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ノルウェイの森
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【この小説が収録されている参考書籍】
ノルウェイの森の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全812件 101~120 6/41ページ
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昔、読んで、今英語の勉強にと英語バージョンを読んでいる。そして当時熱狂したものはなんだったのかと唖然としている。 まるで長い独り言のよう。登場人物がそれぞれ独り言をつぶやくだけの小説。 面白いのは、作者のねちっこい描写が、英語になると実に淡泊になること。 これじゃノーベル賞なんてとれるわけがない。 | ||||
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村上春樹 ノルウェイの森 感想文 まず、この物語はドイツ行きボーイング747機のシートに座っている「僕」が、着陸時に突然流れてきたビートルズの「ノルウェイの森」のメロディーに混乱させられるシーンから始まります。 スチュワーデスが心配して声をかけるが、「僕」の頭の中は、今までの人生の中で失った多くのもの、時間・死にあるいは去っていった人々・戻ることのできない想いが駆け巡っています。 今は37歳、20歳前後の頃の記憶をようやく頭の中で整理ができるところまで生きてきて、なんとか文章として書けるようになっています。 「僕のことを愛してさえいなかった」という直子。当時の情景は鮮明に記憶していても、直子の部分だけは実像を捉えるのに時間かかかるという。あまりにも複雑な感情がその記憶の再生を邪魔しているという事になるのでしょう。 直子は「僕」の高校時代の親友キズキの恋人で、僕と恋人同士の直子・キズキはそれぞれ三者一体の親密な関係を築いていて、その関係はまずキズキが何も言わずに自殺してしまう事により消滅し、「僕」と直子が取り残された形になります。 「僕」も直子もキズキの死による大きな傷を持ち続けたまま生きていくのですが、偶然に「僕」と直子は出会う事になり、そこから出口の見えないどんよりとした厚雲の中に迷い込んでいくことになります。 直子はガラス細工のような繊細な感情をもっていて、しかも常にキズキの死という影を内に抱えている女性で、「僕」はそんな直子に恋をしてしまいます。 思うように発展しない恋ですが、「僕」はそんな中、直子とは正反対のタイプの緑と出会います。 物語はその三人を取り巻いて発展していきますが、直子と「僕」・緑と「僕」の恋愛の場所はそれぞれ対極の位置(別の世界 )に存在しながら、それぞれに絡み合い、影響を与え「僕」は暗く厚い雲の中でもがき苦しむことになります。 全ての出来事を受け止め、なんとか踏ん張ることができるのですが、歩んでいく道はまだ途中なのです。 物語には結論じみたものはなく、はっきりとした道筋を示しているわけでもなく、一つのテーマで締めくくることは出来ません。 そして、一貫したメーセージというものも見とれませんでした。 理由として挙げられるのは、恋愛においては緑の気持ちは描かれていても、直子の気持ちは副次的なものしか描かれていないし、 生と死においても、生きる方の行為は描かれていても、死の方は結果しか書かれていない事です。 帯文に書かれている、喪失と再生の物語という言葉があたりさわりのない表現だと思います。 このことはつまり、テーマを示しているのではなく、「僕」が通ってきた場所へ読む側を連れていってくれる物語ではないかと考えます。 どのような小説かと問われても一言では言い表せない、一つの出来事についての納得はできるが、全体を通しての物語の方向付けはとらえにくい。 多分、村上春樹は物語で何かを伝えるのではなく、僕のあの時あの場所での出来事、出口の見えない厚い雲の中での僕の通ってきた道を伝えたかったのではと思います。 作者においては、読者にそこのところを物語の中で共有してもらうことが一番のご褒美になるのかもしれません。 人はそれぞれ影響しあって歩んでいくのだが、死というもは究極のものである。他者の中に永遠に生き続ける。生きていく人はそれをしっかりと受け止め、所有し前へ進まなければならない。 唯一、メーセージとして受け取るとしたら、そうなるのではないかと考えます。 話の流れに沿って、感じたことを書く前に登場人物の性格付け(ある意味分類)を行いたいと思います。 ☆語り手「僕」 ワタナベ 相手の気持ちに対して考えることよりも、自分の気持ちの通りに行動してしまう。 