■スポンサードリンク
異邦人
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
異邦人の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.43pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全223件 101~120 6/12ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
第一部、ムルソーが自宅の露台でチョコレートを食べながら空を、人々を眺める場面が彼らしく、愛や安らぎを感じました。 裁判では誰も認めようとはしない一面かもしれない。 第二部、御用司祭とのやり取りには本当にムルソーに共感。 御用司祭にはイライラします。 どういう理解をされようが、自己の静かな情熱を貫き生きるムルソー、とても魅力的で、私のお気に入りの一冊です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
太陽がまぶしくて人を殺してしまった一青年の物語。 第一部のあっけらかんとした青年の心象風景は今でも好きですが、第二部の裁判の場はいただけません。 “北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ”つまらないからやめろと私も思うのです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
皆さんのレビューを見ていると主人公に対する愛情を感じます。 私にはムルソーは今で言う発達障害だったのかなという感想が最も大きくて自分がこんな感想しか抱けないことを残念に思います。 発達障害の人が殺人を犯し、糾弾され、しかしなぜ糾弾されているのか理解できない。 理解できないまま、あさっての方向を向いた理解を示したような風で物語は終わる。 読み終わって1週間くらいは落ち込みます。 これがこの作品の偉大なる由縁かなと思いました。 ショックを与える。 という意味で。 あとがきに、サルトルの嘔吐と並ぶ名作とあり、次は嘔吐を読んでみます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
不条理をテーマにしたカミュの代表作。短編だが二部構成になっている。 第一部は、母親の葬儀以降の数日間、主人公の日常生活と、犯罪に至るまでの経緯を描いた。 一つ一つの文が短かく、淡々と状況報告されているような感じだ。 だがその表現が主人公を、淡白で、物事に固執・頓着しない性格のように表わしている。 ここまで事実を事実と割り切る性格の人間は、自分は出会ったことが無い。 読んでいて奇妙であると同時に新鮮な感じがした。 しかし見方を変えると、主人公はとても直感的で欲求に自然で忠実だとも言える。 第一部の眩しいくらいギラギラした太陽の描写や、恋人とのやり取り (主人公自身は相手を愛していないと言っているが)から窺い知れる。 第二部は、罪を犯した主人公が拘留され、裁判を受け、刑が確定するまでの様子を描いた。 裁判では主人公を差し置いて勝手に進んでいく。 殺人の動機が「太陽のせい」だったのは、彼にとってはまぎれもない事実だが、 読み手の自分と同じく、登場する検事・陪審員・裁判官には全く理解されない。 それどころか、母親の葬儀で涙を見せず、喪に服すこともしないで友人と遊んでいたことをあげつられ、 その非人間性を理由に死刑にされてしまう。 第二部では暗く沈んだ闇の描写が多くなり、主人公の心を反映しているようだ。 相変わらず「どうでも良い」と他人事で、淡々としている。 それでいながら、一方で死にたくない、という感情があって、 死ぬまでの間の生きがいが、こういう境遇に自分を追いやった他人への憎悪と言う。 この矛盾が何ともやりきれない印象をもつとともに、人生とはなんなのだろう、と深く考えさせられた。 お勧めの一冊。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
久しぶりに読んだ。太陽の眩い暑さが人生の全てを決めてしまうこともある。人間はそれだけ不確定な生き物でしょう。人間が造った社会より自然に身を委ねるムルソーが異邦人とは… | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
主人公は、徹底した悪党である。友人が女性を売女扱いし彼女を虐待するのに大いに手を貸し、人を殺したのを何とも思わず(被害者が有色人だからか)、殺人したくせに自分の命は助かるべきだと思っており、自分を必死に救出しようとする人々を軽蔑し嘲弄する。こいつは人間か。「異邦人」じゃなく、「人非人」の題が似合う。この本を読んで、主人公の倫理の完全欠如に気がつかない人々は、変。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
