・」と書いているが、読者(私)のほうも読み飛ばしもせず真面目に読むと少々頭がこんがらがるのだった。 訳者が訳者だけに思い切った意訳ありでチャンドラーの世界を読みたかったなとも思うけれど、英語が読めないので原文に沿った翻訳でチャンドラーの文体・表現の雰囲気を日本語で味合わせてもらえるのはありがたかった。 フォローというわけでもないが、会話部分はすごくよかったと思う。格好よかった。会話がイカしてる分だけ、描写がしつこく感じたのかもしれない。描写よりもその時の心理や情景がイメージできる会話シーンでした。 あーだこーだ書いたけれど、もちろん次に同じ訳者のチャンドラー訳が文庫本で出れば読みますよ。 余談ですが、本書の後に矢作俊彦の「あ!じゃぱん」を読むとおもしろいのではないかと思います。 | ||||
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| 最初から最後まで大方一定のリズムで読んだ。 焦ることも慌てることもなく優雅なリズムだった。 情景がありありと想起され、まるで海外の作品とは思えない。 さながら上質なウィスキーのような芳香と風格が本作には心地よく漂っていた。 | ||||
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| 村上春樹訳のマーロウものである。村上春樹ファンが読みはじめると、富豪の妻やら、悪徳医師やらの人物描写、山道や賭博船の風景描写などの翻訳文を、既存の村上作品の文章と比較したり、あるいは、村上作品になにか影響があっただろうかなどと想像する楽しみがあると思う。一方、ミステリファンは、既存の清水訳を読んでいる人が多いと思う。場合によっては、村上訳で読んでみるか悩んでいる人がいるかもしれない。原作はハードボイルドの古典としての評価が定まっている作品で、本格探偵小説ファンであっても、この作品は読んでいるといったレベルの傑作である。村上ファンは素直に楽しめる作品であることは、間違いない。村上春樹がこの作品の翻訳作業を楽しんだように。ミステリファンで一度読んだことがある人もぜひ、この訳で再読することをおすすめする。それほど感じが違う。フィッツジェラルドの訳文を読んだ感じと似ているかもしれない。映画的というよりも文学的なのだろうか。筋書きは現代ではそれほど驚くことはないので、その分キャラクターの印象が強く残ることだろう。 ひとつ読む前に注意することを教えてさしあげると、動物図鑑で「へら鹿」を調べておくとよい。できれば動物園でみておくことをおすすめする。現代の日本人には想像できないところなので。 | ||||
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| 村上新訳か、清水訳かについては、他のレヴュワーが詳しく書いているので、特には書かないが、完全訳を成し遂げた村上氏には賛辞を惜しみたくない。村上氏はこの良質なミステリの筋よりも、本人が書いているように、むしろチャンドラーの"tangible"な文体に惚れたのだ。 「それが私という人間だ」の一行にゾクッとさせられる。これは男の美学が描かれたミステリ、と言ったらフィリップ・マーロウ、かっこよすぎるだろうか。 オリジナルがリリースされたのが1940年ということだが、全然古さを感じさせない。2011年の今読んでも引き込まれる面白さはさすが!である。 | ||||
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| チャンドラーは比喩の使い方がとても上手く,本作においても比喩を多用することで 人物や風景の描写,匂いや音が生々しく感じることができます。 今回は文体を,特に比喩の使い方を意識して再読し,気に入ったいくつかの比喩を上げてみたい と思います。 「自由の女神像を初めて見たヨーロッパからの移民みたいに」うっとりとした表情 「エンジェルケーキに乗ったタランチュラみたいに人目をひく」服装 「ベッドに行くのを拒否する強情な子どもたちのように,端っこにしがみついて咲いていた」野生の花 「古い城にある,九百年くらい昔に掘られた井戸」のように深い瞳 「サーカスの呼び込みのような愛らしい」声 「ワルツを踊っている二匹のネズミみたい」にふらふらする身体 などなど,数え切れないほどの比喩の数(比喩が使われていないページの方が少ないくらい)で,それが実に生き生きとしています。 清水版で物語りの面白さに酔った方も,本書を再読することで,絶妙な文体を味わうことができます。 | ||||
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| プロットはすでに非常に有名なものですし、翻訳は、読みやすくスッキリしております。 タイトルについて申し上げさせていただきますと、過去の清水氏の「さらば、愛しき人よ」は 一つの作品のタイトルとしてだけとらえれば他に比肩するモノがないほど美しく、すばらしいものです。 誰もが忘れられないタイトルで、私が頭に描いているハードボイルドのイメージそのものです。 しかし、「Farewell、Mylovely」と語るのが誰なのかを考えると、村上氏の訳の方が、俗な響きと甘さが同居しており、内容に沿っているのではないかとも思っています。 確かに、細かくみていくと、疑問を感じる部分もありますが、もはや社会的に定番となっているタイトルについて、このように考え直す機会ができたこと、書店に古典ハードボイルドが平積みされる機会を与えてくれたことを評価して星5つで行きたいと思います。 | ||||
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| 昔読んだけど、内容は全く覚えておらず。村上春樹新訳ということで、読み直した。男はあらゆる意味において強くなければならないという信念を持って、若い時は僕も生きていた。線の細い気の小さな優等生が、酒を飲みタフガイを演じて、前歯をへし折られたりもした。男らしさの病を手放し、ありのままの弱い自分を受け入れてノロノロ生き方を変えた今でも、フィリップ・マーロウのような男の魅力は僕を引きつける。「正直に生きたくても、正直に生きられない時代」。本の中のそんな台詞が印象に残った。狂おしく女を愛してしまった男の切なさと哀しさ。でも、マロイが不幸だったとは思いたくない。 | ||||
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| 味気ないのにも程があります 「さらば愛しき女よ」では何故いけないんですかね? | ||||
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| 赤毛的な古き良き世界と、染められた金髪の世界との葛藤の物語。 アメリカ男性の理想の女性像は昔、赤毛だったそうだ。それが金髪にとって代わられた。ハメットの書く悪女は赤毛。大衆ハードボイルドのスピレインは金髪。この本が書かれたのは、世代交代の時期だったのかも。 あるいは偽金髪だって、赤毛の田舎者であり続けたかったろう。でも都会で生きるには自分を偽らねばならなかった。彼女の歌う感傷的な失恋の唄は、赤毛的な世界に向けられてたのかもしれない。巨漢の元夫、父親代わりの現在の夫、そして本来の自分の属する世界に。 清水訳で読んだときは、DVを感傷で正当化する話としか思えなかった。俺もそれなりに歳くったのかな。 | ||||
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