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八日目の蝉
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八日目の蝉の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.06pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全425件 241~260 13/22ページ
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前半、不倫相手の子供をさらって逃亡する希和子。 後半、希和子が捕まった後の薫、恵理菜の幼児〜大学生について書かれています。 私は、2歳の娘を持つ母親なので すごく複雑な気持ちでこの作品を読んでいました。 さらわれた瞬間は、こんな可愛い時期に許せないと言う 気持ちで一杯でした。 しかし読んでいくと希和子の目線での 話となっていくので一生懸命育てている希和子に共感していく方も 多いかと思います。 しかも本当の両親より希和子の方が理想の親には近い存在なので 余計そう思わされます。 後半、薫の思考、心情を読んでいて辛くなる事が多かったです。 それでも最後は、過去と向き合い、新しい人生を スタートさせる事が出来て本当に良かったと思っています。 最後の薫と希和子のニアミスシーンはすごく 現実味を感じてすごく良かったです。 各々の立場で真剣に考える事が出来て 胸に響く、面白い作品でした。 | ||||
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檀れいさんの出ていたドラマ版を見たのち、本を読ませていただきました。 ドラマ版では演出の都合か、細かいセリフやエピソードが足されていたようで、本の方は全体的に平坦な印象。 登場人物の心情の描写が少ないのかぼんやりしているのか、あまり共感できませんでした。 本を読んでいまいち共感できなかった方はドラマで見てみることをお勧めします。 ドラマ・映画の原作としては評価できる作品です。 | ||||
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映画化もされた角野光代の中央公論文芸賞受賞作品。 第一章 不倫相手との子供を堕した希和子は、その直後、彼と妻との間に子供ができたことを知り愕然とする。 やがて、彼女は衝動的に彼の家を訪れ、その娘を連れだしてしまう。 だが、そんな二人に行くあてなどあるわけもなく、彼らは放浪の末、ある宗教施設のやかっかいになることになり……。 第二章 大学生になった恵理菜は、家族との距離感に苦しみつつ、妻子ある男性との不倫生活を続けていた。 そんなある日、昔同じ施設にいた千草と名乗る女性が彼女の前に現れる。 恵理菜にとって過去は、何の記憶もなくただ家族との間の溝を作ったものでしかない。 それゆえに、昔を知りたいと語る千草に嫌悪感を覚える恵理菜。 だが、自らが妊娠していることを知り、彼女自身も過去と向き合うことを決め……。 扇情的にも、感情的にも書けるだろう題材を扱いながらも、作者は決してその方向へ進もうとはしない。 ただ淡々と丁寧に描かれるのは、その時における人物たちの状況と心情だけ。 それゆえか、出てくる「人の情」や「優しさ」「美しさ」などが自然と心を打つ。 ここには「悪意」を目指した「悪意」がどこにもない。 悪人が一人もいないと言ってもいい。 それでも、運命は彼らに「絶望」をもたらす。 第三章を描かなかった点も素晴らしいと思った。 大抵の作家ならまず間違いなく第三章を書いたはずである。 それが読者の望むであろう章だとわかるからだ。 けれど、角野光代は敢えてそれを描かない。 そのことが、この作品を物語を超えた「何か」にしているのだと思う。 もちろん、読み終わって感じる不満がまるでないわけではない。 最後のエピソードは第三章を描かない以上、不要だと思ったし、 伏線が張りっ放しになっている部分が目立つのも気になった。 第二章で文章がやや感傷的になっているところがあるのに気づく人もいるだろう。 ただ、そういったことを全部「どうでもいい」と思えるほどの力をこの作品は持っている。 小説とは最終的に作者のものなのか。読者のものなのか。 そういったことまでも考えさせられる、とても面白い作品だと思った。 ※ほか、ちょっと。 ・池澤夏樹さんの解説には唸らされた。確かにこの作品に出てくる「男」にろくなのはいない。 ・桐野夏生さんの「残虐記」も同様な体裁をとっているが、あれよりももっと淡々としていて静かに心に響く。 ・映画のほうは観ていないのでわかりません。 | ||||
