■スポンサードリンク
九尾の猫
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
九尾の猫の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.31pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全49件 21~40 2/3ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
物語は、すでに、連続絞殺事件が五件起こったところから始まります。犯人は通称〈猫〉と呼ばれ、ニューヨークに住む人たちを恐怖の渦に叩き込みます。ニューヨーク市警とエラリイ・クイーンが犯人を追っている間にも、一件、また一件と絞殺殺人は起こります。一見ランダムに襲われている被害者たちですが、エラリイは、幾つかの法則性を発見していき、〈猫〉と呼ばれる犯人に辿りつくが。 と、いった内容です。越前俊弥氏による新訳がとても読みやすかったです。しかし、エラリイ・クイーン特有のペダンチックな文章ともってまわった台詞が、小説全体を、ほんの少しだけ読みにくくしているような気がします。だから、★四つにしました。それでも、『エジプト十字架の謎』と比べると、衒学的なところが大分抑えられていると思います。 あと、面白いと思ったところは、この小説は1949年発表なので、サイコキラーによる連続殺人事件が小説の中でも現実の世界でもほとんど起こっていないため、小説の中のニューヨーク市民はかなり事件に対して怯えます。なので、ニューヨーク市民は同時多発的にいくつもの自警団を組織するのですが、ニューヨーク市長やニューヨーク市警はそのことに難色を示します。ニューヨーク市長は、「世界一の大都市の警察権を民間人が法の権威を無視して奪ってよいはずがない」(p208)や、「それ(自警行為)が民主主義的な制度を脅かし、当初は高い志に基づいていたものが私刑となって、結局は最低の者たちの最悪の激情を満足させることになりかねない」(p215)と言っています。最終的にこの自警団は、集会のときに、誰か女性の「猫! 猫よ!」という声で集団ヒステリーを起こし暴動にまで発展して、死者を39人も出してしまい、解散します。 人によっては、市民による自警団の組織は、自立した市民やプロ市民といった言葉で賞賛すると思いますが、どうやら、エラリイ・クイーンは、市民による自発的な集団行動のネガティブな面を冷静に見つめていたようです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
原題 Cat of Many Tails (原著1949年刊) 何度読み返しても感動する。中期クイーンを代表する長編であり、現代的なリッパー物の先駆的名作の新訳版。 前作『十日間の不思議』(1948年)で手厳しい挫折を味わったエラリイ・クイーンが再起を賭け挑む、ニューヨークを震撼させる無差別連続殺人。猫と呼ばれる犯人に翻弄され焦燥するエラリイの姿は初期作品に見られるような超然たる論理の執行者ではなく、失敗し苦悩する一人の誠実な青年として描かれる。その煩悶する様が、恐怖と猜疑に苛まれマスヒステリーとパニックに陥るニューヨーク市民の迫真の描写(特に物語の中盤、流言により引き起こされる暴動のシーンは戦慄的)と相まって小説としての見事な奥行きの深さを見せている。 主要登場人物が限られている事もあり、フーダニットとしての興趣には若干乏しいが、意外な犯行動機の解明など終盤の畳み掛ける展開は迫力に満ち、そのダイナミズムはクイーン作品中屈指。そして結末において或る登場人物がエラリイに問い掛ける会話に生と死、罪と罰をめぐる本書の主題が集約されている。(今回の版では大庭忠男訳に比べ、台詞の中の言葉が持つダブル・ミーニングがより活かされた訳文となっている) 飯城勇三氏の解説にもあるように重要な繋がりを持つ『十日間の不思議』を未読でも本書の価値は充分堪能出来るが、可能ならば先んじて前作を読まれる事をお勧めする。名探偵の挫折と再生という感動的なドラマがより豊かに味わえるだろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
【ネタバレあり!?】 (1件の連絡あり)[?] ネタバレを表示する | ||||
