間違いの悲劇
- の悲劇 (67)
- 第四期エラリー・クイーン (10)
- 読者への挑戦 (74)
- 遺言状 (35)
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書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点7.00pt |
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サイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
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1999年に刊行されたクイーンのシノプシス“Tragety Of Errors”と単行本未収録作品を集めた作品集。 | ||||
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今年初読了のエラリー・クイーン。ほとんどがダイイングメッセージもの。自分はダイイングメッセージ系統はあまり好きではない(暗示めいた物は特に)が、それを綺麗に解き明かしてしまうのは爽快だった。 | ||||
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※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
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短編集でした。 それぞれに面白く読ませてもらいました。 今まではすべて長編小説だったので、短編は短編で、また一味違って良かったです。 ここまでエラリー・クイーンの長編作品は、1冊を除いてすべて読破しましたが、最後の読んでいない1冊は、評価のコメントを読んでみると、あまり出来の良くない作品?らしいので、買おうかどうしようか悩んでいます。 。 。 | ||||
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「私は君が考えるようなプロットを生み出すことはできない。しかし、君もまた、私のように描くことはできないはずだ」リーがダネイに宛てた 手紙 考える時間を持つ、つねに背負うことに、喜びを見い出しながらもあくまで修養を保持してゆく姿勢の中での質を保つ義務、それは不可分に 中短編七編と、未完成の長編小説の梗概にして最後の作品、間違いの悲劇が収録、表題作について語る、、、あらすじなのにほぼ小説みたいに 読めるんだよねぇ。モデル的価値シェイクスピアの連続発展な複合事件という感じで、肉付けがあればその側に立って作用されていたろうもので 、決定的な役割を演じる美ノイローゼの元映画女優は強調される起点としてエルシノア城に住んでるよ!ってな風に配役紹介から始まって・・・ さて動的な全体としての人物と小道具は、まあこれはミステリ的に崩壊するのが常ということで(笑)、当然の成り行きとしてうまくいかない 男女関係ありの、公式クイーン様式ここにあり!のやっぱりのダイイング・メッセージの擁護者(笑)、またまたミステリー症例の 遺言ガジェット!しかもこの恩恵、実践可能な範囲と非実践的な観点が合わさったジョーク意識な防御が面白いんだよね、いったん・・・最後・ ・・信じられないような力を発揮する開示体験(笑)、ジョークは続き金庫ガジェット、ダイヤルにおける直接の同一性はメタフォリックに 共鳴しているなんで・・・(!)、しかもその後のエラリーのおののきが一番(なかば?)成功しているという(笑)、 さてじゃあここらでいつものようにヒントも出しといて、この事件の犯人のヒントはPOLTAの「さよならダイアリー」の歌詞のなかにあるよ! そして最後に決定的要素をなす操りテーマ、実行にあたっては心理的多様レベルな存在の前提に基づく自己目的、どこか下張りとしての... 当然作り手は知性としての上張りタイプで・・・ それで知性と絡めて最近思ったことは、その前にまず知とは何かという時に、水みたいなものだと思うんだよね、つまり単位によって予見できる ように変わるというか、だからパスポートとしての浸透的な性格とゆうか、人で言えばジッドゥ・クリシュナムルティ、彼がそのまま水みたいな だから知だよね、意識レベルで浸透する根源としての真実。