自分では気付いていなところであり、回りはそのことで傷ついたり、誤解したりしてしまう。 納得がいかない行動はしない。(よく言えばしっかりとした自分というものをもっている) あまり他人のことは気にならない。 ☆キズキ 自分の世界を持っていて「僕」の無二の親友だった。高校の時に突然自殺し僕と直子に暗い影を残す。 自殺した理由は描かれていない。 ☆直子 死んだキズキの幼なじみでもあり、恋人。キズキの死により精神的に苦しんでいる。 とても繊細な心の持ち主で、相手の気持ちに影響されやすい。 姉が自殺している。 ☆緑 直子とは対極のような性格。自分のやりたい事は躊躇なく行動をおこす。 ストレートに自分の感情をだし、言葉にする。 ☆レイコさん 過去に精神を病んだ経験があり、未だに世の中に出てみることに足踏みしている ☆ナガサワさん 自分の行いには正当性を確信していて、自分の事しか興味がない生き方をしている ☆ハツミさん 母性的なものを持っている。 不幸にもナガサワと出会い最終的に命を絶つことになる。 この小説のモチーフを理解するには語り手である僕をどうとらえるかがとても重要になると考えます。 その「僕」という人間の捉え方により、物語から伝わる印象もかなり違ったものになるからです。 そこで、僕の資質というか性格付けを決める材料として以下の文面を取り上げます。 ナガサワは「僕」のことを゛本質的に自分の事しか興味がない人間で自分が何を感じ、自分が何を考え、自分がどう行動するのかという事しか興味がない男゛だと言う。そして自 分と同類だという。「俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解してほしいと思っていないところなんだ」とも。 「僕」はハツミさんに対してそれは違うと言います。 「僕はそれほど強い人間じゃありませんよ。誰にも理解されなくていいと思っているわけじゃない。理解い合いたいと思う相手だっています。ただそれ以外の人々にはある程度理 解されなくても、まあこれは仕方ないだろうと思っているだけです。あきらめているんです。・・・」と返しています。 ここの部分にナガサワと僕との違いが示されていると思います。 「僕」は他人からの理解をあきらめていて、ナガサワは信念として理解を求める行為はしない。 見た目は同じように見えるかもしれないが、本質的には大きな違いです。 「僕」は自分に関わる物事に正面からうけとめ、自分の気持ちに正直な答えを出す努力をしたと、個人的には受け取りました。少なくとも、逃げたりごまかしたりはしていないと。 (その正直という言葉の意味は人それぞれだと思いますが) 上記で示した物語の中の一人称で書かれている「僕」という人物像は゛村上春樹が自分の分身である゛という気持ちで書かれていると感じてしまいます。 そういうふうに考えると、「僕」の捉え方を作者と共有して読まなければ物語に入り込むことは難しくなります。 物語を読み、印象に残った部分に入っていきます。 最初の頃の章で野井戸の話がありますが、直子は「自分がこの世から消えてなくなるけれど、自分の事を「僕」に記憶として残していってね」とお願いをします。 後の直子の手紙で「公正」という言葉が何回も書かれている所が出てくるのですが、直子は自分の存在の意味を常に考えていてそのこと(公正さ)に捕らわれていて苦しんでいる のだと感じました。 常に自分に公正さを求めているのです。 つまり、キズキの死からは立ち直ることも出来ず、どんどん闇の方へと引き込まれて行くのです。 そこから思うのは、死に行く人は最初からそういう運命の中にいるのではと。 二人は出会うべきではなかったのです。 直子の本当の気持ちというものは物語からはっきりと読み取ることは難しいのですが、感じ取ったのはそんなことです。。 資質という部分で振り分けると、直子と僕は正反対のものを持っています。本の中で書かれている言葉で示すと向こう側とこっち側。 直子の気持ちが変化したのは、「僕」と直子が関係を持った時点、本当の理由は描かれいませんが、「僕」との一回の行為が直子の中での整合性を崩してしまったのかもしれないと考えます。 関係を持つことで話をリアルなところにもっていっているが、よく考えて見ると現実的にはありえない行動が多々書かれています。 そのありえない行動をリアルに見せるために、性行為のリアルな描写を用いているのではと考えてしまいます。 物語を実際的な場所に置いておくための書き方なのか。 表現の代用としては手をつなぐとか、抱きしめるとかでも可能なのかもしれないが、もっと生々しいものにしたかったのではないかと考えます。 違和感を感じる読者もいるはずと作者も考えたと思いますが、そのマイナスの部分をも飲み込むほどの効果を狙っていたのではないかと。 