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異邦人
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異邦人の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.43pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全223件 21~40 2/12ページ
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「寝ながら学べる構造主義/内田樹」にて紹介された名著。 この小説において、作者は主人公の行動や発言を高みから「説明」したり、「内面」に潜り込んだりすることをきびしく自制し、その結果、そこには事実だけを淡々とかつ的確に記述する、乾いた、響きのよい文体が奇跡的に成立しました。 読み始めて最初の頃、ムルソー(主人公)は女だと思っていた。それくらいフラットな文体だった。 態度も言動も行動も全て一貫していて、その場の気分だけで生活すると、他人によからぬ誤解を与え、主観的にはすごく不条理にことが進んでいくことを感じた。 主人公はその場その場を深く考えていない。 だからといって馬鹿ではない。正直にものごとを率直に捉え、率直に返しているだけだった。この作品は、あらすじを読むだけでストーリーは把握できる。 しかし、あらすじの内容に至るまでのプロセスがこの小説の醍醐味になっている。 なぜ死刑判決となったのか、ムルソーは死刑を待ち望むに至るか、端的で明快な描写がこの本の評価に反映されている。 己を信じ、社会の通説や風潮を無視した主人公の「思考」、それを最後に司祭に言語化したことで思考を消化し、世界と一体化した。 俺は俺、それを認めない社会を認める。だから俺が処刑されるときは憎悪を上げて迎えてきてよい。と境地に達した主人公を感じた。 | ||||
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ムルソーは世の中の慣例的な行為と乖離した人物だ。現象のみを抽出する特異な目を持っている。 太陽は輝き、波は打ち寄せ、砂浜はきらめき、殺人を犯す。それらはみなムルソーにとって同列である。外部に対するスタンスは「どちらでも同じことだが…」なのだが、これはポーズではない。ムルソーは嘘をつかないのだ。 しかし、ムルソーは生きている。慣例的で紋切り型の人生を生きている者たちよりも確実に生きている。そうムルソーは自信を持って言い切ることができる。 なぜなら、「まだやってこない未来の底から来たるべき『死』」その真理から目を逸らさず、『死』が自分を捕らえているのと同じように自分も『死』を捕らえる、それがムルソーにとって生きているということだからだ。 ムルソーの目を通してみた世間はその『死』から意識を逸らして、『死』の存在を誤魔化して、虚妄の生活を送っている、欺瞞に満ちた罪人なのである。 そう初めて他者を断罪して憤怒したとき、断罪される自己と断罪した他者は、無関心な世界の下では互いに同じものとして融和し、ムルソーはさらなる一体感を求めるゆえ、人々が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることを望む。 | ||||
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アルベール・カミュ(1913~1960年)は、仏領アルジェリアに生まれ、第二次世界大戦中に発表した本作品(1942年)、エッセイ『シューシュポスの神話』などで「不条理」の哲学を唱えて注目され、戦後発表した小説『ペスト』はベストセラーとなった。1957年には史上二番目の若さでノーベル文学賞を受賞したが、1960年に自動車事故で46歳の若さで死去。 上記の通り、カミュの作品は「不条理」という概念で特徴付けられるが、日本大百科全書では、「不条理」とは「人間と人間、人間と世界との関係が条理・道理にあわないこと。つまり、必然的な根拠が不在であり、すべては偶然に基づくということである。フランス語のアプシュルディテabsurditéの訳で、この語の現代的な用法はカミュに端を発する。彼は『異邦人』において、現代の不条理の状況、現代的な不条理の人間を小説の形で提示し、さらに『シジフォスの神話』においてそれに哲学的、論理的な解明を与えた。」と説明されている。 本作品は、二部構成となっており、第一部は、主人公ムルソーが、ママンの死を告げる電報を受け取ってから、アラブ人を殺害するまでの18日間の経緯、また、第二部は、ほぼ1年に亘る獄中生活と裁判の様子が、記されており、各所に「不条理」(≒偶然)が散りばめられている。 