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カラマ-ゾフの兄弟
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【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全681件 381~400 20/35ページ
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新潮社の文庫を買った方がいいです。そっちの方が全然いい。 上中下の中あたりで、もう無理だと思ったから、4冊買ってあったけど、 全部売って新潮社のを買いました。だって無理だもん。あんなの。 一時期、新聞にも出て話題になってたので買ってしまいましたが、 まあ感情が入ってこない。つまらない。面白くない。なのに高い。 翻訳者っていうのは、やっぱりその筋のプロだと思う。 これは、大学の教授?かなんかが、普段の業務もしながら? 翻訳をした。という感じだったと思うけど、やっぱダメです。 やっぱ、職業ってなんでも、どんなものでも、その筋のプロって いうのがいるし、あると思うんです。 教授は、教授の仕事をしとけばいいんです。 それだって大変なはずなのに。 間違ってたらごめんなさい。けどそんな感じだったような? 文章に躍動感がなくて、全然面白くありませんでした。 だから読み進められなかったですね。 心にスッと入ってこない文章でした。 いちいちこっちが状況を考えなきゃいけない文章というか。正直もう無理って思いました。 新潮文庫の方は、三冊読み進めらるけど、こっちは無理でしょう?!ちょっと。 正直、読んでる人が信じられないです、、、。すごいパワーがいるというか、疲れる作業に なってしまうと思うんですけど、、、。どうなんでしょう? 普段レビューはしませんが、これはちょっと物申したいと思いまして、投稿させて頂きました。 | ||||
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昨年、亀山訳のおかげで初めて本作品を通読できました。 今回、またカラマーゾフの兄弟が読みたくなって、 本棚の挫折版を取り出したのですが、熱が違いますね。 たとえば、細かいところですが、名前+父称(何とか・何とかビッチ! というヤツです)などの呼び名も、卑称(アリョーシカとか)も 全部そのままなので、これを「アリョーシャ」なら「アリョーシャ」に 統一している亀山訳は読みやすい、というか理解しやすいのは 言うまでもないのですが、いちいち違う呼び名が出てくる本書には それなりの迫力が出てくることがよく分かりました。 ロシアの小説はそれがいやだ!というのが通説(?)だし、 でも、いったん仕組みが分かればそれが呼びかけにおいても いろいろに呼びかけるセリフの味になり、この小説、というか ドストエフスキー小説の持つ熱がびんびん伝わってきました。 上巻は、とにかく読み通さないと、長い1800ページの たかだか3分の1なのに、100ページまでも届かないのが 普通だと思います。それだけ前置きが長いし、なんのことやら?? というエピソードが続きます。 その間は辛抱する、としか言いようがないですが、 とにかく読み続けていると、この上巻も後半くらいから 熱が自分に移ってきます。そうなればこっちのものかなぁ。 | ||||
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上巻を苦労して読み終えたあと、中巻に 入ってくると、人物たちも頭に入っていて、 それぞれに動き、語りも縦横無尽でまずは 読了に向けてかなりの程度に達しているはずです。 この巻では宗教的なところが多分に理解しにくい面が あります。そんなところは思い切って「理解しないまま」 読んでしまっても、大事件が控え、細かなエピソードも ふんだんで、どんどん引き込まれていくと思います。 | ||||
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スメルジャコフとのイワンの対決、そしてイワンの発狂、 何よりもミーチャの公判…… 興趣がつきません。 この巻を読む人は真犯人を知って公判にのぞむのですから、 結論は分かっているようなもの。 それでも、ぐいぐいと引っ張るのは圧倒的な筆力とそこから 発せられる熱でしょうね。 弁護士としてそれでいいのか、という気もしますが、 おおざっぱに言ってのければ、意外にも、 19世紀ロシアの裁判はきちんとしていて、 科学捜査が今ほどではないことを抜きにすれば、 日本の刑事裁判と大して変わらないです。 僕は個人としてはそんな感想さえ持ちましたが、 人と人との会話の密度の濃さはこの巻で頂点に 達し、推理小説ばりとまではいかないものの、 これまでの1000ページを超す記述にちりばめられた 小ストーリーがあたかも伏線のように効いてくる ところなどは小説におぼれる、おおいなる楽しみを 十分に味わいました。 | ||||
