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異邦人
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異邦人の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.43pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全223件 161~180 9/12ページ
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アルジェリアで暮らすムルソーという青年が、フラフラとしてしまうような暑さの中、正当防衛とも言えなくはない状況の下(対決といったほうがいいか)で、友人を狙うアラビア人を殺害する。 その裁判で、唯一の肉親だった母親を亡くしたときに涙を見せなかった男であるといった理由や、加罪行為の動機を聞かれて「それは太陽のせいだ」と答えたりして、結局死刑を宣告される。 その一連の過程でのムルソーの心のうちを描いている。 内容はこんな感じ。 うまくあらすじとして書けてないので、これを読んでる人に誤解を与えそうだが、この青年の行為自体は、ある程度自然なものだと思う。 だから裁判で検察側が死刑を求刑したときなどは「んなわけないじゃん」と思いながら読みすすめていた。 しかし裁判長に「あなたはフランス人民の名において広場で斬首刑」なんて言われたときには、読んでるこっちがショックを受けた。 自分の常識を外されたこともあって、しばらく「え?」というきょとんとした思い。読んでるこちらの思惑は置いてけぼりにされた形で、その死刑判決は変わらず、粛々と時は経っていく。なにか読んでいる自分が不服で上申したい気持ちになる。 もちろん殺人は悪いことだけれど、この青年は悪くないと思っている友人や恋人だっているのに・・・。 これはつまり、この小説の内容に限らず、自分では至極自然にした行為であっても、それはある社会においては許されざる行為であり、許せないことがある、ということか。 母親の葬儀で涙を流さない人間はすべて、この社会で死刑を宣告されるおそれがある、という事例に代表されるように。 日頃から自分は社会の常識やルールに合わせるために、自分に嘘をついて生きていかねばならない、ということか。 そしてこの舞台の中では、自分に嘘をつかない彼は、非常識な、言い換えれば異邦人としての存在だったのだ。 んーーー、うまく書けないけど、カミュの作品は「不条理の文学」と言われるだけあって、実際に起こりそうなだけに、なにか人生のやるせなさ、切なさを感じるものがある。 脳みその中が、ちょっとグチュグチュなので、今度「『異邦人』の哲学的翻訳」と言われている『シジフォスの神話』を読んでみようかと思う。(いつになるやら・・・) | ||||
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キリスト教というひとつの価値観を強要される世界に対する ムルソーの窮屈な気持ちは日本人の私にも十分理解できる。 母の葬式に対するリアクションひとつにも人それぞれの形が あっていいように、世のあらゆるものに対し自分なりの価値観で 行動しよう。ムルソーはそんな自分で考え、行動する自立した人間だ。 しかしそのため価値基準が曖昧かつ不安定であり、彼の行動は 一見すると支離滅裂な脈絡のない判断の連なりだ。 それゆえの社会との不一致が彼を破滅に導いていく。 多様な価値観にあふれる現代で、逆に何を良しとして、基準として 生きれば良いのかわからなくなるときがあると思う。 だから今、ムルソー的な感覚を持つ人は実は多いのではと思う。 しかしムルソーが社会で孤独であったように、その感覚は分かり合えても 結局孤独感をぬぐうことはできないことがつらいと思った。 | ||||
