(短編集)
パン屋再襲撃
- パン屋 (11)
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友達に贈ろうと思って購入。 私は村上春樹さんをこの本で知りました。 この作品が特別に好きです。 | ||||
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本書に収録された表題作『パン屋再襲撃』が「再」となっているのは『パン屋襲撃』という短編小説が存在するからです。 『パン屋襲撃』は存在しないと書かれているレビュアーさんがいましたので、念のために。 『パン屋襲撃』は1981年『早稲田文学』10月号で発表され、1991年講談社から出版された『村上春樹全作品1979~1989』に収録されています。 ちなみにこの『パン屋襲撃』は『パン屋を襲う』と改題されて2013年に新潮社からカット・メンシックのイラストつきで出版されており、こちらの方が入手しやすいかと思われます。 2013年の『パン屋を襲う』には『パン屋再襲撃』が『再びパン屋を襲う』と改題されて収録されていますが、これが本書収録と『パン屋再襲撃』と比較して、2013年の時代に合わせて大きく手を入れておりファンなら必読かと思います。 具体的にどのように手が入れられたのかは『パン屋を襲う』のレビューに記載していますので、そちらもご覧いただければ幸いです。 | ||||
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この高度資本主義社会で生活する二人の男と女――男と女と言うより、人間とでも言った方がいい。男と女では、いろんな属性がくっついて来て、重くなりすぎるのだ。人間、人体に、別々の生殖器と別々の心、心理のようなものをくっつけたら足りる。それは、男と女、人間を低く見積もっているのではなく、作者はそう描きたいのだ。機能的な人間のありようとでも言えばいいものを。そこに、劇的な真理は何もいらない。劇的な真理など見つけようとすることを禁ずる禁制がもう社会の構造のなかに張り巡らされていて、それを破るのは御法度なのだ。 将来の夫が、若き頃、パン屋を襲撃して失った、欲求そのもののようなもの。ワーグナーの音楽など、暇つぶしの、資本主義に張り巡らされた交換の機能性の社会からしたら、ちっぽけな、それらに取り囲まれた、落ちこぼれた呟きのようにしか聞こえなくなった、思えなくなった、その断層を見てしまった、断層を見てしまったということは、もう、その断層を移動してしまった、もう気がついたら、欲求そのものの椅子でなく、交換の機能的資本主義社会の椅子に座ってしまったということ。これは、作者によっても述べられている。「我々は実際には何ひとつとして選択してはいないのだという立場をとる必要があるし、大体において僕はそんな風に考えて暮している」と。 しかし、代償はあったのだ。それも、妻を巻き込む形で。この妻も、「散弾銃」というアレゴリーとして、結婚前から、欲求というか、欲望というか、欲情と言っても外れていないと思う、そんなものを蛇のとぐろのように身内に飼っていたのだ。 いつ結婚したか思い出すこともできないような形で(「どういうわけか結婚した年をどうしても思いだすことができないのだ」)、有耶無耶に、就職し――法律事務所に勤めているとある。法律事務所なのだ。つまり、彼は、法律などというものを媒介にしなければ、いつの間にか座った資本主義社会の椅子なのだが、というか、椅子はこの資本主義社会にしかない、「働きたくなんてなかった」彼が「でも今はこうしてちゃんと働いているじゃない?」と妻に言われるようになった、その椅子に座る、そのお尻の位置というか、体の体勢というかを整える術がなかったのだ――、結婚した、その実はまだ収めきれなかったものが、「海底火山」云々の比喩として現れている。(ほんとは、現れてはいる、だろう。なぜなら、言わばもう生の形では存在していないのだから)そして、この比喩としての「海底火山」云々が、結婚半月で、「空腹」というアレゴリーが結節となって――この「空腹」は夫婦どちらにも現れるのだ――、結びつけられ(「空腹と高所恐怖(海底火山の比喩の先鋭化した表現)に相通じるところがあるというのは新しい発見だった」)、「パン屋襲撃」の記憶を突如彼に招き寄せたのだ。 