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異邦人
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異邦人の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.42pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全227件 41~60 3/12ページ
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| 主人公ムルソーはそこそこ勤勉に働き、つつましくも世の中の楽しみを享受しながら生活する青年で、決してニヒリズムの中に生きていたわけではない。むしろ彼に実在的ニヒリズムの傾向が表れるのは獄中で死刑執行を待っている期間だろう。ムルソーは自分自身に嘘をつくことができない性格であるために、社会が要求する尤もらしい演技をして見せることをひたすらに拒否する。人間社会は少なからず個人に生きる上での演技を求め、それぞれが自分という役者になって生涯演じ続けなければならないし、それに成功すれば生きていることに実感を覚えるという錯覚に陥りがちだ。しかしそれは本当の自分の姿だろうか。 彼は好意から同じアパートに住む男の起こした事件に巻き込まれ、偶然にもアラビア人の男を射殺してしまう。裁判で弁護士の言う通りにそれらしい弁解をして、しおらしい態度を示せば裁判官や陪審員に情状酌量の余地を与えることができたにも拘わらず、ムルソーにとって事実は事実以外の何物でもなく、真っ正直に答えることしかできなかった。それによってこれまでの彼の行動の一挙手一投足が、裁判所に集まった人々の殆どを敵に回し、死刑判決が下される。世間ほど残酷で不条理なものはない。 カミュのその後の作品『ペスト』でさらに顕在化する宗教の在り方についてのスタンスが、ここでも提示されている。ムルソーは獄中で司祭の面会を拒否し続けた。もちろん彼も特赦請願に一縷の望みをかけていたことは確かだが、神がその奇跡を起こすとは全く思えなかった。それが叶わなければ社会の期待に副うべく、罵声を浴びながらギロチンにかけられ観衆を満足させることを希望する。 カミュの小説のもう一つの素晴らしさは自然描写、特に空や海の色と太陽の織り成す眩しいほどの光の世界と、対照的な暗い影が背景になる物語の展開が読者を映像的に魅了することだ。ここにもアルジェリアで育った作者の体験が巧みに生かされている。 | ||||
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| 「きょうママンが死んだ」 この有名な書き出しを見て、あたし(アルベルチーヌ)は学生時代にこの本を既に読んでいたことに気が付いた。アルジェリアの老人ホームに預けていた主人公 -ここでは私として記されているので、これから主人公のことを私と記させてもらう- の母がなくなったのだ。私も同じくアルジェリアに住んでいるので、母の死という報せを受けて養老院に向かうことになるのだが、私は主人に電話で母が死んだので2日間会社を休むことを知らせる。その際、主人の態度が不機嫌だったことに私は気づく。ここであたし(アルベルチーヌ)は私がフランス本土に何らかの理由で別居している夫に話をしたのかと思ってしまった。それはともかく私は養老院に行き一晩中かけてそこのほとんどすべての住人が死者の棺の前に座って死者を見送るというなかなか疲れる通夜に参加する。 本来なら喪主と言っても当然の立場の私だが、養老院所長をはじめそこに集まった人々の目には何か無感動な人のように私は映ってしまう。周囲の人々と交わす言葉も必要最小限のように少ないものだった。 長い通夜が明けると今度は灼熱の太陽の下を墓場へ向けた葬列である。この時、晩年の母といつも連れ添って歩いていたという老人が足を痛めてまともに歩けない状態ながら一人後方から葬列を追いかけるような形でついてくる。なんとも哀れな様子が印象的だ。 墓地へ向かう途上で一人の看護婦が漏らした言葉が何故か私の胸に突き刺さる。 「あまりゆっくり歩くと日射病になってしまいます。逆に急いで歩くと汗をかいてしまいます。私達に逃げ道はないのです」 やけに哲学的な言葉なのであたし(アルベルチーヌ)はもしかしてこれが実存主義なのかしらと思ったりもした。いやむしろこれはカフカの不条理哲学に通じるものかもしれないわ。 ところで葬儀を終えた私はアルジェリアの海岸に近いアパルトマンに戻った。するとそこへマリアという女性が訪ねてきて二人は一緒にベッドに寝転んで身体を触れ合ったりして戯れあって過ごす。どうやらマリアはなかなかのグラマーらしいのである。