---|---|---|---|---|
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
高校生の頃にエラリー・クイーンやクリスティにはまって、一通りの作品は読み終えていたけれど、もう30年以上エラリー・クイーンから離れていて、久しぶりに電子文書で読んでみました。こんなに長かったかなあと思いながら読み進めていました。ネタバレにならないよう、内容についての評価はしませんが、読後感は疲れた・・というもの。もちろん、トリックは秀逸だし、筆致は最後までよれることなく進みますが、エラリイってこんな感じだったっけ?と思いながら最後まで読みました。クリスティとの違いを実感しました。この本を読み終えた後、ドルリー・レーンものに会いたくなり、四大悲劇のシリーズを一気に読みました。エラリイものは、こんどは短編からリハビリしながら読んでみます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「間違いの悲劇」を読み、30年ぶりに再読。最後の意外な真犯人はなんとなく覚えていましたが、ニューヨークが猫によりパニックに陥る緊迫感、ミッシングリングの分からなさは、本当に凄い。悩むエラリーが本当に魅力的です。見方によってはいろいろ評価があると思いますが、私にとっては、クイーンのベスト1です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
クイーンの作品の中では『Yの悲劇』と並んで好きな作品である。 初めて読んだのは、20年ぐらい前だが、強く引きこまれた記憶がある。国名シリーズなどと違い、悩むエラリーの人間臭さとスリリングな展開が面白かった。 犯人などメインとなる部分を覚えていたけれど、今回再読してみたがやはり面白かった。極めてニューヨークという都市が重要なことが理解できた。なかでも自警団やパニックなど、人間の集団心理に関する部分など、興味深い。 他作品のレビューにも書いたが、1940年代後半、第二次世界大戦の戦勝国でありながら、アメリカ社会に満ちる「苛立ち」が読みとれる。ほかにも、エラリーと女性、宗教や心理学など、前期とは違った面からのアプローチもある。こういった主筋とは違う部分で面白い部分が多いのが、クイーンの中期・後期作品の魅力だろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
前作「十日間の不思議」で心に深い傷を負ったエラリーがクイーン警視に頼まれ挑むのはニューヨークに現れた連続絞殺魔「猫」。国名シリーズや悲劇四部作のようなアクロバティックな論理展開はないし、ライツヴェルが舞台でもないが間違いなくクイーンの傑作の一つだ。当時のアメリカの人々の生活や文化に関する詳しい描写に加えてパニック映画のような「猫暴動」。そして、犯人の動機に迫る精神分析学的なエラリーの推理とどんでん返し。注目すべき点を挙げればキリがないがやはり一番の注目点は最後のエラリーとセリグマン教授とのやりとりだろう。自らの見識の至らなさで犠牲者を出してしまい感情的になり、今までの自分のやってきたことをなじり、もうこんなのはゴメンだと叫ぶエラリーに老精神分析学者セリグマンが優しく諭すシーンは心に染み入る。「十日間の不思議」に続いて待たしても傷を負ったエラリーだが最後にセリグマンの優しさが悩める名探偵の心を少しでも癒してくれたことを願わずにはいられない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
前作、十日間の不思議でモーゼの十戒をめぐる、 フロイトの語る原父のような、男と法、言葉をめぐる犯罪が描かれた。 この作品はその傷をめぐる話であり、そして、モーゼとは何かをめぐる物語です。 結論から言いますと、モーゼは水を流れてくる子どもです。 羊水の中に浮かぶ全ての母親にとっての名前をつける前に腹に抱えた赤子。 それがモーゼなのです。 厳しい父として、砂漠の荒ぶる声として、法を暴力を追い求める前作のモーゼのある究極な犯罪に先立つ本当のモーゼ。 しかし、クイーンの筆はそこにおいても逃れられない更に究極の犯罪を問い詰めます。 この作品も強い原父が出てきますが逃れられない罪の前に、ある運命を受け入れます。 