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母親が娘を誘拐し、そのまた娘は未婚のまま子供を身ごもる。 そこには「擬似母娘」の関係が成立する。 おなかを痛めた子が幸せか、それとも血はつながっていなくてもなめるように可愛がった子供が幸せか? 舞台が昭和末期〜平成前夜からはじまるところから、「女性に性としての快楽を失われていた世代」がまざまざと書かれている。 それは希和子が転々とした居場所にある「においのなさ(=生活感のなさ)」に描かれており、希和子が一時身を寄せた連れ込み宿での男女のリアリティ。 そしてお祭りにまぎれたお遍路さん。そして希和子がまた、母親に「きたないから手を洗いなさい」と言われていたというところにも。 (ただ世情的にある団体を思わせる描写が出てくるが、それがこの小説のリアリティを増しているのかもしれない) 2章の「娘」は、「私」という一人称で書かれ、「愛する人」に対する必死さというものはまた違うところにある。 「8」という数字にはいろいろな暗喩がある。 物語がサスペンスだから多くは語れないが、そのひとつに「輪廻」があるのではないか。 解説の池澤夏樹氏の文章が秀逸だが、これはジェンダー論の話であると私は思う。 よけいな詮索のない楽園と、人情味が反転する失楽園の矛盾。名前も、戸籍も、ときには記号でしかない。それでもひとは生きられるという哀しさ。 女性よりもむしろ男性に読んで欲しい。 | ||||
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ミステリーじゃないし。 この小説に感動するポイントがわからないです。 不倫してる女や男の、グジグジした言い訳をよく聞く立場としては、 不倫ってご都合主義です。所有欲のかたまり。 この小説も変です。 不倫して、でも幸せに生きていく、みたいな? 読み終わってあまりの気分の悪さにレビューを初めて書きました。 | ||||
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八日目の蝉は、悲しいか? 結論は読者各々が考えるべき小説ですが、男性女性いる人間として考える1つの物語です。 日常の中にこんな人たちは結構いて、この小説の中身というよりも、そういった背景を持った人たちがこの世界にはたくさんいて、それぞれに悩み、自分なりに答えを出しながら生きている、と感じることが出来るのがこの小説のいいところ。 実際の都市が結構でてくるので、一瞬ノンフィクションかのように錯覚してしまうのは、筆者の筆遣いのうまさでしょう。 フィクションの物語を進めながら、人間の感情に訴える語り口はさすがです。 | ||||
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TVドラマ、映画、原作の順番で読みましたが、やはり原作が総ての集大成。 素晴らしかったです。 決して気持ちのよい話ではありませんが、これほど母娘の関係について考えさせられたことはありませんでした。 主人公、娘、実母、それぞれの立場で女が抱える闇と希望を味わえた気がします。 忘れられない作品になりました。 | ||||
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前半と後半で、誘拐犯と誘拐された少女の側からのストーリー展開。 犯罪が周りの人々を、環境を変えて行く。人間の心が、もの悲しく、暖かく、描かれている | ||||
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「母性」をテーマにしたサスペンス作品。子供を誘拐した女・希和子の3年半の逃亡劇と、事件後、大人になった子供・恵理菜の葛藤を描く2章(プロローグである第0章を入れると3章)から構成される。 衝動的に幼児を誘拐してしまった、希和子は異常。ただ、その後の薫(恵理菜)に対する愛情は実の親子のようだった。 薫(恵理菜)の実の両親は親として未熟であった。これが本当に皮肉だった。 あっという間に読んでしまえる、時間の流れが丁寧に描写された話だった。 | ||||