滑稽かつ酷い裁判の後の、最後の司祭とのやり取りが、あまりにも感動的。 あの司祭を、キリスト教的俗世間のくだらない価値観の象徴と見るか、裁判で殆ど喋らせてもらえなかったムルソーの、心のほとばしりをやっと受け止めてくれた存在と見るかで、あの場面の印象は変わってくるのではないかと思います。 私は後者でして、あの司祭はもしかすると、読者である私達の(「社会的常識」の中で生きる私達の)心の代弁者なのではないかと感じています。 ムルソーの切な過ぎる叫びの後に訪れる、夜の静寂の美しさ。カミュ作品の特徴である、自然界や人間界の営みの描写の素晴らしさが、この作品でも随所に生かされていて、心が洗われます。 この作品が書かれた時代の西欧社会の状況は、日本人である私には、本当の意味では理解出来ないのかも知れませんが、それでもムルソーの、この世界の美しさを享受する幸福感、そしてそれを他者と共有出来ない孤独感は、私にも少しは分かるつもりです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
非常に好きな本作品。幾度となく読み返しました。何度読んでも面白い、元気になる。 最初にこの作品を読んだ後、シシュポスの神話も読んだのですがこちらは思想の深さとしては「あれ?」という感じでした。 この作品の主人公には現実にモデルがいたらしいのですが、もしかしたらその人は著者よりも真理に近かったのではないかと思いました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
このタイトルに惹かれて購入しました当たりでした。そんな買い物もたまには◎参考までに。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
昭和の小説が読みたかったので購入した。とても良かった。気に入って居る。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
昔の作品ですが今の自分も共感する作品でした。 この主人公は作中では一般大衆とは違う人間と捉えられています。 主人公自身は何度も私は一般的な普通の人間だと唱えます。 その証明が作中ではなく世界的な名著となったことで出来たのかと思います。 この本が共感を得る理由の一つは主人公が非常に正直な人間であること、その正直さが社会性や大衆論を排除したとても個人的で人間的な正直さなことだと思います。 社会において人は善悪や自分の言動を本心ではなく通俗的な物差しで判断して行いがちですが、その度にとても小さな石のような違和感を心の隅に抱きます。 この作品はそれを主人公の正直さを以てあらわにしてくれます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本作を読み終わった後、何だか肩の力が一気に抜けました。 人生が無意義。 なんてネガティブな思考を持った主人公なんだ、と思う方もいらっしゃると思います。 しかし、自分にとってそれは真逆な考え方でした。 自分にはどうでもいいこと、と思えるムルソーの思考はむしろ人生を生きやすくしているんじゃないでしょうか。 生きる事なんて意味がないなんだから、もっと気楽にいきましょう、という風にも感じられました。 まあ、でも実際にムルソーみたいな考え方で世の中を生きてたら、周囲からは異端者か何かに見られるでしょうね……。 本書自体は最後まで滞ることなく、読み終えられました。 不条理をテーマにした傑作品だと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ストーリィにさほどの意外な展開もなく面白みに欠けるという評も見られますが、その単純なストーリィにこそ人間存在の深遠な意味も込められているのでしょう。ですから、一見さりげないが高度に洗練された文体によって人間に対する深い洞察が随所に鏤められ、読者を魅きこんでいきます。二十世紀文学の金字塔とまで言われる所以は、新たな人間造形とその描写力(文体)にあるのでしょう。自分を他人事のように突き放して表現する乾いた文体の魅力は非常なインパクトがあったようで、後の作家たちに強烈な影響を与えました。未だにその魅力は色褪せてはいません。(彼の『幸福な死』という試作品も併せて読まれるといいです。文体創出の彼の苦心と飛躍的成長が見えてくるかも知れません。)後半とりわけ結末には少々難を感じるのですが。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ページを捲るのがひたすら苦痛でした。 