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「人は何にでも理屈を求めすぎではないだろうか」 そんな問題提起を投げかけてくれた人に勧められ読んだ不条理文学の傑作。 主人公ムルソーは一般的に見ればちょっと変わったところがあるにしても平凡な人間に過ぎない。ただ、身の周りの多くのことに対し無関心なだけである。ところが偶発的に起きた殺人後に裁判が開始されると、彼のその非常識な行動や言動が、殺人に直結されてしまう。 検事も判事も、ムルソーの弁護士ですらも、事実を歪曲し必死でムルソーの虚像をつくりあげようとする。彼らにとって社会通念の通用しない人間はそれだけですでに異常で危険な存在なのだろう。 殺人の動機について「太陽のせい」と答えたムルソー。社会通念ではそれは動機となり得ない。しかし彼にとっては、それが殺人の動機だったたのだ。 彼は、死刑となった。 ありのままを伝える正直者ムルソーは受け入れない異邦人である一方で、社会通念に合わせて嘘泣きしたりする欺瞞的な人間に対してはより大きい評価を与えるのが社会なのだということか。 アルジェリア生まれ、1913−1960を生きた作者カミュ29歳時の作品。 | ||||
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「無感動な心」「好きも嫌いも無い」 自分に正直に気持ちを口に出せばほとんどのことはこうなるだろう。 でも他人には異端に写る。 過剰防衛で殺人を犯した主人公ムルソー。 本人も単純な事件と思っていたが、嘘を付けない主人公の発言に検事、 弁護士、裁判官を翻弄させる。 結果的に、法廷は被告人ムルソー不在の検事と弁護士の戦いになり, 検事が陪審員の心をつかみ死刑判決になる。 当時のキリスト教信仰を是とし、ある意味表面だけでも取り繕って 生きていくべき時代に問題を投げかけた小説である。 視点を変えると、裁判を題材にしており、陪審員制度導入へ一石を 投じるものとして読める一冊 | ||||
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世に知られる不条理文学の傑作である。本書における主人公ムルソーを通して、筆者はキリスト教の形式主義的な欺瞞を暴き立てている。 ムルソーはあまりに正直な青年だ。母親の死において涙を流さず、棺桶を開けて母親の顔を見ようともせず、コーヒーを飲んでいる。埋葬の次の日にはマリイと海水浴をする。裁判では起きたことを総て正直に答え、アラビア人をレエモンの拳銃で撃った理由を、「太陽が眩しかったから」と答える。 つまりムルソーは、しなければならないと暗黙的に決められた社会的約束事などには関与せず、自らの感性ないし感情にあまりに素直なのである。したいことを素直にして、したくないこと(例えそれがしなければならないことだとしても)は素直にやらない。想い起すのはやはりメルヴィルの「バートルビー」という人物や、ガーンディーの「サッティーヤグラハ」という思想だ。話がムルソーに関することなのに、彼が意識しないところで話が自然と進められていってしまう。淡々と冷徹な文章は恰もシークエンスミュージックのようだ。ところが最後の最後で強烈なディストーションが起こり、ノイズが沸き立つ。そう、ムルソーと偽善的な牧師との対話の場面だ。そこでカタルシスが生れ、初めてムルソーが一見すると冷徹な中に熱き感情を保持した人物であるということが明らかにされる。 本書において、読者は人間が如何に形式的に善とされる常識の中で生かされ、それを順守することが「人間的」であるとされているか、ということについて深く自問することを余儀なくされる。ディケンズの『クリスマス・カロル』のように、キリスト教的「人間性」を最終的に信ずる生温かいものを真実と捉えるか、それともこの『異邦人』のように、そんなものは最後まで虚偽であるとして全的に否定する荒涼と冷徹なものを真実と捉えるか、それは読者の見解に係っている。私はといえば、この「人間性」すなわちヒューマニズムに対する問いは、生涯付きまとう自問であると感じている。 | ||||
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ママンが死んだ。 だからどうだという気もした。ひょっとしたらマザコン? と思いつつ、読んで行くと、不可思議な世界に入っていく。 日常生活の中で、自分を異邦人さと感じたことがある人なら、読んで意味がわかるかもしれない。 そうでないと、なぜ、現実と意識とのずれや、主人公と社会とのずれがわからないかもしれない。 | ||||