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タイトルに意味を持たせた記述がいくつか出てくるが、セミの寿命は決して8日間ではない。 セミは、多少その種類にもよるが、2か月、つまり真夏の間の寿命を持つ昆虫である。 そんな生態はWIKIで調べればすぐに分かる事なのだから、既に取材怠慢であろう。 日本人のその殆どが間違った認識をした上で、作者もロクに調べもせずに付けたのなら 既に作品として失敗。 誘拐犯と親失格者と、その遺伝子を受け継いだモラルの無い娘の物語。 どいつもこいつも「不倫」という行為をする既に人間として何かが欠如、あるいは 崩壊している人達ばかりの話。 現実にもこんな人達が沢山いるから、変な事件を起こすから、本当に不愉快なのに わざわざ小説にして、それが「親子愛」というテーマにつながるのが理解できない。 精神的に、何かもう病んでいるのだ。 こんな人達と関わりたくない、と思いながら読むから、ますます不愉快になる。 というより、こんな人達が社会にいてもらったら困る、隔離してほしいと思うのだ。 その連中のサークル内で、好きに不倫でもなんでもやってくれ、という事。 じゃあ、読まなければいいじゃないか、となるがキャッチ・コピーに「心が震えるラスト」と ある。では最後まで読んでみようか、とも思うわけだ。 いやはや理解できないのは、共感をしたりするコメントがあること。 モラルハザード予備軍なんだろう。その人たちも隔離してほしい。 親子愛は色々な形があるだろうし、血がつながっていなくてもちゃんと愛はある。 結婚していても、他の人に心が惹かれることもあるだろう。 家庭内が暴力で満ちている家もあるだろう。 極貧で満足に食事もとれない家庭もあるだろう。 それでも、人間なのだ。人間は考える能力があるのだ。 下半身で生きている生き物ではないのだ。 こんな全てにおいて精神が崩壊、もしくはモラルを自ら放棄している人間に 愛があるのか。あるわけがない。 出てくる登場人物の殆どが異常者。理解不能。男も女も。 この作品の恐ろしいところは、そういった異常な行為をする人の子は 大人になり同じく異常な行為をする、という事を明確に位置付けていることだ。 自分の二人の子供を放置し、餓死させた女性がいたが、彼女の生い立ちを 調べると恐ろしい事実が見えてくる。輪廻、という言葉が適切かは 分からないがモラルハザードは遺伝し、連綿と繰り返されるのだ。 事実、廻りにそういう親子は沢山いる。 そのような輪廻を表現した作品とするならば極めて良質。 しかし、近い表現をした作品で乃南アサ氏の「風紋」「晩鐘」という傑作がある。 それには遥かに及ばない。 小豆島のシークエンスで、美しい風景が目に浮かぶようで、そこだけが唯一。 | ||||
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今朝2時に読み終えたところです。 私の瞼は笑えるほどパンパンに腫れています。 久しぶりに入った本屋で「あ、見たかった映画の本だ」と思って何気なく購入しました。 夜眠る前に少しずつ読み進めようと思っていたのに、つい一気に読みきってしまいました。 店頭で0章を1ページを読んだ時点からドキドキしていました。 自分がその場にいるイメージが自然に湧き上がり、どんどん引き込まれました。 重大な犯罪から始まったのに、確実に『母と子』となっていく2人。 危なくなるたびにするりと逃げる2人があといつまで一緒にいられるのか… 1日でも長く一緒にいられたらいいのにといつの間にか主人公に感情移入していました。 第一章が終わった時、突然に涙がこぼれました。 どうしてこんなに涙が止まらないのか。私が女だからなのか、母だからなのか。 徐々にわかっていく「その時」とその後。 第二章は最後までずっと泣いたまま読みました。 こんなに衝撃を受けた本は初めてです。 何が衝撃なのかうまく言葉にできないほどです。 本に書いてある2人の心情がまるで自分の気持ちそのものと感じるほどの描写でした。 どうにもできないもどかしさが心に残り、逆に何かがスッキリと解決したような爽快感さえあります。 文庫本でここまで泣かされるとは。買う価値がありました。 | ||||
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一気に読みました。我が家にも乳児がいるので読みながらせつなくなりました。 | ||||
