■スポンサードリンク
カラマ-ゾフの兄弟
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt | ||||||||
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全683件 361~380 19/35ページ
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 新潮文庫での上巻にあるプロとコントラ(イワンがアリョーシャにきかせる詩、キリストが人間を「みにくる」というもの)。 そこでのキリストが、下巻の中でのアリョーシャと重なってみえた。 つまり、ミーチャにとっては、父親殺しに関して無実の罪を信じてくれる唯一の人間として、 イワンにとっては、実質的な父親殺しは自分だという罪を否定してくれる人間として、 アリョーシャが描かれている。 本作品のところどころに、意思ではなく、無意識的に行動していることがほのめかされる。 たとえば、イワンがスメルジャコフに殺害を指示するような台詞を口にする場面。 アリョーシャがイワンに「あなたは殺してない」と宣言する場面など。 もし、人間の行動が完全に意識的なものでないのだとしたら、 そこに負うべき責任はあるのだろうか。 「すべては赦される」ことになるのだろうか。 もし環境がそうさせたのであって、同じ環境におかれれば誰しもが同じ行動をとってしまうのなら、 そういった環境におかれた人を非難することは何人たりともできないのではないか。 そうだとしたら、なぜ人は「罪」を感じ、「罰」を欲しさえするのか。 本書のテーマはこういうとこにあるように感じられた。 ・下巻で特に個人的に好きな場面について。 下巻のミーチャがアリョーシャをひきとめて、おまえは俺が殺したと信じているのか、と問う場面、 あの描写には言葉通り、心が揺さぶられる思いがした。 人の悲しみと絶望の深淵を突然みせられたときの、あのやるせなさ、無力感を思い出した。 こういった感情を、ドストエフスキーの作品は呼び起こす魔力みたいなものがあると思う きっと彼自身の流刑、銃殺未遂の経験も関係しているのかもしれない そういった痛みを代償として、いろんな物をより感じるようになるのかもしれない それが幸せかどうかは言いたくないけれど、 人の心の深淵をここまでえぐり描いた彼の作品を愛さずにはいられない | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 新潮社に比べて、「筋として」は、面白い。しかし後の伏線となるイワンの「反乱」への懸念が間違ってればすみませんが、欠落してるように思います。またギリシャ正教会の信者でもない日本人が読むと実は難解です。吉本隆明氏が「これは筋としても面白いがそれだけでは読者はもっと ・」すみません不確かなのであえて全部言えませんが、筋以上のものを読み取らなくはならないとおっしゃっておられた事を思い出しどうしても満点はつけられませんでした。しかし作者の頑張りは評価します。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 1月12日に始まった『カラマーゾフの兄弟』(フジテレビ)を観ました。日本の舞台に置き換えたシリアスドラマです。黒澤明監督の『白痴』を意識していることはまちがいないようです。 気になったのは、次男のイワンがしきりに左肩に触れる場面です。あれは、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』第五巻の解説を踏まえたすばらしい伏線だと感じました。答えは、「悪魔」(メフィストフェレス)の暗示ということになるのでしょう。日本における『カラマーゾフの兄弟』の受容がここまで来たかと感じ、感無量です。亀山訳は、驚くほど躍動感に満ちたもので、とくに足の悪いリーザの悪魔性や、イリューシャの死の場面は入魂の翻訳です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 初めて『カラマーゾフの兄弟』を読み始めました。 この新訳とこれまでの翻訳がどれ程異なるのかはわかりませんが、確かにこの本は読みやすいです。 古典翻訳で味わう「言葉の摩擦」のような抵抗感はなく、すいすいと読み進められました。 抵抗感といっても拒否感ではく、読む速度をおとしめるような抵抗ですね。 その分、意味を考えて反芻したりしますので、濃い味わいがあったりします。 