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本作は長男ドミートリィを中心にしたサスペンスとしても楽しめるが、作品の本質は信仰と無神論の対決にある。 一方の極にはキリスト教的な慈愛の精神を説くゾシマ長老にとその精神を受け継ぐ三男アリョーシャがいて、もう一方の極には無神論を 推し進め、アナーキズムの域にまで達している次男イワンと、そのイワンの理論に陶酔するスメルジャコフがいる。そのほか様々な人物が 複雑に絡み合い、非常に奥深い作品になっている。 | ||||
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前置きが、とにかく長い! ドストエフスキーの悪いくせ。 完璧な造形をできるだけ理解してもらいたいが為なんだけども、人物紹介で半分ぐらい使うのはやり過ぎ(;^_^A ここで断念しちゃう人もいると思うよ。 普通なら、これはエピソードの間と間に挿入させれば済む話。 でも、多分、この粘着性がドストエフスキーの魅力なんだよね(;^_^A でも、入り口の泥濘を抜けると、素晴らしい物語の世界が待ってるから我慢して読んでください! アリョーシャ?だったよね、主人公。 彼は素晴らしい(T_T) 天使だ、天使。 イアン?次男は悪魔のように美しいね。 私はこちらに惹かれます。 兄は典型的な直情型なんだけど、ゾシマは愛すんだよな。多分、一番愛情深いからだろう。 あの娘がねぇ、小悪魔でさ。2人の間で揺れ動くんだけども、女はみんなこうじゃない? アリョーシャが若干、可哀想(;^_^A | ||||
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アリョーシャの取り乱しっぷりが良い。 ミーチャ、頑張れ! まあ、物語の中間ということで、一番盛り上がるべきところなんですが、なぜか中弛み(;^_^A なぜだ? 多分、言いたかったことを、一冊目の最後に持ってきちゃったからだね。 で、二冊目は三冊目のあの対決シーンを書くための前振り。 また前振り長い(><) もう、このくせは死ぬまで治らないんだ、ドストエフスキー。 そりゃあ、宗教問題、ロシア政治問題、犯罪心理、やりだしたらキリがないよ〜 全部やっちゃうからさ、ドストエフスキーは。 ある意味天才だ! 天才ゆえの苦悩なんだろう。 ううん、でもまあ、ミーチャが魅力的だから読めるよね。可愛いよね。わかりやすい(^-^) イアンとか、召使に甘んじてる兄弟とかの存在があるからこそ、ミーチャやアリョーシャが生きてくる。 感謝しなさいよ、2人に〜 悪者役の方が辛いんだからね! | ||||
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アリョーシャと子供達の会話が素晴らしい! 未来を託す人々の友情に乾杯! アリョーシャとイアンの対決シーンは圧巻!ピリピリとした緊張感の中でアリョーシャが言う一言! イアン、死亡(><) ズルいさ、それは。それは言ってはいけない一言なんだよ(T_T) イアン、もう立ち直れないから(><) ああ、でも、ミーチャ本当に良い奴(T_T) あいつが全部背負うの?長男だから? そんな〜(;_;) まあ愛は得られたから善いか(^-^) 続編は、みんなが心で描けばいいよね(^-^) 大丈夫。子供達がいる以上、未来は生まれるから(^^)v | ||||
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新訳というので期待して読んだが、あまりにも昔読んだものと印象と異なるので、新潮、岩波文庫のものを再確認してみた。 やはり多くの違いが見られた。訳者は本当に作品の主題を理解しているのだろうかと思ってしまった。 一応現在まで多くの人に読み継がれているものに変更を加えるならそれなりの理由を明らかにすることが 訳者、出版社の責任ではないだろうか。 本書だけを読んで「カラマーゾフ」を読んだと言って、人と話をすると話がかみ合わないかもしれない。 他の訳にも当たられることをお勧めする。 | ||||