あたし(アルベルチーヌ)はてっきり二人はレズの関係だなと思ったので、なるほどさすがにフランスだわといったんは感心したものの、私の言葉使い私に対する相手の態度などを見ていると、どうも私は男のようであることにあたし(アルベルチーヌ)はようやく気付いた。最初私が電話を掛けた主人というのが私の夫ではなく勤務している会社の社長のような人であることにあたしはようやく気付く。実に大きな勘違いをしたままであたしはこの小説をかなり読み進んでしまった。まあ気が付けばそれはそれで大したことはないんだけどね。ただ、レズが描かれていると思って感心していたのが外れて「何よ、プルーストよりずいぶん遅れているじゃない」と思ってしまった。 それはそれとして私という人間は割合なにかにつけて成り行き任せで生きているような気がする。目的が定まっていて準備の上で行動することが少ない。これが実存主義なのか、いや不条理哲学でしょ。だって路上で何となくいさかいになったアラブ人をピストルで撃ち殺してしまったんだから。 この小説は当時どれほどの衝撃を世界に与えたのか今となっては分からない。現在アメリカを分断しようとしているRACISM(人種差別主義)が当時今ほどには騒がれていなかったので実存主義などと逆に持ち上げられることさえあったのではないかしら? でも現在ではアラブ人を得体のしれない不気味さを感じさせる人間として描いていることを責められるかもしれない。しかし私はアラブ人を無造作に撃ち殺してしまった。 この小説ではアラブ人の立場から見た事件の悲惨さは全く語られていない。実存主義か不条理哲学か何か知らないが、私 -このあたりで名前を明らかにするとムルソーという- を通してのみすべてのことが語られる。ということは作者カミュは殺人事件そのものには全く関心がないのだ。殺した方の人間の心理の動きばかり追っている小説は現在では異常ととられてしまうだろう。 カミュの文体は短いが、的確な描写で情景をよくとらえていて、読む者を作品の中に強く引き込む力がある。ムルソーの心の動きが反映されているため、これほど情景描写がさえるのだろう。 裁判の結果、ムルソーには広場での斬首刑が言い渡される。するとそれまでは割合何事にも恐れを知らぬといった風の無感覚さを見せていたムルソーが恐怖におののき、この刑から逃れる方法を懸命に考える日々の中に落ち込んでしまう。 あたしはこの恐怖に落ち込んだ後の描写が、それまでの哲学者らしい冷静さを失ってしまったような気がして、物語全体の統一感を壊しているような気分もちょっと感じた。斬首刑が20世紀半ばにまだあったのだろうか? 実存主義を体現したようなムルソーがいきなり19世紀のギロチンの前に放り出される、どうもアンバランスな印象は免れない。 とはいえムルソーはあのママンを送った葬列の中で看護婦が言った「私達には逃れる道はないんですよ」という言葉が今思い浮かんで来るのだった。そしてママンが最後の日々に足を引きずりながら葬列の後を追っていたあの老人と寄り添って過ごした姿を思い浮かべるのだった。 あたしはムルソーが一種の悟りを開いたところでこの実存主義の小説は終わっていると思うの。だけど最後になって仏様の説話になってしまったようで奇妙な読後感を今味わっているところなの・・・・・ | ||||
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| 人情描写が深い。 | ||||
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| 古いのにとても綺麗でした。 内容的にはそんなに感銘は受けませんでしたが、悪くはなかった。 | ||||
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| 満足しました。到着も予想以上に早かったです。 | ||||
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| 薄い本にも関わらず冒頭から読みづらいと感じ、しばらく放置。 数年越しで最後まで読んでみると面白かった。 主人公本人からしたら「ただ何となく」犯罪を犯したのだが、母親の葬儀での態度が冷たかったこと、その翌日には女を連れてデートへ出掛けたことなど、直近の過去を暴かれると世間から冷酷非道な人間として糾弾される。 当時のほとんどの人の精神の拠り所には宗教が大きく関わっていただろうが、実際彼は無神論者であり、リアリストに見える。 死を直前にしては、もはや自分が世間とは違う存在と認識された上で処刑されることを望むその姿は、 つい昨年、日本の裁判で更生するつもりはありませんと宣言し無期懲役判決で万歳!と叫んだ加害者を彷彿させる。 この主人公は当時からしたらそれこそ不可解な人間だろうが、現代人からしたらより身近で理解しやすい人間性ではあると思う。 ただ同じような犯罪が現代に起これば、やはり世間は同じように加害者を糾弾するだろう。 近年SNSでもちょっとした事でのバッシングが非常に過激となっているが、そのような「抗えない集団エネルギー」はいつの時代も変わらないものなのだと思う。 | ||||
