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ノルウェイの森
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【この小説が収録されている参考書籍】
ノルウェイの森の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全812件 201~220 11/41ページ
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大学の授業の感想レポートでこの作品を読ませていただきました。 僕は今まで、アフターダーク、海辺のカフカ、ねじまき鳥のクロニクルを読んでいて、今作で村上春樹さんの小説は4作目です。 読む前、ノルウェイの森は、春樹さんの中でも特徴といえる抽象的な心理描写や何処か空想、潜在的世界に急に行ってしまう、などの読みにくいタイプの小説なのではないのかという、先入観がありました。(僕の周りやネットの評判そう思っていました) しかし、読んでみると、18〜22歳で起こる子供から大人にならなければならない社会への同化、抑圧、東京という都市に上京しての他人との人間関係、それに伴う自我の変容、ストレスなどが、この作品では描かれ、この経験はオンタイムな僕は共感を持てる部分がありましたし、誰しもが共感を持てる部分が少しはあるのではないでしょうか? そして、この小説は村上春樹さんの作品の中でも読みやすく、分かりやすいように僕は感じました。何故ならこの小説では年齢、性別、経歴、様々な立場の人物が自分の昔の話、思想を話します。その話はこの小説が進むにつれ、主人公の様々な部分に関連付けられ、読んでいるとその話が浮かんできます。ページ数も上下巻合わせ650程でしょうし、ちょうどいいぐらいだと思います。 確かにこの作品の主人公は、春樹さんの作品の中でもネガティブで病んでいる方です。病んだ人もよく出てきます。しかし、今の行き過ぎた資本主義(ネオリベラリズム資本主義)SNSなど、ネットによって監視社会化している現代に生きる僕たちにとってこのような病んだ人々は無関係で、理解できない人、共感出来ない人は余りいないのでしょうか? 春樹さんの文章力は高いですし、日本の都市化が進んだ時代の青春小説として一度読んでみてもいいのではないかと僕は思います。 拙い文章ですみません。最後まで読んでくれた人はありがとうございます。 | ||||
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この小説は多くの方々が暇つぶしに読んでいるような娯楽的大衆小説ではない。そのためこう言った純文学作品を真剣に読んだことのある人、読みたいと思っている人、文学を解する心の持ち主にしかお勧めできない。 先に断っておく私は村上春樹の作品は全て読んでいるが彼の小説、考え、ライフスタイルに陶酔する浅はかで愚かなハルキストではない。村上春樹の作品を読んだはいいものの考えることをせずにただ「この小説は考えるものじゃなくて感じるべきものなんだよ」などと戯言をかましている彼らハルキストを私は厳しく非難する。だがこの小説を読んで考えることはもちろん世界観や登場人物の心情を感じ取ろうとさえせず、ただただ理解できなかったと非難をする輩はさらに厳しく非難し罵倒さえし文学を読むに値しない者とみなす。彼らノルウェイの森を非難する者はにわか読書家か間抜けな機械じかけやろうだ。 この小説は決して雰囲気小説などではないではない。官能小説でもない。情景描写はもちろんのこと登場人物の一挙手一投足一言一句にさえ全て意味がありそれが読み取れる。 多くの人々が薄々でも理解しているだろうが、この小説で重要視されていることの一つが生と死である。この小説は途中多くの人が死ぬ作品である。その点を非難する者も少なからず見かけるが、西洋文化が多く流入してきた近代以降では小説には主題というものがつきものとなっており、主題無きもの文学にあらずといった考えが今でも文学の大前提となっている。このノルウェイの森の作品中多くの死者が出ることはいた仕方ないことである。また「なぜ彼らが自ら死の道を選んでしまったかわからない薄っぺらなストーリーだ」などと言う意見も聞こえるがそんな意見を言う者が浅はかである。