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カラマ-ゾフの兄弟
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【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全556件 1~20 1/28ページ
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| パンを選ぶか?愛を選ぶか?神を選ぶか? 人間の本質、愛、憎しみ、信仰、無神論、正義、理性。様々な神や人間への問いかけが、この物語に交差している。登場人物それぞれが、思想も違えば、愛した方も違う、生き方ももちろん違う。そんな多様な人間劇が「カラマーゾフの兄弟」内で行われる。有象無象の映画をこれまで数えきれないほど観てきたが、これほど多くのテーマを均等に際立たせ、尚且つ一つ一つの物語として、魅せているフィクション作品は他にない。例えば「大審問官」では、自由を与えられた人間は、それを抱えきれず苦しみ、結局は誰かに支配されることを望む、そんな絶望的な真理が語られる。私はその言葉に抗うことができなかった。今もその思想は、胸の内で静かに、しかし確かに蠢いている。他にも印象的だった場面のひとつに、「ゾシマ長老の過去編」がある。そこには、神への愛、赦しの深さ、そして人間への限りない信頼といったテーマが、言葉ではなく生き様として語られている。特に私が心を打たれた一節は次のような場面だ。「それじゃわたしたちは、召使をソファに座らせて、お茶を運んでやらなきゃいけないんですか?」わたしは答えた。「せめてたまには、そうしたって罰は当たらないでしょうに」みんなは大笑いした。この言葉に私は深い感動を覚えた。そこにはロシアに残る身分制度や奴隷的な慣習への静かな批判が込められているようにも感じられる。ゾシマは、決して高らかに正義を叫ぶことはしない。ただ、日常の中でほんの少し視点を変え、「たまには席を譲る」という小さな愛の行為を通じて、人間の尊厳を回復させようとしているのだ。この一節は、兄弟愛や友愛の延長として、すべての人間に対する深い敬意を示している。読んでいて、思わずドストエフスキーという作家の胸に飛び込みたくなるような、そんな衝動を覚えた。そして、最後の「裁判編」。この章には、それまでの全ての出来事が一点に収束し、爆発するような迫力があった。まさに「正義 対 正義」。どちらも譲ることのできない信念を抱え、検事と弁護士がぶつかり合うその応酬は、永遠に終わらない議論のようでもあり、私は読者であるはずなのに、いつしか傍聴席に座っているような気持ちになった。そして気がつけば、被告席のミーチャの姿に強い共感と、どうしようもないほどの同情を抱いていた。彼が本当に犯人かどうか、という問題よりも、彼の苦しみ、彼の叫び、その生きざまに、私たちは何度も揺さぶられる。だが、私たち読者は本当の犯人を知っている。だからこそ、この裁判はどこまでも虚しく、そして悲しい。事実ではなく、言葉と印象、感情と偏見が人を裁いてゆくこの構図に、私は息苦しさを覚えずにはいられなかった。ラストに訪れるアリョーシャのスピーチで、私は初めてフィクション作品に涙した。これまでの愚劣な行いや偽りが渦巻く物語の中で、アリョーシャはなおも純粋で、汚れなき神を信じる子供たちに向けてこう語りかけた。「わたしたちは、憎しみを持ってはならない。どんなことでも忘れてはならない。あの時感じたことを、あの時見たものを、ずっと覚えていよう。いずれまた、思い出す時が来る。だから、生きていこう。」そしてこうも言った。「人生を恐れてはならない。何かしら正しいことをすれば、きっと人生は楽しくなる。」、この物語が、私に訴えかけるのは、まさにこの部分だと思う。神が存在しようが、しないだろうが、人間の矛盾も、愚かさも、愛がなくても、救済の可能性もすべてを飲み込みながら、それでもなお、一歩づつでもいいから、あゆみ続けるアリョーシャは本当に美しい。 ”生きていこうじゃないか、人生なにが起きようとも、どうだっていい。ただ、人を愛しつづけ、死をも愛そう。”人として生きるってもんは、まさにこうじゃないか? 自分は在り来りかもだけど、愛を選ぶ。多分ね笑 | ||||
