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夜より暗き闇



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夜より暗き闇の評価: 8.00/10点 レビュー 2件。 Bランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点8.00pt

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全1件 1~1 1/1ページ
No.1:
(10pt)

闇から光へ出た男と闇を見つめ続ける男

ハリー・ボッシュシリーズ7作目の本書の献辞にはこう書かれている。

“(前略)ふたりは第二幕が存在することを証明してくれた”

つまり本書はシリーズ第二幕の開幕を告げる作品なのだ。
またその意気込みを見せるかのようにコナリーはノンシリーズの『わが心臓の痛み』の主人公、元FBI心理分析官テリー・マッケイレブ、同じくノンシリーズの『ザ・ポエット』の新聞記者ジャック・マカヴォイを登場させ、ボッシュと共演させる。まさにオールスターキャスト出演の意欲作である。

しかもこれが単なるファンサービスによる登場ではない。テリー・マッケイレブの捜査はハリー・ボッシュが扱う事件と同じ比重で描かれている。つまり本書はテリー・マッケイレブシリーズの第2作目であるとも云える。

今回扱われる事件は大きく分けて2つ。

1つはボッシュが法廷にその事件の担当刑事として出廷している映画監督デイヴィッド・ストーリーによる女優殺し容疑の事件。

もう1つはテリー・マッケイレブがロサンジェルス・カウンティ保安官事務所刑事のジェイ・ウィンストンに依頼されて調査を進めることになる家屋塗装工エドワード・ガン殺害事件だ。

まずボッシュは最初冒頭の1章に登場し、そこからはテリー・マッケイレブの許に殺人事件の資料の分析の依頼が来るところから幕を開ける。 そこからも主にマッケイレブの捜査にページが割かれ、主人公のボッシュは自分が挙げた殺人事件の犯人で映画監督のデイヴィッド・ストーリーの裁判に出廷する様子が断片的に描かれるだけである。

読者は果たしてこれはボッシュシリーズの7作目なのか、もしくはテリー・マッケイレブの第2作目の作品なのかと戸惑いながら読み進めていくと、上巻の後半にとんでもない展開が待ち受けている。

なんとテリー・マッケイレブが事件をプロファイルして絞り込んだ犯人はハリー・ボッシュだというのだ。

とうとう作者コナリーはシリーズ主人公をも容疑者にするという驚きを読者に与えてくれたのだ。

探偵役が事件の容疑者となるという話は実は昔からよくある手法で、それは主人公の視点で捜査をしている過程において、主人公自らが窮地に陥っていることに気付く構成である。しかしコナリーはそれをノンシリーズに登場した有能な元FBI心理分析官からの視点で捜査して容疑者を主人公へ導くという全く新しい手法を編み出した。
しかも主人公のボッシュは自分が容疑者として見られていることを知らないのだ。もしかしたら他の過去の作品群に同様の手法を用いた作品があるのかもしれないが、私は寡聞にして知らない。
そして知らないことが私にこのシリーズがミステリとして更なる飛躍を遂げたことを感じさせてくれた。なんと幸運なことだろうか。

しかし毎回このコナリーという作家はどれだけ緻密な物語世界を作っているのかと唸らせられる。
今回マッケイレブがジェイ・ウィンストンに請われて調べる事件の被害者エドワード・ガンは『ラスト・コヨーテ』でボッシュがパウンズ警部補を殴り、強制ストレス休暇を取る羽目となった、パウンズが誤って解放した取り調べ相手だった。

私も読みながらボッシュが取り調べをした事件に既視感を覚えていたが、まさかあの事件だったとは。

更にコナリーが素晴らしいのはボッシュが売春婦の息子であることの出自、そして母親を何者かに殺されたことで、かつて正当防衛とはいえ、娼婦を殺害したエドワード・ガンに対して母親殺しの犯人をダブらせているなど、更に常に反目しあっていた元上司パウンズが亡くなっており、それが早々にボッシュが嫌疑から外れていることなどの諸々がボッシュ=犯人として有機的に絡み合ってくる。