ですが機会あれば著者の他の作品も読んでみようと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この文学作品を読み、少なからず自分という存在を問うた者として、これからこの本を手に取る人に向けて、僭越ながら一言。 具体的に内容を言及致しませんが、ムルソー(主人公)を取り巻く環境や状況は、彼の存在とは関係なしに、そこにあるものです。そうした要素は、決定的に彼のみならず人間では誰もが変えられない存在であり、そこに存在する人間を限定的に制約(実存的制約)します。 その制約下においては、制約された存在(人間)はそこで制約的行動(そこでのマナー、規律、思考等)を求められます。そして、その行動に従わざる者は、そこでは自動的に「異邦人」にならざるおえません。ここに人間の悲しい宿命があります。誰もが「こうなりたい」、「ああなりたい」少なくとも「こうでなければ....」という叶えられない虚無を抱えながら生きている。 しかし、作中の主人公はそうした一切の願望を排除したかのような人物です。彼は一つの理想的でないにしても生き方の方法を読者に提示したとも解釈できます。ただそうした生き方をする者は「異邦人」になるのは必定(その生き方が主流でない社会においては)。 見よう考えようによっては、「異邦人」にならないためには大衆の中にあって、埋没した存在になるのか、はたまた、大衆の中にあっても、「異邦人」であるのを望むか、人間、私たちは、後者を望みながら前者として生きるのを無意識に選択しているのではないのでしょうか。 この作品は、読者に対して、そうした無意識を照射する「気づき」をもたらす、人種、時空を超えられる名著と言って、決して過言ではないでしょう。そして、これを否定する者は「異邦人」でしょう。(笑) | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「きょう、ママンが死んだ」(6頁)の有名な書き出しに始まる、何とも云えない読後感の一作。アルジェ在の主人公ムルソーの思考と一挙手一投足がトラウマ化して未だに脳裡を離れない。読後も様々な解釈や読みを呼び起こす特異な読書体験。 「それは太陽のせいだ」(131頁)って、それなら本来は精神鑑定を受けさせて、責任阻却で無罪か減刑になる事案ではないだろうか。いずれにせよ、裁判に直面してようやくoutlawたるの自覚らしきものに目覚め(例えば、114頁、118頁、123頁、133頁、140頁、143頁など)、生への執着を見せ始めた主人公の姿は、胸に迫る。不条理に直面して初めて、その人の生が人間が覚醒するというとの謂いなのであろうか。 それにしても、「女をホテルに連れ込み《風紀係》を呼び込んでスキャンダルを起こし、女をカードへ載せてしまう」(41頁)って、一体全体どういう意味なのだろうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
なんといっても圧巻は第二部、裁判のシーンである。 ムルソーが法廷で裁かれることとなったのは、アラビア人を殺害したためで、法廷で追求されるべきは 当然そのアラビア人殺害についてであるはずだ。 しかし、論点はいつしかムルソーの不感無覚、つまり母親が死に、その葬式を執り行ったというのに 母の死に顔も見ず、涙も流さず、そそくさと退散し、翌日には、女と遊び、映画を見て笑い転げていたことに対する非難へと移り変わっていく。 裁判の際、検事は陪審員に向かいこう主張する。 「母親の死の翌日、最も恥ずべき情事にふけった、その同じ男が、つまらぬ理由から、 なんとも言いようのない風紀事件のけりをつけようとして、殺人を行ったというわけです。」 こんな不謹慎な奴なら、殺人をして当然だ!とでも言わんばかりである。 そして、結果的にムルソーは死刑を下され、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望み、物語は幕を閉じる。 集団は、その集団に迎合しない人間、つまりは「異邦人」を徹底的に排斥しようとする。 「みんなと同じ」である必要など本当はありはしないのだが、集団はそれを求め多くの人間はそれに応える。応えることが出来る。 しかし、応えられない人間も少なからずいるし、いていいはずだ。 たしかに肉親の死を悼むのは当然(ムルソーも悲しまなかったというわけではないが)だとしても、それに対して 偽りの涙を搾り出し、数週間にわたり憂鬱を演じ、娯楽を慎むふりをする意味が果たしてどこにあるだろうか。 また、ムルソーが神を信じていないことも、周りの人間に少なからず不信感を与えているが、信仰は作り出すものでは決して無い。 