私はいつもここのところで泣いてしまいます。 それを包む別の父はこう言います。 神の名は一つだと。 最後に登場人物の名前が一つ一つ記されます。名前を記すことの暴力。 記されない子どものための暴力。逃げることはできません。 それでも私たちは名前をつけ、言葉を交わす。法を作る。 登場人物の一つ一つの名前。かけがえのないものが、ここにあります。 キリスト論の間違いの悲劇と並ぶ。クイーンの掛け値なしの傑作です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ひさびさに、エラリークィーンを読みました。 いやぁ、やっぱり、すごいわ。 最初は、翻訳がちょっと〜とか思っていましたが、途中からは、気にならなくなるくらい、ぐいぐいテンポのいい展開。 ニューヨークで、「猫」という犯人が、無差別のように見える殺人をしていく。絹の紐で首を絞めるというやりかたで。 なんというか、精神科的な話なので、ちょっと、アンフェアな気もしないではないが、筋はとおってしまう。。 エアコンもないし、警察は馬も使っているくらいの、古いお話なんだけど、やっぱり、上手い。。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
アメリカの推理作家エラリー・クイーン(フレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リーの従兄弟同士による合同ペンネーム)の 1949年作。 ニューヨーク市民を恐怖に陥れる連続絞殺魔〈猫〉!動機もなければ目撃者も容疑者もいない!悪気のない〈猫〉の殺人遊びにエラリーが挑む! これはあれだね。いわゆるところのミッシング・リンクものってやつ。でもそれだけじゃなくてね、その中でヒステリックな群衆心理と様々な 現実レベルが重層的に関連し合ってひとつの哲学が花開いてるんだ。 ミステリという手段を使って、本物らしさと、見事な見せかけの中間に存在するミステリの可能性を模索。知的かつ感覚的にミステリという 媒体の可能性とその創造の過程について考察してるんだね。 ミステリを描くという行為についてのミステリの肖像的なものともいえる。実際問題、現在までのミステリ創作の流れにおいて意識するか しないかは別として、もちろん間接的なものとして、本作の影響をまったく受けないなんてことはないのかもしれないなあ。 作者にそれだけの苦悩があったから。ラストのエラリーの悲愴ぶり。。 さて、そんな哲学的側面も素晴らしいんだけど、なにより本作で〈猫〉が引き起こす恐怖は明らかに赤狩りを反映したものとしてとれるんで あって、それに対して濃密な芸術性でもってして答えたってところが素晴らしいと、そう思うんだよ。なにより健全だ。しかし狩るまでもなく どっかの国ではもう必要ですらないと思われてる(笑)・・・んだけど、本当のところ〜ですらないなんてものが健全なのかどうか甚だ疑問。 これはまったくナンセンスで悪気のない素朴な概念で思うことなんだけどさ、奴隷ってのは奴隷主にとっては当然ながら必要なんであって、 もしいなくなればそれがそのまま面当てになるわけさ。しかし、のたれ死にしようが何しようが無関係ですよ、いつでもどこからでも自動的に 補充されますからねっ!なんてものは奴隷ですらないんであって。それがある意味で精神的に成り下がっているんであれば、相対としての 必然的法則によって奴隷主は自らを猿並みだと宣言してるんだけど。同じ猿なら芸があったほうがいい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
著者の中〜後期の作品は、どんどん本格ミステリ度合いが少なくなるように見える。しかし、本作も紛れもなく本格ミステリである。ミッシング・リンクものであり、広い範囲から容疑者を絞り込んでいくという、まるで警察小説のような設定なのだが、クイーンのロジックは相変わらずである。 クイーンにしては結構長い作品であり、読みでがある。導入は割とすんなり行くが、途中でのたるみは、少々気にはなる。これはプロット上、仕方のないことかもしれないもだが、もうひと工夫あっても良かったかもしれない。作品の雰囲気は、デアンドリア「ホッグ〜」にも似ているような気もする。「ホッグ〜」もまた本格ミステリであったが。 本格原理主義者には、受けは宜しくないかと思う。クイーンとしては、新機軸を打ち出そうとしたのかもしれない。失敗作だという評価もあるが、それでも私は本書のクイーンのロジックを、若干の破綻があるにせよ、この設定へのチャレンジを、そして相変わらずの本格愛を、評価したい。 クイーン作品の中で、なぜか愛着のある一冊である。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
