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カラマ-ゾフの兄弟
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【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全686件 301~320 16/35ページ
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| 三人の兄弟、本当にこれだけ性格がことなるのだろうか?イワンの哲学が面白い。 | ||||
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| 三年前に読んだ。アリョーシャの今後が書かれていないのが残念。壮大な準備のあと、子供達とカラマーゾフ万歳と叫ぶところで終わったと思う。ドミートリーもイワンも含めて、人間賛美の声だと思うが、アリョーシャはこれからどのように現世の人と付き合って行くのか? | ||||
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| 聖書を読んだことのある人であれば、多くの方が公では口にはできない疑問を感じたことがあるのではないでしょうか?ドストエフスキー自身も疑問を抱いているようです。 彼はその疑問をイワンを通じてアリョーシャに投げかけます。 そして小説を通じて読者を考えさせます。 聖書は事実なのか?神はいるのか?それでもなお信仰するのか?無神論に救いはあるのか?救済とは? そういった性格を持った小説だと思います。 テーマが聖書の根幹である神の存在そのものについてまで掘り下げられてます。ヨブ記や福音書だけでなく、聖書全体を読む必要があると思います。 私が数えたところ、新潮文庫全3巻のボリュームは解説を除いた本編のみで1472ページ(字が小さい古いタイプの本です)になりました。1ページあたりの文字数は19行×43=817字。全体では単純計算で817字×1472ページ=1202624文字(約120万文字)になります。 このサイズの小説になると暇な時間を読書に当てようという考えでは、最後まで読みきるのは難しくなってくるのではないでしょうか?社会人には厳しいですが、あらかじめ読書のためにまとまった時間を確保しておくことも必要かもしれませんね。 私は3連休と平日4日をフルに充て、計7日間で一気に読み終えました。私は決して読むのが早いタイプではなく、標準的なスピードだと思ってます。ただし、かなり無理をしてます。クタクタになりました。 仮に標準的な読書のスピードの方が1日中読書に専念した場合、5日間程あれば読みきれるのではないかと思います。 一つの目安にしていただければと思います。 | ||||
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| 村上春樹氏のファンならば読んどかないといけない作品なので、2か月かけて読みました。 思っていたよりは、読みやすかったけど、やっぱり、大変だった。 | ||||
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| 村上春樹氏のファンならば読んどかないといけない作品なので、2か月かけて読みました。 思っていたよりは、読みやすかったけど、やっぱり、大変だった。 | ||||
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| 村上春樹氏のファンならば読んどかないといけない作品なので、2か月かけて読みました。 思っていたよりは、読みやすかったけど、やっぱり、大変だった。 | ||||
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| フョードルも悪くない。はじめは何かと思っていたが、しかし、彼のアリョーシャへの愛は多分本物だ。 彼は狂人ではないのだ。どこにでもいそうな、それでいてずるいおやじ……の延長上にいるのだ。 神がかり的ではあるが。 グルーシェニカもそうだ。 かといって、悪魔は……などと、日本人でありながら、本作を読むといっちょ前に聖書でも読みたくなるから不思議だ。 それは、この作品が聖書を絶賛しているからではない。むしろその逆、その致命的欠陥を抉り出してしまっている。 しかも、その抉り出しは、馬鹿なヒッピー運動のような、適当な批判警告文ではなく、世界最高級の思想に基づいた、致命的な抉り出しなのである。 それが、「大審問官」だ。 詳しくは書かない。 ただ、世界の半数が進行している、カトリック、プロテスタント、ロシア正教、東方正教ひっくるめたキリスト教徒は、この問題をどう扱っているのだろう。 日本人ながらに、気になった。神学論文を読みたい気分だ。 ドストエフスキーの宗教的苦悩は、イワンとその劇詩中の登場人物、枢機卿にほぼ一任されているだろう。 そして、それは反骨精神などではなく、誰よりも髪を愛そうとしたがゆえに見つけてしまった、神の欠陥だったのだ。 そして、その思想を、彼の周囲で理解してくれる人などいなかったのだろう。 だから自分で救いを作った。その姿こそが、主人公のアリョーシャであり、ゾシマ長老なのだ。 そして、その空想を、ロシアの嘴の黄色いひよっこの空想の終着点を、未来に生きるものに解決を求めた。 この本は、ドストエフスキーが作った、タイムマシンなのだ。 彼は時代を先に行き過ぎた。だから肉体こそ滅べど、その思想を自身で描き切り、所の世界で百年、二百年飛ばそうと試みたのだ。 我々は、特にキリスト教者ならば、彼の問いに答えてやらねばならないだろう。 そんなことを考えた。独断と偏見で。 | ||||