己が自然に信じることの出来ないものを、あたかも信じているかのように演じることは愚の骨頂である。 従ってムルソーは、ただ嘘をつくことを好まず、自分に対して正直に(正直過ぎるほどに)生きただけなのである。 ところが、集団はそれを許さない。故に彼は「異邦人」として断頭台に登ったのである。 「母親の葬儀で涙を流さない人間はこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、 異邦人として扱われるよりほかはない、ということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。」 これは、本書解説にて引用されている、作者カミュ自身がこの作品について語った言葉の一部である。 筆者はまた、ムルソーについてこう語っている。「彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。」 裁判中、ムルソーは犯行の動機を「太陽のせい」と言っている。「太陽」は、作中ことさら強調して描かれている。 この作品における「太陽」というのは、即ち「真理」であると解釈できる。ムルソーは「太陽」を愛していたが故に、 「太陽」の前では正直にならざるを得なかったのである。 「真理はたいまつである。しかも巨大なたいまつである。 だから私たちはみんな目を細めてそのそばを通りすぎようとするのだ。やけどする事を恐れて。」 とはゲーテの言葉だ。けだし、真理というのはそういうものなのだ。 従ってムルソーは、消極的・受け身な人間などではなく、実は誰よりも積極性を持ち、やけどすることを恐れずに、 真理に対して正面からぶつかった熱い男だったといえるだろう。 「集団の人間」は大なり小なり「お芝居」をしている。よくよく考えて見れば、これは物凄くこっけいなことではないだろうか? 私たちが生きるこの「社会」というものは、あえて言うならばどうしようもない「茶番劇」のようなものだと思わざるを得ない。 欺瞞に満ちた人間社会の不条理をありありと描き出したこの作品は、まさに名作と呼ぶに相応しい。 この作品を読んで、「お芝居」を拒否し「異邦人」となるか、「お芝居」をし集団に迎合するかは読者の自由である。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
高校時代の夏休みの課題として初めて読みました。 冒頭から作品半ば以降までは、ムルソーの気持ちの変遷を追っていて、あまり記憶に残っていませんでした。 けれど、それと対照的な最後の彼の本当の気持ちの告白。頭をガーン!と殴られたような作品でした。 今また読み返してみて、この作品のテーマがはっきりとしました。 ムルソーは大勢に対するマイノリティ。 彼は、他の人と”違う”から、無宗教だから、母親の葬儀の際に泣かなかったから、「死刑判決」を受けたのです。 だから、彼は最後に多くの人が自分の死刑執行を見に来てくれることを望んだ。 大勢に従っている人たちは、自分の本当の感情を押し殺して、従っている部分があるのだろうと思います。 けれど、自分はその”大勢”に従わず、自分自身に正直に生きている。それが、なぜ悪いのでしょうか? 殺人は当然のごとく罰せられるべき問題。けれど、自分の信念や考え方まで判決の対象となるのでしょうか? まぁ、大勢と言っても、日本などは過去2回ほど(明治維新のときと戦後)、180度考え方の方向転換を強いられましたけど。たいへんあっさりと。(のように見えますけれど) 人生のうち、この作品ほど感銘を受け、また勇気をもらった作品は、今のところないです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
異邦人を読んだけど良く分からなかった。 というのが僕の感想だけど、僕なりに面白かった点は、マリイに「あなたは私を愛している?」と聞かれたムルソーは「それには何の意味もないが、たぶん、愛してないだろう」と言うところ。彼は愛することは無意味という事を彼女に偽りなく話している。その後も彼の姿勢は、一貫して自分に正直だった。第二部で予審判事に「神は信じるか?」と聞かれてムルソーは「信じない」と答える。後半に入り状況がますます絶望的になってきても彼は嘘を吐かない。彼にとって特赦請願をし、嘘を吐くことは生きる事よりも辛いことだったのかもしれない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
一筋縄ではいかない人間の真相心理をたっぷり味あわせてくれる本。 安価でこんなにたのしませてくれて、ありがたいです。 2014.2.28らんこ | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!