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ブラックボックス



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ブラックボックスの評価: 8.67/10点 レビュー 3件。 Aランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点8.67pt

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(10pt)

コナリー版白雪姫の結末はあまり苦い

ハリー・ボッシュシリーズに関してもはやシリーズ何作目と書くことは意味をなさなくなってきたようだ。
というのもコナリー作品は複数のシリーズが交錯しており、しかも主人公もシリーズキャラクターが、初期はサブキャラとして描かれていたが、最近では同じ比重で書かれてることからもはや1つの作品がそれぞれのシリーズの1作品として見なされるようになった。従って訳者である古沢氏もシリーズ○作目という表記をせずにコナリー作品25冊目という表記に変えているので私もそれに倣うことにしよう。

とかなり前置きが長くなったが、コナリー25作目である本書は作家デビュー20年目という節目の作品となった。

それを意識してか、内容も20年前にボッシュが関わったロス暴動に巻き込まれた女性外国人記者殺害事件の再捜査になっている。

しかしそこはコナリー、物語はそれだけに留まらない。20年目の25作目と作品数も数を重ねているにも関わらず、その精緻なプロットには全く以て舌を巻いてしまった。

いつもながら物語の発端はシンプルながら、事件の捜査が進むうちに判明してくるプロットは複雑で実に混み入っているが、謎が謎を呼ぶ展開は全く以て飽きさせない。

ロス暴動の最中の女性外国人ジャーナリストの死。20年後その未解決事件(コールドケース)に着手したボッシュは唯一の手掛かりだった現場で拾った薬莢からストリートギャングによる犯行であると焦点を絞り、決定的な証拠に欠け、解決の糸口が掴めないまま、ボッシュは上層部から捜査中止の圧力を受ける。

一縷の望みを被害者の記事を採用していたデンマークの新聞社と遺族である兄弟に託すが彼女が休暇ではなく、取材でアメリカに来ていたことが解るのみ。渡米するまでに彼女はドイツ、クウェートを経てニューヨークに入り、そこからアトランタを経てロスアンジェルスに辿り着き、そこで亡くなったことが判明するが、そこに何の手がかりも見出せない。

やがて一人の容疑者が浮かび上がるがそれも外れ。しかしそこからようやく凶器の銃が見つかり、それがやがて湾岸戦争の最中に起きたある犯罪へと繋がっていく。

たった1つの薬莢から切れそうな手掛かりの糸を辿り、そして事件の真相へと繋がっていく展開はまさにスリリングだ。

ここで注目したいのが事件の動機が湾岸戦争へと繋がっていくことだ。ボッシュシリーズの幕開けはヴェトナム戦争時代の戦友の一人ウィリアム・メドーズ殺害事件だった。つまりそれはハリー・ボッシュという男がヴェトナム戦争のトンネル兵をしていた帰還兵であることを強く意識した幕開けであり、その後もこの元ヴェトナム従軍兵という過去はボッシュの中のトラウマでありつつ、闇を見つめ続ける宿命として描かれる。

そしてこの20年目の作品で再び扱われるのは戦争に纏わる忌まわしい過去。しかし既に21世紀になった今、戦争はもはやヴェトナム戦争ではなく湾岸戦争なのだ。この20世紀末に起きた湾岸戦争に従軍したある一隊、カリフォルニア州兵部隊が起こしたスキャンダルが事件の正体なのだ。それはやはり20年目の25作目という節目を意識した原点回帰的作品ことの証左でもある。

本書のタイトルは原題と全く同じ。このシンプルな題名は今では航空機に内蔵された事故が起きた際のフライト・データ全てが記録されている機器、ブラックボックスで有名だが、本書もそれに擬えられている。

ボッシュが作中で述べるように、かつて彼が若き頃ロス市警の強盗殺人課の刑事だった時の相棒フランキー・シーハンがたびたび漏らしていた、殺人事件の捜査に全てが明るみになるものの存在を指し、それを見つけることが解決のカギとなる。
それまでの作品でも色々なブラックボックスが登場したが、本書のそれは実に意外な形で登場する。それについては後でまた述べることにしよう。

