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異邦人
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異邦人の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.42pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全227件 141~160 8/12ページ
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| 異邦人。同名の歌も非常にいいですが、こちらは本です。 一度読んだら、年齢が変わった頃に、読み返しましょう。 薄い文庫本、大した読書時間ではありません。刹那です。 不条理、と本書内容を端的に表すのは簡単です。しかし。 読後の乾いた己の心情に怯え、また読み返すことになる。 読むべき本、とかリスト化することは大嫌いだけれども。 年に一度、カミュの異邦人を読む日を定めたらどうかな。 | ||||
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| 若い頃に読んで大きく揺さぶられました。二十年経ってふたたび読んでみたが、当時と同じ感じは受けない。より直接的に接している感がある。物語自体は変わっていないので、私が変わったことが明らかになった。 人間の社会や文化の滑稽さ。私たちの日々の営みはゲームであり、意味はとくにない。ただそうした事態に耐えられないからこそなにがしかの意味を付与しているだけの話なのだ。主人公はあえてその意味付けを行わない。虚無という深淵に浸っているのだ。そのため他者にとって彼は異端であり、脅威であり、認めたくない存在なのだ。抹殺されるのも至極当然のことなのだ。看護婦が言うように、ゆっくり過ぎず早すぎずにいるが、存在する上で大事だというわけだ。ただ、別の生き方も可能ではあろう。創造を行うアーティストとして、真理を探求する哲学者としての道などだ。自身がどういう立場にいるのかを把握することができたならば、そうした選択も主人公には可能だったろう。そうすれば彼が好んだ、あの炎天下の太陽の光をより多く浴びて、知らなかった境地を見出せたかもしれないから。 | ||||
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| まあ今どきこんなもの読んで感動するのはせいぜい十代だろう。大人の読むものじゃないね。歴史的に、かつてこんな小説が騒がれた時代もあった、という時代の里程標みたいなものだ。「太陽の季節」とか「限りなく透明に近いブルー」みたいに。 | ||||
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| R. バルトが絶賛したという『異邦人』のエクリチュールは、確かに綺麗だった。 窪田啓作氏の解説によると、かつて日本の論壇でも「『異邦人』論争」があったというが、 A. カミュが実存主義者であったかなんて、私にとってはどうでもいいことなわけで。 そういう小難しいことは抜きにして読んでも、なかなか興味深い作品だった。 ところで、主人公ムルソー(仏語で「死」と「太陽」の合成語らしい)は、 逮捕後、判事とやり取りする中で、神を信じていない旨を繰り返し述べている。 しかし、どう考えても彼は、態度レベルにおける敬虔な信仰心の持ち主である。 というのも、随所に登場する「太陽」こそ、まさに「神」を意味しているからである。 つまり、この物語は信仰に対する葛藤を暗に描いた作品なのだと思う。 ムルソーいわく、彼が自分と直接的には無関係なアラビア人を射殺したのは、 「太陽からのがれられな」かった結果であった(63ページ)。 ムルソーはいつも背後に「太陽」を感じ、「太陽」につき動かされていた。 それは、「自由人の考え方をしていた」(80ページ)彼にとって、辛いことであった。 だが、「抜け道はないのだ」(85、111ページ)。 そこで、彼はいつかの看護婦の言葉(21ページ)を思い出す。 ゆっくり行っても、急ぎ過ぎてもダメ。 「夏空のなかに引かれた親しい道が、無垢のまどろみへも通じ、 また獄舎へも通じうる」(101ページ)ことを悟るのである。 もはや、「太陽」=「神」からの定めには逆らえない。 だから、ムルソーは自分と同じ人間によって裁かれることを嫌った。 彼に下された極刑は「下着をとりかえる人間によって書かれた」(113ページ)ものであった。 ムルソーはすっかり「異邦人」扱いである。 圧巻は最後の叫びで(124ページ〜)、 世の不条理を嘆きながらも、それらを全面的に受け入れるムルソーの心的過程が描かれる。 その意味で、やはりカミュは実存主義とはかけ離れた人物だったのかもしれない。 いずれにしても、ヨーロッパの哲学史を理解していなければ、 『異邦人』の傑作具合は分からないだろう。 | ||||
