■スポンサードリンク
カラマ-ゾフの兄弟
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全681件 561~580 29/35ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ミーチャと予審判事、検事とのモークロエ(取り調べ場所)でのやり取りが面白かった。ミーチャの「恥辱」について検事たちが理解できなかったのはやむを得ないだろう。ミーチャはグリゴーリーに対しては半殺しにしたにも関わらず、そのことは父殺しの事に比べて対して関心を持っていない。罪の意識も持っていないと思う。 召使であったとしても一人の人間であるので(しかも自分の命の恩人でもある)、もっと殴ったことに対して罪の意識を持つべきだと思った。助かったからそれでよかった、という問題ではないと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
スメルジャコフは気味の悪い人物だ。針入りのパンを犬に食べさせたり、猫の首を絞め葬式をしたりする。イワンもしゃべっていて気がめいっただろう。リーザ・ホフラコーワも同様に薄気味悪い人物だ。アリョーシャの周りには変わった人がたくさんいる。 裁判に関して:ミーチャの弁護人は立派な弁論をしたと思う。それでも有罪になったのは、陪審員の多くが、ミーチャに元々不快感を持っていたからかも知れない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
じっくりと腰を据えて本を読む機会がなく、 とぎれとぎれとなりましたが、第3巻を読み終えました。 この新訳では、読み始めるとグッとのめり込んでしまい、 時間が経つのも忘れてしまうので、途中で意識して時間を見なければいけません。 以前違う文庫シリーズで読んだときは、なかなか進まないなぁと思ったものでしたが、 それとは全然違うワクワクとした気分です。 第2巻は、大審問官やロシアの修道士などの有名な箇所があって、 それなりに力を入れて読みましたが、 この第3巻は長男ドミートリーとその取り巻きの人間関係が描かれていて、 大きな事件もあったりして、本当に面白く読むことができました。 新しい訳で、ドミートリーが等身大の人間に見えてきますし、 ドミートリーの人間性も理解しやすい気がします。 面白いのは、前の2巻であれだけ大切に扱われてきた他家族3人が、 まるでドミートリーの話しの小道具のようで、 この小説におけるドミートリーの重要性がしみじみ感じられる巻だと思います。 本編は残るもう1巻。楽しみに読ませてもらいます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
学生時代、一度挫折した。 新訳ということで、再チャレンジ。 第一と第二編は、当時ロシアの宗教批判が繰り広げられていて、 これで、今の高校生が読んだり出来るのか、 率直に不思議になった。 しかし、とにかく、 この作品に夢中になる10代がいる。 まさに、そのことが、今の日本の ある状況を示しているのかも・・・。 この新訳が出たことは、この事実を 明らかにしただけでも、意味がある。 第三編からは、ぐいぐい引き付ける。 しかし、ドストエフスキーの作品は、 どれも、お金にまつわるミステリー色が濃厚で、 この、「金」に対する人間の執着、ということを 読み解くには、どうしても、当時ロシアの 貨幣価値について、注釈が欲しかった。 3千ルーブルの使い込み、とか、 2千ルーブルを元手にヨーロッパに渡った、とか 書かれていても、それが、実際今のお金だと、 どの程度の額なのか、そこがわかればもっとリアルに 読めると思う。 それは、主な登場人物が、ロシアの地主階級で、 不労所得者である、という点で、現代の我々 庶民には、どうもピンとこないからでもある。 最終巻のガイドにそのあたりがあるのか、 しかし、一冊づつ読み進めるのであるから、 最低限の注釈があれば、さらにいいと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
コーリャは個人的に好きになれない。すこし背伸びをしているような気がする。学問を究めないのに、高尚なことを言うのは良くない。 彼に対して、アリョーシャは全然偉ぶらない人物で好感が持てる。影でいろんなことを良く勉強しているのだろう。 私はコーリャのような知ったかぶりをする人間にはならずに、アリョーシャのように高度な知識を備えつつ、かつ慎み深い人間になりたいと思った。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