贅沢なことを言えば、薄味のような感じもしないではないですが、何しろ『カラマーゾフの兄弟』です。 読む機会が巡ってきたことに幸運を感じざるを得ません。 それは亀山さんの翻訳のお蔭だと感謝しています。 散文の場合は翻訳の問題は薄れる、と桑原武夫さんがお書きになっていたのを記憶しております。 テクストを理解するように読んで参りたいと心がけています。 巻末に読書ガイドが付されています。最初にお読みになる方が役立つと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 難解と言われれば、そうには違いない。この難解さは、まるで、漱石の三部作のよう。 けれど、普遍的で、深い洞察に溢れていて、実は、やはり、難解でもないのです。 難解とされる主な理由は、漱石もドストも、その時代をそのままをストレートに書いているからだ。 つまり、その時代の、世に溢れる苦しみ、社会矛盾、自己確立の困難さなどは、どうしたって、その時代を生きた人にしか、共感できない。 折しも時代は、科学の到来した時代。 その激動する時代の中で、前近代的な因習、民俗学的な縛りに苦しむ魂の圧迫感、空気感などは、ましてや、経験した人にしか分からないでしょう。 だから、私たちは、ドストや漱石が描く人々を通し、因習や社会の重しに苦しめられる自己の魂の窒息感や閉塞感、絶望、そして、希望を想像し、そのまま感じるしかない。 思いやることはできても、そもそも理解できると考えるものではないはずだから。 まず、そう割り切るのが、楽しみ方のコツだと思う。 漱石もドストも、書き手と読み手の間に横たわる、この垣根を敢えて越えようとはしていないのだから。 両作家共に、その時代を生きた人間として、そのまま感じたまま、観たままを書いていることこそが脱帽なのです。 そうすると、スイスイ読めてくる。入ってくることがある。 漱石もドストも、その時代を懸命に生きた一人の人として、人間、人間愛、魂の解放、救済(自我と愛との確執の側面からなど)・・近世以降の人が抱えるであろう、これらテーゼについて、痛ましいほど苦悩し、深く探求している。 そして、希望や安らぎを希求し、当時の人々や、後世の人々に遺してくれている。 この魂の探求?と言おうか、それは凄まじく、私たちをグイグイと引き込んでいくのだと思う。 漱石、ドストの魅力は、作者の意図に沿って、登場人物によってご都合よくストーリーを展開させるという事がまずないこと。 物語の構成は、タテヨコ、そして、天地何層にも、物語や神話が織り込まれている、それこそ世界唯一の素晴らしさ。 そして、その枠組みの中で、登場人物それぞれが、激動する時代の中にあっても、自己の心や魂の中になおも生き、自分の行動を規定し、突き動かしているものを活き活きと語る。 ただ、そこにあるのは、その人の心や魂の中で生きているリアリティ。 引き込まれないはずはない。 漱石もドストも、その時代を描き出し、私たちの人間としてのコアな部分に入り込み、栄養を与えてくれる。 やがて、近世以降を生きる私たちにとって、自己を自己で探求できるようになるための素地が創られている。 自己啓発書、宗教書や、哲学書に負けず、自己で自己を確立しようというコアが育っていると思う。 そして、読後には、ほのかな安らぎと自信も感じている。 宇宙観や、世界観を形成する上での視点のみならず、心も培養してくれるように思う。 漱石もドストも、思想の探求は、ほどほどで、構わない。 大切なのは、確かな実践(生活)であり、そのための愛や思いやり(キリスト社会的には、隣人愛)の重要性を、苦悩者として、自己の反省と共に、科学と資本が支配しそうな後進の現代人のために、独自の視点で伝えている。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 新潮社の『ドスエフスキー全集』を持っているので、原卓也訳で読んでいたのだが、寝るとき、寝室を暗くして、Kindle Whitepaperで、「続き」が読みたかったので、本書を購入してみた。訳語の細かな部分には拘らず、だいたいの物語を追えればいいと思っていたが、どうも、本書の訳で読むと、ドストエフスキーの深みがなく、違ったものを読んでいるような気持ちになった。大筋は、たぶん、原訳を参考にしていると思われる。しかし、日本語に疑問を持つような表現が多く、一部マスコミでは評判になったように記憶しているが、はっきりいって、私にはどこがいいかわからない。やはり、ちゃんとした本で読みたいと思う。 ***** レビューを投稿してから、ほかのレビュアーの方の記事を読み、やはり、訳に疑問を感じている方々がおおぜいいたのに納得した。「1」だけしか買ってなかったのは正解でした(笑)。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 中巻もさほど手こずることなく読めた。 色々なテーマが内包されているが、最後にむけてどう収斂されていくのか? いまのところは難しくも読みににくくもなく読めている。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| たまにはロシア文学もいいかなと思い、読んだらとても面白い小説でした。 新訳なのでとても読みやすく、文学少年少女にもおすすめです。 人間の本質を考えてみるときに、おすすめの一冊です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 『カラマーゾフの兄弟』を再読した直後の先週土曜日、NHK教育テレビ「こころの時代」に出演した訳者の亀山郁夫の語りに接し、理解が深まりました。ドストエフスキー文学における最大のテーマを「黙過」に見る訳者の世界観に強い共感を覚えました。 番組のなかでの、とてもわかりやすい、淡々とした語り口は、『カラマーゾフの兄弟』の新訳の精神そのものを体現しているように思えました。 最後まで読みとおすことができたことに対し、改めて、訳者に感謝したい思いです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| このレビューを書いている段階では中巻の半分近くを読んでいる段階だが、 難しいこともなく、人物が紛らわしくなることもなく読めている。 長いがテンポよくストーリーが展開していくのでスラスラと読める。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 他のロシア文学者や読者から誤訳・悪訳や解題のでたらめさが多数指摘されており、週刊新潮の記事にもなった。 検証された100カ所以上の指摘を受けて訳者と出版社は第一巻の40カ所程を20・22刷で訂正したが、その事実はどこにも記載も公表もされていない。週刊新潮上で訳者は「ケアレスミスが10カ所程度で、あとは解釈の違い」と誤訳を否定。現在まで増刷が続けられている。 「ドストエフスキーの会」による検証が詳しいが、それを見ると誤訳云々以前に訳者が作品の内容を正しく理解しているのかすら怪しい。 私はロシア語が全くわからない。しかし読んでいて、ただ対応する単語を訳して当て嵌めただけの様な、日本語として非常に不自然で読みにくい個所が多々あるし、ドストエフスキーの醍醐味である動的な、ドラマチックな文章と文体が損ねられていることはわかる。 亀山訳を買って読んだ方は、ぜひ原訳や米川訳も読んでみてください。別の物語を読んでいるかのように違いが分かると思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 私は海外小説をよく購入しますが、内容の良し悪しよりも翻訳の文体で決めることがしばしばあります。 というのも、特に文学ともなれば購入が前提であることが多いのがひとつ、もう一つは、訳者によっては雰囲気ががらりと変わってしまうからです。 内容についてはもう他の方が沢山レビューしてくださっているので、内容ではなく翻訳内容をレビューすることにします。 これの翻訳者は原さんですが、文は適度な難易度でした。一文が長いのは海外小説ではもうお約束ですが、これは所々で長すぎる印象を抱くかもしれません。ですが、活字にあまり触れない方でも頑張れば読破できるレベルです。 文字の大きさの面でも読みやすいと思いますし、何より注訳が多いのは助かりました。 人名の注訳はもちろん、慣用句、引用の注訳までついているので、初めて読む方に特におすすめしたいのはこれ(新潮文庫)です。 あと、新潮文庫にはしおりがついているのが良いですね。しおりを落として読んだ場所が分からなくなるといったことも滅多にありません。 比較として、Amazonにおいてある岩波文庫と光文社古典新訳文庫の方も軽く紹介します。 【岩波文庫】の米川さん訳は、非常に漢字が多く、振り仮名も少ないので初見には向いていません。 ただ、一度「カラマーゾフの兄弟」に目を通した方なら、この独特の雰囲気を楽しむことができると思います。 【光文社古典新訳文庫】の亀山さんの訳は【新潮文庫】と比較してもかなり簡単に訳されていますが、小説というのは文が簡単だからと言って簡単に読めるとは限りません。