確かに作品中それぞれがいかにして死にいたってしまったのかは、直接的には書かれていない。だが彼らの言動や過去、人間関係について書かれている部分を読めば大した想像力を駆使せずとも理解できるはずである。例えば直子とキズキの関係を読めばキズキの死の意味が、キズキの死後過去を踏まえて直子とワタナベの関係を読めば直子が死に至った理由が大方理解できるはずである。またワタナベが生きてはいるが死というものに取り憑かれあの世に片足を突っ込んだ状態でいたということもわかるであろう。そしていかにして生の世界へと無事戻ってきたかもわかり、ワタナベを生の世界に繋ぎ止めてくれていた緑の存在が大きいということもわかるだろう。そしてこのワタナベが半分死の世界いたことと緑の役割を考えれば最後のシーンのワタナベの台詞の意味も自ずと理解できる。 この本の装丁は村上春樹自らが手がけたものだという。これは考えすぎかも知れないが、本文中での「生は死の対極としてではなく、その一部として存在する」という箇所と緑の「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ。そんなのひどいと思わない?」という台詞、緑が作品中で生の象徴のように力ずよく書かれているところから、この本が上下巻緑と赤で装丁されいる意味が見えてくるように思える。 題名について「ビートルズのNorwegian Woodっていうのは本当はノルウェイ産の木材っていみなんだよ、だからこの題名は間違っている」などとインテリを気取っている輩も見かけるがそんな意見は愚の骨頂、アホの極みとしか思えない。本文を読めば作者がなぜ敢えてこのノルウェイの森という日本語訳の題名にしたかがわかるだろう。本文中で直子が言っている。そしてこの題名の意味するところがこの作品全体を包み込む空気である。ほとんどの文学作品について言えることだが作者がどのような意図を持って如何なる題名をその作品に付けたかと言うことは読者として必ず理解しなければならない重要な点のひとつである。 村上春樹作品の多くに認められるところだが、この作品もまた歴史や神話、小説などからの影響が見て取れる。例えば、ワタナベが直子を訪ねて阿美寮へと赴く箇所などは日本神話のイザナギ・イザナミと重なるように思える。しかし村上春樹の小説ではギリシャ神話からアイデアを得た作品も見られるので、ここはイザナギ・イザナミではなくオルペウスの方かもしれない。また緑がワタナベに語る完璧なわがまま、愛についての箇所は村上春樹も日本語訳している「おおきな木」という絵本と共通するところが見て取れる。 村上春樹の小説はクセが強いとも言われている。作品全体を好きになることは難しいかも知れないが、たった一行の言葉や登場人物のキャラクター、作品中で使用されるグレート・ギャツビーなどの小説や音楽など部分部分で誰もが惹きつけられる好きになれる箇所があること間違いない、だから作品全体を嫌いになることも難しいだろう。細かな魅力が随所に、散りばめられた至高の一冊であると私は思う。 最後に、映画ノルウェイの森は見るに値しないとんでもない駄作であることをここに高らかに宣言しよう。監督がこの小説をちゃんと読んだことがあるのかさえ疑わしい。評価できるところと言えば緑の役を水原希子にしたところだけだ。あの映画は腹立たしいことこの上ない。小説よりも先に映画を観てしまった人々が可哀想だ。原作を読む機会を多くの人から奪った無価値の愚作である。 | ||||
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私にとって2作品目の村上春樹。翻訳家としての彼の力量を買っていて、彼自身の創作に挑んでみるのだかハルキストへの道は険しい。セックスの描写は体操のようで私の好みではない。過激なセックスと壊れていく恋人、、、映像なら「ベティブルー」小説なら「赤い髪の女」であると断言しよう。 私はこれは単純な恋愛小説だとは思わない。恋愛は暗喩でしかなく、革命という軸を喪失してしまった世代の傷みを描いているのだと思う。学生運動の描写は遠景のようにしか出てはこないけれども。同世代とも共有できる精神を持てなくなった若者が心の飢えを抱えつつ性的にも放浪しながら自分の位置を確かめて行く。 漱石の「三四郎」はたいした事件も無く、会話も描写も行間を読ませるが、村上春樹は事件山盛り、たっぷりバターを塗ったパンのような描写、そして豊富な会話、、、対極の青春小説だと感じた。早稲田で演劇を学んだことの影響かとも思えた。 | ||||