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| 2024年12月25年にkindle版1~5を購入。2025年3月24日に全5巻を読了。文章は読みやすく面白かったです。各巻の末尾に読書ガイドが付いています。これが有ったので最後まで読み通すことが出来たのだと思います。年齢的に長編小説を読むことは、困難だと思っていたのですが最後まで読むことが出来ました。 | ||||
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| そもそも翻訳を技術的に比較するには、原書を精緻に読破できる高度な言語力が不可欠です。本書の翻訳者(プロ)並みもしくはそれ以上の語学力なくして、翻訳の比較をすることはできません。しかるに読者レビュー欄には、もっともらしい比較翻訳論が散見されます。レビューされた方々は、果たしてどれほどロシア語に精通されておられるのでしょうか?もしも相当な語学力をお持ちであるならば、翻訳書には目もくれずに原書だけを精読すればよろしいのでは!まさかとは思いますが、原書を読まずに比較しているのでは?と勘繰るのは、私だけでしょうか? | ||||
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| 内容は素晴らしいです。価値観の変わりゆく苦しい時代であるからこそ、読みたい本ですね。 表示されているのは新版ですが、中古だと旧版が配達される場合があるようです。私には旧版が配達されました。内容は変わらないと思うので良いのですが、新版の表紙が好きだったので少し残念でした。 | ||||
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| 良心、自己嫌悪、誇りでミーチャの心は混沌とする。検事、弁護士、陪審員はそんなミーチャを置き去りにし、勝手に想像を掻き立て騒ぎはじめる。結局ミーチャは裁かれ、スメルジャコフは自殺。スメルジャコフの名は嫌な臭いを発する男の意味。悲しい結末。あとがきにドストエフスキーの生涯が紹介されているが、スメルジャコフの痴呆の母、百姓に殺される横暴な父親、監獄生活…等、この本に自らの体験が色濃く反映されていることを知る。まさに生涯をかけた大作。この本が表現したかったことの1つでも感じとれれば幸い。 | ||||
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| 神父のさり気ない会話がもう既に哲学。恋愛/隣人愛、国家/宗教、裁判/懺悔、宗教/社会主義、様々な概念が入り組む。著者の思考が文体の端々まで余すことなく及んでいる。…読み応え充分。 グルシェンカへの憎悪の反射であるカテリーナの半ば狂乱による偽装愛。そこで勘違い、甘やかされるドミトリー。ドラマになる構成だが人間の機微の、深い真理があるような。ないような。 漫画で予習してしまったぶん読みやすくはなったが、次から次へとテーマを感じとってしまうため、それはそれで疲れる…。まだ上巻。でも面白い。 | ||||
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| この本は国際平和に貢献しています。序文に続いて、道化を演じるヒョードルが登場しますが、読者である他でもないあなたと闘争を繰り広げ、地獄に叩き落とすためのふるいをかけるわけです。まだちょっとしか読んでないし、よくわかりませんが。 | ||||
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| 皆さんおっしゃるように、最初はとっつきにくく我慢して読み進め、慣れてくると中巻下巻と一気読み状態。日本の芥川賞作品とかが苦手な人は頑張りが必要かも? 最後の解説もすごく参考になりました。 | ||||
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| 作者が登場人物に語らせる思考の深さと怒涛のような多層的な表現に圧倒されるパートがある一方、物語の展開は遅いし、セリフが冗長で偏執狂的でウンザリするところも多々あり。エピローグを読み終わったあとも、「え? これで終わ?」という印象。作中にもあるけど、第二部を構想しながらドストエフスキーは亡くなったので、こんな終わりかたなんだろうなあ。。と。 ところが、訳者の解説を読み、ドストエフスキーの人生や時代背景を知ると、物語の見え方が変わる。 建造物のような緻密な構成、記号的な人物配置等々の仕掛けが興味深く、自分の情報量と読解力のなさゆえに、楽しみが半減(ほんとは激減)していたことを知る。「え? これで終わ?」と思った終わり方についても、込められたら符牒に気付く。 背景を知らないまま小説として娯楽的に読むなら苦行に近いと感じる人が多いだろうけど、TEXTとして先生の解説付きで読むと大学の面白い授業に参加しているような興奮を覚えるかも。 | ||||