古典としては近年異例のベストセラーとなった亀山訳『カラマーゾフの兄弟』。私は新潮文庫版を愛読していたのでそちらの訳文に慣れてしまったが、こちらの亀山訳は確かに平易で簡潔。各登場人物の台詞も、古典翻訳モノでありがちな「実際の日常会話ではほとんど使われることのないであろう文語的表現」は一切出てこず、それがために流れるような文章だ。読みやすさ、という点ではこちらが上。ただし、表現の適度な重厚さ、原文が持っているニュアンスまで出来る限り忠実に再現するために選び抜かれた訳語、その彫心鏤骨さという点では、新潮文庫の原卓夫訳も決して劣らないことを是非主張しておかねばならない(ただ、原訳は少し読点が多すぎ、読書のリズムが損なわれがちな嫌いはある。他の翻訳作品にも見られる特徴なので、これは訳者の癖であろう)。 なんと言っても、この亀山版は各巻の解題・作品解説が素晴らしく、それらが凝縮されたこの「エピローグ別巻」はこれだけでも買う価値がある。ドストエフスキー研究をライフワークとされている氏の作品読解は、流石に半可通では及び難いレベルにまで達している。もちろん翻訳物におまけ程度で付いている解題群など比較にならない。個人的にはこの亀山氏の解説も、作品を十分に読み込み、独自の作品解釈を構築してから読んだ方がよいとは思うが。というか、自分でその域に達してからでないと、他者の解釈も本当には味わえないもの。「カラマーゾフ」を読み込んだ者ほど、氏の解説には唸るであろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この新訳は活字を読みなれていない最近人には、とっつきやすいかもしれない。 しかし、僕には以前の岩波の重厚で正確な訳のほうが好きである。 真の名作は、そこいらの通俗小説のように簡単に読まれ、捨てられるべきものではないと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「世界最高の小説」をようやく読了しました。「読みやすい」との評判の亀山訳でも、さすがに2巻の「大審問官」はたいへんでしたが、最高峰であれば、苦しくて当然です。苦しさぬきで頂上に上れるはずがありません。でも、それでもわかりやすかった。恐れるに足りず、というのが読後感でした。その後は、すばらしいスピード感でどんどん読み進めることができました。すばらしかったのは、やはりモークロエでの宴の場面。天国から地獄に突き落とされるミーチャがあまりにかわいそうで、涙が出そうになりました。せっかく5冊読み終わって、それを納める箱が改めて欲しくなりました。永遠に手に入らないのでしょうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
下巻にかけては、長い坂を登った後のジェットコースターのようだった。おもしろい。だが、裁判の後、急速に話が収束していった気がしてならないのも事実だ。チャプターも「誤審」から、「エピローグ」となっているように、裁判の結果自体についての考察が何もないのは、少し残念(あれだけ、ひっぱておいて)。陪審員達の協議の内容に興味があるし(百姓たちが意地を通すとは?)、結果を知った弁護人の言葉も聴きたい。 また、小林秀雄氏が、「続編というものが全く考えられないほど完璧」(解説より)というけれど、やはり、続編が予定されていた以上、続きを読みたい。読まなければいけない。続編がないことが、あそこで話が終わっていることが、完璧と言われてる所存という気がしないでもないからだ。とはいえ、やはり凄いのだけど。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
以前別の出版社から出されていた文庫本で「カラマーゾフの兄弟」を読んでみたことがあったが途中で挫折してしまった。 今回は現在、第2章の「ロシアの修道僧」まで読み進めているが、読むのを止めようとは思わない。今回は最後のエピローグまで読みきるつもりだ。巻末の解説がとても丁寧である。 個人的には自分自身の性格はカラマーゾフ3兄弟の中ではイワンに最も近いと思う。私自身情に薄いところがあるので、アリョーシャのように他人のことを思いやれる人間に変わっていきたいと考えている。相手の立場に立ってその人のことを親身になって考えると、必ず相手にもその気持ちは伝わると思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
3連休を利用して読み始め、ようやく第一巻の最後に辿りついた。訳文に音楽的な勢いがあるので、どんどん先に進む。第二巻に進むのが怖いほど。しかし、ここまでの感じだと、最後まで読み通せそうな予感がする。老いぼれ道化フョードルのセリフが生きている。グルーシェンカとカテリーナのつばぜり合いもすごい。アリョーシャが二十歳の青年らしくとてもいきいきしていて、目の前に浮かぶよう。悲劇はこれから。ミステリーもこれから。スメルジャコフの出生の場面が頭から焼きついて離れない。オカルトじみた雰囲気もたまらなく魅力的だった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ドストエフスキーの名著で、学生時代以来数回読んだ。今までは翻訳本の定番とされた米川訳だった。もう一度別の訳者のを読んでいやになった覚えがある。今回は、新訳というので亀山訳を読んだ。文庫本なので出張の最中にも持っていって読める。読んで驚いた。米川訳のカラマーゾフとは待ったく別の本という感じがする。いい意味では、読みやすく現代的だ。登場人物の名前を統一していて読みやすくなっていることもあろう。