更に本書において特に強調されるのは闇。
人の死を扱う刑事、心理分析官は犯人の闇を見つめつつ、自らもまた闇から見つめられていることに気付く。それはまさに魂を削られていく作業で、それが殺人を追う仕事であれば延々と続く。
そしてボッシュはかつてヴェトナム戦争でトンネル兵士として常に暗闇を見つめていた男。その後もサイコパス達を相手にし、闇を見続けている。こんな第1作からの設定が7作目にしてなお効果的に働き、そしてボッシュが容疑者に置かれるという最高のピンチを生み出すことに成功している。
シリーズ作品を余すところなく料理し、1つも無駄にせず、その醍醐味を味わさせてくれるコナリーの構成力の凄さには7作目にしてなお驚き、そして惜しみない賞賛を送らざるを得ないだろう。

これは一方で読者はみすみすこのシリーズを読み飛ばすことが出来ないことを意味している。注意して読まないとこの辺のシリーズの醍醐味が味わえない。
それはつまり裏を返せば、ずっぽりシリーズに嵌ればあらゆる仕掛けをコナリーが施していることに気付き、実に愉しめるシリーズになっていることを意味している。

例えば今回でもノンシリーズで主役を務めた2人の他に、『エンジェル・フライト』でボッシュの捜査の支援を行ったジャニス・ラングワイザーがデイヴィッド・ストーリーの殺人容疑の裁判で次席検事補という立場ながら実質的に検事側の代表として登場し、絶妙な采配を振るっている。

その他検事のロジャー・クレッツラーと2人の上司である主席検事補のアリス・ショート。

昔、メキシコ・マフィアの事件を扱った際に有罪判決に腹を立てたマフィアの一味が暴動を起こそうとしたのを懐から取り出した拳銃で天井に一発撃ち込んで静まらせたとの逸話から“シューティング・ハウトン”という異名を持つハウトン判事に今回デイヴィッド・ストーリーの弁護を請け負った、その名前から“言い逃れ(リーズン)”の綽名を持つジョン・リーズン・フォウクスなども今後展開するコナリーによる法定サスペンス『リンカーン弁護士』シリーズで再会する可能性はあるのでここに記録を留めておこう。

また昔ボッシュが刑事ドラマのモデルになった時に知り合い、その後も警察捜査の専門的アドバイザーとしてボッシュが付き合っている映画制作会社のアルバート・セドも頭に留めておかねばならない人物だ。

テリー・マッケイレブとハリー・ボッシュの2人を繋ぎ留める楔として今回15~16世紀に活動した、今なお謎とされている画家ヒエロニムス・ボッシュの絵画が扱われる。そう、ハリー・ボッシュの本名の基となった実在の画家である。
レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロと同年代に活動しながら、希望と人間の価値観、精神性の礼讃とは真逆の、世界の終末と地獄と人間の罪という闇を描いてきた作家。題名の『夜より暗き闇』はこの画家ボッシュが見つめ、そして作品に遺した人間の闇を指している。
更にコナリーはこの謎めいた画家について筆を割き、各作品に悪魔のモチーフとして描かれているフクロウについて詳しく述べる。事件現場に置かれていたフクロウ像とボッシュの暗闇が交差する、非常に重要なパートである。特に本書で言及される『最後の審判』と代表作とされる『快楽の園』は本書のそれぞれ上巻、下巻の表紙に使われており、それを参照しながら読めるのは講談社のファインプレイだろう。

敢えて主人公の名をこの特異な画家と同名にしたことがこの8作目でようやく日の目を見る。当初の構想にこのモチーフが頭にあったのかは解らないが、1作目よりエドワード・ホッパーの「ナイトホークス」という絵画をモチーフに扱っていたほど、絵には造詣があると思えるコナリーのことだから、いつかは用いようと温めていた設定だったに違いない。