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この作品を端的に説明するとスクイズと四月は君の嘘を足して2で割ったような作品 読んだ直感的な感想としては、これが世界的ベストセラーで毎年芥川賞候補に選ばれたりする作品とか世の中、訳が分からない。 このレビュー見ても星1のレビューが参考になった上位を占めてる異色の作品といえるだろう。 レビュー星5つけてる人は、普通に良かったみたいな短い感想もあれば、私は読んでないけど母にプレゼントしたら好評でしたー☆5とか、後は自分に酔ってるコメントが多々見受けられて爆笑した。それだけでも読む価値あったかも、、、 何が酷いって、登場人物殆ど自殺したり、エロゲーも青ざめるレベルの性的な描写とかセリフの多さ。登場人物自殺させるのは構わないんだけど、そこに至る理由が殆ど描かれていない。描かれていないって言うと語弊があるか、物語としてドラマ性が一切無いと言うか、ある程度の推察は出来ても自殺するだけの決定打に欠ける。そして死ぬ前も死んだ後もこれと言った別段変わった事が起こる訳でもない。 唯一良かったのは文章が上手いって事かな、普段使わない難しい言葉を使って緻密に文章表現をする事が多いなか、あれだけ平易な言葉だけで独特の雰囲気を作り出してしまうのは天才だと思う。それだけにあれだけの天武を持っていてどうしてあんなに山なし、落ちなし、意味なし、な話にしたのか腑に落ちる。 ただ、もしかしたらそれこそがこの作品のメッセージなのかもしれない。つまり、作中にも(死は生の対極にあるのではなく我々の生のうちに住んでいるのだ )って描写があったけど何か独特な理由があるから自殺する訳でもないのかもしれない、「死」、それは生活の一部であるようにそれこそコンビニでも行く気軽さで死ぬ。レイコが直子の自殺で病院から出る切っ掛けになったように、自殺は負の面もあれば正の面もあると言うこと、人は性行為や自殺に何か特別な意味や価値観を見いだそうとするがそういう杓子定規な物の見方に対するアンチテーゼを作者は表現したかったのではないだろうか。 | ||||
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この本は中学校の時の推薦図書に名前が挙がっていました。 それで読んでみました。大変感動しました。これが文学なのかと衝撃を受けました。 またもう一点、エロい場面が何度か出てきて、それが中学生の理想とするファンタジック(かつ少し病的)なエロだったので、これまたびっくりして何度も何度も読んだのを覚えています。 彼氏が死んでしまい、傷ついている女の子と……。 本命がいるのに、別の女の子とベランダでキス。 療養所がある山の森で……。 元気はつらつな、しかし複雑な過去の有る年上の女性と……。 このように、「文学」としてだけでなく、「中学生に許された合法的なエロ小説」としての価値も、この小説については語り継いでいくべきではないでしょうか。 「文学表現として必要だったエロ」と解釈できれば、ちょっとセクシャルでも、大人は許してくれるようです。 その点、この作品は文学とエロの配合が絶妙なので、「好きな本は『ノルウェイの森』です」といえば、先生からの評価が期待できるし、自身のエロリビドーの慰みにもなるのです。いいですね。 あわせて山田詠美さんの『放課後の音符』も読むといいかと思います。 やはり、文学とエロが含まれており、中学推薦図書になっているからです。 | ||||
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ベストセラー本ですが、今読んでも面白い本です。ようやく春樹ファンになりました | ||||
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映画化されたものを録画していたのだが お正月休みにようやく見ました。 ということで『そうだったかなー』という感覚で読み直してみました。 時代は違うが自分の学生時代を思いおこしたりしてみた。 それにしても暗くなるのはどうしてだろう・・。 | ||||