さらに言うと、喉ごし良すぎるすぎる物語よりも、ごつごつとした喉ごしに抵抗のある物語にしたかったのではと。 読んだ時にインパクトを与えるという意味では、間違ってはいないところだと思います。(少なくとも、平凡な文章にまとまってはいないということは言える) もう一つの捉え方として、SEXという行為は、理屈ではないもの・実際的なもの・現実的なもの・確かなもの・気持ちの底の部分を確認できる行為。 と認識して、この小説を読んでいかなければならないのかもしれません。 直子はキズキと性交ができなかったことについて自分の中で答えができていないのに、「僕」とあの時はできたという事実があります。 直子は自分の中にキズキとの愛の正当性に疑問を持つことになったのでは(公正という部分においても)と感じるところがあり、キズキが死んだ後では、直子の中の愛の形は変えようがなく、そこに矛盾を感じているのではないか。 あの時のキズキとの愛はまともなものではなかったという事になり、それを否定することは苦しかったに違いないと思うのです。 直子は自分に対しても信頼を無くしていくことになります。 キズキとの愛は正当なものではなかったことを受け入れることができず、自分という存在意義がわからなくなってしまいます。 直子はあの時点にとどまったままで、前へ進めないでいるのです。 向こう側からの脱出はかなわないことなのかも知れません。 あの日の行為は、直子は間違ったものとしてとらえていきます。しかし「僕」は愛として昇華させたい。 このことから言えることは、その行為が二人の突き進んでいく方向性を示しているものとすれば、その方向はそれぞれが逆向きという事になります。 理屈ではなく、動かせない、誤魔化すことのできない感情が伴います。 そんなときに、緑という女性に出会い、物語を更に複雑にしていきます。゛その恋はひどくややこしい場所(冒頭の文章)゛に僕を運んでいきます。 緑との出会いが直子よりもは早かったら、出会いの順序が逆だったらとつい考えてしまいます。 この小説に書かれているのは、やっかいな恋愛物語です。 「僕」が直子に持つ恋愛感情は単純なものではなく、キズキからの傷を共有している者どうしのものであり、そこから直子を救い出したいという感情と絡み合っています。 この物語の中での恋愛の部分は片方の気持ちははっきりとは描かれていません。 直子と「僕」の恋愛は直子が不明。 緑と「僕」の恋愛は「僕」が不明。 片方の気持ちははっきり書かれていて、もう片方は明確ではない。 それは物語に簡単な筋を通させないことで、読む側のふくらませていける部分を設け、読者の気持ちを引き付けているのではと考えます。 読者に筋を明かさず、限定させないというのは、、興味を恋愛の謎解きではなく、登場人物の苦悩の部分の感触として植え付けようとしている。 お互いの気持ちを描いてしまうと話を限定的なものにしてしまい、物語を読み手にもっていかれると。 村上春樹は恋愛の解釈ではなく、読者にこの壮絶な話を疑似体験させるところへ持っていくことを狙っていると考えると、腑に落ちる部分があるのではないでしょうか。 作家の計算だとしたら、そういう事になるのかも知れません。 ・僕と緑は現実の世界でに地に足をつけて生きている。 ・キズキと直子はそれとは別の世界に身を置いている。 ・僕と直子の恋愛は特異なもの ・僕と緑の恋愛の場は自然なもの(自分に正直な、偽りのない愛) この四つのキーワードでこちら側と向こう側に並んで位置しているという構図が見て取れます。 ☆僕」のセリフ 「君のこと大好きだよ」「心から好きだよ。もう二度と放したくないと思う。でもどうしようもないんだよ。今は身動きができないんだ。」 「僕にわかっているのは、それがある種の人間としての責任であると言事なんだ。そして僕はそれを放り出すわけにはいかないんだ・・・たとえ彼女が僕を愛していなくても」 ☆緑のセリフ 「ねえ、私は生身の血の通った女の子なのよ」 物語の後半は緑と「僕」は実体のある恋愛と、実体のない恋愛のはざまで、大きく揺れ動いていきます。 この時、「僕」は緑を心から愛していることに気づき、それと同時に直子のことも愛していることを確認します。 「いったい自分はこれから先どうなっていくんだろう」 この時すでに自分の気持ちに正直になろうと「僕」は決心しています。 「僕」がその複雑でややこしい場所にある恋愛で身動きが取れなくなり迷宮の中を漂っているとき、直子の死の知らせが届きます。 そして、「僕」はすべてを放り投げて、さ迷いの旅へでます。 旅の中で、「死は生の対極にあるのではなく、我々生のうちに潜んでいるのだ」という言葉をキズキの死の時に学んだけれど、愛する人の死の哀しみからは、到底そういう真理と かいう言葉で癒されるものではないと悟ります。 