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| 不条理小説の代表作といわれているそうです。 不条理の意味とはなんでしょうか? 事柄の筋道が立たないこと。であるそうです。 なぜこの小説がその事柄の代表格なのでしょうか?3年ごとに計3回読んでみました。 1回目→意味不明、罪を犯してなぜ苦悩しているんだ。 2回目→罪を犯すことは万人に機会があることなのかも... 3回目→自分の信念。多数派の信念が正しいって本当なのだろうか? 特に3回目に不条理を感じました。 今まで何も関与しなかった人間が、自分の何を知っているんだろう? なぜその人たちの大意が、自分の行動や運命を左右するのだろう? 上記の疑問に対して、2つの教訓を結論づけました。 ・大切な人には、多く関与して時間を共にすること。 ・自分の行動については、自分の責任で一瞬を大切に集中して取り組むこと。 私たちの大半は無神論者の印象があります。皆さんの結論をぜひレビューで共有して、不条理と向き合う糧としませんか? | ||||
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| 『ペスト』のKindle版があるのに、それよりも有名な『異邦人』がなぜKindle化されないんでしょうか?新型ウイルスや「100分de名著」の影響で『ペスト』は現在もっともリアリティのある作品ですが、サルトルはかつて『異邦人』のほうを絶賛していました。今は『異邦人』のほうがリアルなのです。 | ||||
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| <神は何処へいった こんな真昼間> 生存の与件がすべて消え失せた後ににんげんは何によって自らの理由をみたすのか わたしは知りたかった わたしにとって理由がなくなったとき新しい再生の意味がはじめられねばならなかったから わたしの行為は習慣に従いわたしの思考は主題をあたえられなかった 如何なるものも自らの理由によって存在することはない しかもわたしはわたし自らの理由によって存在しなければならない 生存がまたとない機会であると告げるべき理由をわたしはもっていなかった しかも既に生存していることを訂正するためにわたしの存在は余りにも重くかんじられた わたしの魂はすべての物象のなかに風のように滲みとおってしまい わたしの影もまた風の影のうちに一致した わたしはただありふれた真昼と夜とを幾何学の曲線のように過ぎてゆくだけであった ひとびとが実証と仮証とをうまく取りちがえているその地点を!(吉本隆明「固有時との対話」) 「不条理」に西欧哲学的意味を探る必要は全くない。不条理のネタは、そのへんにごろごろ転がっている。日々のニュースは不条理で埋まっている。いじめられて自殺、パワハラで自殺、死ぬまで働くサラリーマン(過労死)、ストーカー殺人、通り魔殺人、義父に虐待されて殺される子供、暴力(体罰)を指導と言い張る教師、466億円もかかるアベノマスク、世界中がウイルス対策に苦慮している最中にミサイルをばんばん飛ばす半島国……まったく冗談ではない、悲惨だ無残だ、あまりに常軌を逸しすぎて絶句、世の中狂ってると思う、この狂った世の中に存在する価値なんてあるのかーーこれが不条理である。 そして、「不条理」はーー英語でabsurd、フランス語でabsurde、ドイツ語で Absurditätーー原義は「馬鹿げている、理に合わない、滑稽である、笑っちゃう、アホか」である。首相夫人の自粛中のお花見、大分の神社参り、呆れちゃう、笑っちゃう、アホか、である。生徒の骨折が頻発しても続けたがる組み体操、何考えてんのお~ばかじゃいない~?世の中、そういうもんである。( ̄Д ̄)ノ アラブ人を射殺して裁判にかけられ、母の葬儀で涙を流さなかったこと、葬式の翌日、マリーと情事にふけったことを理由に冷酷な犯罪者にされる。「太陽が眩しかったから」撃ったと、その時の状況をありのままに言えば、笑われるーーイマドキの言葉でいうと、「カンケーねぇだろ!」という理由で死刑判決。不条理である。 そして、ラストで、ムルソーという人間像の真の意味がわかる。 <生存の与件がすべて消え失せた後ににんげんは何によって自らの理由をみたすのか> 「私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来たるべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕えていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、その後は? 