文学部唯野教授
- メタフィクション (9)
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学生時代以来、30数年ぶりに読みました。相変わらず面白かったです。前回読んだのは大学生時分でしたが、今回は社会人数十年やってからなので、大学教員たちの悲哀をよりリアルに感じとることができました。当時、大学の先生と本書で描かれた大学教員の生態について意見交換をしましたが、誇張は入っているもののかなり実態に即している、という回答でした。権力闘争や嫉妬に満ち溢れたドロドロとした世界を笑い飛ばすように書いた抱腹絶倒の小説で、大学のリアルを知るには格好のテキストです。 | ||||
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本当の知識人による日本の大学内部の話。パロディーらしいが著者の読書量が半端では無いことを物語る。それで持って飽きさせない哲学、文学の知識。エンターテイメント力も含んでいる為一気に読み通せた。自信を持って推薦出来る名著だと思う。 | ||||
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またよろしくお願いいたします。 | ||||
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全9章からなり、各々の前半は文学のアカデミズム面でのパロディで後半は諸文学理論の要約といったもので構成される。後半の理論と前半の物語とは若干関連しているかもしれない。表現としては、情景や人物の描写が極めて少ない。ヒロイン(?)の描写も希薄で絵に描いた餅のようだ。文末の処理として、動詞の過去形と「である」或いは現在形が半々ほどになっており、それがテンポの良さ・速さをもたらしているだろう。また、講義での発話が改行無しで一気呵成に綴られているのも対比的な効果が現れている。更に時系列上に単線的な進行の比較的単純なプロットや大胆な省略もそれに与している。「フィルムのフリッカー」はピンチョン『重力の虹』でのパーフォレーションへのイメージを想起させる。 文学理論は文芸批評と重なる部分が多いように思う。文学と文芸はやや異なるようで、文芸のほうは韻文と散文を含む言語芸術作品を指し、文学は文芸を含めその周辺領域である理論や批評をも包括するもののようだ。 私は小説の芸術性のひとつを以下のように考える。書かれたもの(もっと言えば出版されたもの)という権威性と、それに対するような虚構性との均衡・緊張が指摘できる(やはりセルバンテス『ドン・キホーテ』がその嚆矢だろう)。その内容が全く虚偽或いは矛盾であったとしても書かれたものは継続して存在する。例えば「現在のフランス国王はハゲである」や「この文はウソである」といったものは、内容が著しく空疎或いは実践的有用性が希薄であっても、それが鉱物上や繊維質の上や電磁・電子的に記録する際にそれほど厳密な規制を受ける訳ではなく、小説作品としてその内容・プロットが空疎・矛盾していても出版・流通においても原理的にはそのように扱われ得る。この点は比較的新しい芸術である小説(ノヴェル)と古典的芸術である建築とでは反する。その点に関連し、(芸術的)建築は現在でも権威性を纏い、小説はその特色として反権威主義的だと言える。逆に言えば、虚偽或いは矛盾した建築を築こうとすれば観念的傾向を帯びるだろう。(建築家、隈研吾『反オブジェクト』と併読するのも面白いかもしれない。) 事実判断および価値判断は言語を媒介として為される。言語活動は日常での話し言葉(会釈といった身体的表現もそれに準ずる)から法的拘束力を持つ自白や署名まで様々なレベルでの行為があり、また内的行為としての思考にも言語はその媒体として重要だ。また、確かヴィトゲンシュタインが言っていたと思うが、言葉各々に価値付けがあり(より良い言葉・より悪い言葉)それら言葉間に位階的秩序を形成し半ば暗黙のそれを習熟することも言語活動に伴うらしい。つまり、日常生活での言語活動においてはどのような言葉を選択するかという価値判断が常に伴う。言語活動での内容と表現には各々事実判断と価値判断が伴いそれらが綾をなす、と言えるだろう。我々は常にそのような言語活動の内部にいる。 セルバンテス『ドン・キホーテ』は、騎士道物語(ロマンス)に没頭した挙句に実際に騎士として行動し失敗し嘲笑される壮年の郷士の物語として提示される。ここでは物語の形式を用いながら物語の悪影響が誇張して提示されており、物語に対しての自己批判的な態度が窺われる。このようなある種の矛盾した構造が、近現代小説の特色だと言え、それを虚構により大胆に提示することが文学性の一つだと思える。また、現実の言語の恣意性や曖昧さを虚構により暴き出し、既存のイデオロギーやプロパガンダへ批判的吟味を帯びた眼差しを向け、そこにある問題を(問題と対決するのでなく)ずらし脱臼する言語的技術や思考モデルを養うことに寄与する可能性があるだろう。 ちなみに宗教について述べると、主に二つの機能が指摘される。集団における行動規範と歴史的位置付け。神が死んだ(か老衰したか瀕死であるなら)何らかの代替が必要だろう。それが近代自然科学の精神か功利主義倫理学か近代法体系かそれらの寄せ集めか判らないが、そのようなものに精通しているであろう人物に人々は眼差しを向ける(自ら学術文献を精読し比較し吟味する人は少数だろう)。