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| 亀山郁夫役には誤訳が多い、との評価を受けてこちらの原卓也役を購入させていただきました。 ロシア語に通じていない私、海外の小説を解読するには、翻訳家にその解読を一任するしかない、というのがなんとも歯がゆいです。 暇さえあれば、亀山さんの役も読んでみようかと思います。 そしてさらに、ロシア語でも学ぶ機会があれば、原文まんまのものも購入し、三冊を見比べてどれが誤訳か、どれが正訳かを見比べてみようかと思います。 | ||||
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| この作品には続編があるらしいと聞き、びっくりした。 しかし、作者がその前に死んでしまった。 悔しい! 未完の作品でここまでのものを作るのならば、完結したら、それは人類史に残る、文学上の巨大な爪痕の一つになっていただろう。 現段階でも十分巨大だが。 | ||||
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| ここまでくると、スイスイ読めます。 大団円ですので。 人生、一度ならず事ある毎に読みたくなる本ですね。 解説もぜひ読んでください。 | ||||
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| 第5巻は、短いエピローグであとは亀山による伝記と解説で、無理にもう1巻増やしただけの感じで不快。 読了してよくもこんな長々しいのを読み終えたというある程度の満足感があるのみ。亀山の現代風の読みやすい訳文でも疲れるのに、かつての訳文を読み通した人間が信じられない。多分、世界の名作という肩書につられて読んだだけで、感動するところは無かった。ただ、帝政時代のロシアとギリシャ正教への興味が湧いただけ。 かつて大作としては、「ジャンクリストフ」、「夜明け前」、「モンテ・クリスト伯」などを読了したのだが、年のせいで今度はやっとというところ。内容については、とてもコメントできず。 | ||||
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| なんでこんなに訳文が下手なのかとおもい、図書館で翻訳者の著書をざっと読んだ エッセイだったが、なるほど、物書きの資質が欠如している、これじゃ原文がよくても無理だ 描写力、情景を喚起する力がない、ものの見方が平凡、人物を描けない、自分本位、動きが出ていない、ダメさ加減をあげればきりがない、つまりはタテをタテ、ヨコをヨコにしか描けない、タテとヨコを混ぜたらどうなる?、三次元であるはずなのに軸の一本が隠れたような絵になり、それでは平面にしか映らない、静物を静物としてしっかり枠におさめる力、研究だけにそれはあるのかもわからない だが小説の翻訳というのは重いカメラを担いで動き回る人物の人間性の底までを巧みに撮りきるだけの機動力と直感の鋭さが必要のはず、研究者の資質とは別のものになる もっとも原文がもともと悪く、翻訳者がそのとばっちりを受けたというだけなのかもしれない、なぜなら、最終巻でドスの記述方法が「口述筆記」と明記されているから それが本当なら、この「カラマゾフ」という作品は自分に言わせれば完成以前の習作の段階でしかない、この程度の作品を地球規模で崇め奉ることの根拠は、単に長いものに巻かれたい、一般大衆の付和雷同精神のタマモノということ 絞っていえば長男が父親のところに金を盗みにやって来て、塀を上って屋敷に近づき、さあ、と凶器を持ち出したところで「…」 肝心の場面を一行飛ばしてある、筆の技術であいまいにしたのなら納得してもいい、だが、一行飛ばしで重要なシーンに目隠しをする作法など聞いたことがない、めくらましを図ったのはドスが初めてだろうし、最後でもあるだろう 映画で殺人の場面が近づいて次のシーンを黒く塗りつぶし、その後の逃げる展開を写し出したら観客は怒るだろう、だが人類の最高傑作でドスは見事にやってのけ誰からも不満を表明されたりしない ぼくがこのシーンに不満なもうひとつの理由は、このとき長男は銅の杵を使って爺さんをぶちのめしたことは確かなのに、その後この殺人未遂事件に二度と触れなかったこと、血筋でなければ死んだっていいということなのか、読者のなかからそれに対する不満が聞かれないのも不思議だ(あるいはまったく不思議でない) ドスというのは芸術の世界の祭り上げられた傀儡政権の首領に過ぎないんじゃないか、なんであれ、作家は作品のストーリーを最後まで編み上げるのが最低限の責務、その上でどうなのかと作品の真価を問われることになる 人物造形はところどころ優れている、特にゾシマはいいと思う、ところが(全員に当てはまるが)会話が多すぎ、多すぎる会話がさらに鼠算のように増え、大掛かりに作ったロケの場面が単なる舞台美術に矮小化されてしまう、これを繰り返す 次男の大審問とかいう長台詞には笑えた、いくら何でも長すぎる、次男の造形は最初気に入っていた、なぜなら内省的で得体の知れない人物として描かれていたから、この場面でそれも壊れてしまった、大審問の内容はともかく無口なはずがこんなに喋くるはずがない、舞台の袖でノートを抱えたドスが台詞を棒読みしていた、ということだろう? 有名な評論家(小林秀雄だったか、その対談の相手だったか)によれば三男は「キリスト」だという、ぼくに言わせれば世間知らずの餓鬼、単なるニートが行き場がなくなって寺に入ったという程度、悪さをした子供の家に行って隣の部屋に瀕死の病人がいるのに、科学がどうした、芸術がこうした、ときいたふうなことをまくし立てるののに呆れた、病人がいるなら静かにしてあげればいい、そんな常識もない、それがキリストだというのか、もっとも、ここで三男は操り人形と化しているだけで、またしても創作ノートを引っさげてしゃしゃりでてきたドスのことを、本当は鬱陶しく思っている ヴィトケンシュタインが50回読んで完璧だとほめたという、これもよく聞く逸話だ、彼は芸術家ではない、哲学者(論理学)だ、彼はこの作品が好きだった、というだけのこと、それをなぜ人類史全般のレベルにまで大掛かりに普遍化するための道具に使わなければいけないのか、彼はIQが飛びぬけて高い、だがそれと芸術の価値を見抜く力は必ずしも相関していない、特権階級が思い巡らす血筋と私有財産を保持しようという魂胆、その策略にまんまと引っかかり、のせられた(自分は頭が悪いという)劣等感を死ぬほど抱えた一般庶民による共犯行為が、ひとつの歴史的事件に発展するケースが稀にある、そのひとつが「カラマゾフ」だ | ||||