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昭和の独特な雰囲気の出た作品。 登場人物は個性的で独特だが、特にドラマがあったり、得られるものがある作品ではない。 私は低評価を付けさせてもらっているが、高評価の人と意見は同じで、これは雰囲気を楽しむ作品だと思う。 ただ、それも特に読者が積極的に楽しむ作風ではなく、何か平坦で受動的な印象を受ける。 「こうだったからこうでした。」「こうだったからこうでした。」と淡々とやっていくような。 それでも雰囲気が楽しめるなら読むと良いと思います。 私は最後まで面白いと思えませんでした。 | ||||
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ベストセラーだからと表紙がX'masっぽく可愛いので、つい買ってしまいましたが…ラストに救いが無く読後感が好きになれませんでした。 何故みなさんが騒ぐのか謎です。 | ||||
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『ライ麦畑』のオマージュのような感じだし、 自殺をした女の子の描き方が酷い。 ようするに 僕の好みであるフェラチオを何度もして 最後 口の中で射精した という話。 | ||||
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このような作品を書いた人間、 売ってきた出版社、 資本主義社会に 憎悪の気持ちと、 同じ人間として 恥ずかしい。 | ||||
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中学のころに1度読み理解できず 20歳でまた読んだはずなのに おばさんになった今、全く記憶がなかったので3度目の正直と読んでみた。 年をとっても主人公のナルシズムにも性にも全く共感できず、性描写は読み心地悪く この本を読んでいる自分が通勤電車でエロ雑誌を読んでいるおじさん化してしまったみたいで恥ずかしかった。 どこがいいのでしょう?男だったらわかるのかしら? | ||||
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店長さんとても丁寧でした。思わず割引していただき嬉しかった。商売繁盛をお祈りします。 | ||||
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主人公(僕)、僕の親友キズキ、キズキの恋人直子、この3者の関係はいかにも不安定で、恐らくこのままの状態では・・・・、すべての人の心の緊張感が亢まるだけで、都合の良いソリューションはないのでしょう。 この状況に耐えられなくなった直子の恋人キズキの(或いは、キズキが本来的に持つ、余りにナイーブな心ゆえの)自死が、主人公と直子の心の奥底に決して取り去ったり薄めたりすることのできない澱を作ってしまう。主人公と直子の関係には、キズキが去り2者になることでの安定はなく、二人の心のゆれる様が丁寧に描かれております。 陳腐な言葉かもしれませんが、村上春樹の“芥川賞”的な作品もわるくない、と思いました。 | ||||
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最初は2度目に読む本ですが、もとのことはわすれている。最近記憶に問題アリ。 | ||||
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ノーベル賞の季節が来るたびに村上春樹を読んでみるかと思いつつ数年が過ぎたが、やっと一昨日に買って読んでみた。 大学時代にこんな彼女がいたら良かったなという程度のバカっぽい感想しか持てなかった。アニメのタッチの大人版という 感じだ。 裏表紙は「限りない喪失と再生を描」いているというが、筆者が好みの女性キャラを作って行ったマスターベーションを 活字にしたような印象だ。 「二人でのお葬式」の後、きっとするんだろうなと思っていたら、しっかりやったので笑ってしまった。 私の様に鈍感な人間には理解できない小説だ。なんでベストセラーなのかわからない。もう読まないかな、村上春樹は。 | ||||
