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カラマ-ゾフの兄弟
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【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全681件 521~540 27/35ページ
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週刊新潮5月22日号で取り上げられているとおり、この訳書にはおびただしい誤訳がある。指摘した「ドストエーフスキイの会」のHPによると、誤訳・不適切訳は、検証された第1巻だけで100以上。全巻では数百箇所に上るという。しかも、その多くが初歩的誤りであり、仕事の杜撰さは否みようがない。実際、誤訳のほとんどは先行訳では正しく訳されているのである。 それだけではない。その後の対応に不信が募る。1月末以降、訳者・出版社は、指摘をなぞり、脱落も含めて第1巻の40数箇所を第20刷と22刷で訂正している。ところが、このことは明記も公表もされていない。しかも、上記週刊新潮で誤訳訂正について質された訳者は、「ケアレスミスが10箇所程度。その他は解釈の違い」と弁明しているのである。残念ながら、これは事実に反する。現に40箇所余りを訂正しているのがその証拠であり、また、その大半は上述のように「解釈」以前のレベルの誤訳だからである。 問題は更にある。訳者は、先の弁明の如く大量誤訳の事実を認めていない。従って、第1巻の残り、そして、巻を追って増すという第2巻以降の膨大な誤訳はいまだ手つかずのまま増刷され続けているのである。 苦しいことではあろうが、訳者・出版社は、誤訳の実態を率直に認め、もう一度原文に立ち返って全巻を徹底的にチェックし直すべきである。そして、できるだけ早く改訂版を出してほしい。それが、読者、また、作品に心血を注いだ原作者に対して果たすべき道義的責務ではないか。なお、誤訳の大半は文脈の誤読に由来するものだが、中には、恣意的誤訳も散見する。これらも是非正して頂きたい。 ドストエフスキーの魅力を広く世に伝えた訳者の功績は大であり、読みやすさを目指した新訳の意図に異論はない。問題は、翻訳の基礎がおろそかだったことである。これでは、作品の読みを深めることは出来ない。新訳が信頼できる翻訳に生まれ変わることを願いたい。 (削除につき、再投稿しました。事態は今も基本的に変わっていません。2011/6/30) | ||||
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すぐれた訳者が必ずしもすぐれた解説者であるとは限らない。本書解題におけるバフチンのポリフォニーへの言及は全くの出鱈目。 本書では「登場人物の多様性による視点の相対化」というくらいの意味ですがポリフォニーとはそのような意味ではありません。 亀山の知ったか振りは、本当にバフチンを読んでいるのかさえ怪しい程で、ただお茶を濁すだけで殆ど何も説明していない。 そればかりかバフチンがポリフォニーの「非常に際立った対話」として詳しく考察している箇所(『詩学』p534-539)を事もあろうに 「ポリフォニーの原理にさからうセリフ」(『本書』p281)等と頓珍漢なことを(しかもなぜか自慢げに)書くトホホな始末。 何も知らないと思って読者を馬鹿にしているとしか思えない。 参考 「イワンの言葉と悪魔の応答とを差異づけているのは、内容ではなく、ただその調子、ただそのアクセントだけである。 しかしそうしたアクセントの移行は、イワンの言葉と悪魔の応答の最終的な意味の全体を変化させている」(『詩学』p454-455) 「悪魔はイワンの内的対話の中に、愚弄嘲笑と絶望的な断罪のアクセントを持ち込む」。悪魔は「イワンのアクセントを悪意的に誇張し、 歪めてしまう」。「アリョーシャもまたイワンの内的対話の中に他者のアクセントを持ち込むが、しかしその方向性は正反対」の「愛と和解 の調子を持ち込む」。悪魔とアリョーシャは「双方とも同じようにイワンの言葉を反復しながらも、その言葉にまったく正反対のアクセント を付与」する。「対話において衝突し、論争しているのは」絡み合った「闘争する声たち、内部で分裂した声たちのポリフォニー」である。 (同p537-538、p522から再構成) キーワード アクセントの移動(変化)/言葉の対話的分裂/意識の対話的分裂/言葉の他者性/私的言語の否定 多声=対話=複声/対話と対話の対話/対話の未完結性=永遠性 『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫)特に「ドストエフスキーの対話」p527-562参照。 | ||||