直子は死んでしまったけれど、僕の中で永遠に生き続けるのだろう。 直子との恋愛は始まりのあと、終わりがないままでいきなり時間が止まったままになり、死だ者は死んだ時のままの状態で生きていく者の心の中に存在す事になります。 直子はこの世からいなくなるが、それは事実であり運命として受け止めていくしかありません。 誰のせいでもないし誰も責められるべきではないのです。 結局、直子はキズキの呪縛から逃れることはできなかったことになります。 死と生をさかいに、こっち側と向こう側、こっち側に残された人は現実をしっかりと受け止めて生き続けるしかない。 自分がしてきたことを受け止めて生きていかなくてはならない場合、それに耐えうる心を持つには自分に正直に生きるという事以外にないのではないでしょうか。 レイコさんはこう語ります。 「すべての人は不完全な世界の中に住んでいる不完全な人間。で恋の自分の気持ちに身を任せるのも誠実さの一つのかたち。」 「私のような無力で不完全な人間でも時には生きるってなんて素晴らしいんだろうと思うのよ。本当よ、これ!」 彼女がすごいのは直子の味方というのではなく、直子も「僕」も人として対等に公正に対応していることです。 「僕」の行いも否定することなく受け止めていす。 「僕」の再生はレイコさんとの再会から始まります。 レイコさんもこちら側の世界で再生を試みます。 この物語の最大の謎は次の二行です。 「ねえ、ワタナベ君、私とあれやろうよ」 「不思議ですね」と僕は言った。「僕も同じこと考えていたんです」 ラスト数ページでの記述。 ・恋愛感情はないはず ・生を生きていくための儀式? ・二人が共有しているものの再確認? しかし、確実に言えることは現実ではありえないこと。作者のイレギュラーではなく、意図的にこの部分をラストに入れた理由として思いつくのは、この物語を現実的なものから、 頭の中の作り話へと持っていこうとしているのか。 言えるのは従来の小説とは違う、型破りでインパクトを与えるという意味では功を奏しているのかもしれません。 今、村上春樹がこの小説を再構成するとしたら、間違いなく削ってしまうのではないかと思うのですが。 「僕」は緑に電話をかける場面で、緑から「あなた、今どこにいるの?」と聞かれ、自分は今どこにいるのだろうと自分を見失いますが、それはこの物語がまだ道の途中であること を暗示しているのです。 評論的な文面になってしまいましたが、この小説は読み方を二通り選べると思うのです。 生と死と恋愛の謎ときをしながらの読書。 もう一つはサラっと読んで軽く恋愛ストーリーを楽しむ読書。 特に緑とワタナベ君の出会いと喧嘩と仲直りの絡み合いは、二人の会話・行動とも実に楽しめる物語です。 この小説の底力を感じるのは、小説を読み終わったあと、また冒頭の空港のシーンを読みたくなること。 そしてその冒頭のところを読見返すと、37歳になった「僕」の心情がしみじみと伝わってくるのです。 そして、暗くて厚くて不気味な雲もまるで映画のシーンのように出現します。 もう一つ加えると、ビートルズの「ノルウェイの森」の曲が全く違うメロディーに聞こえて来るのです。 耳に入って来るその曲は、すでに村上春樹の世界に編曲されてしまっていることに気づかされます。 | ||||
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山本文緒さんが、好きな作家ということで、興味をおぼえ、何十年かぶりに引っ張り出してきました。 当時なんで読まずに、積んどくだけの本になったのか、わかる気がする。 なにがおもしろいのか、わからない。ノーベル賞候補にもなった、日本一の作家に対し、失礼千万な話だが、よくわからない。 私とかけ離れた人生を送った人の話なので、共感できないからなのかもしれない。上下2巻、読み終えるのに1ヶ月近くかかってしまった。ほかの本への浮気があったにしろ、頑張って読み終えた。 海辺のカフカ を購入してしまった。 さて、こんどは、おもしろいのだろうか? | ||||
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鬱の世界観を知る分にはとてもわかり易い⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝♪ 人間として生きようと思えます! | ||||
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騒ぐほど性描写はきつくないです。むしろ、この程度で騒ぐ人々の経験がよほど乏しいのかなと、微笑ましくなります。若き日の苦悩や恋愛を描いた青春小説と捉えました。ただ、直木賞に値するかと言うと微妙です。 | ||||