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話の内容としては面白かった。 ラストの衝撃もよかった。 が、登場人物で好きになれたのは一人もいない。 彼らはどんな話をしていても 最終的には下半身の話ばかりに帰結し、おっぱじめる。 愛する女性を思い出すにしても、その裸や性器をいじってもらったことばかりを思い出す。 これが現実味の追求なのか? 生憎自分には現実味が感じられなかった。 蛇足だがノルウェイはまったく関係なかった。 | ||||
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私はこの本を大学で知りました。 母が村上春樹さんの本を読んでおり、他の著書は実家の本棚にもありました。 なので自分で買いました。 人のことに興味をもたないし、自分の感情をみせないところが当時の自分に似ていました。 本心を隠して、ふわっとした言葉でまいたり、関係性の遠い人には聞かれたことに面倒くさいから嘘をついたりしていました。 優しいと期待され、わがまま、冷たいと言われ、もう多くの人から理解されなくてもいいやという生き方でした。 登場人物と共感するところがありました。 死を選んだ直子もキズキも主人公にとっては、暗闇を一緒に歩いてきた自分の一部だと思いました。 ”お前もこっちにこいよ。”とかいう友達ではないと思うし、幸せを確信し前を向いて生きてほしいです。 レイコさんとの最後の場面はあれでよかったのかな・・。 | ||||
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ヘンリー・マンシーニのディア・ハートの美しいギターの調べ…そしてノルウェイの森。ある共通の大事な友人の悲しい幕引きの後のささやかな生の証。大事な人の死がこんなに生の営みを照らし出すものであろうか。直子の死が語られた最後の美しい場面である。 残されたトオルとレイコさんという二人はその生き方の不器用さがとても似ているような気がする。この小説に登場する人間は概して生のエネルギーが希薄な儚い存在の人間が多い。その中でこの二人が生き残ったことはある意味神聖な意味を持つのではないかと思う。作者にとっても恐らく特別な存在に違いない。作品で語られる時代、それは日本人が馬車馬のように働いてその中に感傷の余地など無かったいわば、生のエネルギーで充満していた時代である。何故この時代に彼らは希薄な存在なのか、それはこれから数十年後に到来する負のエネルギーの充満するこの時代への予告めいている。 かなり遡るが例えば漱石の一群の作品においてもそういう生きることの辛さを語るものが多い。あの今に比べようも無いほど貧しいあの時代にあっては生きることの辛さを語ることはいわばごく一部の特権的な階級のいわば贅沢病とみなされたのであろう。しかし漱石の小説のネガティヴさはやはりその対照となる生のエネルギーをとても美しく赤々と照らし出す。例えば「それから」の代助が前者の代表であり、「明暗」のお延や清子、「虞美人草」の藤尾などが後者の代表である。 転じて村上春樹の上記小説に戻ると、彼らの対照として生のエネルギーに満ち溢れた緑というとても強い女性の存在がある。 「どれくらい好き?」 「春の熊ぐらい好きだよ。」 これほどcute で、jealousな言葉を掛けられる相手が恋人であることが、どれほど生きている意味を感じられることか。これほど直球で胸を焦がす台詞を私はあまり知らない。確かに多少sillyではあるかもしれない。しかしこれほど無邪気に無防備な言葉を掛けられること、それがすなわち恋人であるということの証ではないだろうか。 では直子という存在は一体どのようなものだろうか。それが今という時代を予言した存在であることは想像に難くない。生き難い世の中に自分の存在できる場所を求めてさまようのである。結局彼女は普通の日常生活のそれを見出せなくなってしまったのだ。そして精神療養に生きる場所を求める。 一体いつから日本という国は生き辛い国になってしまったのだろうか? 年も若い者たちが負のエネルギーに満ち溢れ、現世的な欲求をなくし、隠棲状態になっている現実もあるのだ。直子は何度も繰り返しトオルにいう。私が重荷ならば私のことは気にしないでと。それに対してトオルは気丈に君が重荷とは思わないと力強く答えるのである。しかし彼女の重荷から解放された現在、トオルは彼女の「私がこの世に存在したことを確かに覚えていて欲しい」という悲痛な叫びも忘却の彼方へと流し込んでいるのである。 果たしてトオルは直子のことを愛していたのだろうか、直子はトオルのことを愛していたのだろうか…。