夫の有耶無耶な欲求不満――欲求満足の有耶無耶さを前提としているだろう――の代償を背負い(「あなたと一緒に暮すようになってまだ半月くらいしか経ってないけれど、たしかに私はある種の呪いの存在を身近に感じつづけてきたのよ」「何年も洗濯していないほこりだらけのカーテンが天井から垂れ下っているような気がするのよ」)、また、彼女自身にも(アレゴリーとしての)「散弾銃」が飼われているのだから、夫の「パン屋襲撃」の記憶にむしろ、積極的に飛びついたのは彼女の方だった。 夫には、ある意味もう終わった問題だったので、それは、「パン屋再襲撃」に向かう彼女に付き合わされる夫の態度に随所に現れるのだが、最終的に、夜中に一軒も営業していないパン屋の代わりに、「パン屋のようなものよ」「妥協というものもある場合には必要なのよ。とにかくマクドナルドの前に(車を)つけて」と「マクドナルド」を襲うことにした妻と、それにしぶしぶ従う夫の姿として現れることになる。 さて、その結末はどうなるのだらうか。 「でも、こんなことをする必要が本当にあったんだろうか?」と問う夫に対して――男は忘れっぽいものである。「高所恐怖」にまで高まった興奮のことは忘れている――、「もちろんよ」と答え、深いため息を一度し、眠ったとある、その体は猫のようにやわらかく、そして軽かったとある。この叙述から、彼女が満足したと感じられるだろうか。わたしには、そうは思えない。彼女は、再び、その満足を求めようとするだろう。そう、あたかも、セックスの満足のように。そうなのだ、わたしには、この件りが、全くセックスの後の感想、呟きのようにも聞こえる。「一人きりになっ」た彼の感想、呟きも、全く愛する人とのセックスの後の感想のように聞こえる。 だからと言って、その前にある叙述を、つまり、「我々は心ゆくまでハンバーガーを食べ、コーラを飲んだ。僕は全部で六個のビッグマックを胃の空洞に向けて送り込み、彼女は四個を食べた。それでも車のバックシートにはまだ二十個のビッグマックが残っていた。夜明けとともに、我々のあの永遠に続くかと思えた深い飢餓も消滅していった」を、セックスの、性欲の放出のアレゴリーとして読む必要はないだろう。もっと言えば、このアレゴリーだらけの小説を、そんな風に読む必要はないだろう。(もちろん、読めもしないのだが) ただ一点だけ気になるところがある。思い出した「パン屋襲撃」の話を妻にし終わったあとの、彼と彼女の反応である。つまり、彼の「もちろん本当に何も起らなかったというわけではない。はっきりと目に見える具体的なことだっていくつかはちゃんと起ったのだ。しかしそのことについては僕は彼女にしゃべりたくなかった」という反応と、彼女の「妻はしばらく黙っていた。おそらく彼女は僕の口調に何かしら不明瞭な響きを感じとったのだと思う。しかし彼女はその点についてはそれ以上あえて言及しなかった」という反応である。 ほとんど初めての村上春樹である。好みとは違うが、面白く読めた。面白く読めなければ、こんな長長と書かないだろう。しかし、長長と書きすぎた。他の短編はこれから読むことにしよう。今読んで、さらに長くなるのは避けるべきだろう。 内容を(ほとんど)忘れて感じだけの記憶になるだろうので、そんなとき、また再読できるかも知れない。(2023/11/16) ここまでで、終わるつもりだった。わたしは怠惰で、どんどん読む質でないので、他の作品をいつ読むかなど自分にも分からないからだ。しかし、なんとなく、『象の消滅』に手を出したところ、素晴らしい作品なので、もう、書き続けることにした。あまり長くなると、読む気が失せるものだが、そんなことを無視させるほど『象の消滅』が素晴らしいという他ない。 悲劇。象と飼育係は消滅してしまったのだ! あんな、仲睦まじい、かわいらしい二人が! 象と飼育係の大きさのバランスが変化してきたところから、「そして象と飼育係は自分たちを巻きこまんとしている――あるいはもう既に一部を巻きこんでいる――その新しい体系に喜んで身を委ねているように僕には思えた」の件りは、実にこれ以上ないほどの、かわいらしい、愛のまぐわいの、愛のささやきの一シーンである。