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カミュ自身、「異邦人」の英語版に寄せた序文で、次のように語っている。 「お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりほかにないということである。ムルソーがなぜ演技をしなかったのか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ」 これが答えなのである。若いうち、特に青少年期にこの本を読めば、なぜムルソーがこれほどまで無関心でいられるのか、おそらくわからない。だが、成長する過程での長い時間と経験こそが、カミュの言わんとしたことを理解する手助けとなるのである。 私も去年身内を亡くしたが、どれだけ絆の深いものでさえ、その死に直面してしまうと意外に淡白に感じられるものだ。葬儀や火葬、お通夜など、肉親の死であるというのに、冷徹かつ客観的に眺めている自分の姿がある。これは何も感受性に乏しくなったということではない。これが人間というものなのだ。 その場所でのお悔みや親戚縁者の慰めなど、その場にいた私にとっては何の意味もなさぬものだった。それが泣きじゃくった司祭の姿を通してみればわかるだろう。神の祝福も懺悔も、ただの芝居にすぎぬことを。だからこそムルソーをいらだたせる。 ただ淡々と進む別れと過去の思い出を頭の中で反芻し、そして自分なりに解釈を付けて死者を送り出す。だが、その情景は曖昧で繊細なものなのだ。ムルソーの、一見すれば主体性がないかのような受動的に見える思考や振る舞いも、それを如実に物語っている。そして、いずれは私もそのように送られることだろう。 殺人を犯したのは「太陽のせい」と語った。しかしそう語る彼をだれが嘲笑うことができよう。地球上に降り注ぐ強烈な日の光こそが、彼が彼足りえる原動力となっていたのだから。 | ||||
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読み始めの第1部は・・・まぁ言うなれば前戯見たいなもの「太陽がギラつく」所からこの本の本当の物語が始まる・・・。抜ける喜びがある小説、ストレスが鬱憤が読む事で発散される物語がココにある!!最後まで読む事・・・読んだ人だけがこの物語の快感をエクスタシーを感じる事ができる。 | ||||
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確か、ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』の中で触れられていた。 彼は『異邦人』の主人公について、「薄められた感情」、「自らに対しての異邦人」、 そして「自分の人生の傍観者」と表現していた。 これらの言葉がとても気になり、メモしておいたのだが、どのページに書いてあったか、 またあの分厚い本を読まなければ見つけられそうもないが。。。 とにかく、それで興味を持ち、読んでみた。 今までに読んだことのない不思議な世界だった。 確かにナポレオン・ヒルの言うとおりだった。 解説も読んだが、理解しがたい世界であった。 でも、新しい世界が開けたような気がする。 | ||||
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自分が今現在、もしくは未来に、目にし触れられるものだけを信じ、人生というものについて鈍感すぎるほど考えたことのない主人公。彼は、特に悩みというものがあるわけでもなく、そうした姿勢がとても迎合的に見えなくもない。だがそれは人生に意味を求めず、ただただ生きて存在するということに自足する日々を送っていることの証でもあった。 それがある事件をきっかけに人を殺してしまい、その殺人を神に対して悔いていないという証言をしてしまったために死刑を宣告される羽目になる。 しかし死を目前に迎えることで彼は遂に、自分がただ意味もなく生きることに充足していたのだと自覚するに至る。そのとき初めて、「世界の優しい無関心」に心を開けたような気がした。それは彼自身が自分の人生と存在を初めて自覚した瞬間でもあった―― 主人公が死を前にするところまではあえて味気ない調子で話が進んでいく。 だがそれだけに最後の独白には異様な迫力と説得力を感じた。 人が生きていくのに大した理由などない。 渋い佳作と言えるだろう。 | ||||