例えば、母の葬儀の数日後、隣人レイモンに“偶々”会って、殺人事件の発端となる手紙を書くことになる件や、レイモンと共に友人の別荘へ行き、三度目に一人で散歩をしていたときにアラブ人に“思いがけずに”会い、ピストルで撃ってしまう件(ムルソーが、それを「太陽のせいだ」と答えたのは、我々人間はその偶然に抗えないのだということを意味している)、更に、裁判の審理が、ムルソーが起こした犯罪そのものではなく、ママンの葬儀やその後数日間のムルソーの様子や行為に関して為されているかのような“不条理”、等々である。 そして、死刑が確定した後、司祭がやってきて神による魂の救済を説くが、無神論者のムルソーは、「君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来るべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕らえているのと同じだけ、私はこの真理をしっかり捕らえている。・・・私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。」と叫び、不条理な世界の中で神に反抗し、地上の生を肯定して、物語は終わるのだ。 (尚、本書は昭和29年の窪田啓作訳であるが、さすがに読み難く、新訳が出ることを期待したい) | ||||
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主人公ムルソーは、まるでサイコパスのような人だと思っていたけど、そんなに変な人じゃなかった。 普通の人。そういう人がえらいことになってしまうところが、現代の怖さ、ということなのかな? | ||||
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数年前に読んだ本なのですが、今日たまたま「こういうことだったのか!」と感じる瞬間がありました。 先日、私は誕生日を迎えました。ただその日が来たからといって、正直心が特別に躍るわけでもなく、「年齢がひとつ重なる日が来ただけで、普通の一日と何ら変わらない」と感じていました。 そんな中。家族や友人らと頻繁に連絡を取り合うタイプのフラットメイトがいて、「今日の夜はやっぱり飲みに行くの?友だちと過ごす?」と聞かれました。 正直、ちょっと気後れする思いを感じ。「いや、特に。ただ部屋で過ごすのが好きだから」と答えると、やや訝しそうに「せっかくの誕生日なのに、友達と集まったりもしないなんて変」というような素振りをしてるように感じました。 いわゆる「普通」の価値観からしたら、誕生日という特別なお祝い日は、家族や友人たちと楽しんで過ごすべきなのだろうと。 ただわたしにとっては、自分の誕生日だからって特別外出したいわけでもなかったし、それよりも今ハマっている好きな本を部屋でじっくり読み一人で過ごしたかった。なのに、周りからはそれを変な目で見られる。 この瞬間、まさしくムルソーのことを思い出しました。母親の亡くなった翌日にビーチで遊んでいたということで「異端者」の烙印を押されるかのような彼を。 誕生日という"特別な日"に、家族や友達といるのではなく、引きこもり型の一日(自分にとっては普段と同じでしかない)を送ろうとするだけで、奇妙に思われる。そのフラットメイトの訝しげな視線を受けたせいもあり、少し気後を感じていました。 しかしここで思うのは、本当に私は負い目を感じないといけなかったのか?それぞれが自分流の経験に従って、"特別な日"をどう過ごすかを決めたっていいじゃないかと。「誕生日」でも「母親の葬式」でも、均一なやり方で過ごすことが周囲から期待されてしまうことが、逆に息苦しいと感じる。そんな中で異邦人は、「周囲から勝手に期待される姿と違っていてもいい」と励ましてくれるようなメッセージを与えてくれるように感じました。 | ||||
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ようやくKindle化されたので、紙の本も持っていますが即購入。 しかし、同じ著者の「ペスト」が売れたから電子化したのでしょうか? 何百年後も読み継がれることの間違いない名作に対して、ブームに便乗したような売り方しかできないのは情けない話です。 | ||||
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何でもない日常の風景を淡々と読ませるカミユの文章力に引き込まれる。素晴らしい | ||||
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和訳しているだけで、小説になっていない。 | ||||