このレビューを読むととても高い評価を受けているのですが、自分的には全くつまらない作品でした。 容疑者が絞れるあたりも偶然の産物であるし、そこから先はもう真相がわかります。 クイーン一流の論理性・客観性を求めると、大いに失望させられます。 最終章の真犯人があぶり出されるやり取りも退屈そのもの。 本来謎解きを主流にした作家なので、こういう展開に持ち込むと非常に違和感があるし、無理がある感じがします。 元々サイコパスの研究はこの時代まだ進んでいなかったので、現代のサイコパス物と比較すると明らかに専門性で劣るし、説得力にも欠けるでしょうか。(先駆的な作品と言えるのかもしれませんが。) クイーン作品は好きなので何回か読みなおしをすることが多いのですが、この作品は1回で充分でしょうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ここのレビューではとても評価が高いですが、自分的には全くつまらない作品でした。 容疑者が絞れるあたりも偶然の産物であるし、そこから先はもう真相がわかります。クイーン一流の論理性・客観性を求めると、大いに失望させられます。 最終章の真犯人があぶり出されるやり取りも退屈そのもの。本来謎解きを主流にした作家なので、こういう展開に持ち込むと非常に違和感があるし、無理がある感じがします。 元々サイコパスの研究はこの時代まだ進んでいなかったので、現代のサイコパス物と比較すると明らかに専門性で劣るし、説得力にも欠けるでしょうか。(先駆的な作品と言えるのかもしれませんが。) クイーンの中では異色の作品ですが、間違いなく駄作です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
結果的には精神・心理学的な動機づけが すこし重いかとは思いますが、 小説としては、 もう一対の「夫婦」になる若い二人の活躍 との対比も意識に織り込んでいる、 なかなか重厚なプロットになっていると思います。 エラリーが内省的なのも、 常に過信しないことで、何かを見落とすことを防ぐ という姿勢なのだと思いますが、 人間味があって素敵です。 エンディングのあたりも、ただの推理小説ではない、 目指す部分が老成していて素晴らしく巧い。 読み進めるうちに、残りのページ数から 色々と察しはつくのですが、 間違いなく傑作の一つだと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
結果的には精神・心理学的な動機づけが すこし重いかとは思いますが、 小説としては、 もう一対の「夫婦」になる若い二人の活躍 との対比も意識に織り込んでいる、 なかなか重厚なプロットになっていると思います。 エラリーが内省的なのも、 常に過信しないことで、何かを見落とすことを防ぐ という姿勢なのだと思いますが、 人間味があって素敵です。 エンディングのあたりも、ただの推理小説ではない、 目指す部分が老成していて素晴らしく巧い。 読み進めるうちに、残りのページ数から 色々と察しはつくのですが、 間違いなく傑作の一つだと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「十日間の不思議」で、エラリイは誤った推理により死なせずに済んだはずの人間を死なせてしまった自責の念から、もう二度と事件には関わりを持たないと決意するのだが、本書では「猫」による連続殺人を阻止・解決せんがために再び事件に関わりを持つ。なかなか手がかりがつかめない中、犠牲者がさらに一人、二人と増えてゆくが、ついに事件解明の手がかりと「猫」の正体をつかんだかに思えたが...。 内容は、クリスティーの「ABC殺人事件」を間違いなく意識したものだろう、無差別連続殺人のようでいて、その実、被害者たちにはつながりがあるというもので、そのつながりを解くことが犯人を見出す手がかりになる。 