ガラスの村
- 第三期エラリー・クイーン (12)
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書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点7.00pt |
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エラリイ・クイーンといえば、名探偵エラリイ・クイーンにドルリー・レーンのシリーズが思い浮かび、それ以外の作品はないかと思っていたが、本作は数少ない彼のノンシリーズ作品。<シンの辻>と呼ばれるニュー・イングランドの過疎化が進む村で起きた事件を扱った作品だ。 | ||||
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※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
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エラリイ・クイーンが登場しないエラリイ・クイーンの小説、というのを初めて読んだ。最初はどうかなと思っていたが、予想外に面白かった。 閉鎖的な村で殺人事件が起こり、あらゆる状況証拠が外部から来た浮浪者に不利な中で、村人が一致団結する様子には、得もいわれぬ怖さがある。このまま放っておくとリンチにされるところを、登場人物の判事の機転で急ごしらえの村内裁判が開かれ、やがて…。 と、ストーリーを紹介しても仕方ないけれど、クイーンの小説の中では最も文学的な雰囲気のある作品だと感じた。いくつか印象に残ったくだりやセリフを挙げてみよう。 ●「変わるということは悪いことじゃありません。でも結局、良いものはちゃんと生き残ります――つまり値打のあるものはね」(P42) ●「記憶というものは、あらゆる苦痛のなかで一ばん辛(つら)い苦しみです」(P104~105) ●人間というものは、たとえ民主主義のもとにおいても、暴民に堕落する傾向が多分にある。(P141) ●「彼らはたしかに間違っている。だが彼らは信念をもって、なすべきだと思うことをやっているのだ。しかしなにが正しいかを知りながらそれを守り続けないとすれば――そういう人間は失われた人間ですぞ」(P285) ●「貧しいものだけが与えることのぜいたくさを知るといったのはだれでしたかな?」(P308) 本書は、マッカーシズムが吹き荒れ、公民権運動の機運が高まっていた1950年代に書かれている。アメリカという国に不信感を覚えながらも、それでもクイーンはアメリカを信じていたのだと思う。だからこそ本書のラストシーンには、希望がある。 差別や偏見によって分断が進む今のアメリカも、似たような状況にあるのではないか。クイーンが現代に生きていたら、どんな小説を書くだろうと想像する。やっぱり、法治国家や民主主義には健全な自浄作用があることを期待せずにはいられないのではあるまいか。 | ||||
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とても雰囲気のあるストーリー展開で、昔のアメリカの片田舎の小さな村で、村の主要人物の老婆が殺害される。 とてもその当時の閉鎖的な、「よそ者」は信用せず、受け入れようとは決してしない。 村人は皆、頑なで一方的に「よそ者」を犯人と決め付け、(ほぼ)村人だけによる裁判をしようとする。 そこから探偵エラリーは今回は登場しないが、いつものエラリーにとって代わる役を「よそ者」の1人のジョニーが謎解きをしていく。 この作品は、この小さな村の人々の背景や、村の情景など目に浮かんできた。 ☆3にしたが、気持ち的には☆3.8くらいです。 | ||||
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最初に読んだのは20代後半。当然ながら、本作の成り立ちというか、クイーンの意図も知っていたはずだが、当時は、単に“読んだ”だけだった。四半世紀ぶりに再読したのだが、当時読み落としていた部分に改めて気付かされた。 まず、ミステリとしての評価だが、それほどの作品ではない。クイーンの作品の全てを読んでいるわけではないが、代表作として挙げられる『Yの悲劇』や『ギリシア棺の謎』はおろか、国名シリーズのなかでも評判のよくない『アメリカ銃の謎』と比べても、見劣りする。探偵エラリー・クイーンが出てこないことも、その要因だが、全体に低調である。 