あまりに簡単すぎると往々にしてつまらなくなってしまいます。 こちらは、簡易さに力を入れて大事な部分を所々飛ばしてしまっているのではないかという印象を受けました。なので、普段活字に触れている方にはおすすめしません。 それでも、その分薄くなってはいるので、本を読むのが本当に苦手で、ストーリーだけをさくっと把握したい方ならこちらでもいいと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 長い・・・とにかく長いです。 しかもほどんど登場人物の台詞で話が進んでいくので、19世紀のロシア人はあんなにおしゃべりだったのだろうかと考えてしまいます。 3兄弟の性格はバラバラです。(スメルジャコフを含めると4兄弟ですが) 自分はどの人に近いかと考えてみました。 希望はアリョーシャですが、残念ながら間違いなく違うなと感じました。 人間の内側や、普段は見てみぬふり、気付かぬふりをしている部分にざくっと切り込んできます。 血の呪い、神はいるのか、など深くて重いテーマを扱っていますが、ラストは希望のあるものだったのでほっとしました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 250ページ7行目と281ページ6行目の、ユダヤ女の楽器はシンバルではなくツィンバロンだと思う(原文Цимбалы)。この単語にはどちらの意味もあるようだけれど、ヴァイオリンとシンバルじゃあまりに不釣り合いだし、ユダヤ人の辻音楽師はよくヴァイオリンとツィンバロンの組合せで演奏していたようだ。298ページになって、ユダヤ女の楽器がヴァイオリンとツィター(Цитра)になっているが、これはもしかするとドストエフスキーの筆がすべった可能性もある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AD%E3%83%A0 http://odakyuensen.blog105.fc2.com/blog-category-6.html | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 全3巻読了に5ヶ月。正直、物語そのものが面白いとは思えないし、一つ一つが恐ろしく長い訳文も好きではない。神の存在に対するドストエフスキーの問いに至っては、その真なるところ理解できていないように思う。つまるところ、『カラマーゾフの兄弟』を一つの作品として手放しに「面白かった」「名作だ」などとは言えないというのが正直なところ。 一方で、読み終えて数ヶ月経ってもパラパラ読み返したり、ウェブであれこれ調べたりすることが多いのも事実。何故だろうと考えてみるに、半分は「何がこの小説を不朽の名作にしているのか理解したい」という好奇心。残り半分はこの小説が持つ異様な迫力に惹きつけられているのだと思う。 その異様な迫力を静動対照的ながら強く感じたのが、この上巻に収録されている、スネギリョフ二等大尉がアリョーシャより差し出された金を踏みにじるシーンと「反逆」の章。 涙を浮かべた目玉が半ば飛び出し、首筋には血管が浮かび上がり、いまにも噛みつかんばかりの表情が目に浮かぶスネギリョフ。この激しい描写に、卑屈な言動の裏にも人間の自尊心が必ずや潜んでいることを見せ付けられたような気がする。 一方、無垢の子供が流す涙を前に、キリスト教信仰の根幹にある予定調和にすら「反逆」を厭わないとするイワンの叫びは静かだ。静かだけど悲痛に満ちた正義を問う叫びは、キリスト教的価値観を共有するか否かを問題にすることなく、ストレートに心に響くものがあった。 「大審問官」も自分が感じるところの異様な迫力に満ちた章ではあるものの、上記二つの場面に比べれば好奇心が先立つ章だった。ドストエフスキーが何を問うているのかを理解したいという興味で、色々と解説を読んでは「なるほど」と楽しんだ一節。そういう楽しみを提供するという意味で、この小説は自分が計り知れないほど奥深いのだろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 古今の著名人や東大の先生が絶賛しているという本作。いま読み終えましたが、正直苦痛で苦痛で何度も投げ出したくなりました。 改行のない、いちいち考えないと意味が分らない長い文章。私のなかの基準では悪文の典型。 物語の進行上、どうでもいいような冗長な会話が延々と続き、過剰な表現の羅列に、もううんざりしました。 