しかし、それでは終わらないところが作者らしいと言いたいところだが、作者作品を読み慣れた読者には、そのあたりの仕掛けは見え見えで、意外性は期待できない。 エラリイが最後に「十日間の不思議」と同じ挫折と苦悩を味わうあたりが人間ドラマとして生きていると感じる人もいるだろうが、謎解きを主眼に置く読者には物足りないことだろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「十日間の不思議」で、エラリイは誤った推理により死なせずに済んだはずの人間を死なせてしまった自責の念から、もう二度と事件には関わりを持たないと決意するのだが、本書では「猫」による連続殺人を阻止・解決せんがために再び事件に関わりを持つ。なかなか手がかりがつかめない中、犠牲者がさらに一人、二人と増えてゆくが、ついに事件解明の手がかりと「猫」の正体をつかんだかに思えたが...。 内容は、クリスティーの「ABC殺人事件」を間違いなく意識したものだろう、無差別連続殺人のようでいて、その実、被害者たちにはつながりがあるというもので、そのつながりを解くことが犯人を見出す手がかりになる。 しかし、それでは終わらないところが作者らしいと言いたいところだが、作者作品を読み慣れた読者には、そのあたりの仕掛けは見え見えで、意外性は期待できない。 エラリイが最後に「十日間の不思議」と同じ挫折と苦悩を味わうあたりが人間ドラマとして生きていると感じる人もいるだろうが、謎解きを主眼に置く読者には物足りないことだろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
人間描写に重きを置いたミステリーです。 なぜこういったかは終盤でわかると思いますが その終盤を読むと人間がいかにしてそうなっていくか と言うことがいっそうよくわかって面白かったです。 でも読み心地は残念ながらお世辞にも いいものではありません。 読み終わった後非常に重苦しい気持ちにも なりましたし。 しかしながら、それに余りあるほど 終盤の展開がものすごいです。 人と言うものはある種の感情を持つと ここまで恐ろしいものになれるということ… 恐怖すら覚えました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
人間描写に重きを置いたミステリーです。 なぜこういったかは終盤でわかると思いますが その終盤を読むと人間がいかにしてそうなっていくか と言うことがいっそうよくわかって面白かったです。 でも読み心地は残念ながらお世辞にも いいものではありません。 読み終わった後非常に重苦しい気持ちにも なりましたし。 しかしながら、それに余りあるほど 終盤の展開がものすごいです。 人と言うものはある種の感情を持つと ここまで恐ろしいものになれるということ… 恐怖すら覚えました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
前作の『十日間の不思議』で、自らの論理に裏切られた探偵エラリィの自己再生がメインテーマの作品。 かつて初刊行時からしばらくはアクロバティックな論理展開に乏しく従来のクイーンらしくないため、あまり評価されてませんでしたが、後年サイコスリラーの流行などを経て近年さらに再評価著しい作品です。 ゆえに、本格ミステリ的な仕掛け、いわゆるミッシング・リンクには、大きな意外性はありません(ただ深い意味はありますが) 作品は、生と死を前記のテーマに複合的に絡めて、未知の連続殺人による大都市市民の恐慌を迫力ある筆致で描いてます。 本作での探偵クイーンの懊悩は深く、当初は自ら事件に関わる事すら拒否します。 しかし、父であるクイーン警視の再三の要請と説得でようやく事件解決に乗り出し、やがて犯人を追い詰めたかに思えましたが…。 ライツヴィル物の諸作では、事件の渦中にあって、人間的な弱さを見せたクイーンは、前作に引き続き精神的なダメージを負います。 ただ、 最後のクイーンの悔告を聴いた老精神分析医の言葉に、僅かながら救いの光明を見せていて、余韻の深さはクイーン全作品中随一です。 『フォックス家の殺人』、『十日間の不思議』、『ガラスの村』と並ぶ、戦後のクイーンを代表する名作です。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!