ただ、訳者が「あとがき」で書いているが、本書に関してはクイーンの狙いは「別のところ」にある。 それを端的に表しているのは、主人公のシン判事が独立記念日に村の人々に話すスピーチだ(54〜57ページ)。それは当時アメリカ合衆国に吹き荒れていたマッカーシズムへの批判、市民的自由に対する攻撃への批判、もっと言えばアメリカ憲法の精神をないがしろにすることへの批判である。独立記念日という設定は、それと無縁ではあるまい。そして、このスピーチを聞いたばかりといっていい村人たちの変貌、要するに、リーダーの勇ましい発言に引きずられ、簡単に理性を失っていく姿も、クイーンが描きたかったものだろう。 原著では、どうなっているのか分からないが、11ページに「るつぼ」という言葉が出てくる。原著刊行(1954年)の前年、アーサー・ミラーが魔女狩りを題材にした『るつぼ』という作品を発表している。この作品も、マッカーシズム批判であることを考えると、この言葉を意図的に使ったような気がするが、どうなのだろうか。 | ||||
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正直、購入するまで気付きませんでした。エラリークイーンの事件簿では無いことに | ||||
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しかしそれでもなお彼らすべてがこの中にいるのも事実なんだね 1954年作。エラリーは出てこないだ そんな条件付けからの解放によって肌合いは違うようでやっぱりこの抑圧的非常識さともいえる知性は... さて舞台はニューイングランドの北部、〈シンの辻〉と呼ばれる人口三十六人の寒村。独立記念日の翌日、産業も衰退したここを経済的に支えて くれてもいた村の唯一の誇りといえる老女流画家が無惨にも殺された。その時たまたまここを通りかかっていた他国者の浮浪者なんかがいて、 まあ村における生理作用として犯人はすぐに断定され捕まったわけだけど、どぎつく差し迫ってくるこの画面! なんだかリンチめいて、、 極度の感情表出による野蛮な不協和音を奏で始める。。レオ・フランクもびっくりです しかしこれには理由があって、過去のある事件に起因してるんだね。そんな喪失に対する恐怖が架空の敵と戦うかのような形で常に表面下に 存在していたんだ。よって映し出される失意ではあるんだが、いくらなんでも非常に不穏なことになりだして、 あくまで自分達で取り扱って裁判もするんだと、干渉は許さぬと息巻いて、司直には委ねないわ州警察の介入には武装でもってこれを 拒んでみる一触即発(笑) P2Pで無限責任組合員 さてそんなことなので出番です 唯一外部との接点が強い州裁判所の老判事。このフレーム問題を解決する為にわざと定義を循環的にしてみる。 こそこそと這いまわるバグにはバグでもって対応するという知恵、連帯に対する共鳴の反映にしてそれを発展的に解消するが為の行動、 故に設けられる存続を決議する場、この順番で必須......... 統率 処理 このじいさんがすごいの(笑)。 結果として招聘しながらvaporwareなわけだけど(笑)。枯れた技術の水平思考的に逆説的な優しい終身の独裁者というわけさ んで相棒は投げ遣りなフェロー(笑) 訪ねてきていた従弟の元少佐なんだけど、人生に意義が見いだせなくなってしまったんだ。 第二次大戦と朝鮮戦争、二度の戦争経験で大量の死を目の当たりにしたことにより虚無的になっている男。それが一人の人間の尊厳に直面した ときにどうその冷めた目による観察から心が動いて目標を定めてゆけるのか と、こういうことだわな 謎解き的には現場状況の着眼点は たき木 だわな。これさえあれば・・・・・しかし消えて紛失してるんだから平沢貞通もびっくりです。 あとあれだな、この状況の設定の一部がアーサー・コナン・ドイルが擁護した冤罪事件を思い起こさせるところがあったりもする。 あれも動機的にはあれが真犯人だと目されていたわけだし、まああれだけど(笑)。 まあそれはいいとしてまとめれば、生と死、磔(貼り付け)、プログラムされたあがない主、と、やはり結果的ではなく第三者視点の手続き的 埋め込みとしての過程でアルゴリズムを禁欲的かつ温もりをもって改良しているのかもしれないなあ。 解けるかな?ヒントはHurtsの「Wonderful Life」の歌詞及びビデオの中にあるよ!never give upと | ||||
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