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『異邦人』はすでに半世紀にわたって「フランス語で書かれた小説」のベストセラー・ランキングの一位を続けている。この記録を更新する作品がフランス語で書かれる可能性はこれから先もおそらくないだろう。と、内田樹さんが名著『昭和のエートスの中の『アルジェリアの影』』で述懐されていたので読んでみました。 本著はフランスがドイツ占領下にあった1942年、アルベール・カミュが28歳の時に上梓されました。 ドイツ占領下のレジスタンスの英雄だったカミュ(当時匿名)ですが、『異邦人』はカミュが敬愛していたドストエフスキー文学に連なる文学の深遠さを垣間見ることが出来ました。 また巻末の詳細な年譜により、24歳のカミュが創設した『仲間座』が上演した『カラマーゾフの兄弟』でイワンを演じ、39歳でドストエフスキーの『悪霊』の脚色を構想し始め、交通事故死する前年、45歳でアントワーヌ座で『悪霊』を上演したことを知れたのはとても有難いことでした。 以下に文中から印象に残る文章をご紹介します。 ・彼女はその顔付きにつり合わぬふしぎな声をしていた。音楽的な震えるような声だ。「ゆっくり行くと、日射病にかかる恐れがあります。けれども急ぎ過ぎると、汗をかいて、教会で寒けがします」と彼女はいった。彼女は正しい。逃げ道はないのだ。 ・あなたは変わっている。きっと自分はそのためにあなたを愛しているのだろうが、いつかはまた、その同じ理由からあなたがきらいになるかも知れない。 ・この数年来はじめてのことだったが、私は泣きたいというばかげた気持ちになった。それはこれらのひとたちに自分がどれほど憎まれているかを感じたからだった。 ・真実何かを悔いるということが私にはかつてなかった。私はいつでもこれから来るべきものに、たとえば今日とか明日とかに、心を奪われていたのだ。 ・死刑執行より重大なものはない、ある意味では、それは人間にとって真に興味ある唯一のことなのだ。 ・ところが、やはり、メカニックなものが一切を粉砕するのだ。ひとは、わずかばかりの羞恥と、非常な正確さをもって、つつましく殺されるのだ。 ・人間は全く不幸になることはない。と(死んだ)ママンはよくいっていた。空が色づいて来るときや、暁のひかりが私の独房にしのび込んで来るとき、ママンの言葉はほんとうだと思った。 ・しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来るべきあの死について。 ・あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまったかのように、このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。 ~以下、解説より ・多くの場合貧困は、人々に羨望と不満を植えつける。だがカミュ一家は慎み深く控え目で、なにも羨んだりはしなかった。そして地中海のきらめく風土が彼の救いとなった。「私の少年期を支配していた美しい太陽は、私からいっさいの怨恨を奪いとった。私は窮乏生活を送っていたが、また同時に一種の享楽生活を送っていたのである。私は自ら無限の力を感じていた。・・・・この力の障害となるのは貧困ではなかった。アフリカでは海と太陽とはただである。さまたげになるのは、むしろ偏見とか愚行とかにあった」と彼は1958年『裏と表』に新たに追加した序文のなかで述べている。 ・私の源泉が『裏と表』、貧困と光のこの世界のなかにあるかことを知っている。私はそこで長い間暮らしたが、その思い出はいまなお、あらゆる芸術家を脅かす二つの相矛盾する危険、すなわち怨恨と満足から私を守ってくれるのだ。 | ||||
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この作品を理解するためには、シューシポスの神話と太陽の賛歌を読まなければならないと思いました。 | ||||
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『太陽のせい』で人を殺したというムルソー。感情が乏しく(と周囲にとらえられる)、母の死に悲しんでいないという理由が印象を悪くして死刑を宣告される。 今から70年も前の戦前の作品だが、こういった人間は、現代に増えているのではないだろうか。今なら決して【異邦人】ではないだろう。ニュースでも見かける。 『こうあるべき』『普通はこうだ』というが主流だった時代にはセンセーショナルな内容だとは思うが、今読み返すと、『こういう人もいる』って言う話に見えなくもない。神を信じない。太陽や海や空に流されて生きている。気分、だ。 | ||||