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本作は単純に、父親殺しの嫌疑をかけられた長男ドミートリィを中心としたミステリー小説として楽しむ こともできるが、そこがこの物語の本質ではない。 本書の主題は、神の存在の問題、信仰と不信仰の賛否にある。 一方の極にはキリスト教的な慈愛の精神を説くゾシマ長老とその精神を継ぐ三男アリョーシャがいる。 もう一方の極には無神論を推し進め、アナーキズムの域にまで達している次男イワンと、そのイワンの理論に 陶酔するスメルジャコフがいる。本作はこの二つの極、信仰と無神論の対決から成り立っている。 大審問官の章をはじめとして、それぞれの人物の思想や苦悩が奥深く描かれている所に本作の最大の魅力があると思う。 | ||||
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1、物語として。 2、人生のあらゆる困難について 3、作者の人生観 この3つが織りなす物語は最高です。よく物語の核とされる「大審問官」の場面は何度も読み返しては考えてみます(毎回同じ考えにたどり着く癖に笑) しかしそれだけでなく、物語的な部分もとてもおもしろい。 また、作者の経験による「親殺し」についても深く考察用されています。 読み終わった後の達成感、そしてなんだろう。まだ終わらないでくれ(終わってないじゃないか!)という感情がずっとあります。 そして上巻に手を伸ばしかいつまんで読んでしまう。 私としては上巻が一番好きです! 女好きの大学生の病的な意見でした・・・ | ||||
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俗っぽすぎるくらい面白い話でした。 高尚な本みたいなイメージがあったので敬遠していて損をした。 ニーチェのツァラトゥストラ第一部と読み比べるとより興味深くなる本です。 もし彼らが出会っていたらいずれは喧嘩になっていたでしょうけどね。 | ||||
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米川訳で読みましたが亀山訳は読みやすいです。 途中変な日本語になったりするのは原典に問題あるのでしょ〜。 しかし、1巻の本で終わった人は多いのではないでしょうか? 1巻はつまんないところで終わっているので気になります。 個人的には2巻の4章で面白くなってきますのでめげずに読み進めて欲しいです。 | ||||
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ドストエフスキー最後の作品「カラマーゾフの兄弟」 この作品は間違いなく、世界の文学の中でも5本指に数えられます。 この作品の凄いところは、絶望的に重いテーマを扱っていながら、 滅法面白いという点です。 通常この様なテーマが主題の場合、物語は面白くはなりません。 この偉大な物語には「全て」があります。 ヒトの持つ、慈悲、優しさ、無関心、そして目を覆うような醜さ・・・ この物語は以下の3人の兄弟を中心に織り合わせられます。 長男:ドミトリー・カラマーゾフ(人間の本性を体現したような人物) 二男:イワン・カラマーゾフ(理性(論理)で懸命に生きようとする悲痛な人物) 三男:アリョーシャ・カラマーゾフ(人間の善意を体現したかのような人物) イワンが語る、「反逆」「大審問官」の章を読んでみて下さい。 ここまで悲しく、かつペシミスティックなものは他に比類するものがないほどです。 最近のライトノベルでは決して得ることのできない「なにか」がこの本にはあります。 (それは感動とかいうチープなものでは決してありません。) 最近光文社新書からカラマーゾフの兄弟の新訳が出版されましたが、私は新潮文庫版の訳の方が好きです。 死ぬまでに一度は読んでみましょう。 | ||||
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「ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟」上巻は、慣れていなかったのか、登場人物の名前が愛称に変わったりカタカナだったりで読みづらいのか、読み終えるのに時間が思っていたより多くかかった!が、上巻を読み終える頃、中巻に入った辺りからか ドつぼ!笑 読めば分かるのだが、ハマっていた!気付いたら朝まで徹夜で読んでいた事もあった。徹夜で読みたい本なんて、なかなかなかったのだけれど気付いたら朝になっていた中毒性のある小説だと思った。上・中・下と読み終えて、またあの感覚を味わいたいと思って著者ドストエフスキーの書いてる他の小説を買ったが、カラマーゾフには敵わない。地下室の手記なども面白いが、短い。悪霊、白痴、などなど長編で面白い小説は他にもあるけど、読むならまずはカラマーゾフです!この本でロシア文学にはまりましたが、この本を超える作品にはまだ出会えずにいます。超える本があれば教えて欲しいです。探し続けますが、私の中でのNo.1小説!!! | ||||