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下巻は大きく3つのパートからなっている。 まず二等大尉の子供で、死の床についているイリューシャと、以前仲たがいしていたコーリャとの心温まる友情の物語。コーリャのきわめて実用的なものの考え方とは見解を違えるものの、コーリャの行いを暖かくみまもるアリョーシャ。このアリョーシャと子供たちの話は、エピローグでもでてくるが、思想の派閥を超越した、わかりやすく純粋な、人間が決して忘れてはならないものを端的に説明している。それは「神とは何か」という議論に熱中するあまり、基本的な人間の幸せの源流をわれわれに改めて気づかせてくれるものだ。 そして2つめのパートは、次男のイワンの精神崩壊だ。カラマーゾフの兄弟全体で、正直、このイワンの幻想かつ自分自身を象徴したこの登場人物との会話が、もっとも難解だった。もう一度じっくりと読んでみたい部分ではあるが、中巻の大審問官の話がキリストとの対話であるのに対し、この部分は、悪魔との対話を表しているような気がするが、両方とも核となるメッセージは同じなのではないだろうか。 最後のパートが、裁判の成り行きで、ここは、じっくりと検事と弁護士との演説を味わいたいところだ。 | ||||
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中巻は、おおきくわけて二部ある。一つは、ゾンマ長老の死にあたって苦悩するアリョーシャ、そして二つ目は、ドミトリーの破局(完全にそうなのかは下巻を読まないとわからないが)である。 ゾンマ長老の死については、死んだ後でも聖なる人は決して死臭がただようばかりか、かぐわしい香りがすると信じられていたことに、まずカルチャーショックを覚える。で、実際、当然のことながら死臭がするのだけれど、それによって、長老制度に反対する物や、生前ゾンマ長老をよく思わなかった人たちは、生前の長老の行いについてやれこれと中傷はすれど、科学的な意見はでてこないところをみると、その時代のキリスト教の浸透がいかに磐石であったかをものがたる。なによりアリョーシャはそれにひどくショックを受けるが、彼なりに最後に悟りに似たように目が開ける。自分的には、彼は、きっと教会内部の権威やしきたりに縛られるのではなくて、社会の人に尽くすことが大事であると悟ったのではないかと思えた。ここででてくる寓話が、芥川龍之介の「くもの糸」とそっくりなのに気がついた。ロシアではくもの糸の変わりに「葱」であるところが面白い。 つぎにドミトリーであるが、この人は、今の時代的に言うと「不器用な人間」というのだろうか、社会に生きる術を身に着けることに何の価値も見出さず、自分が「高潔」だと信じる生き方を自分なりに解釈して猪突猛進に突き進むタイプであり、親父のヒョードルよりもさらにたちが悪い。彼に親殺しの嫌疑がかけられたときの「予審」の章はおもしろい。ドミトリーがなにか発言すればするほどどんどん墓穴にはまっていく。ただ、読者は、彼が犯人でないことはほぼわかっているので、いったい誰が真犯人なのだろうかと考える推理小説じみた色合いもでてくる。 | ||||
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上巻の多くは、父フョードルと、三人の兄弟の性格を描写しつつ、かれらに関わる女性たちとの間の5角関係(?)に筆が割かれており、「この調子で全巻続くのか?」と思っていると、最後の章、「プロとコントラ」で内容がきわめて宗教的思想的になるのに驚いた。 三男のアリョーシャは、純粋に育てられた修道者であり、死期の近い老師は、彼に現実を見せるために敢えて彼を外へ出す。 そこでアリョーシャは、きわめて世俗的な彼の父親と長男ドミトリィ、そして現実から独自の思想を作り上げたクールでニヒルなイワンを助けるとともに、アリョーシャ自身、自分の家族とのつながりが苦悩の元に成長の基点となっていく。 上巻のハイライトは、生意気な召使のスメルジャコフに始まり、まずカテリーナとグルーシェニカのやりとり。カテリーナの部屋の描写が見事で、言葉遣いは丁寧なものの、相手の腹を読みながらのばかしあいは大人にしかわからない。 次におもしろいのは、アリョーシャの貧乏二等大尉訪問。ここでの独自のロシアの言葉使いを非常にうまく訳している。注釈も簡潔に理解を助けている。 そして、一番印象深いのが、「プロとコントラ」でのイワンの話だ。キリストが、人間を、より高尚な天のパンにむけて、より精神的に生きるように説いたのに比べて、ほとんどの人間はどうあがいても高尚には生きられないのだと断定する。そして彼ら何億という人間たちに幸福を与えるためには、服従させ地上のパンを与えることにしかならないと説く。 本作品が作られてから200年近くたつ今、この話は予言じみている。資本主義というのは、そもそも地上のパンの取り合いによりなりたつ社会であり、民主主義といいながら、グローバリズムにより巨大企業が与えている自由。 この話をしたあとイワンはアリョーシャの元を去っていく。中巻はどうなるのだろうか。 | ||||