私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、ずうっと待ち続けていたようだった。」(窪田啓作訳) <如何なるものも自らの理由によって存在することはない しかもわたしはわたし自らの理由によって存在しなければならない> 「私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来たるべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない」ーーここで、初めて、不条理の哲学的意味を追求してもよいであろう。ムルソーという存在を無神論で片が付けられるなら、ニーチェ先生も狂わずにすんだ。無神論が真に無神論であったためしがない。単にキリスト教に疑義を抱き、アナーキズム(教)なり、共産主義(教)なりに宗旨替えしただけのことである。ユバル先生にいわせれば、〇〇教というフィクションから××教のフィクションに鞍替えしだけのこと。存在の不条理(実存)から眼をそらし続けるために、至上の価値、空中楼閣にすがりつく。 カミュの同時代人であるサルトルは実存哲学と政治の間をウロウロで、最後の最後までロシア版マルクス主義(スターリニズム)の幻想(呪縛)から自由になれなかった。カミュはどうであったか。サルトルのずっしり重そうな実存哲学に対して、反抗的人間という見かけはさえない「抵抗する人間」、あらゆる暴力を拒否するという立場だけで抵抗しようとしたカミュは。 カミュ的人間(=最初の人間)はシジフォスの苦行に耐えるのである、なにものにも頼らずに、「存在そのものの不条理性」を単身我が身に引き受ける人間である。「私の人生について、来たるべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない」ことに耐える人間である。不条理に生きるではない。不条理に抗して(不条理に加担することを拒否して)生きる人間である。ムルソーが不条理を体現しているのではない(よく誤解される)。世界が不条理なんである。世界の不条理生に抗するのがカミュの文学的営為である。世界の不条理、それはペストのように見えない力で存在を脅かすもの。さて、「ペスト」を再読しよう。 <わたしはただありふれた真昼と夜とを幾何学の曲線のように過ぎてゆくだけであった ひとびとが実証と仮証とをうまく取りちがえているその地点を!> ( ̄Д ̄)ノ | ||||
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| 自分の母親の死に何の感情の変化もない主人公にのっけからもの凄い違和感を抱かせられた。ただその母親の死を悲しまなかったということが、面識も何もないアラビア人を、”太陽のせいで”殺したことによる死刑の主たる理由になっているらしいことには大きな不条理を感じる。まあ人間社会とはとかく不条理なものだということをカミュは言いたかったんだろう(浅はかな理解でスマン)が、自分と自分の嫁さんのせいで人の命が一人失われたのにまったく罪悪感のかけらもない首相、そして、多くの人がコロナウイルス騒動で苦しんでいるのに能天気にミュージシャンとコラボしている首相、の姿を見る時、まさに異邦人とはこの方のことではないかと思ったりする。 | ||||
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| 予定通りの配送でした。が新品を購入したのに表紙に「折れ」がありガッカリしました。これなら中古品の方がましかと思いました。 | ||||
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| いつの間にか筆者は、この小説の大まかな要約を、もう何十年も次のように理解していた。殺人を犯した主人公が「俺がそうしたのは、ただ太陽が眩しかったからだ」と主張し、それ以上は何も語らず、その結果死刑に処される物語かな、と。しかし、その要約は違っていた。内容は、予想していたよりもずっと複雑で、かつ難解であった。そして小説のテーマを具体化した箇所がいろいろなところに見られた。ゆえに明確にまとめるには私の手に余りそうなので、①今まで考えていた内容との食い違い ②新たに感じたこと を中心に書いてみたい。 1 「それは太陽のせいだ(=自分が殺人を犯したのは太陽が眩しかったせいだ)」という動機は、ムルソー自身があまりにまとめ過ぎた結論であり、理性的にそう考えたのではない。ムルソーにはムルソーなりの思いが重なっており(さまざまな伏線が書かれているように感じた)、自分の複雑な(言葉にまとめにくい)思いをいちいち分析するのも厄介で(私見では、誰だって自分の複雑な思いをまとめて、それらから明快な結論を引き出すことはできないだろう)、投げ出すように発した言葉であった。 いったい人が何か重い行動をした場合、その動機を短く正しく説明できるだろうか。たとえば、なぜあなたは今の職業を選びましたか、と聞かれて、正確に答えようと思ったら、それまでの全人生を語らなければならないような気がする。 2 第二部の裁判において登場する、弁護士、検事、司祭いずれもムルソーの心中を正確に理解していない、それどころか、理解しようともしていない。これではムルソーがあまりに気の毒だ。ムルソーが、一応は社会の代表者である彼ら(弁護士・検事・司祭)に不信感を持つのも当然である。筆者には、彼らはその名に値しないとさえ思う。著者カミユの怒りももっともである――カミユがムルソーの怒りを代弁しようとう意図があるのなら。 | ||||