今は本当に難しい、何が流行るか判らないというんだけど、それ自体が水準器と なっているというか、現実に照らされた知覚意識として、表現としてではなく現実としてね。つまるところが今までが簡単だっただけとゆうか、 実際のところ70年代後半ぐらいから直観に基づいて示される視点、そういう意味でも知性流動ってのはなかったわけであって、自明なこととして 付記されていくわけだから、結果的に何々であることを露呈する被膜としてね、そのキャンペーンの準備は痕跡を明確にしていけばやはり遡り 60年代からの精神の衣をかぶったパラメータが決定的ポイント。で(笑)、その物言いが屈折してるでしょ(笑)、その屈折感だよね。表現で 、まあ音楽で言えば亡くなっちゃったけど加藤和彦さん、彼ってロマンそのものみたいな人で、でもポップに昇華してるでしょ、その屈折感。 だから変質させられた現実、内在性としての大衆秩序だよね、まっだから、あっでも、彼の生活リズムはまた違うとしても(金銭的意味合い) あの時代におけるリーダーの素質は、みんながそこにいられるように提唱するけど自分はいないんだよね、みんながそれを得られるように配慮 するんだけど自分は得ないんだよね、だから一言で言えば枠内でできる最高のエンターテインメント、そういうことでだので演出もそうで 90年代になって現実がボディーみたいになってくると(笑)、ある種のむっつりすけべな演出が必要なくなってくるわけじゃない、現実が ボディーなんだから、まあ良くも悪くももっと硬派だったわけだからそれまで、そしてその時期にくると枠内の中だけで頑なにキャンペーンを 支持するだけではつじつまが合わなくなってしまうわけで、ただ可能と限界というものを持ちながら、わずかな欠損でいればいいものを日本 ってのはとかく主導形態が極端で果てしない欠損を抱かせるそれになってしまうわけで、基本が忘却というか、そこまでいかなくても色目を 使うというか、まあ昔からそういうところがあってどちらが正義かというより勝ちそうな方につく!ってのが日本における合戦ポエジーなんで あって(笑)、さてそれで今な知性へ戻らなきゃいけないわけだけど、現実としてどう取り扱っていいか判らないものが脈打ち出す そんな。 それは未来を方向づけたどる軌道としての模型作成(あくまで軌道としての)。つまりそれは広く開かれ同じく分けあった意味を獲得した革新 的なツールがあくまで既存的概念の姿をとって既存的システムの中で確立するその一連の変化を体験し、続く非実践的鷹揚さを経た次の段階 までの合間をぬっていると思うんだよね、つまり非常に客観的にその時点では、しかし思うに非が非である以上、根本的チャレンジとしてそれ を取り外さなきゃいけないよね、だから日々の生活の中でその正直な願望を合致させるという考え方には邪気がないんだよね、ただ邪気がない かわりにそれ自体そのものが新たな差別を提起してしまうというか(文字通り新たなであり今まで乗り越えてきたものとは違う)、つまり 語ってきた60年代からのノリがまるっきりひっくり返るというか、何の屈折もなくまるで空気のように突きつけてくるよね、でもそれってどう やって扱うんだろう、何のマニュアルもないのに、反射神経、それは過去からみても未来から見てもずいぶん勝手な探訪だよね(あの時なんで あんな馬鹿なことをしてたんだろう(笑)それが表現としてではなく、現実としてなんだから)、だから今の人間が主って思うほどに多分人間 ってそんなに凄くないよ、うん。。ごめんなさい(泣笑 | ||||
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読み終わったところから、本当の推理をあなたがはじめるミステリー。 事件自体は一応の解決を見せて、犯人は捕まって。 確かにそれなりの解決ではあるが、そんなにうまくいくのだろうか?あるいは犯人は何故こんなことをやったのか? 金が欲しいにしても、手に入れるだけならもっと楽な方法があったはずだ。別な犯人が別な真相があるのか。 思いは千々に乱れて。もう一度読み返すことになる。一体、犯人は何をしたのか。何故被害者は犯人の思惑どおりに動いたのか。 最後の神がかった犯人の独白。最後の日付。クリスマス。 そうやって考えると、ふと恐ろしい考えが浮かんでくる。考えてはいけない考えがわき起こってくる。 