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昨夜ミーチャのところを読み終えた。ここはボリュームがあるが、ハラハラ、ドキドキ、一気に読み進んだ。正教会の考えや登場人物の思想が詳述されていているそれまでの章とうって変わって、サスペンス調の軽快なストーリーが展開されている。 独りよがりの考えにとり憑かれ金策に走り回るドミトリー(ミーチャ)の姿は、株が下落して 追証がでてもなお持ち株の期待を捨てきれず、奔走する株式投資家の姿(俺自身)と重ねあう。^^悲壮感に満ちてはいるものの他人から見れば愚かさ丸出しなので同情の余地はない。 愛する女性に振られて絶望したうえ、老人を殴り殺したと思い込み、ピストル自殺を決意するものの、死ぬ前にその女性との大宴会を企てる。人間ここまで異常な精神状態に陥ることもあるのだろう。俺にとっては支離滅裂であまり感情移入はできないが、こういう行動をとる人間がいることは理解できなくはない。フィアンセのお金を着服した卑怯な男だが、自らおこした恥辱をなかなか受け入れることができない。最低限のプライドは持ち合わせている。検事の尋問に苛立ちを覚えながら無実の罪を晴らそうとするものの今まで犯した罪を後悔し、道義的な罪をも含めて償おうとする一縷の潔さは持ち合わせている。人間は複雑な感情をもった存在だ。相反する性質が心のなかに同居していることがある。高貴でありながら卑怯者、臆病でありながら大胆な振る舞い、潔いが時として執念深い。まだ最後まで読み終えていないので、登場人物がどういった人間なのか判断するのは早計である。 グルーシェニカも、これまで悪女の印象が強かったが、ここまで読み進めてきて、俺の考えは随分変わった。グルーシェニカの「一本の葱」の逸話はおもしろく、この前、母に自慢げに語った。^^ミーチャは護送される前、ロシアの田舎村の貧しい「餓鬼(ガキンコ)」の夢をみた。この夢が暗示していることは何か、下巻を読む前にゆっくり考えてみよう。 | ||||
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『欲求を増大させる権利から生まれるものは果たして何か?富める者においては孤立と 精神的な自滅であり、貧しい者においては羨みと殺人である。なぜなら、権利は与えられて いるものの、欲求を満たす手段はまだ示されていないのだから。』 (カラマーゾフ2巻、ゾシマ長老) 「欲求を増大させる権利」とは「自由」のことである。行き過ぎた自由の帰結として、孤独や自滅、羨望、はたまた殺人が待っているとは空恐ろしいことである。我々投資家は株式市場という「手段」が示されていると確信している。「株で富を築く」という一つのテーゼのもとに経済の洞察をかさね、戦略を練り、銘柄の売買を行う。株という手段で富を手に入れれば、幸福という究極の理想が実現できると信じ込んでいる。ゾシマ長老からすれば、愚かなことであろうが、偉大なる挑戦ともいえる。 ドストエフスキーは神が存在するか否かという難題を登場人物に語らせるが、それは、俺の永遠のテーマ「貪欲は悪か善か」ということと本質的にそう大差はないであろう。株式投資の観点からドストエフスキーを読み解いていく。ロシア文学に傾倒している諸氏からは冒涜しているとのクレームが殺到しそうだが、当のドストエフスキーもギャンブル狂であったらしいからその辺は勘弁してもらいたい。 何を隠そう、この10日間毎晩、「カラマーゾフの兄弟」を読んでいる。先ほど2巻を興奮とともに読み終えたところだ。まだまだ半分以上残っている。これからが本格的にストーリーが展開していくのだろうからとても楽しみである。この年(40)になって初めて本格的に読むドストエフスキー。若いころ「罪と罰」の文庫本を買ったものの、数十ページで辞めた経験がある。数年前光文社からでた新しい翻訳はとても読みやすい。100万部以上売れているらしいが、うちの近くのブックオフでは1巻は数冊置いてあるものの、それ以降の巻は見当たらない。アマゾンのセカンドハンドでも1巻は139円なのに4巻はまだ値崩れしていない。多くの人は読破できていないのか? | ||||