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角田さんが書いた別の小説を読んだことがある。物語の『女性』たちの 心理を交差させて描くのは上手だと思っていた。 この作品は、先に映画を観た。映像に写し出された、『女性』たちの演技力のせいだろうか? 余韻が、小説を一気に読ませた。 不倫の是非はさておき、女性としての弱さ(希和子も恵理菜も、また、恵津子も不倫を通しての男性へ依存)や、強さ(したたかさ?)に対しては、共感できる部分もあった。 子供を大切に思う という点では、作中のどの母親にも共通している。 希和子は優しく理想的な母の部分が多く、家事を放棄して子育てを半ば諦めたような母の描写しかない恵津子は、その表裏が産みの母と育ての母と対極して描かれているみたいだ。 『母』との関係がうまくいかない恵理菜も結局は、薫としての思い出に救われている。愛情って、湧き出るものなんだろうか? 結局は恵理菜自身が千草を初め周りに心を開いていくことで『母』の愛情を認識していくようだ。 母であるにとっては二人の描写は共感できる部分がある。なぜならば、子育てを通して理想と現実のギャップを感じているからだ。 | ||||
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第1章の主人公、希和子に感情移入しながら読みました。 いつ捕まるのか、などとドキドキしながら読み進みました。 第2章はもうちょっと描写が欲しかったですが、クライマックス では目頭が熱くなってきてしまいました。 女性として生まれてきたことの意味を考えさせられました。 また、私も瀬戸内海の近くに住んでいるので、最後の方の 「瀬戸内の海は鏡みたいなんだ・・・」のくだりに共感しました。 | ||||
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不倫相手の子をおろし、相手の乳児を拐って、親子として逃げ切れなかった希和子。逃げてばかりの肉親。居場所のないまま、これまた不倫相手の子を身ごもる恵理菜/薫。男の愚かさ・狡さ、女の愚かさ・強さ。親子とは?母親とは?愛情とは?希望とは?八日目の蝉たちの心の安寧を祈念。 | ||||
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全体を通してあらすじ以上のことは描かれていない。作者が何を言いたいのかわからない。八日目の蝉という題名だって後半にちらっと出てきて無理矢理結びつけたよう。何より嫌だったのが、キワコの薫に対する感情や行動を母性だとしてあること。こんなの母性ではない。不倫して傷つけられて自分のエゴで薫の人生を奪っただけ。一緒にいる過程で確かに愛情は芽生えたかもしれない。でもそれは決して母性ではないし母親にもなれない。母親とは子供の人生に責任を持ち、子供のためなら自分の全てを投げ打ってでも子供にとって一番いい選択をするものだ。キワコがしたことはその真逆。キワコが薫と一緒にいたかっただけ。全体を通して母性というものに自己陶酔してる感があり、感動できないどころかイライラしました。 | ||||
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少しネタバレなのですが、お許しください。 誘拐した娘と誘拐犯との親子関係がどう変わっていくのかという 衝撃的なテーマ設定に惹きつけられて読んだ。 希和子が警察に捕まり、連行されるとき、思わず、警察に、「この子は朝ごはんを食べていないの!」というセリフを吐くシーンとか、とっても心にこみ上げるものを感じました。 本小説で、私が特に心に残ったシーンが2つありました。その第1のシーンがこの捕まるシーンであり、その第2のシーンが薫が希和子と実母父のすべてを愛していることに気付くシーンです。 小豆島という設定もとてもよくって、美しい自然、海、森に囲まれた中で逃亡生活を続けながら、確かな充実感をもつ希和子・薫親子の姿はとてもせつないけど、親子愛の美しさをいかんなく表現していると思った。 いろんな親子関係がある。誘拐は悪いことだけど、心から子どもを愛し、子どもと一緒に生活したいという願いは、万人に共通する思いなのだとあらためて学んだ。 読後の余韻はしばらく続きそうです。 よい作品でした。 | ||||