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| 紙面がとてもきれいで読みやすかったです。 文字も大きくて(また下巻は小さくなりました。文字数の関係ですね) 破れやカスレもなく良好でした。 | ||||
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| 次々と豊かな文が、表れ圧倒されるが、文学の才のない私にはなかなか難しい表現が多く、読み進むのに時間がかかった。 | ||||
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| 評者は今から40数年前に米川正夫訳の「カラマーゾフの兄弟」に挑戦したが、前半部の前半「大審問官」の辺りで挫折した覚えがある。この度古典新訳文庫版の評判を聞き再挑戦したが、推理小説を読むような面白さで冒頭からエピローグまで一気に読んだ。 亀山郁夫訳の新鮮さは、日本の読者が読み通せることを第1に考え、文章の勢いとリズムを重視しているところにある。米川訳と比べると、まず感じるのは見た目で頁全体が白っぽいことである。これは、長い文は短く分け句読点を多くし、長い段落は短く分け改行を多くしていることや、難しい漢字や漢語が少ないことによる。また文章の勢いやリズムを損ねる訳注は一切行わず、その分各巻末の解説を長めにとり作品読解の参考となる事項を丁寧に述べる。同じ理由で、ロシア人の長くて複数個もつ名前や呼称はできる限り統一し1つにしている。既訳のロシア小説らしい重厚で屈折した文章に慣れ親しんだ者には、新訳は軽薄な印象を持つのかも知れない。 翻訳とは翻訳家が原文で小説を読み感じとったところを、言葉と文体を考えながら日本語に移し替えるという創造的行為だと思う。一部に亀山のカラマーゾフは誤訳が多いとの指摘がある様だが、言葉に関して言っているのであれば、誤訳と意訳は紙一重であり単純に誤訳と決めつけるのは如何なものだろう。また誤訳が作品の解釈について言っているのであれば、本作品は様々な主題を扱っており、神の存在・非存在を巡る深刻小説と捉えることが唯一絶対ではなく、とてつもない事件や家庭問題を描く通俗小説として楽しんでも良いのではなかろうか。 最終巻となる本書は他に類を見ない構成で、解題としては長いドストエフスキー伝と詳しい作品論が付いている。どちらも亀山氏の力作ではあるが、作品論はやや強引で自伝の反映部分やカラマーゾフ続編にこだわり過ぎだと思う。参考にはなるが本文翻訳とは別冊にすべきではなかったろうか。 | ||||
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| キリスト教に関する基礎的知識の不足を感じ、一旦、カラマーゾフの兄弟は休み、それらの本を読むこととした。 つまり、この小説は、よほどキリスト教に詳しくないと本当に理解は出来ないと言うことであろう。 | ||||
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| 前巻と中巻を読むのは苦行のようになるだろう。が、下巻で全ては変わる。忍耐を持って読んでもらえれば。 こういう傑作について、かける言葉はもうない。・・・昔、ゲーテがシェイクスピアについて述べた言葉として「彼にはこの世界ですら余りに小さすぎたのだ!」という言葉があるが、僕はその言葉を思い出す。カラマーゾフの世界は、この世界ーーーこの宇宙よりも三百倍くらい広い世界だ。何もかもが極限を超越している。愛情は憎悪となって現れ、憎悪は本人にも見えない形になって、本人も理解できないような形で現れる。そして、ラストの検事と弁護人の対決・・・。もちろん、こんな対決など、この宇宙のどこでもかかつて現れた事はないであろう。だが、彼らは対決せざるを得なかった。ドストエフスキーの魂がそれを求めていたからだ。 本書を読んで、面白かった、とか傑作だった、とか言って、それで話が終わらない所に、この作品の偉大さはあると、僕は思っている。現代人はどこでも傍観者であり、いつも自分を楽しませてくれる何かを求めているが、この作品はそれよりももっと怖ろしいものを僕達に提供してくれている。・・・偉大な作品とは、単に面白かったりすごかったりするだけではなく、心底怖ろしいものを隠し持っているのだと僕は思う。・・・本書と比較できる文学作品は僕の知っている限りでは、シェイクスピアの「リア王」くらいではないかと思う。しかし、それすらも超越している。今までの所、僕にとってこれまで書かれた全ての書物の中で最も輝かしく、最も怖ろしい作品だ。 | ||||
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| AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA | ||||
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| AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA | ||||
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| good.aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa | ||||
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