最後の一撃
- 第三期エラリー・クイーン (12)
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書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点7.00pt |
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本書は元々エラリイ・クイーンシリーズに一区切りをつけるために書かれた作品だと云われている。 | ||||
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※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
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エラリーには珍しく、犯人がわからないまま、時が過ぎていき事件から約30年後になって真犯人にエラリーが気か付くという、ちょっと変わったストーリーになっています。 | ||||
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1958年作。純粋、悲しみ、影、1905年1月新年な雰囲気に幸せに没入したセバスチアン夫妻。ニューヨークからの帰途、雪、根本的信頼が常に抱く 恐れということで、意向に添えば予想もできないことではない人為的な、自動車、加速度的変化、転覆、身重の妻、うみおとされた・・・ そんななかで、ただ中に置かれる依拠診断、先行してあった虚しさ、一つの関心事。最終的な事実に対する認識はアンビバレントに転嫁された 橋渡しであり、思惑は考慮され・・・・ ここから四分の一世紀 1929年12月24日 駆け出しの説得力、信頼に推移するにはまだきわめて不安定な若きエラリー・クイーン君。無頓着に一人前ぶっているが 位置関係として余興する機会を与えられただけ(笑)。さてそんなこんなでクリスマスから新年にかけてのパーティー。まず現れた虚構現実と してのサンタクロース(笑)(変な表現だな。(笑))。そしてどのように展開させるべきか?一同の思考を支配下に置く判じ物。疑心暗鬼を 誘発させる詩的(私的)プレゼント。その不気味に慎重に準備されたものにどう取り組めば? 続いて、あるべき存在理由を持たない死体(これも。。)。また部分的な要素に還元されながら、延々と・・・・延々と・・・・組み立てられる 玩具の生成過程は一体全体・・・・果たして・・・・理由付けが・・・・侘びしくも・・・・何々と・・・・ね またこの間に、それ本来の役割、重要な役割を負っている規則性としての一個に見られるいささかの変形・・・・、しかし懸命なエラリー君には 全然醒めた情勢に過ぎない・・・・否・・・・その思索、解体、ますます難しい劇的な錯覚。。 事件の全貌が明かされるのは更に四分の一世紀以上も経った27年後、1957年・・・・ 置かれていた。終焉(終演)に向かう過程に置いて状況は保持されて・・・・一端を担った当事者の補助的親愛の情から古い記憶は 呼び覚まされる と、じゃいつもの この事件のヒントはAndrew Birdの「Imitosis」のビデオの中にあるよ! さて総じて、どっかしら総括的な、再現するためとしての謎の多さに対する共通認識が持てて、まあ何より、空虚な余韻、それ自体がこの上ない 魅力そのものだという、たいてい〜するものだという、そんな本格ミステリを如実に物語る犯人がいいわな(笑)。 しかしやはり全体の傾向として名残とどめてふけっているんだと、権限委譲できないが故の空中分解なんだと、そういう極端な反感情。 それは文字通りの浮かび上がる過程。ただ波を識別して同じ機能を担わせて意図的に転位させたわけじゃないだろうけど(結局貪欲なアイデア力 で)、ある種の権謀術数の揺り戻しとしてこれに対する手だてを講じてしまっているのがあの次作ともいえるわけだね。 時代の流れはより精神的に専心・特化していくわけだから。そこに裏方的なものが入ってきたとき雑音を排斥しながら無感覚に縁取り始める。 60年代前半からのそれ、つまりこれは現実的な意味合いとして、平衡としての同じ立場という意義を演出するんだね、かるがゆえに、 スタンドプレー本位の顕示は取り囲まれて隔離。しかしあえて厳然たる区別として並列させたときに、表現的な意味合いとしては他を 寄せつけない独創性という面があって、基調としては80年代中盤まであったもの。 それからはわかりやすくて、現実的な意味合いとしては意図的な足場へと・・・・ 0からの関係性 本当の意味で地に足がついた状態で垣根を副次的なものへと(中流幻想的庇護下の刷新)。で表現的なそれは? まさに無軌道な斬新さ、新たに出発する可能性。だからこれは、荒木飛呂彦のジョジョの奇妙な冒険においてのあの配される具現化といえば わかりやすい(笑)。特に対立関係としての問題意識、その根底にある規定形態を新たに解釈し直した第四部が ダイヤモンドは砕けない。 なにをもっての 強さの変質。良いも悪いも含めて、あくまで日常の町に潜む愛すべきゲテモノ掃除(笑)。 なんか久しぶりに読むとあんまりいい奴すぎて泣けてくるという(笑)、東方仗助。変な話だけどある意味日本人らしい日本人なんだな(笑) 目指して整える個性が無個性に転覆する時に垣間見えるサディスティックさとか、福徳があるが故の倫理的方向感覚の麻痺とか、それでいて 基本的には一方的な態度をとらない、何よりの慈愛とね、そもそもの中心たる能力がもうそれなわけだし、修復。 こうした発想を地域における精神性とリンクさせた時、絶対に振り切れない修復、常に有形な再発見、常に始り続けることを余儀なくされる。 互いの関連性として有形における超一流のアレンジセンス。だのでそれこそ取って代わられた時、無形情報戦にね、日本はどうしても遅れを とってしまう、要するに苦手なんだね(笑)。あんまきりがなくなるので(笑) 終わり | ||||
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1905年。ある裕福な出版社社長は、自らが運転する車の事故で産気付いた妻を近くの医院に運び込む。しかし、妻は双子の男の子を産んで死に、社長は、2人目の子供が妻を殺したのだと忌み嫌い、その子を医師夫婦に与え、1人目だけを連れ帰る。そして本人もほどなく事故の後遺症で死んだ。 その25年後。 若き推理小説作家エラリー・クイーンは、クリスマス休暇に旧友の別荘に招かれる。 その旧友こそ、25年前に生まれた双子の兄の方だった。十二夜を過ごすために集まった客は12人。しかも全員が異なる星座に生まれ、12の星座が揃っている。そして、旧友に奇妙な贈り物が届き始め、ある日、別荘に、誰も会ったことのない人物の死体が・・・。贈り物も12個届くのか? あらゆる手掛かりが、医師夫婦に預けられた後間もなく病死したはずの双子の弟を指し示す。まさか彼は生きているのか? 全ての謎が解けたのは、何とそれから30年近く後のことだった。今や50歳を過ぎたエラリーは、ひとり犯人の許を訪れる。「最後の一撃」というタイトルの意味も、そこで明かされる。 ・・・それにしても、オチがすごい。意外にこれは禁じ手かも。 ところで、エラリーは、デビュー作『ローマ帽子の謎』では、「今は探偵を引退してイタリアで妻子とともに悠悠自適」とあったのに、何故ずっとNYにいるのだろうか | ||||
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