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読んだのは少し前、ちょうどブームになっていたころです。いつまでも「読んだふり」でもあるまいと、ブームに乗ることにしました。 こちらの新潮文庫版にしたのは、もとが古典なのだから、文章もいくらか古典風味があったほうがいいと思ったのと(実際には、古典がかった文章ではなく、読みやすかったですが)、光文社版より総額が安かったから。あと、亀山訳では、ロシア語(orスラブ語?)特有の「父称」が省かれているとどこかで読んで(聞きかじりです。ほんとに省いてあるかどうかは未確認)、いやあやっぱりあれはあったほうがいい、いかにもロシア〜って感じだもの、と思ったから。 読むのに、そんなに苦労はしなかったです。おもしろいところと退屈なところがあるので、退屈なところはちょい飛ばし読みにしたから(笑) 三兄弟を始め大人のお話はドロドロなのに、少年たちのお話は対比をなすように切なく美しいです。少年がダメおやじのお父さんを必死にかばうくだりなど、泣けました。 でも、キリスト教国では、「父と子」には、「神と人」というイメージが重ねられているのだろう。そのへん、非キリスト教徒の日本人にはわかりにくいのかもしれない。しかもここに描かれているのは、ロシア正教だもんなあ。「ギリシャ正教」という本も読みましたが、そのぐらいで何とかなるようなものではないですね。 | ||||
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以前、古典が古典たり得るのは時代を経て様々な読み方や解釈を内包していくからだ、という文章を読んだことがあります。これは逆に言うと、多用な解釈を受け入れ切れない作品は古典にはなり得ない、ということです。この観点から見た場合、「カラマーゾフの兄弟」ほど古典に”向いている”作品はなかなかないでしょう。完璧な構築物として壮大な物語が紡ぎ出されている一方、書かれるはずだった「第二の小説」が著者の死によって書かれないままになっている。これほど読者の想像力(妄想力)をくすぐる作品も珍しいです。 シューベルトの「未完成」とかのレベルじゃないんですよね。ベートーヴェンの「第九」を聴いた後に「これは実は第一部で、残り半分の第二部の方がメインなんです」と言われたようなもの。ああ、なんてこと。 もはやどこまでがドストエフスキーの思惑通りなのかわからなくなるほど、様々な読み方をなされてきた作品ですが、未だに新しい読み方や妄想を受け入れ続けているのには脱帽です。特に911テロ以降、テロル文学としての「カラマーゾフの兄弟」が注目されたりもしてますし。どんだけ懐広いんですかね。ホント恐れ入ります。 こういう古典文学は、やっぱり読んでおくべきだと改めて思い知らされました。読まずに一生を送るなんて絶対人生損してる。 | ||||
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「ここに全てが描かれている…」 誰から聞いたんだっけな。 確か19歳の時だった。本屋でふと手に取ったのだけど、当時の僕はテンポの良さを求めており、どっぷり文学にはまる準備はできていなかったように思う。小説といえば現代ものばかりで、それよりもむしろ社会学や心理学、教育学、言語学、歴史学、音楽などの論文・研究書の方が僕の心のカタルシスを溶くのに最適だった。読み始めようとはしたものの、数ページで手放し、以来6年間、部屋の本棚に眠ることとなった。 しかし、今ようやく読み終えた。この書に全てが描かれているのは明白すぎるほど明白だ。ドストエフスキーの思想の集大成とよく言われるが、まさにその通りで非常に総体的な、つまり僕にとっては「リベラルアーツのまとめ」であろうと思う。見所は、大審問官、ゾシマ長老の説教、裁判弁論などなど多々挙げられるが、何よりもこの作品とチャイコフスキーの「交響曲第6番 悲愴」との奇妙な一致に昂揚せざるをえない。「カラマーゾフの兄弟」も「悲愴」も世界的名作で思想的頂点に立つ作品の一つだし、どちらも「あらゆる全て」が描かれていると言える。そして両方とも作者の死の直前に書き上げられたものであった。 畢竟するに、記号論的には「カラマーゾフの兄弟」は「悲愴」であり、また「悲愴」は「カラマーゾフの兄弟」と何ら違わない。・・・文章か音楽かの違いだけなのである。この読後感は他に比肩が無い。ぜひあらゆる人に読んでもらいたい一冊。 「何かしら正しい良いことをすれば、人生は実にすばらしいのです!…」(アリョーシャの言葉より) | ||||