直子という存在は私の考えではキヅキという直子のボーイフレンドとともにいわば生きながらの幽霊のような存在で、愛を与えたり、受けたりする積極的な存在というものではない。なぜなら直子がトオルにこの世に存在したこといることを覚えていて欲しいというのは、とても痛切な言葉だが、彼女が生身の人間であるならば、逆にこれほどその喪失感がこれほどまでに美しく語られることはないと私は思うのだ。喪失によって存在感が逆に大きくなっているのだ。 彼女のPale Shadowは間違いなくトオルの人生に大きく影を落とし存在し続けるであろう。そして読者である私たちにもそうである。直子への不毛な愛。それは限りなく美しい。ある意味ではそれは最も純粋な愛であるからだ。トオルもそれが分かっていた。彼女が彼のことを愛することはできないと言うことを知っているのだから…。 この小説が数十年も愛される意味、それは純粋な愛というものは結局不毛であるということを教えてくれるからだと思う。それゆえ美しく、この上なく胸を打つのではないだろうか。そして聖なるものであることを…。そうちょうど愛することを禁じられた天上の女神を愛した地の民のように…。 | ||||
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※注意! 若干のネタばれあり ノルウェイの森は村上春樹自身の短編小説「蛍」をベースにして書かれた小説だ。 はっきり言おう。ノルウェイの森は「蛍」とは比べようもない駄作である。 たとえば、「蛍」でも主人公はノルウェイの森と同じように同居人(突撃隊)のことをバカにしているが、 全編を通しての視点が俯瞰的に表現されているため、それほど嫌味な印象を読者に与えない。 それどころか同居人が短編「蛍」において主人公に渡した蛍は、喪失に満ちた物語をともす一筋の光として機能している。 一方ノルウェイの森では突撃隊はただの哀れな道化にすぎず、 ワタナベの直子への話のネタ以上の存在ではない。 上に一例をあげたが、簡潔にノルウェイの森の欠点を述べれば、登場人物が物語の構成にまったく機能していないことにある。 それもそのはずだ。このノルウェイの森という小説は、単に「蛍」という完成された短編を引き延ばしたにすぎないのだから。 さらに言うなら、永沢の彼女であるハツミさんは死ななければならなかったのか、なぜワタナベはレイコさんを抱いたのか 物語内でまったく言及されてない。もちろん動機はあったのかもしれない。だが、圧倒的に必然性が足りない。 だから読者は物語の中途で混乱することになる。 もちろん、その原因を作者ではなく読者に求めるべきだという意見もあるかもしれない。読解力が足りないあるいは想像力が 足りないからだと。だが、この作品において村上春樹はそのヒントさえ与えてはくれていない。明らかにノルウェイの森という 小説を組み上げるためのパーツが不足している。 村上春樹は長編小説を至上のものとして考えているようだ。だからこそ優れた短編を引き延ばしてまで長編を書こうとするのだろう。 (ちなみに短編を長編に仕立て上げるという方式はチャンドラーに拠っている。) だが、お世辞にも私は村上春樹の長編小説を上手いとは思えない。長編になるにしたがって性描写や死人が多くなるのもそう思う 理由の一つだ。 鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンのないことと一人も人が死なないことだ。放っていても人は死ぬし、 女と寝る。そういうものだ。 これは村上春樹の処女作「風の歌を聴け」の中の一節である。当時大学生だった私はこの箇所を見て、心を震わされた。 そして二十代でこの文章を書いた若き村上春樹の意地と気概を感じた。 もちろん性や死の描写を書いてはいけないという極論を述べるつもりはない。だが、そこには読者を納得しうるだけの 必然性が伴わなければならない。そして残念ながら、このノルウェイの森という小説にはそれがすっぽりと抜け落ちている。 もしかすると、これから先作者自身から納得のいく説明が聞けるかもしれない。だがそれでも、説明しなければ納得できないという 時点で、ノルウェイの森という小説は物語として敗北しているのだ。 | ||||
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