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| 中巻は個人的には初頭のゾシマ長老のエピソードから面白かったが、万人が面白いと感じるのは第3部第8編の「ミーチャ」からであろう。 上巻では、カラマーゾフ家の他のメンバー全員から愛されるアリョーシャの存在感が大きく、家族の残りの構成員はロクな奴じゃない印象を持たされるが、ここへ来て長男のミーチャ(ドミートリイ)に脚光が当てられる。中巻のクライマックスに向けてのミーチャのドタバタ劇が面白すぎるし、細かい書き込みの積み重ねで、重層的な素晴らしい群像劇が楽しめる。そこから先、下巻の最後に向けては一気である。すべてが伏線になっていたことを知り、あっけに取られてしまう。 気が付くと、ロクな連中じゃないと読者に思わせていた家族それぞれに、多少なりとも共感させてしまう筆力はさすが。特に人間くさいミーチャの魅力は凄いのではないか。 最後の、アリョーシャのエピソードが良い。このエピソードのおかげで、『カラマーゾフの兄弟 』の読後感はとてもさわやかである。長編小説で、こんなに読後感が良いのも珍しいと思う。 (このことは最初に書かれていてネタばらしでも何でもないから書くが)今出ている『カラマーゾフの兄弟 』は第1部で、ドストエフスキーには第2部を書く構想があった。書く前に亡くなってしまい、世間では続編がないのを惜しむ声が多いが、私はこの小説はこれで終わって良かったと思っている。アリョーシャが革命家になる未来なんて読みたくないからである。 日本では、この小説の宗教的な背景その他、わかりにくいところがあり、まったく読み込めていないと感じたので、読後の興奮冷めやらぬまま、『謎とき カラマーゾフの兄弟 』(江川卓、新潮選書)を買ってしまった。それを読んでから、一年後くらいにまた『カラマーゾフの兄弟 』を読み返したい。 なお、日本人としては、この小説に出てくるネギのエピソードが芥川龍之介の『蜘蛛の糸 』にそっくりで・・・というか、芥川のほうが、このエピソードを換骨奪胎した(要するにパクった)のだと知り、興味深かった。 | ||||
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| ゾシマ長老が亡くなって、多くが何か奇跡など起きぬかと期待していたところ、死体から腐臭が放たれそれは次第に増大する。これで、多くの人達の長老に対する畏敬の念が減退することにもなるが、これでドスとエーフスキーは何を書きたかったのか。多分、作者はこの書の中に完全無欠で誰からも崇められる人間を創らぬことにしたのでしょう。 アリョーシャは僧院から離れ還俗して(これはゾシマ長老が望んだこと)、一般の生活に戻るが、ドミートリーはイワンがモスクワに発ったあとに大金を持ってグルーシェニカに逢いに往く。その前にフョードルを訪ねてその家から、走って去る時に下男のグリゴーリーに塀を越えるところで足を捕まえられたので、丁度持っていた銅製の杵で彼を殴り大出血の負傷をさせる。失神し下男の傷の手当てをしてからドミートリーは逃走するが、その夜、フョードルは部屋で死体で発見され殺人の嫌疑はドミートリーにかかる。 ここからはドミートリーへの検事達の取り調べが延々と続き、ドミートリーがその日持っていた(とされる)3千ルーブリが丁度フョードルが(グルーシェンカのために)用意してあった3千ルーブリと同額であったこと、グリゴーリーの証言などから状況証拠は圧倒的にドミートリーに不利になる。彼が可能性として述べたスメルジャコフによる殺人は同時刻にスメルジャコフは癲癇発作の後遺症で寝ていた、とのアリバイがあり、いずれも否定される。 この巻では哲学的な会話はあまりありません。長男ドミートリーの超派手な行動が描かれ、ロシアにはこうした破天荒な人間が幾らもいるのか、と感嘆させられます。 しかし、5巻にある訳者解説によればドストエーフスキーが22歳の時のエピソードで千ルーブリを一日で使い果たしたことがあり、また彼が若い頃の作品で名を挙げ多額の収入を得た頃、4千ルーブルを半年で遣った、とも書かれております。従って、破天荒な行為の具体例は作者自身です。 | ||||