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新訳が話題になる前に、購入していたこの三冊。 ずっと本棚にあったのだが、海外出張を機会にとうとう手に取り読み進めはじめた。 読み始めたら、面白くてなかなかやめられない。 登場人物、おかれている状態が、複雑にからみあい、入り乱れ、本当に退屈しないし、人生の全てがここに濃縮されているかのような錯覚におちいった。 そして、あの長セリフ。異常に長いセリフなのに読み続けて追っかけてしまう。あきない。この不思議。 こちらの訳でも、まったく意味不明なところがあるわけでなく。読み進めにくい訳でもなく。 なんなら、新訳と読み比べてみたい位の気がしている。この先も楽しみ。こつこつ読み進めよう。 再読すると思うし、ぜひ勧めたいので、星5つ。 | ||||
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多くの方がおっしゃっているように私も長年中途挫折してきた作品でした。この訳本は読みやすく初めて読破できました。が、一点、日本語訳本なのには”とんでもございません”とか”とんでももありません”というとんでもない訳が繰り返されて使われているところに脱力感を感じます。 | ||||
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「第十二編 誤審」においての 検事イッポリート・キリーロウイッチの論告 弁護士フェチュコーウィチの弁論 によりもたらされる強い感銘は、読者の心を小説の核心である「大審問官」へ回顧させる。 エピローグにおいて、子供達へ向けられたアリョーシャの演説、その強くて清らかな心。 自分の子供に読ませたい小説である。 | ||||
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学生時代、カラマーゾフの兄弟も含め挫折したロシア文学は多数ある。最初は、書店でカラマーゾフの兄弟が評判の本として平積みされ、宣伝されているのを見て不思議に思いました。しかし、手にとったこの新訳の読みやすさに引かれて、すぐに購入しました。いくら読みやすいと言っても全巻読むのに時間はかかりました。しかし、巻末の解説が、それを助けてくれました。読みやすいから早く読むのではなく、読みやすいからこそ、じっくり時間をかけてこの大作を楽しむのもよいのではないでしょうか? | ||||
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エピローグは60ページ程度しかありません。 あとは延々訳者の解説。 正直ひとりよがりの自己満足が延々続く感じです。 自分にとってはこの解説は不要でした。 エピローグだけの薄い本でいいので値段下げて欲しかったです。 はっきり言ってお金を損した気分になりました。 | ||||
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(上巻のレビューから続く) そしてこの小説の「恐ろしさ」についてである。「哲学」というものは、自分の内面から湧き出てくる感情(愛情とか憎悪などのあらゆる感情)の源泉について、重ねて自らの内面に「質問する」ことによって織り成されると思う。けれど、質問というのは恐ろしいものだ。予期せぬものが起き上がってくる。この小説では、多くの登場人物が、自律的か否かによらず、この「質問」を自らに突きつけねばならなくなる。恐ろしいものが徐々に起き上がり、それを認識してゆく過程が描かれる。 登場人物たちは、この「質問」と「考察」を自らのモノローグだけでなく、他者との会話を行うことでも深く掘り下げていくが、その際、しばしば「鳥肌のたつ」ように恐ろしい瞬間が読み手を襲う。ものすごく深い絶対触れてはいけない核心のようなものが、ふと垣間見える。・・そして「狂」の存在。この小説では、「狂」とその認識についても語られていると思うが、「狂」とは、自分の中の「一種類の根源的な感情」のみによって行動論理が縛られる状態にあることを指すのではないだろうか。つまり誰でも瞬間には狂たりえるのだ。 「狂」は何も無知によって引き起こされるとは限らない。場合によっては、深く自己の内面について思索し、探求した結果、その領域に至ることもある。そこで善なるものが聴こえるはずだというのはカント的だろうか。しかし、それは外面的には「狂」となるかもしれない。この小説は、そんな恐怖を実地検分する怖さがある。登場人物たちが自己を探求するとき(そのようなシーンはしばしばあるが)自分でも、それまで考えてもみなかったような、根源的な「嫌なもの」が、しっかりと自分の内奥に存在している確かな予感を感じ、そこで、途方にくれて立ち止まるのである。その瞬間の「怖さ」は比類ない。 (下巻のレビューへ続く) | ||||