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ありがとうございました。 昔村上春樹にハマった 切っ掛けの 大好きなビートルズの曲と同じ題名 の小説(愛読)です。再々度読み直しています。69歳施設入所中で 超暇人です・・・ | ||||
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村上作品をはじめて手に取った作品、若者が目覚めてゆく性と、心に深い傷を抱えたアウトローの苦しみ、個性の表現。村上の際立つ手法で描いた読み応えのある作品である。 | ||||
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言わずと知れた、村上春樹の代表作。 そして、好き嫌い、賛否両論のわかれる本。 私は、この本が自分の人生の中にあるということだけで、幸せを感じる。 自分の中の何かが失われていく事を感じたとき、 そしてその過程で、親愛なる誰かを傷つけていたとしたら。 この小説は、失った大切なものを見つめながら生きていくことの哀しさが痛いほど描かれている。 どこかにある手記のような「死にたい」「苦しい」などの陳腐な言葉ではなく、 読み手は行間で、それを自分の痛みとして、経験として感じとれる。 そして、死の淵から絶え間なく続く声の中で、それに耐えながら、今を生き続けることとの葛藤を知ることができる。 「どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。 どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。 我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、 そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。」 多くの人は、様々な喪失感を抱え、それと向き合い、戦いながら生きて行く。 例え、生きる意味も喜びも見つけられない日が来たとしても、それでも人は生きて行かなければならない。 「自分に同情するな。自分に同情するのは下劣な人間のやることだ。」 本書に描かれる多くの名言の中の一つ。 この彼の言葉の中に、明日を見つけられる人が、一人でも多くいることを願って。 | ||||
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30年ぶりに読み返した。 村上春樹氏は私と同学年。だから最初読んだときはあの時代を思い返して懐かしさいっぱいだった。 今回読み返して思ったことは、 「我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。」 という言葉にこの作品は集約されているように思った。 私も今日までいろいろな哀しみに出会い、随分強くなったと思っていたが、さらなる新たな哀しみの前には、そんな強さなど何の役にも立たない、ということを思い知らされた。 そして、それでもなお生きていかなければならない苦しみをどう携えて生きていけばいいのか。 そういった哀しみや、苦しみをこの作品は共有させてくれることに限りない喜びを見いだすことが出来た。 いつかまた、この世界に戻ってくる、いや戻ってこられる場所があることの幸せを噛み締めつつ読み終わりました。 | ||||
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もう一度読み返してみようと購入しました。村上ワールドが心地よかったです。 | ||||
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人生の節目節目で読み返したくなる、特別な小説。 読むたびにあの日の情景がよみがえってくる。 | ||||