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主人公ムルソーにしても、自分からこの世に生まれてきたわけでもなく、私が生まれたのは母親のせいであり、その葬儀に出席しなければならない理由も見いだせない。そして母親、この世界が生まれてきたのも太陽のせいだ。それがこの世界を生み出したのだという不条理。 つまり彼から言わせれば、自分の罪(彼の殺人)はこの世界に私を生まれおとしたこの世界全体の罪であり、私自身の罪ではないという哲学。この異邦人に代表されるカミユの文学が不条理の文学と言われる所以だ。 「私のせいではないんです」・・・・異邦人とはベースボールを見に来た観客であるにもかかわらず、スタジアムに引っ張り込まされ、バッターボックスに立たされた存在としての彼である(彼から言わせればそうなのだ・・打てるわけない)。 | ||||
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自分でもよく分からない経緯で うっかり人を殺してしまった主人公の その前後の日々が淡々と描かれています。 ずいぶん前にはじめて読んだときは 煙に巻かれたような、曖昧な印象をおぼえたのだけど あらためて読むと、そのリアリティに新しさを感じました。 人のやることには、ほんとうは理由なんてない。 理由は自分や他人を納得させるために、後で付けるもの。 だから理由なんて常に考える必要はない。 人生ってけっこうそんな、ぼんやりしたものかもしれない。 だから、迷っている人が読むと、安心をおぼえるかもしれません。 そんな本です。 | ||||
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ほとんどの人間は、意識や考え方の半分以上が¨世界¨で出来ている。それは¨この世界¨の倫理観だったり、宗教だったりする。 そしてそれが無ければ、ほとんどの人間は生きることに支障が出てくる。なぜなら同じような¨世界¨を共有する人間と同じ目線でものを見れなくなるからだ。 ムルソーはそんな¨世界¨を共有することを拒否し、根底では軽蔑している。 誰かが死ぬと泣き、同士を兄弟と呼び合う美しい¨世界¨は、ムルソーにとっては廃人だらけなのである。 | ||||
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人間は矛盾した生き物であるという真理に向き合い、毛ほどの欺瞞もなくその生き方を貫く主人公。彼が求めたのは「世界の優しい無関心」であり「大勢の見物人の憎悪の叫び」罪とは何か?カミュの名声を世に知らしめることとなった最高峰の作品。因みにアルベール・カミュはセイン・カミュの大叔父である。 | ||||
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全編を貫く、冷徹な文体。私、と第一人称形で物語が語られているとは思えないほどに細部まで行き届いた描写。 女の出入りに関係し、殺人を引き起こし、裁判官の前に立たされても、都合のいいウソや哀願をしたりしない。助かるための手段を取らず、淡々と自分のやったことを語る社会的に見て“欠けている”その男に言い渡された判決は、死刑。カフカの描く別次元で描かれる不条理とはまた別の、とがったカミュの不条理。まさに絶品です。 殺人を犯すシーンのあまりにも感情の昂ぶりのない様子と、近所の付き合いで普通に話し合う所にあまり違いがない。そのことに驚きます。裁判中、自分の勝利のために、殺人を大げさに引き立て、感情を引きずり出し、主人公を死刑に突き落とす検事の露骨さも、凄い。 是非原文でも読んでみたい、そんな気を起こさせる一冊でしょう。 | ||||
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R.ダールの短編集に「あなたに似た人」という作品がある。本作を読んで思い起こしたのはこの題名だった。本作の主人公の行動は確かに世間の常識からすれば異常である。作者は意識的に主人公の心理描写をしない。行動だけを見て判断せよという事だろう。そして、こうした世間の常識、慣習から「あなた」の感覚、理性、行動、価値観がズレてしまう時があるのではないかという問いかけをしていると思うのだ。 最近の日本を見ても、我が子を殺す母親、夫の首を切断して電車で運ぶ妻など日常性を逸脱した事件が起きている。これは、さすがに常軌を逸していると思うが、もう少しスケールの小さな所では、自分は世間の感覚とは違うのではないかと不安に思う瞬間があるのではないかと思う。 そんな日常性の中に潜む人間の感覚のズレと不安を寓話的に描いた傑作。 | ||||