さて私が本書のタイトルを刊行予定で見た瞬間に思ったのは、久々にコナリー作品のタイトルに「ブラック」の文字が躍ったということだ。

初期のコナリー3作品は原題、邦題それぞれに意識してこの「ブラック」が使われていた。

1作目の『ナイトホークス』の原題が“The Black Echo”、2作目が邦題、原題ともに『ブラック・アイス』、3作目は邦題が『ブラック・ハート』と、原作者、訳者ともにボッシュの持つ、ヴェトナム戦争帰還兵という経歴に由来する、心の奥に蟠る暗い情念を意図してこの「ブラック」が使われていた。

そしてそれから18年(原書では19年)を経て久々にこの「ブラック」の文字を冠したのは勿論作者としても意識的だったことは間違いない。

なぜなら本書は作家生活20年目の集大成的な作品の趣を備えたオールスターキャスト登場と上に書いたようにボッシュの原点回帰的な内容になっているからだ。

まず物語の冒頭ではハリーがハリウッド分署で働いていた時のシーンだ。従って元相棒ジェリー・エドガーとの捜査が語られ、懐かしさを覚える。

また上に書いたように題名の基になっているのはハリーがハリウッド分署に移る前にロス市警の強盗殺人界にいた時の相棒フランキー・シーハンであり、彼は『エンジェル・フライト』の事件で陰謀に嵌められ、もう既にこの世にいない。

また元未解決事件班の班長だったラリー・ギャンドルは強盗殺人課を統括する警部に昇進しており、ボッシュは彼にかつてデンマーク語を翻訳した警官について問い合わせをする。

またキズミン・ライダーは前回のアーヴィングの事件で出世し、ウェスト・ヴァレー分署の警部となっていることが明らかになる。そしてその事件の後、一切口を利いていないことも。

亡き父親J・マイクル・ハラーの墓参りにも行き、そこで『シティ・オブ・ボーンズ』で虐待死したアーサー・ドラクロワの墓へも行く。レイチェル・ウォリングに銃のシリアルナンバー特定のために助けを乞い、とまさにそれまでのボッシュシリーズの足跡を辿るような趣を所々感じる。

一方で前作で知り合ったハンナ・ストーンとの仲も続いているようで、既に娘のマデリンとは面会済みで今回ボッシュはスタニスラウス郡の単独捜査で数日留守にしている間、ハンナに娘の面倒を見ることすら頼んでいる。
しかし一方強姦罪で服役中の彼女の息子ショーンと刑務所で面談したことで2人の関係に暗い翳が落ちそうな予兆を孕んで物語は終わる。

そう、そしてもはやシリーズのオアシス的エピソードとなっているのがボッシュと娘マデリンとのやり取りである。
ボッシュは更に着々とマデリンに刑事としてスキルと心得を伝授していることが描かれる。今回はポリス・アカデミーで行われているフォース・オプション・シミュレーターで実際の現場さながらの緊迫した状況の中での警察としての判断と狙撃の正確さを問われる訓練を行う。狙撃の腕前と判断はもはや凡百の警察官をしのぐ技能をマデリンは見せるが、唯一謝ってキャビンアテンダントを狙撃してしまったケースに意気消沈する。
やはりまだティーンエイジャーの彼女には実際さながらの命のやり取りを行うシミュレーションを行うのには早すぎたようだが、その時に抱いた思いは今後彼女が警察になった時には決して忘れない教訓として活きることだろう。

他にもボッシュが娘をいじめている男子がいることに心を痛めていることや娘が自分の誕生日にビールを買っていたことに対して娘が偽造IDで成人だと偽って買ったのではないかと勘繰り、勝手にバッグを調べているところを見咎められ、気まずくなるところなど、親子の少し不器用で子煩悩なボッシュとのやり取りが実に面白い。このエピソードが胸に心地よく響くのは娘マデリンがボッシュを父親として好いていることが解るからだ。野獣のようだったボッシュにとってマデリンはこの上もなく大切な存在であり、そしてマデリンも父親を一人の刑事として尊敬していることが更に物語に厚みをもたらしたように思える。

そして今回掘り起こされる事件はこのロドニー・キング事件で暴徒と化したロスアンジェルスの只中で殺害された女性外国人記者の死だ。
もはやコナリーにとってロドニー・キング事件について語ることはライフワークと化しているようだ。この事件が起きたのは1992年でコナリーが作家デビューした年でもある。そういった意味でも今もアメリカ社会に蔓延る人種差別問題を語るためにもコナリーにとってこの事件は忘れずに語るべき事件となっているのかもしれない。
今回もそのロス暴動から20周年の年にギャングに殺された白人女性の捜査をしているボッシュを快く思わない元同僚の本部長マーティン・メイコックに捜査の一時保留を命ぜられる。これもまた一種の人種差別だ。