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私は1963年生まれで本作の主人公とほぼ同時代に学生時代を経験した。それもあるだろうが、とにかく個人的に波長の合う作品でこの下巻もあっと言う間に読破した。 理屈でなく感性に訴える村上春樹の作品中でも、セックスを通じて生と死を表現した本作は極めて官能的な要素を強く感じた。今巻でも印象的なシーンが数多く、例えば主人公と一緒に死病に冒された父を看るため病院を訪れた大学生緑の服装はパンチラ必至の超ミニスカで、それで階段を上るなと言われるが堂々と見せ付けるつもりだったと言う。だが彼女は父を献身的に看病する健気な娘なのである。彼女と亡くなっていった父、そして主人公とのエピソードはエキセントリックでエロティックなものが多いが、「死」に対して「生」を象徴したものとして読めた。主人公は20歳になる前なのに多くのセックスを重ねているが、本当に大切な彼女や、緑とはセックス出来ず、手や口で性欲を処理してもらう。「ノルウェイの森」を演奏する年上女性とセックスを経験するラスト前のシーンもとても印象深かった。ここでも「セックス」が生を象徴するものとして描かれていたと思う。 毎度評しているように村上春樹は万人向けの作家ではない。本作は特に官能要素が重要な位置を占めているので、それだけで嫌悪を感じる人もいると思う。だが、「生」と「死」と言うテーマを扱うにおいては「セックス」は避けられない要素であったのだ。センスの塊のような村上作品でも白眉の出来だと絶賛したい。 | ||||
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この物語には、緑と直子という対照的な二人の女の子が登場する。 いつも太陽のように明るい緑と、悲しみをたたえた暗い湖のような直子。主人公の僕の心は、この二人の間を時計の振り子のように揺れ動く。そこに典型的な東大生のような永沢さん、その恋人のハツミさん。僕の唯一の親友で、17歳のときに自殺してしまったキヅキ…。 端的にいうと、この小説には「唐突な死」と「脈絡のないセックス・シーン」で満ちている。だからなのか、話としては正直あまり面白いとは思えなかった。 登場人物のほとんどが自殺など何らかの形でどんどん死んでしまうし、どこか内向的な主人公が女の人と出会うたびに都合よくエッチするという展開が、どうもなじめなかったからだ。モテモテなはずの主人公なのだが、その割に魅力を感じないのはなぜだろうか? そもそも青春小説でいうところの「青春」には、失われた時代への憧憬(どうけい)の意味が込められているのだろうが、この小説で語られる青春には、青臭い未熟なイメージしか感じられなかった。 主人公の僕と直子とキヅキの関係にしても、「三人でいると、それはまるで僕がゲストであり、キズキが有能なホストであり、直子がアシスタントであるTVのトーク番組みたいだった。」(上巻48頁)と表現される。 こうした二人きりになると会話が進まなくなるという危うい三角関係が頻繁に語られるのだが、その関係も登場人物の死という形であっけなく終わってしまう。 もちろん本作品にも村上さんらしい鮮烈で詩的なイメージが溢れていて、村上ファンとしては十分楽しめた。物語の冒頭で直子が主人公の僕に語る「野井戸の話」は、この物語で語られる多くの死の優れたメタファー(隠喩)になっているように思う。どこにあるか分からない井戸に突然落っこちて、誰にも知られずに死んでゆくような「ひどい死に方」である。 主人公の僕と最後にビリヤードをした夜に自殺したキヅキも、遺書もなければ、たいした動機もない静かな死だった。言わば「生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。」(上巻55頁) そんな死と隣り合わせの不吉な小説世界にあって、村上さんの喪失感を表現するときの文章はとりわけ美しい。 僕と直子がキヅキを失った悲しみを癒すべく交わるシーンでは、「彼女の求めているのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼女の求めているのは僕の温もりではなく誰かの温もりなのだ。僕が僕自身であることで、僕はなんだか後ろめたいような気持になった。」(上巻61頁)と表現される。 本作品もそうだが、村上さんのデビュー作である『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』などに見る、一見読みやすく何も考えてないように書かれているが、内にどうしようもない悲しみを秘めている文章。 個人的には作品自体にあまり感情移入できなかったけれど、改めて村上さんの文章のうまさを味わえた作品だった。 『ノルウェイの森』の題名の秘密は、読まれた上で感じとってみてください。 | ||||
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友達にすすめられて読みましたが、正直 今まで読んだ本の中で一番苦手な本でした。 | ||||
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なぜこの作品があれほど評価されたのかわかりません。とにかく暗く、後味が悪い。そのくらいしか感想はなく、あまり記憶にも残りませんでした。 | ||||