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あらすじは、不倫相手の子を流産した主人公・希和子が、その男の妻が産んだ娘を誘拐して3年半の逃亡を続けたということ。単純だ。しかし犯罪者となる希和子を悪人として見る読者はいない。狂乱者として希和子を認識する読者もいない。 それは、希和子が法と人道を犯してまで何故誘拐したのか、その気持ちが分かるからだ。共感できるからだ。 社会は決してその行為を認めるわけにはいかないが、同時に希和子個人を憎めないのだ。 何故か。それを母性愛を共感できるからという書評も少なくない。しかし、これを母性と判断してよいのだろうか。 作者 角田光代は巧みな仕掛けを施している。ひとつ目が希和子の頭の中でかん高い音がするのと赤子の大きな泣き声がシンクロすると、希和子の潜在意識が普段の意識より前に出てしまうことだ。 魂と同じではないが程近い、潜在意識が“暴走”したからこそ、希和子の逃亡を成功させるチャンスが次々と訪れるのだ。いわゆる計画的犯罪ではチャンスは作らないと訪れない。 誘拐直後の火事、初期容疑者の間違い、次々と恵まれる宿泊場所。これらは全て、希和子の潜在意識が引き寄せているのだ。 そういう観点で読むのも有りかと思う。 注目なのは、題名の 「八日目の蝉」だ。 セミは6〜7年間土の中という地味な所で暮らし、晴れて地上に出たところで七日で死んでしまう。これが前提。でも、 みんなが七日目で死んでしまって一人だけ八日目を迎えることになったら、それは幸せなのか否か。という思考の例に蝉が利用される。 小説では、誘拐犯として刑を終えた希和子が社会に出てきても何も無く、当初に言われた「がらんどう」という言葉に再度反応する。「ほんとうにがらんどうになっちゃった」 不倫相手からのハラスメント、「あなたは子どもを産めないからがらんどうだ」という攻撃に希和子の心は壊れてしまい犯行をしてしまう。 また、子どもの頃に誘拐された恵理奈(薫)も青年になってそれについて思い悩む。つまり、恵理奈(薫)は幼かったので記憶が定かでないのだが、誘拐されていたあの頃が蝉の七日間なのであって、血の繋がった親に育てられた最近の日々は八日目なのだと感じているのだ。 とても悲しい。 若い恵理奈は人生を改善しようといきり立つ。つまり上手く出来なかった実の父母とお腹の中の子どもを育てたいと思う。そうしてやり直したいと考える。更に忘れた過去にも背を向けず勇気を持って確かめに行く。作者は、女が妊娠して母となる時に強くなるのを素敵に描いている。 作者が残酷なのは、希和子ががらんどうなままストーリーを終わらせたことだ。せめて薫とニアミスしたとき気付かせてあげても良いのにと同情する。 ほんとうの悪人は男共なのであって、希和子と薫を幸せにしてあげるという勧善懲悪の気持ちは無いのだろうか@角田光子女史。 | ||||
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この小説は、運命に弄ばれる2人の女性(2人の女性の関係がこの小説を面白くしているゆえんである)が主人公である。二人ともに、なぜ自分がこのような運命になってしまうのかと問い続ける。いろいろな人とのかかわりを持ちながらも、同じ問いを繰り返し、人生を呪いながら、それでもたくましく生きていく。そして最後には、自分の運命を受け入れ前に踏み出していく。私はこの小説から、「人生は不公平だ。でも、その不公平な人生を受け入れて前向きに生きていくことが大切だ」というメッセージを受け取った。 | ||||
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不倫相手の子供を誘拐し,逃亡しながら育てていく第1章と その後,本当の両親の元に戻って成人した子供を描いた第2章からなるストーリー. 前半は,出来心で誘拐した子供を,しかし,大事に育てていく姿が一番のテーマである. この行動は極めて非合理的・非現実的に映る部分もある. しかしながら,捕まったときに犯人が発した言葉に,理屈だけでない人の心理を突きつけられた気がした. 後半は,誘拐された子供の成長した姿が描かれる.崩壊しかけた家庭と, 周囲の好奇の目に苦しめられる生い立ちを語られるが,どこか他人事のような冷めた語り口が逆にリアルで, 混乱した感情から遠ざかりたいような離人感がうまく表現されている. 事件によって人生をメチャクチャにされたと思い込もうとすることで心のバランスを保っていた娘が, 自分の妊娠をきっかけに誘拐されていた足跡をたどることも,あまり共感しにくい行動ではある. しかし,その誘拐生活が実はしあわせだったということを認めて, そして,自分自身の子供との将来を描いていけるようになるための必要なプロセスなのである. これも理屈では説明できない,でも,けして理解不能ではない感覚であって, 難しいテーマを十分に描ききった作品である. | ||||
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