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カミュの代表作であり、一気に読んでしまいました。 | ||||
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サルトルをはじめとして、多くの書評は「シーシュポスの神話」を「異邦人」の哲学的解説書としているようですが、確かに、「シーシュポスの神話」は「異邦人」の理解の助けにはなりますが、同本で書かれていることを、よりはっきり体現しているのは、後年の「ペスト」の主人公の医師であると思われます。 本作の好きな人には、「ペスト」「シーシュポスの神話」の順番で読まれることをすすめます。 | ||||
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新しくなったカバーが素敵です。プレゼント用で買いました。 | ||||
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読んだあと、世界観に一撃を与えるような小説。思考が凍り存在が宙吊りにされ、不安を解消したくなぜなのか必死に解答を考える。しかし答えは見つからない。これぞまさしく小説の快楽。 | ||||
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主人公ムルソーはそこそこ勤勉に働き、つつましくも世の中の楽しみを享受しながら生活する青年で、決してニヒリズムの中に生きていたわけではない。むしろ彼に実在的ニヒリズムの傾向が表れるのは獄中で死刑執行を待っている期間だろう。ムルソーは自分自身に嘘をつくことができない性格であるために、社会が要求する尤もらしい演技をして見せることをひたすらに拒否する。人間社会は少なからず個人に生きる上での演技を求め、それぞれが自分という役者になって生涯演じ続けなければならないし、それに成功すれば生きていることに実感を覚えるという錯覚に陥りがちだ。しかしそれは本当の自分の姿だろうか。 彼は好意から同じアパートに住む男の起こした事件に巻き込まれ、偶然にもアラビア人の男を射殺してしまう。裁判で弁護士の言う通りにそれらしい弁解をして、しおらしい態度を示せば裁判官や陪審員に情状酌量の余地を与えることができたにも拘わらず、ムルソーにとって事実は事実以外の何物でもなく、真っ正直に答えることしかできなかった。それによってこれまでの彼の行動の一挙手一投足が、裁判所に集まった人々の殆どを敵に回し、死刑判決が下される。世間ほど残酷で不条理なものはない。 カミュのその後の作品『ペスト』でさらに顕在化する宗教の在り方についてのスタンスが、ここでも提示されている。ムルソーは獄中で司祭の面会を拒否し続けた。もちろん彼も特赦請願に一縷の望みをかけていたことは確かだが、神がその奇跡を起こすとは全く思えなかった。それが叶わなければ社会の期待に副うべく、罵声を浴びながらギロチンにかけられ観衆を満足させることを希望する。 カミュの小説のもう一つの素晴らしさは自然描写、特に空や海の色と太陽の織り成す眩しいほどの光の世界と、対照的な暗い影が背景になる物語の展開が読者を映像的に魅了することだ。ここにもアルジェリアで育った作者の体験が巧みに生かされている。 | ||||
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「きょうママンが死んだ」 この有名な書き出しを見て、あたし(アルベルチーヌ)は学生時代にこの本を既に読んでいたことに気が付いた。アルジェリアの老人ホームに預けていた主人公 -ここでは私として記されているので、これから主人公のことを私と記させてもらう- の母がなくなったのだ。私も同じくアルジェリアに住んでいるので、母の死という報せを受けて養老院に向かうことになるのだが、私は主人に電話で母が死んだので2日間会社を休むことを知らせる。その際、主人の態度が不機嫌だったことに私は気づく。ここであたし(アルベルチーヌ)は私がフランス本土に何らかの理由で別居している夫に話をしたのかと思ってしまった。それはともかく私は養老院に行き一晩中かけてそこのほとんどすべての住人が死者の棺の前に座って死者を見送るというなかなか疲れる通夜に参加する。 本来なら喪主と言っても当然の立場の私だが、養老院所長をはじめそこに集まった人々の目には何か無感動な人のように私は映ってしまう。周囲の人々と交わす言葉も必要最小限のように少ないものだった。 長い通夜が明けると今度は灼熱の太陽の下を墓場へ向けた葬列である。この時、晩年の母といつも連れ添って歩いていたという老人が足を痛めてまともに歩けない状態ながら一人後方から葬列を追いかけるような形でついてくる。