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| 本書の半ばでスメルジャコフは訪ねてきたイワンにフョードル殺しを自白する。(それまでイワンは父親殺しの犯人はドミートリーと思っていた)。スメルジャコフの癲癇そしてその後のベッド上での呻吟は詐病であり、ドミートリーの来る日を知っていて、スメルジャコフはフョードルの殺人機会をうかがっていた。すべてが計画通りに行ったのを見計らいフョードルを殺し、3千ルーブリを盗み、その罪をドミートリーに被せた。スメルジャコフは以前からイワンを尊敬しており、イワンの無神論も理解して、神が居なければどんな行為でも許される、と信じ込み、それはイワンが教えてくれたこと、と語る。そして、イワンも父親を殺したいと思っていたのだから、それを実行したスメルジャコフと(イワンは)共犯ではないか、と語る。イワンはスメルジャコフがヒョードルから奪った3千ルーブリを手に翌日の裁判に出ることにするがスメルジャコフは去って行くイワンの背に「さようなら」と声をかける。イワンと別れたあとに、スメルジャコフは首をつって死ぬ。 巻の後半は裁判所で、検事の長い調書、それに続く有能な弁護士の長い弁護 そして証人達の証言が続きます。イワンのスメルジャコフが真犯人であるという証言はイワンがその場で尋常ではない発言などもしたので、証拠の3千ルーブリと共に無視されます。裁判の記述は極めて長く、いささか退屈ですが、最終的にはドミートリーには有罪判決が下ります。 こうして世間を驚愕させた父親殺しの大事件は「誤審」として幕を閉じるのです。この浩瀚な物語にはカラマーゾフ一家のメンバー他、グルーシェニカ、カテリーナ、スメルジャコフ、ホフラコーワ婦人、など多くの独特のキャラクターを持った人間が多数出て参りますが、彼らについてはドストエーフスキーのそれまでの生涯の体験、経験の積み重ねから作者が創り出した人物模様です。ドストエーフスキーの父親は農奴に殺害されたこと、作者に癲癇の持病があったこと、シベリアに8年の流刑体験があったこと、賭け事が大好きであったこと、浪費癖のあること、などなどを基盤にしてこの大作が辛苦の末に生まれたのでした。作中人物それぞれが異なった巨大なエネルギーを噴出させて読者を圧倒するので、世界の名作と評価されることになったのでしょう。 | ||||
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| カラマーゾフ家の親父フョードル及び3兄弟のドミートリー、イワン、アリョーシャ、他が一家の難題解決のためにアリョーシャの修行する修道院の長老ゾシマと僧庵で会見をする。フョードルはここで場違いな道化を演じ、会談はめちゃめちゃになるが、長老ゾシマは遅れて来たドミートリーの足元に跪いてお辞儀をする。この行為は謎として遺るが、ドミートリーが将来一家で一番問題を起こす人間である、との意味が込められていたのである。 別の場面であるが、フョードル、イワン、アリョーシャ3人の会話で父親(コニャックを飲んで酔っている)が、2人の息子に問う:神はいるか、不死はあるか、悪魔はいるか。 イワンの答え:神はいない、不死は無い、悪魔は居ない。アリョーシャの答え:神は居る、不死はある、悪魔は居る。 イワンは「もし神を考え出さなかったら、文明なんてまるきり無かったでしょう」と語る。 好色で始終飲んでいる父親、その父親を長男ドミートリーは憎み、次男イワンは嫌悪し、三男アリョーシャは僧院の長老ゾシマに救いを求める、といった一家の状況である。この一家に仕える下男グリゴーリー夫婦、および料理人のスメルジャコフ、らを中心にして物語は2巻へ。 | ||||