犯人は心底、被害者のためだけを考えて行動したのではないのか。被害者の心のかけらを広い、空いた穴を埋めてやるためだけに。 ただ世界が壊れ狂っているから。 被害者の求めたものは別な人間には唾棄すべき破壊すべきものだから、次の瞬間は壊されるしかなかった。 しかし、少なくともその瞬間瞬間は誠心誠意に、犯人は、被害者のためだけを思ったのではないか?行動しただけではないのか? 被害者はそれをわかったから、被害者は心の底から犯人を信じられた。付き従えた。奇跡的犯罪の成功はそういうことではないのか。 それ以外にあんなにうまく事件が運んだ理由は説明つかないのではないか? 起こってしまったことは、そういうおぞましくも哀しいことなのではないか。被害者の心の隙間を埋めるためだけに続けられた犯罪。 犯人の最後の言葉をそう思って読み直して欲しい。 人間が立ち入ってはいけない領域。新しいキリスト。 九尾の猫の母の日に並ぶ恐ろしい日付。 あの衝撃的モーゼ論のその先に行こうとした傑作。 ミステリー的には、犯人を明かさねばならず、最後、金を得ようと事件は露呈しなければならない。話を閉じなければいけない。 しかし、この犯罪は本質的にいつまでも続けられた。これを読んでいるあなたが被害者になることまで、含めて。 終わりはなかった。そして、それは現実の社会、世界の話でもなかったか。 こんな恐ろしい梗概を書いたフレデリック・ダネイ。 実際優れた作家の有栖川有栖は本作の梗概からのノベライズを打診されていたが、 本作の意図をつかめない、理解できなかったことを告白している。 このレビューで書いてあることを、新本格のクイーン、有栖川有栖も読みこめなかったのだ。 これを託せるのは、たった1人の男しかいなかった。 マンフレッド・リー。 ギリシヤ棺、エジプト十字架、X、Y、チャイナにスペイン、途中の家、災厄の町に十日間、九尾にダブルダブル。 そういう傑作を共にものしてきた、相棒じゃなければ、とてもこの高みまでついていくことはできかったろう。 梗概など渡されても理解することはできなかったのだ。リーにしか。 二人の間の神秘を教えてくれる傑作。 | ||||
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ハートがある上にスマートで、 洞察力と行動力に飛び抜けているエラリーの、 この格好良さときたら、 いつも感嘆させられるばかりですが、 長編と違って、若干希薄な感じなのかなと思いつつも、 いつものテイストで楽しめました。 | ||||
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本書はエラリー・クイーンの最新長編になるはずだった小説の精細なシノプシス(梗概)、『間違いの悲劇』と単行本未収録の7つの中・短編からなっている。 「本格パズラー」の巨匠エラリー・クイーンの“最後の事件”となれば、私のような、少年時代からクイーンの諸作品を読むことで育てられたミステリーファン、なかんずく「本格パズラー」のファンとしては、たとえ梗概でも読まずにはいられない。 『オセロー』をミステリー風に脚色すべく奮闘していたエラリーは、往年の大女優が『ハムレット』の舞台と同じ名で呼ばれる城で怪死したと聞き、シェークスピアの呪縛に苦悩しつつ推理を展開する。 諸般の事情で小説化されなかったのは残念だが、梗概とはいえ、クイーンらしい「本格のコード」が随所にちりばめられていて、そのテイストを十分味わって読むことができた。 なにしろ’74年邦訳(アメリカでは’71年発表)の長編『心地よく秘密めいた場所』以来32年。もうクイーンの新作は絶対読めないとあきらめていただけに、この梗概に触れることができて、それだけでもう感動モノである。 また本梗概により、リーとダネイによる合作作家‘エラリー・クイーン’の コンビの秘密を興味深く覗き見ると共に(ダネイが本梗概のような緻密なプロットを考案し、リーがそれを巧みな描写で小説化するといわれている)、リーが作品として完成させる前の、生(き)のエラリー・クイーンの姿を見ることができた。 併録されているほかの7編もファンにとってはこたえられない“クイーンらしさ”があふれる逸品揃いで、私もクイーンの諸作品を興奮して読んだ若き日々をなつかしく思い出した。 | ||||
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