なんとも哀れな様子が印象的だ。 墓地へ向かう途上で一人の看護婦が漏らした言葉が何故か私の胸に突き刺さる。 「あまりゆっくり歩くと日射病になってしまいます。逆に急いで歩くと汗をかいてしまいます。私達に逃げ道はないのです」 やけに哲学的な言葉なのであたし(アルベルチーヌ)はもしかしてこれが実存主義なのかしらと思ったりもした。いやむしろこれはカフカの不条理哲学に通じるものかもしれないわ。 ところで葬儀を終えた私はアルジェリアの海岸に近いアパルトマンに戻った。するとそこへマリアという女性が訪ねてきて二人は一緒にベッドに寝転んで身体を触れ合ったりして戯れあって過ごす。どうやらマリアはなかなかのグラマーらしいのである。あたし(アルベルチーヌ)はてっきり二人はレズの関係だなと思ったので、なるほどさすがにフランスだわといったんは感心したものの、私の言葉使い私に対する相手の態度などを見ていると、どうも私は男のようであることにあたし(アルベルチーヌ)はようやく気付いた。最初私が電話を掛けた主人というのが私の夫ではなく勤務している会社の社長のような人であることにあたしはようやく気付く。実に大きな勘違いをしたままであたしはこの小説をかなり読み進んでしまった。まあ気が付けばそれはそれで大したことはないんだけどね。ただ、レズが描かれていると思って感心していたのが外れて「何よ、プルーストよりずいぶん遅れているじゃない」と思ってしまった。 それはそれとして私という人間は割合なにかにつけて成り行き任せで生きているような気がする。目的が定まっていて準備の上で行動することが少ない。これが実存主義なのか、いや不条理哲学でしょ。だって路上で何となくいさかいになったアラブ人をピストルで撃ち殺してしまったんだから。 この小説は当時どれほどの衝撃を世界に与えたのか今となっては分からない。現在アメリカを分断しようとしているRACISM(人種差別主義)が当時今ほどには騒がれていなかったので実存主義などと逆に持ち上げられることさえあったのではないかしら? でも現在ではアラブ人を得体のしれない不気味さを感じさせる人間として描いていることを責められるかもしれない。しかし私はアラブ人を無造作に撃ち殺してしまった。 この小説ではアラブ人の立場から見た事件の悲惨さは全く語られていない。実存主義か不条理哲学か何か知らないが、私 -このあたりで名前を明らかにするとムルソーという- を通してのみすべてのことが語られる。ということは作者カミュは殺人事件そのものには全く関心がないのだ。殺した方の人間の心理の動きばかり追っている小説は現在では異常ととられてしまうだろう。 カミュの文体は短いが、的確な描写で情景をよくとらえていて、読む者を作品の中に強く引き込む力がある。ムルソーの心の動きが反映されているため、これほど情景描写がさえるのだろう。 裁判の結果、ムルソーには広場での斬首刑が言い渡される。するとそれまでは割合何事にも恐れを知らぬといった風の無感覚さを見せていたムルソーが恐怖におののき、この刑から逃れる方法を懸命に考える日々の中に落ち込んでしまう。 あたしはこの恐怖に落ち込んだ後の描写が、それまでの哲学者らしい冷静さを失ってしまったような気がして、物語全体の統一感を壊しているような気分もちょっと感じた。斬首刑が20世紀半ばにまだあったのだろうか? 実存主義を体現したようなムルソーがいきなり19世紀のギロチンの前に放り出される、どうもアンバランスな印象は免れない。 とはいえムルソーはあのママンを送った葬列の中で看護婦が言った「私達には逃れる道はないんですよ」という言葉が今思い浮かんで来るのだった。そしてママンが最後の日々に足を引きずりながら葬列の後を追っていたあの老人と寄り添って過ごした姿を思い浮かべるのだった。 あたしはムルソーが一種の悟りを開いたところでこの実存主義の小説は終わっていると思うの。だけど最後になって仏様の説話になってしまったようで奇妙な読後感を今味わっているところなの・・・・・ | ||||
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人情描写が深い。 | ||||
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古いのにとても綺麗でした。 内容的にはそんなに感銘は受けませんでしたが、悪くはなかった。 | ||||
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満足しました。到着も予想以上に早かったです。 | ||||
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