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ドストエフスキーの最高傑作にして 世界最高の小説を以前、他社を手にし 挫折してしまい、今回新訳ということで 再挑戦しました。 本書の訳をされた亀山氏は本作の面白いところを 熟知されているに違いない。読者を決して飽きさせない。 巻末の読書ガイドも読み応えがあって 読み進める手助けになります。 万華鏡を除いているにも似た眩暈と興奮を覚え 終始圧倒され一気に読んでしまいました。 内容は世界最高の名に恥じない。 こんな書物読んだことないです。 人類の英知と恥の全てが描かれている。 本作は未完なのが人類にとって 大きな損失ですが、聖書や死者の書にも 匹敵する偉大なる書だと思います。 神の意思が働いて、未完に終わらせたのかも知れません。 翻訳者の亀山氏に本作の面白さを 伝えてくれたことにとても感謝します。 | ||||
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私があれこれ言う必要もない、古典的名作です。 法律を勉強されている方々にとっても、一大法廷絵巻であるこの4巻は、 刑事サスペンスの名作として、とても勉強になるかと思います。 目からウロコでした。 | ||||
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読んだことのない人は、「第五編 プロとコントラ 四:反逆 五:大審問官」だけでも読んでみることを奨める。 特に 「五 大審問官」は本編のストーリーを知らなくても味わえる、驚愕と感銘の世界。 精神をおかす副作用が強い薬なので、ゆっくりと読むことが必要。 | ||||
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高校生のときこの作品に挑戦して、 数ページで挫折した、にがい記憶があります。 ものものしい言い回しと、くどい文章、個人名の複雑さに、 とてもついていけませんでした。 このシリーズで新訳が出たと知っても、 当初はなかなか手にする気が起きませんでしたが、 高校生の娘に「読みたいから」とせがまれて購入して、 読んでみたら面白くてとまらなくなりました。 三日で読みきりました。 徹夜が平気な若いころにであっていたら、 二日で読みきったことでしょう。 それにしても、こんなに面白いとわかっていたら! もっと真剣に読んでみるのだった!! 20年以上も損してしまいました。 ドフトエフスキー、もっと読みたい! もっとたくさん新訳で出して欲しい! 激しいドフトエフスキー熱にあてられたようです。 | ||||
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近代文学の古典の翻訳で、これほど酷い翻訳ははじめて。こういうトンデモ翻訳を褒めるロシア文学者、毎日出版文化賞の選考委員に憤りを感じます。 小生の感想がウソかホントか、まず、この巻を精読してみて下さい。それから、続巻を購入すべきか否か、判断すべきだと思います。 この訳が分かりやすい、というのは、理解できません。意味があいまいなところが少なくありません。言葉の流れが不自然なところがあります。一番気持ちの悪いのは、会話のトーンが、登場人物の年齢・性別・職業・階級・教養と齟齬しているところです。 分かりやすい、とっつきやすい、翻訳を希望することは理解できます。しかし、小林秀雄、埴谷雄高、ジッド、ジラールなどが本気で論じている小説がそんなに簡単なものでしょうか。 | ||||
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毎日少しずつ読んでます。振り返り、またこれからを考え、自分はいったい何なのか、生まれてきて一人も愛さずに死ぬことはできないと言う気にさせてくれた、私の大事な本になりました。 | ||||
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