ここで言語活動に厳密化を求めると、その反動として神秘主義的傾向を帯びるという現象が出来することが屢々ある。 以下、文学理論部分のキーワードだと思われるものを書き出してみる。 第一講 印象批評 中産階級の教養としての文学 古い美学理論:カント、ヘーゲル、シラー 象徴・シンボルの利用 印象批評:経験主義 伝統・秩序 常識・コモン センス派 常識の曖昧さ 内在批評(⇔外在批評) 規範批評:(批評家の)理想的な小説との比較 第二講 新批評・ニュークリティシズム スクルーティニー派:吟味 緻密な分析 歴史、心理学、文化人類学など社会的問題との関連を考察→政治性 卓越主義的文学観(と反する文学の悪影響) 『生・ライフ』(と反する遊びの文学) 作品のモノ化 実践批評 ニュークリティシズム:アメリカで発展 行動心理学 詩を批評 技術的分析 科学的合理主義のパロディ アカデミズム体制への迎合 第三講 ロシア・フォルマリズム 異化⇔自動化 形式を重視 ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』 誤読 プロレタリア文学:社会主義リアリズム 第四講 現象学 フッサール:意識の問題 1.意識する対象が存在する場合と存在しない場合がある 2.意識自体が意識する対象となる 純粋意識・先験的主観性→現象学的還元 純粋現象の科学 主観などない 原信憑 判断中止 確かなものはない 直観的な把捉=イデア・形相・エイドス デカルト:コギト ブレンターノ:外部知覚・内部知覚→心理学 ジュネーヴ学派:作者の深層精神の構造・体験や認識の構造 積極的解釈の拒否 サルトル ハイデガー 第五講 解釈学 ハイデガー:ブレンターノ(心理学的)→フッサール(現象学)→ディルタイ(生の哲学) 存在する対象⇔現存在 『存在と時間』:非本来性⇄本来性 現存在=実存 世界と世界内存在 道具的存在者と事物的存在者 道具的存在性と事物的存在性 配慮的気づかいと顧慮的気づかい 現存在と共現存在と共存在 世界との対話→自然崇拝 自己の死の了解『先駆的了解』→自己の全体性の把捉・新たな可能性 時間性:『過去を見つつ現在にある未来』 歴史:現存在、宿命と運命→ナチスへの接近 歴史からの逃避 フッサール『超越論的現象学』⇄ハイデガー『解釈学的現象学』→ガダマー(『真理と方法』) ガダマー:文学の背景→不安定性 伝統 第六講 受容理論 読者 理想の読者 同時代の読者 『内包された読者』 不確定箇所:図式、具体化、 空所→想像力 準拠枠 否定作用→現実への問い・批判意識 バルト『テクストの快楽』 第七講 記号論 ソシュール言語学:恣意性 差異の体系 ラングを対象とする 共時的研究 パース:イコン、インデックス、シンボル タルトゥー学派:記号の体系、語義の体系、造形的形象の体系、韻律の体系、音素の体系 圧縮 マイナスの手法 第八講 構造主義 フライ『批評の解剖』:文学の体系化 五種の主人公→五種のジャンル 神話、恋愛小説・冒険小説・伝奇小説、悲劇・叙事詩、喜劇・リアリズム小説、諷刺・アイロニイ 神話への回帰(カフカ、ジョイス) 文学=すべての人間の願望のあらわれ 宗教的な文学観 レヴィ=ストロース:『神話素』 神話=普遍的な構築物 物語学・ナラトロジイ 言語構造に似た構造により文学を分析 ジュネット『物語のディスクール』:『失われた時を求めて』を研究 物語言語(テクスト)・物語内容(ストーリー)・語り(ナラティブ) 五つの分類:順序・持続・頻度・叙法・態 第九講 ポスト構造主義 記号表現と記号内容との分断 言葉の意味=言葉の戯れの副産物 網の目としての言葉の錯綜=テクスト デリダ:イデオロギー=フィクション 特権的記号による位階秩序→イデオロギー・形而上学⇔網の目としてのテクスト 対立するイデオロギーを利用 『カフカ論』:批評=創作 バルト『S/Z』:バルザック『サラジーヌ』の構造分析 (位階秩序⇔)並列的・並置 『テクストの快楽』:規範的言語表現⇔人工的・露見的言語表現→それらの断層→快楽 政治的挫折→遊びの場としてのエクリチュール ポール・ド・マン:言語は隠喩的→全ての理論がフィクション 文学=虚構性の自認 何を書いているか どのように書いているか なぜ書いているか・なぜ読んでいるか この三つ或いは四つが重要なように思う。 | ||||
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ときどき批評家で名の通った方が「筆のすさび」?で小説や詩を発表することがありますが、仲間うちでの褒め合いはともかく、一般的な読者の場で高く評価された例はあまり聞かないですね。逆に小説家の方がやはり「筆のすさび」的なノリで書いた文芸批評や文学論議は、思わず膝を乗り出して読みたくなるような面白いものがありますね。 途中から小説などを書き始める方は、本当は批評家や大学の先生ではなく、創作家、作家で身を立てたかった方たちなのかな?とは思いますが、文章力の差異、才能の違い、といえばそれまでなのかも知れませんね。 「唯野教授」については、内容の真偽是非をあれこれほじくり返すのは野暮。なるほどなあ、そうかそうだったのか、とか、面白いけどなんか胡散臭そう、と思いつつメタ批評の小説を読むことの楽しさというものを十全に味わうことができればそれが全てかなと思います。 天才と呼ばれる筒井康隆氏であればこそ、なし得たウルトラ文学批評小説なのでしょう。 | ||||
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