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| 社会が複雑化するほど人間は形式化され、また感受性も乏しくなる。オルテガを読んでざっくりした感想だけど。 人間の関心が社会ばかりにいき人間に向かわなければ、自然そがい感を覚える人間もいるだろう。だから、ペシミスティックに社会を捉える主人公に、一現代人の僕は共感する。本作の主人公はカミュの生い立ちとも密接なカミュの消極的な主張を表現していると僕は解釈する。やはりカミュの真意は本作でも垣間見える、次作ペストの「連帯」なのだろう。 | ||||
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| 彼が撃った5発の銃弾。一発目はあるいは理由のあることかもしれない。しかし間を置いた後の4発はなぜ発射されたか。一発目から2発目の「間」は、何が君にそうさせたのか。判事・弁護士・陪審員などは、彼らにとっての正当な「罪の動機」を推測し、作りだし、聞き出そうとうとし、そして押し付けようとする。 母を養老院に預け、その死にあって悲しむ様子もなく涙も流さなかった。死んだ日に女と戯れていた。何よりも彼は神を信じていない。それが4発の銃弾の「間」の原因であり「罪の動機」である。 社会は何かの事件が起こると、当事者の写真、国籍、生い立ち、学歴、生活、家族・友人・同僚・隣人の評判など、人物像とともに「罪の動機」を形作る。 結婚には愛がなければならいのか。そんなのものは誰かがこしらえたものだ。死に囲われた中で、なぜママンは「許嫁」を持ったのか。死が近づく中で、ママンは解放を感じ生き返ったのだ。なん人もママンの事を泣く権利はない。 本人とは関係なく「罪の動機」はそのなかで自己増殖し、原因→結果の連鎖が形作られる。貧困であれば貧困が、富めるものは富が、地位あるものは地位が「罪の動機」となる。どうあろうとそのこと自体が既に「罪」である。この作られた「罪の動機」は同時に「善の動機」ともなってヒーローも造り出すが、人はこの矛盾に眼を向けようとしない。 正義は罪を造り裁こうとするが、正義自身は「神の名」を振りかざして、自己を裁くことをしない。正義が「納得」したものが、罪であり、裁きであり、罰である。正義はその背に罪と罰を背負っているが、振り返ることはしない。正義とは一つの共同幻想であり捏造なのだ。 カミュが、ムルソーに「太陽」だと言わせたのは、自己の存在根拠はどこまでも自己であり、その故の自己に介入しようとする捏造された正義の「悔い改め」に対する拒絶であったからだが、これはムルソーが司祭に投げつけた叫びとして描かれる。 お前は俺に悔い改めよというのか、何に対して悔いるのか。自分の宿命である一回限りの人生に、懺悔を強いることなどできはしない。誰もが特権を持っているのだ。俺の人生をお前の正義で塗りつぶすことなどできはしない。お前の正義など女の髪の毛一本の値打ちもない。それは張り付けられたものに過ぎない。お前の正義もいずれ悪として裁かれる日が来るだろう。 「こうであった」かも知れないが、「ああであった」かも知れない。「これか」「あれか」の分かれ目が「太陽」であれ何であれ、その結果が「俺の今の存在」なのだ。それは俺のものであって、お前たちのものではない。なぜ悔い改める必要があるか。俺に別の人生があるとすれば、今の人生を思い出す人生を希望するだろう。 自分の処刑を見るために集まった観衆が、自分に向けた憎悪の叫びこそが自分への賛歌なのだ。それによって世界は俺を受け入れるのだ。 この最後の叫びがこの小説のテーマだが、「作られた自己」に対する「本来の自己」の叫びは確かに強烈である。それはムルソーが僕たちに放った「6発目の銃弾」でもあるのだが、その銃弾は新たな問題を突き付けることになる。 「太陽」を認めるなら、人は何を基準として自己を選択するのか。人が「各自の太陽」を持てば「万人に対する戦い」となるだろう。人はサイコロを振って生きていく訳にはいかないのだ。 人はその困難を避けるために神にサイコロを振らせたのだが、神のサイコロを信じないとすれば何に頼ればよいのか? 放たれた「六発目の銃弾」はブーメランとなって射手のもとに返ってくることになる。 ここでの「太陽」は「罪の動機」として描かれるが、ではその「太陽」が、危険を省みず人命を救助した人の動機であった場合はどうなのであろうか。 この後に書かれた「ペスト」は、カミュがこの問いに答えようとしたものだと思うのだが、それは「ペスト」のところで書いてみることにします。 | ||||