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| イワンとアリョーシャとの会話: イワン:つまり神はあるか無いかという問題は、三次元しか与えられずに創られた頭脳には全く似つかわしくないのだ。だからこそおれは神を受け入れるのさ。(中略) しかし、最終的な結論として、俺は神の世界を受け入れない。俺が受け入れないのは神ではなくて神によって創られた世界、つまり神の世界を受け入れることに同意出来ない。これが俺の本質だ。お前の求めていたのは神の話ではなくて兄がどんな生き方をしているか知りたかったのだ。だからこの話をした。 神の存在を素直に信じて修道僧となったアリョーシャ、そして無神論者のイワン、この2人の思想をドストエーフスキーは存分に描きたかったのだろうと考えます。 この巻の終末でアリョーシャが崇拝するゾシマ長老が亡くなりますが、長老の最後の言葉:民衆は私達と同じように神を信じている。神を信じない実践家はどんなに誠実な心を持ち、どんなに天才的な知性を持っていようと、私達のロシアでは何事もなしえない。民衆は無神論者と出会い、彼らを打ち負かし、唯一の正教ロシアとなるのである。民衆を大切にし、その心を守ってあげなさい。静けさのなかで民衆を教育しなさい。それこそが、あなた方修道僧の果たすべき仕事だ。 このゾシマ長老の言葉はドストエーフスキーの心情と思われます。 | ||||
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| カラマーゾフの兄弟を読み終えたが、なんとなくモヤモヤが残りました。 解説を読んで、なるほど、回収されずに残っている伏線が多すぎるのだということに気がつきました。 ドストエフスキーは序文で、カラマーゾフの兄弟は第1の小説であり、書かれずに終わってしまった第2の小説こそ、重要なのだと言います。 そして、その推理された第2の小説の設定が、メチャクチャおもしろそうなのです。 そんなの、絶対に面白いに決まっている内容を想像して、読んでもいないのに感動してしまっています。 この感動を説明したいのですが、カラマーゾフの兄弟を読んでいない人には解らないだろうなと思ってしまいました。 | ||||
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| 高尚オブ高尚と思われているカラマーゾフの兄弟。私もその敷居の高さに敬遠してました。 多分挫折する人のほとんどが、名前のややこしさだと思われます。(私もそうだったし) 一回目は流し読みで分からない所があってもスルーして読み進めてください 二回目は名前もある程度わかって来ます 三回目には興奮して読む手が止まらなくなります 勉強する目的とか教養とかはとりあえず置いておいてただ作品を楽しんでみましょう | ||||
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| It's a great story and the translation would deserve appreciation. | ||||
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| 読み始めは、キリスト教に根ざした固い内容かと思いきや、中盤になりいきなり推理小説のような趣を見せ始めるという驚きの展開。 これぞ近代文学の最高峰? | ||||
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| BBCのドラマでディッケンズの「荒涼館」を見終わって思い付いたのだが、この物語にスキムポールという資産家に寄生する人物が登場する。このスキムポールを参考としてドストエフスキーは後半に出て来る「悪魔」の人物造形を考えたのではないのか。カラマーゾフを読んだときキリスト再臨にも感銘を受けたが、この「悪魔」の造形描写にはホトホト参ってしまった。ちなみにドストエフスキーはディッケンズの愛読者だったそうだ。 | ||||
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| 中巻はサスペンスとミステリー これまたいきなり修道僧の独白、100ページにわたる。なぜ修道僧になったか、それを通り一遍の物語で無く、きっかけと心の変遷をドラマチックに表現する。 とにかく読み進めさせられる。ゾシマ長老の死に関し「信仰」という物についての考えが深めさせられる。ミーシャはいわばとてつもなく奔放な男なんだろう、故に傷つきまくっている精神の標本のような男。またグルーシェニカのなんと素直な女ごころ。登場する男性全てがグルーシェニカに魅了される。時代も国も、全く違うのに、こんなに激しく響く、この文学は素晴らしい。 | ||||
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