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| 読めば読むほど大傑作。 サルトルの『嘔吐』のように冗長ではなく、 人物造形、磨きぬかれた乾いた文体、構成力、 内的な緊張感と充実度は素晴らしい。 カミュ自身は「実存主義者ではない」と言明していたし、 むしろ超越論的な飛躍を前提とした実存哲学や実存主義は 「哲学上の自殺」と呼んでいたが、 『異邦人』を読む限りにおいては カミュ自身はニヒリズムとペシミズムという フランクルの言う「実存的空虚」にはあったとはいえるのではないだろうか。 解説にて白井浩司は、 ムルソーの「全てが終わって、…」という文章をひき イエスの臨終時の「わがことすべて終わりぬ」とを比較しているが、 私はむしろ、カントの『実践理性批判』の以下の言葉 静かに深く考えれば考えるほど、 ますます常に新たに、 そして高まりくる感嘆と崇敬の念をもって、 心を満たすものが二つある。 それは、我が上なる星空と、我が内なる道徳律である。 と、ムルソーの …このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、 私ははじめて、世界のやさしい無関心に心をひらいた。 これほど世界を自分に近いものと感じ、 自分の兄弟のように感じると、 自分が幸福であったし、今もなお幸福であること悟った。 の比較のほうが面白い気がする。 | ||||
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| ★2、5 駄作ではないがあまり面白くない。ストーリーは主人公が大した理由もなく人を殺し、嘘をつくのが嫌で弁解したりせず、反省の態度も見せなかったり、母の死を悲しまなかったりしたため死刑になる。この手の主人公(現代的、他人にあまり関心がない、コミュニケーション能力が低い、軽度の自閉症みたいな)は今ではありふれてる。書かれた時代が古いから評価されてるのかもしれんが、古典でも面白いのはいくらでもあるしここまで評価が高い理由が分からない。この主人公をもっとエスカレートさせて面白くしたのが大石圭の本という感じも少しする。 | ||||
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| 徹底的に自己実現を追い求め最終的に広く世の中のためになったりするひとがいる (海外でプレーするようなスポーツ選手など) また一方、自己実現など追い求めす、家のため、家族のため、会社など身近コミュニティの他者のためと働き そして親切にしてくれたひとを思い(取引先とか上司)のため等、利他的に判断して生きる人が世の中にはいる 知らず知らず利他的にしか生きられない人はあまり異邦人にはならない(後者は最近では良い子と呼ばれてはいる) 異邦人に感銘を受ける人は、利他的には生きられないが、社会正義なども思うひとが多いのではないだろうか 基本が利己的で他人のためになにかするのが苦しく感じられるような人 また身勝手なのだけど自分が身勝手とは一生気がつかないようなひとは感銘をうける そしてちゃっかりうまく生きるのもカミュに感銘を受ける人なのだ | ||||
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| 母の死に意味を付与せず、女との結婚に意味を付与せず、自らの犯した殺人に意味を付与せず、斬首刑の判決に意味を付与しない、主人公ムルソーの、徹底的に乾いたあり方に、強く魅かれました。 無意味な世界に意味を与えることへの禁欲を貫いた、実存の不条理をただ不条理としてだけ抉り出した、20世紀のフランス文学を代表する作品。 第1部ラストで描かれる、真夏の照りつける太陽――よく知られているように、ムルソーは裁判で自らのアラビア人殺害の動機をこの真夏の太陽に帰する――の描写は、焼け付くような熱気と照り返しをありありと伝えていて印象的でした。 | ||||
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| 小生が学生時(1968年)構造主義はまだ紹介されていない。実存主義の「サルトル」派と懐疑的でシニカルな「カミュ」派の二つが対立して内ゲバはなかった。サルトル派は「アンガジュ」をバカの一つおぼえで学生運動に走りカミュ派は「クール」に傍観して女子大生とデートしていた。小生はサルトル派であったことはいうまでもない。「カミュはノーベル賞なんて爆弾発明した奴の賞をもらってアホか。サルトルは蹴っ飛ばしたぞ」と私が突っ込むと「サルトルは賞金をくれ、と言ったぞ」と反撃。あとは血をみたりはしない。カミュ派は私が東大闘争で逮捕され東京拘置所に拘留されると面会にきた。週刊誌やチョコ、カステラ(拘置所前の売店で買う。じかに手渡しは出来ない)を差し入れてくれた。「退屈だろからまた来る」と 時々面会に来た。まあ友情はあった。カミュは「博報堂」に入社。宣伝マンになった。不本意だろが。 | ||||