心の中で、快哉を叫ぶのを禁じることができなかった。 これは、正真正銘の政治批判であり、思想批判であり、そして、それが無効であることも知った政治批判であり、思想批判であるがゆえに、悲劇である。こんな、かわいらしい愛撫や愛のささやきやまぐわいなど全く生きる余地などない、そんな、稚拙な場所からの、押しつぶされた批判であることを知った悲劇としか思えない。 「彼ら(象と飼育係)はもう二度とはここに戻ってこないのだ」村上さん、彼らが生きることができるような政治――もう政治の概念は変わっているが――、思想はないと考えているのでしょうか。初期作品と裏表紙に書かれている。これから読めば、分かる。 『象の消滅』を知ったいま、読むことを止めることはできない。 『ファミリー・アフェア』 いい加減に働いているようにだが、破綻なく会社で勤め、あるいは近所のバーで別にどこの球団のファンということもなく音のない野球中継を見るのも悪くないと思っている彼に、たまたま横にいて喋るようになった女の子に、肩入れもせず見て何が楽しいのか、熱中できないでしょと疑問がられるのに、「熱中しなくてもいいんだ」「どうせ他人のやってることなんだから」と応え、あるいは今日部屋にやって来た婚約者の前に何人の男と寝たかと尋ねた妹の二人で、一人は同じ歳でもう一人は年上という「健全な」応えに対し、「思い出せるだけで二十六人」「どうしてそんなに」という妹の問に「わからない」「どこかでやめなくちゃいけないんだろうけど、自分でもきっかけがつかめないんだ」と応え、あるいは婚約者が彼のステレオセットを修理するために買ってきた「はんだごてってひとつあると便利ですから」というはんだごてが今や自分の部屋にあることによって居場所を失ったような気になったりというような、神経症的で、自己愛的で、苛立たしい面もある、世界が自分の外側を過ぎていくような傍観者的な彼に、妹の手料理を彼女の婚約者と妹と同居するアパートの一室で食べたり、婚約者にステレオセットを修理されたり、そのはんだごてを置かれたりということが、禁制された兄妹相姦の離別であり、それが妹の結婚でありという「健全で」「真面目な」「本当の大人の生活」の一気に襲ってきたことが、妹が作ってくれた料理を酔っ払ってことごとく吐いてしまう混乱をもたらしたりして、彼をへとへとに疲れさせ、「目を閉じると、眠りは暗い網のように音もなく頭上から舞い下りてきた」というようなところに彼を追いやったのだが、この「眠り」は彼の息の根をほとんど止めさせるのだが、翌朝は、やはり、同じように彼は生きるだろう、ただ、それに少し自覚的にはなるかも知れない、そんな比喩に読める。 『パン屋再襲撃』も『象の消滅』もそうだったのだが、村上氏の作品は、最後まで読んで、最後の一文を見れば、その作品の言わんとすることがストレートに――比喩だが――書かれている(ようだ)。彼は、村上氏は、小説家だ。単純じゃない。ちゃんと『象の消滅』に感激したわたしを相対化してくれる。飼育係と妹の婚約者は、同一人物じゃないが、どちらも、渡辺昇である。 『双子と沈んだ大陸』 抑圧されて禁制となった母と幻の恋人。恋人は決して現れない恋人だ。誰と付き合ったって、決してその人ではない、その人では恋人に到達できない、そのような恋人を失ったのだ。 たぶん、女を買うしかなかった。母と、そのいつまでも、どうあったって到達しない恋人が幻のようにあるものだから、セックスの相手として、止むにやまれぬセックスの相手として、商売女が選ばれる他なかったのだ。しかし、その代償は大きかった。そんな、商売女、肌が女である、乳房が女である、性器が女である、顔の造作が男でなく女であるにすぎない、お金と交換される女は、彼に、抑圧された母と幻の恋人を決定的に失わせてしまったのだ。抑圧された母と幻の恋人が眼前に浮遊しているから、商売女に手を出したのに、商売女とのセックスから得たものは、そんな、抑圧された母と幻の恋人の喪失であったのだ。 しかし、「やれやれ」である。性欲は止まらない。男の性欲は再生産されてしまうのだ。女は至るところにいる。(一度)商売女との射精で、抑圧された母と幻の恋人を失ったって、それで性欲が止んでくれることはない。