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なぜこの作品がこれほど評価されているのかわかりません。とにかく暗く、後味が悪い。そのくらいしか感想はなく、あまり記憶にも残りませんでした。 | ||||
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何度目かの再読を終えました。風の歌とノルウェイは最も再読した作品です。どこから切り取って読んでも面白いから、というのがその理由です。ノルウェイの森は、登場人物が魅力的で、それぞれのエピソードを切り取って読んでも楽しめます。突撃隊や緑、永沢さん、レイコさん、誰も彼もが魅力的です。 この作品のテーマは、陳腐な言い回しですがやはり、生と死だと思いました。死を選択した者、あるいは死に捉えられた者、生と死の中間的な場所から還って来て、死を含んだ生を選択した僕やレイコさん。 低俗な官能小説と批判されるように、村上作品の中でも最も性描写が多く、具体的です。描写の仕方は気に入らない部分もありますが、おそらくこの作品に性行為は必要なものなのでしょう。それは、ある場面では大して意味のないゲームのような行為としてただ浪費され、違うある場面では、神聖な行為のようであったり、固辞するものであったり、通過儀礼のようであったりします。生と死というものに性行為が深く関わっているようにも思います。 初めて読んだときはさらりと読み、ふ〜んという程度でしたが、その後は自分の精神の具合やら何かの加減で違う感覚で読めます。 なぜこれ程売れたのかは、正直よくわかりません。他人に薦める人が多いというのもよくわかりません。とても他人に薦められるような種類の本ではありません。 村上作品(長編)の中では少ないリアリズム小説です。好きな作品ですが、おススメは「羊をめぐる冒険」「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」などです。 | ||||
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村上春樹は万人向けの作家ではない。好きな人と同程度にアンチも存在するのは人気作家の宿命とも言えるが、基本的に雰囲気勝負の作風なので、何を言いたいのかわからない、と言う人も多いだろうと思う。彼は何かのテーマを持って、それを読者に訴えようとしているわけではないのだ。だからそれが文学だと思っている人には理解される筈はない。彼はたいてい自身の生きて来た世代をベースに小説を書いている場合が多く、それも村上春樹が理解されにくい要因の一つだと思う。だが一方、彼と同世代である私のような読者にとっては強烈にアピールするものがあり、感性が合っていると感じるのだ。又本作に関しては、私自身が入院療養中に読んだのがタイムリーだったので満点評価とするが、差し引いてもらって構わない。感性が合わない人も多数いらっしゃる筈なのだから。 それにしてもモラトリアム風大学生時代の描写は、見事にあの時代の雰囲気を表している。女性関係をのぞいて私も経験した男子大学生の生活だ。そして心を病んだヒロインの療養生活は同様の状態にあった私には痛い程伝わって来るものが表現されていたのである。 繰り返すが、万人向けではない事を前提としての満点評価である。感性が合わないと思ったら、無理に読んでも得る物はないと思う。 | ||||
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学生の頃から村上さんの著書が好きで読んでいます。ノルウェイの森は有名だったこともあり、今頃という時期ではありますがまだ読んでいなかったこともあり購入。もともと小説や読書が好きですが、冒頭から全くストーリーが頭に入ってこない…。出だしも主人公の過去の生活を振り返るばかりで、一男性の生活を報告しているようなもの。期待していただけにガッカリが大きかったです。個々で好みや合う合わないがあるので、あくまでも私一個人の意見として参考までに。 | ||||
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ストーリーが頭に入らず、読み始めて早々から眠気が。。小説や読書が好きですが、始めてこんなにも面白くないものがあるのかと感じました。上巻のこともあり、まったく期待せずに読み始めたこともあってか、なかなか読み進める気になれませんでした。面白いと評価されている方もいらっしゃるので、一概には言えませんが私一個人の意見として参考にしてください。 | ||||
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