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「人を愛するものは、人の歓びをも愛する」 第7編アリョーシャ(「カラマーゾフの兄弟」3巻)を一昨日読み終えて、なぜアリョーシャは修道院を去ったのかずーと考えているが、どうもすっきりしない。ゾシマ長老の屍からあるまじき腐臭が漂ったから信仰に幻滅したというのは表面的な理解であろう。ゾシマ長老の死、あるいはその死体からの腐臭が契機になったのは間違いない。「奇跡」を信じていたのはなく、「正義」を熱望していたとドストエフスキーは語る。腐臭という醜態をさらしたゾシマ長老の死体がアリョーシャが熱望していた正義を貶めたと。そのアリョーシャの求めていた正義とは? 大地に倒れこんだアリョーシャは大地にキスをし、泣きながら、 「『お前の喜びの涙を大地に注ぎ、お前のその涙を愛しなさい・・・』彼の心のなかでその言葉が響き渡った。」(7編アリョーシャより) 無数の星をみて、歓びの涙が出てきたという。悲しみが歓びに昇華した瞬間だ。 「死」について考えていると究極的には「幸」を考えることに行きつく。俺も親父の死を通して個人的にそれを経験した。もしかしたら、アリョーシャの心の変化も俺の経験と近いものなのだろうか。 | ||||
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カラマーゾフの兄弟、ただ今4巻の最後の方を読んでいる。裁判も佳境に入った。 インテリのイワンはついに幻覚を見るようになる。悪夢の中で対話する相手はもう一人の内なるイワン、自身のデーモンである。クリスチャンの教義を否定し、科学的な思考や自由主義や社会主義など新しい思想の潮流が当時のロシアにも押し寄せていたことを考え合わせるとイワンの思想的な苦悩に共感を持った当時のロシア人読者は多かったろう。(ちなみにロシアの農奴解放は1861年) 父親殺しの実行・計画犯ではなくとも、父親の死を心の中で願っていることだけで、クリスチャンの教えにとっては罪深い行為だ。現代の法律の世界では「悪を願う」だけでは罪には問われない。だからと言って罪がないと言えるのか?スメルジャコフを非難する資格が自分にはあるのか?神を認め、信仰に目覚めつつある者と、それをかたくなに否定しようとする者。どちらの自分も自分の中に見つけ、その苦悩が極限にまで達した場合、幻覚が現れるのか。 「白痴」のムイシュキンも幻覚をみた。ドストエフスキーにとっては、幻覚は常套手段なのかなあ。 多彩な登場人物の多彩な思考、スリリングな物語の展開、重厚な会話、もう、なにもかも素晴らしい。愛、思想、人間関係、善悪、などなどの普遍的なテーマに正面から迫るドストエフスキーの偉大さに今日もあらためて畏敬の念をもった。 | ||||
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感動に浸っている。カラマーゾフの兄弟を読み終えた。といっても5巻におさめられている亀山氏によるドストエフスキーの伝記や解題の部分はまだだが。 イリューシャの葬儀でのアリョーシャの演説には魂が震え、涙が出そうになった。そこにいた少年たちの一人になったように俺の心もけがれのない子供時代に戻った。 『何かよい思い出、とくに子供時代の、両親といっしょに暮した時代の思い出ほど、その後の人生にとって大切で、力強くて、健全で、有益なものはないのです。(中略)自分たちが生きていく中で、そうした思いでをたくさんあつめれば、人は一生、救われるのです。』(アリョーシャ、エピローグ) イリューシャが葬ってほしいと言っていた石のそばで、少年たちを前にしたアリョーシャの演説は続く。 『ぼくが、こんなことを言うのは、ぼくらが、悪い人間になるのを恐れるからです。(中略) きみたちみんなが、これから、ぼくにとっては、愛する人になるんです。ぼくの心の中に、 きみたちを大事にしまっておきますから、お願いですから、きみたちもこのぼくを、心の中に 留めておいてください。』 俺は以前こう書いた。 「ミーチャは護送される前、ロシアの田舎村の貧しい餓鬼(ガキンコ)の夢をみた。この夢が 暗示していることは何か、4巻を読む前にゆっくり考えてみよう。」 とはいったものの、エピローグに来るまで、いまひとつガキンコの夢の意味が判然としなかった。ミーチャの演説を聞いて、はたと思った。そう、そうなのだ。この悲劇はカラマーゾフ家と スネギリョフ家の親子間の愛情の差を対比すると鮮明になる。あの時、ミーチャは貧しくとも 力強く生きていく農奴の子供たちの中に「愛」を見たのだ。 ミーチャ: 金持ち - 父子憎しみ合う イリューシャ: 貧乏 - 父子に強い絆 いやあ、しかし、ドストエフスキーは素晴らしい!この小説に出会えたのは人生での歓びでも ある。この25日間、毎日嫁とカラマーゾフについて語り合ってきた。これからも語り合って 行くに違いない。 | ||||
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