しかし、もう、彼の性欲には、その射精には、的がないのだ。的がないのに、欲望だけはある。すなわち、「そのうちにたまらなく女を抱きたいような気持ちになったが、······べつに誰でもよかったのだが、······誰でもいいけれど、誰かでは困るのだ。······僕の知っている女が全部あつまってひとつに混じりあった肉体となら交わることはできそうだったが、どれだけ手帳のページを繰ったってそんな相手の電話番号がみつかるわけはなかった」のであり、これまた最後の一文の、「雨が窓を打ち、暗い海流が忘れられた山脈を洗った」のである。 出来事の順序と構成の順序が逆転している。それ以後の現在に立っていなければ、失ったものを反芻することはできない。そういう意味で、これもまた、最後の一文に作品の動機が凝縮されていると言えるかも知れない。 また、『パン屋再襲撃』のレヴューで、ただ一点だけ気になるところがあるとして濁していたのだが、やはり、そうなのではないのか。つまり、相棒と最初におこなったパン屋襲撃は、男友達と連れ立って女を買いに行ったということのアレゴリーなのだろう、と。そんなことも併せて思われた。 『ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界』 日記の書き方講座。しかし、この方法を真似しようとしたら、歴史の蘊蓄が必要だ。(実は何も言うことはないのだが――こじつけで言おうとしたら、言えるかも知れないが、こじつけで言っても仕方ない――、行きがかり上書いたというにすぎない。) 『ねじまき鳥と火曜日の女たち』 自分のことなんてどうだっていい。そんな男にとって、女はどうだっていい。妻も妻であるという以上には、(どこの家庭でもそうであるように)どうだっていい。まして、怪我して高校を休んでいる小娘や、欲求不満のはけ口の電話をしてくる女など、なおさらどうだっていい。そのどうだっていい電話のベルは、僕のどうだっていい――どうだっていい僕のどうだっていいを刺激するのだから、そんなものに耳を傾けるのは、ごめんだ。「いつまでもそんなもの(電話のベルの音)を数えつづけるわけにはいかないのだ」 どうだっていいを強調しすぎたかも知れない。投げやりで自堕落な男のふるまいを想像するかも知れないからだ。彼は、夕食を作り、ガス代と電話代を振り込みに銀行に行き、妻のために戻って来ない猫を探すのであり、まあ、これは、彼のなかに、暗所のようなところに蟠っている何らかのものであり、ある感じとしてはともかく、言葉づかいやふるまいに現れている訳ではないのだから。 これはひどい。長すぎる。しかし、それほどいいということなので、ご寛恕を。また、ここまで読んでくださった奇特な方には、感謝あるのみである。(2023/11/21) | ||||
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この「パン屋再襲撃」という短編集があることは、以前から知っていた。でも、最初の「パン屋(初回)襲撃」の物語がどこか別の短編集にあって、これは2作目であり、初回の話しから読みたいのだがと、ずっと最初の物語を探していたのだが、とんだ見当違いだった。別に最初の短編なんて存在しなかったのだ。短編「パン屋再襲撃」の中に初回の襲撃のことが書いてあった。呪いは、再襲撃で解けている。妻は巫女の役割をしているのはわかるが、襲撃の手際がいいのがすごい。 「象の消滅」は、村上春樹によくある失踪の物語だ。主人公が1人で山の中から象舎を見ていたというのは、男性の覗きにより、象=男性器=大きくなったり小さくなったりという意味なのだろうか。 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」は「ねじまき鳥クロニクル」の冒頭部分。長編「ねじまき鳥」を思い出しながら読んだ。 | ||||
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どう考えても「良い」ではなく、「可」です。 | ||||
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