いろんな題材がごちゃまぜになっていますが、主たるテーマであるキリスト教や教会の意義などは、19世紀のロシアにおいては重要だったのかもしれませんが、普通の日本人が共感できるテーマではありません。 有名な大審問官にしても、ピュアな信仰や教義は大衆向きではないという主張で、まあ、日本人的には大乗仏教からみた小乗仏教批判みたいなものかと。 それはそれで面白いとも言えますが、そんなに絶賛するようなことか? 歴史的にも大変評価が高い本作なので、これが出版された社会や時代においては素晴らしい内容だったのかもしれませんが、現代の日本人が読んで面白いかどうかは話が別です。キリスト教やロシア文学の専門家向けかと。 魂が震えたとか、涙が止まらないとか、まじすか。おそらくは本書の価値は別なところ(学術的にとか)にあるのでしょう。 自己研鑽のためでなく、単に読書を趣味として楽しみたい人にはお勧めできませんね。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 三十年ぶりに読みたくなり買いました。新訳ということなので、今までの訳とは違った味があるのではと思いました。しかし、5ページ以上は読めませんでした。翻訳の質以前の問題として日本語としておかしいと思いました。結局、焼却ごみに出して、昔よんだ訳本を購入しました。やはり、すばらしい作品ですね。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| <5巻まとめたシリーズとして> 村上春樹を始め、数々の評論家筋がベストに挙げる作品。 「読まずに死ねるか!」的なランキングには大体入っている。 まず、翻訳。以前、原卓也訳の新潮文庫版(かなり古い訳)で挫折したが、本作は確かに読みやすい。 だが、読みやすいかというと、そんなことはない。書かれたのが100年以上前であり、翻訳本であるということから致し方ないことではあると思うが。 肝心の内容であるが、確かに激賞されることはある。多様な登場人物とその人物造形。更に、生と死、聖と俗、男と女、父と子、富と名声、誇りと恥辱、などの人生においてキーとなるような要素が「これでもか」と盛り込まれており、あらゆる角度からの読み方に耐えられる。 ただ、読んでいる間に面白いかと思えたかというと「否」である。これは自分自身の読解力のなさが、この本を読むことを苦行とすることを招いてしまったのは多分にあるとは思うが、一つ思うのはこの本は「何度も読むのに適しているのでは?」ということだ。 最後に翻訳者が、本作を「ストーリー層、中間層、作者の自伝層」の3層で読むことができると述べている通り、最初の通読でストーリーを頭に入れて、"つまみぐい"しながら読み込んでいくというのが正しい楽しみ方なのではないだろうか。 そして、自分がそのような読み方をするか、、、というと図書館から借りたのもあり、かなり微妙なところ。ここまで苦労したのだから、再読すべきだという気もするが決心はつかない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 誤訳問題以前に、日本語としておかしい表現が多々あります。ドストエフスキーの重さというか雰囲気が伝わってこないのもつらい。 確かに読みやすいけど、これを読むよりは、「まんがで読破シリーズ」でも読んだほうがいいのではないでしょうか。920円です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 「ねえちょっと、おくさん!」 「あら、なあに?」 「(声をひそめて)ご存知?」 「(同じく声をひそめて)なんのこと?」 「あそこよ、カラマーゾフさんとこのフョードルさんと息子さんたち、なんだか揉めてるらしいわよ〜」 「あらやだ、ほんとぉ〜?」 「何だかね、お父さんと上の息子さんで一人の女を奪い合ってるらしいのよぉ」 「やあねえ〜まったく」 …というやりとりが街で交わされていたかどうかは知りませんが、 カラマーゾフさん家のごたごたは相変わらず続いております。 中巻冒頭でゾシマ長老に、後半で長男ドミートリィにそれぞれ事件が起こります (他の方のレビューの通り…) この巻で長男ドミートリィが前面に出てきます。何だか憎めないんだよな、ミーチャ。 決して素行よろしき青年では無いし、ちょっとイカレテルとは思うけど、 人間臭くて嫌いになれないよ。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!