そしてやはり昨今のテレビ刑事ドラマを意識してか、今回もCSIばりの最先端の科学捜査が紹介される。それは削られた銃のシリアルナンバーを浮かび上がらせる方法だ。
いやあ読者を愉しませるためには貪欲なまでに昨今の流行までをも取り入れるコナリー。全く卒がない。

そして本書が原点回帰的作品であることのもう1つ大きな理由は今回の犯罪が湾岸戦争帰還兵によるものだからだ。

粘り強いボッシュが事件を解決できるのは一旦原点に戻ることを厭わないからだ。彼が事件を再検証する時はもう一度原点に戻って事件のファイルをつぶさに読み返す。それはまさしくコナリー自身そのものを指しているように思える。

コナリーの作品が面白いのは過去の因果がボッシュの現在に及ぼしていることだ。それはつまり過去にこそ作品の種は蒔かれており、それを忘れずにコナリーは育つのを待ち、そして時が来た時に刈り取っているからだ。そうすることで物語と作品の世界に厚みが生まれ、そしてハリー・ボッシュを、登場人物たちに血肉を与えることに繋がっている。それがシリーズに濃いドラマを生み出し、そして常に傑作レベルの水準を保っているように思える。
こう書くとコナリーと同じようにすれば誰もが傑作を掛けるのかと勘違いしてしまうが、そうではない。そういう眼を持っているからこそ、このコナリーという作家は優れているのだろう。

また遅まきながら25作目において今回痛烈に気付いたのはボッシュが相手にしているのは法ではなくあくまで人だということだ。

無慈悲なまでに殺された人がいる。
自分の都合で人を殺した奴がいる。
その人が殺されたことで哀しむ人がいる。
そんな人達を目の当たりにし、相手にしてきたからこそ、ボッシュは正義に燃えるのだ。

彼は悪に対して異常なまで憎悪する。悪事を働きのうのうと生きている輩に対して鉄槌を落とすことを心から願っている。
従って犯人を捕まえるためには多少のルール違反も厭わない。そうしないと捕まえることのできない悪人がこの世にいるからだ。

今回の捜査も際どい行為を行う。
休暇を取り、当時の事件関係者が住まうスタニスラウス郡のモデストに単独捜査をするために。そして彼は容疑者一味の中でウィークポイントと思われる、事件のことを後日電話で偽名で尋ねてきたレジー・バンクスに焦点を当て、ホテルに監禁し自白を強要する。

そんな綱渡りをするのも全て殺された人の、そして遺された人たちの無念を晴らすためだ。

今回新しく未解決事件班の班長になったオトゥールが上司からの圧力をそのまま部下に伝え、世間体を重んじ、部下の出張や必要経費について厳しい目を配り、そして過剰なまでにルールから逸脱しようとする行為を取り締まるのに対してボッシュは強く反発する。警察は上司への点数稼ぎや報告するために存在するのではなく、被害者や彼らの家族のために現場で事件を解決するためにいるのだと。

最後事件が解決したことを報告するために被害者の遺族のいるデンマークへの出張をオトゥールから断れる。もう20年も前のことだから必要ないとの理由で。

しかしボッシュは電話越しにその被害者を殺された無念の怒りを感じとる。事件はまだ終わっていないのだと云うことを。

ボッシュは事件を解決する。それは犯人が解らないまま事件が葬り去られる遺族の無念を晴らすためであると同時に悪がのさばっている現実を良くしようとするためだ。
しかし犯人が逮捕されても被害者遺族の無念は続いたままであることをボッシュはその都度思い知らされるのだ。
それでも彼が犯人を追う。“それが私たちのしていること”という信念に従って。

その被害者の北欧人特有の色の白さから白雪姫事件と名付けられた今回の事件。毒リンゴで眠らされた白雪姫は七人の小人に連れられた王子様のキスで目覚めるが、彼女アンネケ・イエスペルセンは逆に消されてしまった。
そんな彼女の事件を掘り起こし、5人の兵士たちに目覚めさせたのはボッシュという王子と呼ぶには泥臭い刑事だった。

事件は解決したが童話のように幸せな結末とはならなかった。
無念が、犯人への怒りが遺族とボッシュ自身にも残ったままだった。
これがコナリー版白雪姫。殺人事件にハッピーエンドはないと痛烈に突き付けられた思いがした。


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