また本書では2人が知り合うきっかけとなった過去の事件についても触れられている。

名もなき少女がマルホランド・ドライブのゴミ捨て場に遺体となって発見されたその事件でハリー・ボッシュは当時FBI心理分析官だったテリー・マッケイレブに犯人のプロファイリングを頼んだのだった。そして容疑者を2人に絞り、片方の容疑者宅を2人で訪ねた際に、テリーは家の様子から彼がホンボシであると確信し、その場で逮捕して家宅捜索をしたところ、猿ぐつわを嵌められて監禁されている16歳の少女を救い出すことに成功した。
しかしその犯人は丘の上の名もなき少女の犯行については否定し、両親からの捜索願も出ないその少女にボッシュはスペイン語で“青空”を意味するシエロ・アズールという名を付けた。そしてマッケイレブはその名前を自分の愛娘に付けた。つまりマッケイレブにとってその事件とボッシュのことが忘れ得ぬことであったことを示している。

テリー・マッケイレブとハリー・ボッシュ。この2人の主役はそれぞれ光と闇を象徴している。

既にFBIを引退し、友人とチャーター船業を営むテリー・マッケイレブにはグラシエラと養子のレイモンド、そしてグラシエラとの間に出来たシエロという愛娘がいる。彼は引退はしたものの、かつて事件の闇を、深淵を覗き、そこから犯人を突き止める、FBI時代の仕事の魅力から逃れられず、当時の有能ぶりからかつて共に事件を捜査した面々から捜査の協力の依頼が来ると断れない。再び自らを人間の闇に投じながらも家族という還る場所がある故、彼はまだ光に留まっている。

一方ハリー・ボッシュは亡くなった売春婦の息子という昏い出自、元ヴェトナム戦争のトンネル兵士という闇の中で生死を潜り抜けてきた経歴ゆえか、どこまでも闇が付きまとう。彼は自身の母親が殺害された事件を解決することで自身が祝福されて生まれたことを知り、更にエレノア・ウィッシュという伴侶も得て一旦は日の当たる場所へ出るが、愛していた妻は去り、再び孤独に事件に身を投じる。
彼はいつも仕事が終わるとバルコニーでビールを片手に闇を見つめる。自分が正しいことをしていると確認するために。ただそこには闇が広がるだけ。

再び闇に向かうことを決意したボッシュの新章。
闇は彼を捕え、取り込むのか?
もしくは彼が云うように犯罪という疫病の只中に身を投じ、自らを疫病の媒介者を退治する者としてそこに生きがいを見出していくのか。
本書はボッシュが犯罪者と紙一重であることを示唆することでまた読者を不安に誘う。

今回闇に沈むボッシュを留まらせたのは皮肉にも当初ボッシュを容疑者と睨んだマッケイレブだった。
現場に置かれたフクロウ像が契機となってボッシュの絵画に行き着き、そこからハリー・ボッシュ=犯人とマッケイレブは連想したのだが、ボッシュ自らによってもう一度事件を見つめ直すことを示唆され、マッケイレブは本命に行き着く。

「ミネルヴァの梟は迫りくる黄昏に飛び立つ」という言葉がある。

これはヘーゲルの『法の哲学』の序文に掲げられた言葉でこれは本来、哲学は今あるか、過ぎ去った時代精神を、後から概念に取りまとめて人に見える形で示す学問であるということを示しているのだが、この言葉は実に的確に本書を象徴しているように思える。

この言葉の梟が智慧の象徴であることを考えれば、それはマッケイレブその人。そして迫りくる黄昏がボッシュ逮捕であれば、窮地に陥ったボッシュを救ったのはマッケイレブだったという意味になる。
つまり闇に飲まれようとしたボッシュを救ったのはマッケイレブだったのだ。

もしくはヒエロニムス・ボッシュの絵に梟が多くモチーフとして使われていることから梟をボッシュと捉えることもできる。黄昏は夕暮れ、つまり夜が来る前、闇が訪れる前を指す。つまり彼は迫りくる闇に呑み込まれる前に飛び立つことが出来たのだ。

さて今後ボッシュはダークヒーローの道を突き進むのか。
また今回は単に物語のアジテーターの役回りに過ぎなかったジャック・マカヴォイは、ボッシュとマッケイレブ双方に縁があることが解ったわけだが、今後も彼らに関わっていくのだろうか。

常に読者の予想を超えるストーリーとプロットを見せてくれるコナリー。そして次はどんな物語を我々に披露し、そして驚かせてくれるのだろうか。


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