逆に悪く言うと、米川訳のような、重さというか、いかにもドストエフスキー的な感覚がない。ロシア語を読めないので、どちらが本当のドストエフスキーかはわからないが、以前ロシアの空港で手にした"Re Reading Dostoefsky"という英語の解説や日本での小林秀雄の解説等からは、米川訳がドストエフスキー的な感じもする。ただ、今の読者には、今回の亀山訳はよく出来ていると思う。すぐにでもテレビドラマになりそうである。各巻についている、訳者の解説がわかりやすさを倍化させているかもわからない。同じ訳者が「罪と罰」や「白痴」(どちらも私は米川訳で大好きだが)を訳すると、どのような小説になるのかと思った。新しいドストエフスキー像を感じさせられる面白い翻訳の努力だと思って楽しんだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
勿論私は世の中に存在する全ての文学作品を読んでいない。 しかしこの「カラマーゾフの兄弟」は史上最高の文学作品である。 これを否定する方は、これを超える作品を挙げて頂きたい。 ここにはもう既に書き尽くされた感のあるあらすじや賛辞は書かない。 ただこの書を手に取るきっかけを提供してみたい。 あなたがもし、人生の糧となる読書体験をしたいと望んでいるのなら、この作品を読んで欲しい。 私はこの作品を読む度に、人生の深遠、人間の愚かさと美しさ、この世の不条理、生きていれば思索せざるを得ないこれらのテーマを考えさせられる。 それでも答えは出ないし、この作品に答えは書いていないのだが、それを考えること自体が無駄ではないのではないだろうか。 また説明できない涙を禁じえない作品でもある。 いくつもの心に残る場面があるが、この作品のボリューム故にこの作品を手に取ることを躊躇している方は、上巻の「反逆」の章だけを読んでみて頂きたい。 最近は立ち読みならぬ「座り読み」さえ許してくれる大型書店が多くなった。 たったの30分もあれば「反逆」の章は座り読みで「読了」するだろう。 恐らくあなたは、イワンの圧倒的な迫力を持つ世の不条理への反抗に涙し、この作品を買うことになるだろう。 あとはこの異次元の読書体験をお楽しみ下さい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ゾシマの言う神、キリスト教の神とは存在するか?もし我々が存在しないと断定しても、実際に存在していれば存在するし、我々が存在すると断定しても、実際に存在していなければ存在しない。 つまり、人間がどう考えてもいればいるし、いなければいないのだ。神がいて私の存在を信じてくれと、言ったわけでもない。 ゾシマの言う神(キリスト教の神)とは人間に利用される存在でしかなく、利用できなければ「いらない」という神でしかない。つまり、人間世界を幸福にする、もしくは救いを与える神でなければ存在してはいけないという、押しつけられた存在としての神だ。 そんなものはすべて人間のエゴで、カラマーゾフによってドストエフスキーの信仰が揺らいでいることが感じ取れる。 神を肯定する「ゾシマ長老」、大審問官により悲惨な現実世界を示し、神を否定する「イワン」。彼はどちらを信じていたのだろうか? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
私は原訳で親しみましたのでこちらに書きますが、今新訳が売れていると聞き、ちょっと驚きました。というかこれほど面白い小説を知らないと、人生かなりもったいないと思います。イワンの問いかけを知ると、生きるという世界がなんと濃密で深く感じられることか。存在が存在に否といい得るか。そればかり考えてしまいます。遠くのお話ではなく、もっとも身近な、かつ深刻な問いかけとして、小説の粋を超えて迫ってくる本です。何か隠されて見えなかったフィルターをはがしてくれたような気がします。完全なる完了形は、生まれない、ということでしょうか。埴谷雄高さんの「死霊」と一緒に読むと面白いですよ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
醜悪な人の性を体現したヒョードル・カラマーゾフの子のうち、突然変異的に美しい慈悲と愛の心を持つ3男のアリョーシャ、愛を知らずに育ち乱暴者だが正直な心も併せ持つ長兄のミーチャ、そしてナイフのような鋭い知性を持ち、兄の妻のカーチャを深く愛し、神の存在と自己の存在との関係に均衡点を見出せずに精神に異常を来たす、3兄弟で最もヒョードルの性格に似た次男のイワン、それぞれの兄弟の運命が大きく分かれるのがこの第4部の特徴だと思います。 カーチャはイワンの大きな愛を感じながらもその本当の意味・大切さに気付かず、夫のミーチャの裏切りや自分のプライドと現状との間に均衡点を見出せず大きく悩み、そしてイワンの精神の崩壊を見るにつけ裁判で証人として最後の最後にミーチャを陥れる証言をしてしまいます。 本書では、人は何かに心が捉われている時、身近にある本当の愛に気付けないもので、気付いた時には手遅れになっている、そして如何に強く見えても人の心は弱く、また人の欲は果てないという何世紀にも渡って人が実践・経験してきたであろう真理をとても強く感じることができます。 