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| 物語はP130ほどしかないので、時間的にはすぐに読めると思う。ただ、何を言っているのかを解釈することは難しいかなと思う。読書感想文に選ぶ人もいるだろうが、結構難しい作品だと思うよ。 主人公ムルソーは、母が亡くなっても涙ひとつ見せずに、母の死の翌日に海水浴で女と関係を結び、「太陽のせい」と言う動機で人を殺害した。判決は死刑であったが、自分は幸福だと確信している。自分の運命は自分で決められるということで幸福だと感じているのだ。 ムルソーはただ自分に正直に生きただけなんだろうと思う。それに対して、周りが「不条理(常識ハズレの行動)」だと言っているように思う。社会常識等に左右されずに生きるのはすごく難しいように思うよね。 | ||||
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| 私が初めてこの作品を読んだのは、19歳の時でした。大学一年生の夏休みであったと思います。それから19年が経った38歳の今年、再び読みましたが読後の感動が衰える事はありませんでした。 しかし、感動した箇所は変化しました。19歳の時は、ムルソーが司祭を捕まえ絶叫した、最後のセリフにうちふるえるような興奮を覚えたことを記憶しています。しかし、今回は作品全体を通して感じられる、人生に対する虚無感と虚無感を内包しながらも、人生に対して自分の主観から享受できる楽しみを思いっきり楽しみきろうとする、ムルソーの素直な生きざまに共感を覚えました。 人生には意味がないとの思いを抱きながら、斜に構えることないムルソーの人格は、彼自身に直に接し関係した人には理解されていたのだなと知りました。前回は気付きませんでしたが。 また、検事や陪審員をはじめとしてアンチ「ムルソー」としての、一般大衆の反応には既視観のようなものすら感じました。私も38歳まで生きてくれば、他人に自分を理解されなかったり誤解されなかった経験を持ちましたので。孤独感や疎外感という感覚は、他者の無理解というまなざしによって自らのうちに形成されるのかもしれません。 短い小説ですが、人生に深い感銘を与えてくれる作品だと思います。 | ||||
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| 1940年に著された古典。 全てのものには意味がないとし、瞬間に感じる欲望や感情を真理とする若者(ムルソー)のお話。 「人間の不条理」を描き、当時はセンセーショナルな内容であった。 キリスト教と不条理ムルソーとの対決が中心となり物語は進む。 19世紀末にニーチェにより神が殺されたが、その影響を色濃く残している。 ムルソーの言葉で引っかかったのが、 「健康なひとは誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ。」P68 愛するが故にその死までを想像してしまう、 想像し、意識に上がった瞬間に願望してることと等しい。 と解釈したのだが、どうだろうか? | ||||
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| ‘今日、ママンが死んだ’冒頭から「ママン」で笑ってしまった(フランス語だから可笑しいところは何もないのだが)。ママンが死んだ翌日、主人公ムルソーがとった行動がのちに思わぬところで悪い方向に作用してしまう。道理とされていることからはみ出した者を排除する社会。それでいいの?とも思うし、そうしなければ社会として機能しないとも思う。 ムルソーは‘太陽が眩しかったから’人を殺したと言っていたが、これは本心なのか。本心ならば、私には理解できない。全くわからない。その一文に人間の本質をみた気がする。 何故だか‘灼熱’で終わるタケシ映画を思い出した。 | ||||
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| この本と最初に出会ったのは、中学3年の時だったかな?とにかく鮮烈な印象を受けて一気に1時間くらいの間に読んだことを覚えています。普段から芥川とか好きで読んでいたのですがそういう意味では新鮮だったのかもしれない。個人の内面を鋭くどっか心当たりがありありのところが自分とダブっていつしか自分を客観的に見ているもうひとりの自分になれました。この本は妻が一度捨ててしまったので新たに買い求めて今は14歳になる息子が読んでいます。感受性の違いや育った環境によって受け取り方も違うと思いますが人生においては何らかの糧となるものだと固く信じているところです。息子は英語圏で勉強しているのでこの本の原本を読むことができるならそれはとてつもなくうらやましいことでしょうね!みなさん一度手にして読んでみてください。自分の内面に触れることができるかも? | ||||