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最初の十数ページを読んだとき、なんとも得体の知れない違和感があり、 読みにくいと感じました。なんだかしんどい感じ。 文体に慣れていないせいなのかなと思いつつ、それでも読み進めていくうちに その違和感とは、ムルソーに対する違和感なのだと気づきました。 母親の死を嘆かないという、具体的なことに対する違和感というよりも ムルソーという人物そのものが全体から浮き上がる。 奇妙なずれのようなもの。 そのことに気づいてからは、そどんどん面白くなってきて 夢中になって最後まで読みました。 作者のムルソーという人物の造形は完璧なんじゃないかという気がします。 ラストの一節には震えました。 | ||||
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母親の葬式で泣かないと、死刑になる。 つまり、生きたいなら泣け、というのがこの小説の個人的解釈。 親の死は悲しむものであり、悲しみは涙によって表されなくてはなりません。 それがこの社会のルールであり秩序です。 そしてそれに従う事で、人間は社会に認められ生きることが許されます。 悲しくなくても、生きたいなら上手く嘘をつき演技しなければなりません。 この小説は、そういう社会システムを拒否した男の話だと思います。 ただし、アンチヒーロー的なカッコよさはないです。 ただ淡々と声高く叫ぶでもなく、主人公は自分の信念に従って最後を迎えます。 知らない人間の葬式で悲しい振りをする自分を省みて、 胸のうちに黒い染みが広がった気がします。 | ||||
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主人公が感じているのは生そのもののやらされ感である。彼の前では自らも含め全ての人間は只のマッチポンプになるのである。自分の感情も肉体も自分自身のものという実感がなく人を愛する場合でも愛するとはどういう状態なのかが解らずにいてそれを丸のまま呑みこんでしまえるのである。 生そのもののマッチポンプ性という命題に触れれば人には自由意志が無いのではないかという疑いが生じる。この疑いは底なし沼である。 | ||||
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ムルソーの終盤における絶叫がニーチェの「神は死んだ!」(『悦ばしき知識』125番)の変奏であることは明らかです。よってニーチェのルサンチマン論を知らないと十分理解できないと思います。ルサンチマンを抱く人間は相手がいないと自分を「善い(善良な)」存在だとみなすことができません。精神的貴族が自らの強さ・豊かさ・美しさを自己完結的に「良い(優良な)」ものと評価するのに対し、精神的賤民はまず他人がどれだけ「悪い」存在であるかをでっちあげ非難誹謗したあとで反動的に自らの弱さ・貧しさ・醜さを「善い」ものだとみなすわけです。この錯乱した妬みの思想がルサンチマンです。 ムルソーは一般的に見ればちょっと変わったところがあるにしても平凡な人間に過ぎません。少なくとも第一部ではそう描かれています。ところが第二部で裁判が開始されると、徹底的に嘘がつけないという美徳ゆえの彼の非常識な行動や言動が、偶発的に行われた殺人に直結されてしまいます。検事も判事も、ムルソーの弁護士ですらも、事実を歪曲し必死でムルソーの虚像をつくりあげようとします。彼らにとって社会通念の通用しない人間はそれだけですでに異常で危険な存在というレッテルを貼られて当然なのです。ムルソーが母親の死を悼まなかったのは、それが充実した人生を全うした母親に対する侮辱だと考えるからですが、ルサンチマンに満たされた社会はそれを理解できません。あくまで御用司祭のようにぐすぐす泣いてくれる人間が社会にとって必要なのです。嘘がつけない根っからの正直者ムルソーは受け入れない一方で、嘘泣きしたり謝ったふりをしてみたりする欺瞞的な人間に対してはより大きい評価を与えるのが社会なのです。ムルソーが主体的に「良い」と感じたことでも、社会にとっては「悪い」こととされ、あくまで社会という全体が絶対的に「善い」ということにされてしまうのです。 加えて、この作品がドイツ軍によるフランス占領時代の1942年の作品であるということにも留意すべきでしょう。カミュ自身は否定していましたが、カミュが広義の実存主義者だといわれるのもこの辺に由来しているのだと思われます。 | ||||
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