物語の時代背景は現代と大きく違いますが、それらを感じることができるだけでも、本書を星5つとして良いと思いました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「父親殺しを願望するだけで罪になるか?」の問いはそのまま 「神殺しを願望するだけで罪になるか?」の物語全体に通底する命題を炙りだす。 「異教徒に捕まり改宗を迫られ拷問された際、狂おしく祈り助けを求めても自分の叫びでは山 ひとつ動かなかったのにそれでも神への信仰を保ち続けていられるか?」 一巻でスメルジャコフが発した問いにイラクの拉致事件を連想した。 イワンは思想の中で神を否定した。 転じてそれはキリスト教を奉ずる人類の父たるイエス・キリストの否定へと繋がり、 現実の父殺しと呼応しながら次第に狂気じみた様相を呈していく。 父フョードルは滑稽かつ下劣な言動で人々の嘲笑を買う道化であると同時に、 とどまるところをしらない旺盛な生命力と強烈な存在感でもってカラマーゾフ三兄弟の上に君臨し、 三兄弟の思想・人格形成に多大な影響力を持ち得た通俗の神であった。 現実の父を殺したのはだれか? 信仰上の父を殺したのは? 二つの問いが互いに絡み合いながら行き着く答えとは? 思想の中で神たる父を殺したイワンが、現実の父殺しの犯人もまた自分ではと懊悩する場面は 息詰まる緊迫感を生み読者を引き込む。 人的に気になったのは、カラマーゾフ家の他の面々やホフラコーワ夫人や警察関係者などささやかな 脇役にいたるまで詳細な外見描写があったのに、主要登場人物である次兄イワンの容姿の記述だけ まったく見当たらなかった点だ。 穿ちすぎな見解かもしれないが、作中イワン自身が 「もし悪魔が存在しないとすれば、つまり、人間が創りだしたのだとしたら、人間は自分の姿かたちに似せて悪魔を作ったんだと思うよ」 と発言したことを踏まえれば、否定する霊(=メフィストフェレス即ち誘惑する悪魔)になぞえられたイワンの外見描写だけが省かれていたのは 「悪魔はだれもに似ているからして特定の顔を持ってない」という作者のメッセージともとれて興味深い。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「このレビューは参考になりましたか?― いいえ」を覚悟して、2巻まで読んだ時点で、思った通りに書きます。 まず、ストーリー展開が遅すぎます。単純な話をどうしてこうも引きのばして書くのか、途中で何度も中断したくなりました。又、やはり内容が古すぎです。19世紀のロシアと、21世紀の日本ではキリスト教的信仰(=神への信仰)の持つ意味合いが違いすぎます。私も含め、聖書を読んだ事の無い多くの日本人にとって、本書の後半、ゾシマ長老の話は抹香クサイお説教にしか思えないでしょう。「文豪ドストエフスキーの最高傑作」の名声の前に、ひれ伏して誰も批判しないけど、小説としてはダラダラし過ぎの展開でとても成功作とは思えませんでした。 有名な「大審問官」の章も期待ほどではありませんでした。例えば無神論宣言としてはサド侯爵の『閨房哲学』なんかの方がずっとインパクト、説得力があると思いました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
あのスリット・タンのお姉ちゃん作家・金谷ひとみが愛人に唆されて「上巻読むのに4ヶ月、一気に3日で中・下巻」というペースで読んだのは新潮文庫版カラマーゾフ。この亀山版なら愛人の愛撫もそこそこに受け流し「1部と2部にまる1日、後も一気に全部で3日」というくらいで読んでしまえそう。圧倒的なスピード感、かっての古典訳本につきものの何箇所にも振られている注釈のルビ、これが一切ないので、読める、読める。 ロシア人特有の名前の呼称は、愛称が出てきたり、これがまたしょっちゅう変化したり、父姓が絡んだりやたらややこしい。亀山はこれを簡素化してしまった。これだけでも、21世紀日本の翻訳革命。だからドスケビッチ・オナゴスキーなんて名前が出てこない。それにしてもこのカラマーゾフって小説、なんて面白いんだらう。私にとっては2回目のカラマーゾフだけど、みんなシャベルしゃべる!おしゃべりなロシア人、父親のフョードル、ミーチャ、ホフラコーワ婦人、小悪魔たち、みんなロシア版吉本新喜劇の役者になれる。そして、最後にみんな元気に「カラマーゾフ、万歳!」ってんだからもう2007年最大の話題書はこれに決まり! | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
エピローグはすぐ終わり、 あとの100ページ程がドストエフスキーの生涯。 そのあとの170ページ程がカラマーゾフの兄弟論となっている。 いままで新潮社の訳の違和感から抜け出せず、カラマーゾフの兄弟をなかなか読み切ることができなかったが、この亀山訳は読みやすく、これからの定番になるだろう。 ドストエフスキーは永遠に人類に読み継がれる偉大な作家だ。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!