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| 「母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告される恐れがある」 英語版の自序でカミュがこう述べていた。 母の死に際して「悲しみ方」を一般の人と違えたことが、自分を死刑に導いた。 罪を犯したことに際して「弁解の仕方」を一般の人と違えたことで、死刑から逃れられなかった。 でもそれらは本当に負い目として侮蔑される行動だったのか。 「異邦人」というタイトルがしっくりくる作品。 | ||||
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| 自分に正直に生きることで、「悲劇」をむかえるという話です。少し現実離れし過ぎているというか、小説っぽくなり過ぎているきらいもありますが、再読したくなる名作です。 主人公が「異邦人」なのか周囲の者それぞれが「異邦人」なのか、さらには、主人公の最後は「悲劇」なのかそうではないのかなどいろいろ考えさせられます。 薄い本と言うか、中編と言うより小編小説といってもいいくらいの分量なので読むのに苦労はありません。一生の間に一度は是非読んでおきたい名作です。 | ||||
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| ビックリするほど主人公の生き様が私自身に似ていて驚きました。 私が感じるということは、他にも多くの共感者がいるのでしょう。 それだけの共感者が得られるにも関わらず現実の世界で彼のように振舞うと異邦人となってしまう世界の歪みが見事に表現されている。 何度も読み返すであろう名作。 読むごとに深い感じ方が出来るであろうことを期待させる本です。 | ||||
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| 高橋源一郎は「ニッポンの小説」という珍しくストレートに日本文学を語った本で、内田樹のレヴィナス論を引きながら、日本の近代小説の歴史は死を書こうとして常に失敗してきたことを指摘している。死を書くとは「他者」を書くことであり、書き損ねることは言語コミュニケーションに内在する本質のようなものだと。この指摘は別に日本の小説に限らず外国小説でも当てはまると思う。だって、そもそも作者も読者も死んだことがないからだ。 さて、この小説には、母親・アラブ人・そして主人公の3つの死が描かれる。どれも非常に淡白だが、他のレビュアーの方も語っているとおり、現実にはドラマチックではない死というのは結構ある。しかし、逆に人の死を扱う方法というのは、共同体にとっては根本規範の1つである。これを歪める素振りを見せた者は、アラブ人を殺したことよりも、母の葬式で泣かなかったことが主な糾弾材料になり、共同体の外の人間(=異邦人)と認定され、「フランス人民の名において」抹殺される。 この小説は「死そのもの」についての話ではないが、共同体が「死をどう文脈化するか」を通して、社会というシステムのメカニズムを書き切った本だと思う。敢えて作者自身の解説に反するかもしれない指摘をすると、この本のストーリーは決して不条理ではない。社会のメカニズムが不条理なのだ。だから、60年以上前に発刊されたこの小説は今でも読者の心を打つ。 なお、主人公のMersault(ムルソー)という名前について、「mer(海)とsol(太陽)なのではなくて、"meurt"(死ぬ)と"seul"(ひとり)だったのかもしれない」という松岡正剛の指摘は、この読後感にぴったり合っていて珍しく感心した。 | ||||
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| 私はまず、この作品の風景描写が好きです。 いちいち丁寧で、想像力を掻き立てられます。 特に、じわじわと焼かれそうな“暑さ”が最高でした。 内容については、何度も読み返したくなります。 私は最初、裏表紙の説明を読んで、「普通の感覚からはズレた主人公の話なのかな?」と思ったのですが、とんでもない誤解でした。 ムルソーの「自分不在」の感覚や、冷めた分析には、とても共感できます。 “論理的な一貫性に欠ける主人公”も、今日の社会ではそれほど特異な存在ではないのかもしれません。 | ||||
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| 文学史上の名作としてあまりにも有名な作品。とくに第一部の描写は素晴らしい。主人公の心理とアルジェの風景が一体となっている。マリィも充分に魅力的でストーリーに説得力を与えている。この第一部に浸ったままに第二部を読むと、主人公の思考がリアルなものして感じられ検事の語る一般的な常識論に対して奇妙な違和感すら感じてしまう。この作品が文学として成立しているのはこの構図故であろう。 ただ新潮文庫の裏表紙はいただけない。この作品の全てのあらすじが書かれてしまっているし「不条理の認識を極度に追求」という言葉で括ってしまうのは、この文学の豊かさを損なっていはしないだろうか。 | ||||
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