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| イギリスのロックバンドクィーンの名曲ボヘミアンラプソディ、その歌詞の冒頭部分に「母さん、いまさっき人を殺してしまったよ…」という一節があり、この小説の一場面に由来しているそうだ。今回の読書でこれを再確認することができた。 | ||||
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| 友人に勧められて読んだ。 本の裏側によくできた要約があり、それを読んだ感じではサイコパスがただ異常行動をとって死刑になる話かと思っていたが、実際に読んだ感じはむしろその逆で周りの人間が異常なのではないかという印象を受けた。 主人公は確かに感受性に乏しく、母の死に対して無関心さがあったりするものの、その後の事件においては受動的に運命に翻弄されているといった印象で、不条理さはむしろその運命にこそあると思った。 | ||||
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| 「共感できない」というキラーワードで「つまらない」と決めつけると、読書本来のおもしろさが半減する、とピースの又吉直樹は著書『夜を乗り越える』に書いている。 また、小説『火花』では「共感至上主義ってどうなの?」と疑問を投げかける。 「異邦人」を読了して、「共感」をテーマに書こうと思った時、又吉のこの言葉を思い出して『夜を乗り越える』を久しぶりに本棚から引っ張り出してきて読んで驚いた。上記共感の件の隣のページに、まさに『異邦人』についての記述があるではないか。 殺人に共感する必要はないが、「どういうことなんだろう?」と考える、それが醍醐味なのだと。 共感というテーマと『異邦人』は切っても切れない関係ということか。確かに、この異邦人の主人公は実社会において凡そ共感する事のできない、むしろ共感する事を忌避されるとも云うべき思想を持つ人物として描かれる。 ママンが死んだ翌日に海水浴に行って女と遊び、喜劇映画を観て笑いころげ、もちろん夜は部屋に連れ込んでお楽しみ。「太陽が眩しかったから」殺人を犯し、「健康な人は誰でも、愛する者の死を期待する」と言って弁護士を仰天させる。 共感できます、と言ったら自分まで人格を疑われかねない。それはわかる。 でも、 共感なのかまだよくわからないのだが、 「人を殺した理由が太陽が眩しかったっておかしいでしょ(笑)」 「母親が死んだ翌日に海水浴に行ったらダメでしょ」 「母親が死んだら泣くのが普通でしょ?」 「神を信じない⁈はぁ?あり得ない!」 極め付けは、 「あんたさ、私らと考え方違うんだよね、はい、今日からあんた異邦人ね」 という多くの登場人物に、 何これ? イジメの原理じゃない?はぁ?何様? って思った事実。 こいうい考えに真っ向から立ち向かい、否定する主人公にエールを送ったという事実。 最後の神父に対する叫びに、私も一緒に興奮し、拳を握りしめたという事実。 「自分の正義はあの人にとっても正義か?」 「本当にその考えは正しいのか?」 そう、問いかけられている気がした。 人は、自分のものさしでしか世界を測れないが、想像力というものを与えられた動物だ。 自分とは異なる選択をした他者の、その心境を想像する努力を、理解不能の他者を「異邦人」として切り捨てず、自分の中にその他者を見出せるのか思い巡らす勇気を、常に持っていたいと強く思う。 最後に。 小説の文脈に於いて「母さん」でもなく「おふくろ」でもなく「ママン」と訳す事にした窪田啓作氏。 そこに訳者の主人公ムルソーに対する愛情、そしてムルソーの母親に対する愛情が込められていると、私は信じている。 | ||||
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| 今回は大学の課題のためカミュの代表作品である異邦人を読ませてもらいました。 初めて読む文章ともあって内容は中々難しく理解が難しかったが代表的作品をこの機会に読めたことが嬉しかった。 もう一度理解できるまで読みたいと思う。 | ||||
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| 一般的な感覚では主人公に同情をするのは難しい。殺人は殺人であり、主人公の行動にはややサイコパス的な衝動をすら感じるからだ。人の命は重い。が、しかし、主人公は、殺人の言い訳など一切せず、理由は”太陽がまぶしかったから”だと言う。もちろん、読み人それぞれに見解がされるべきだが、不気味で残虐な印象がどうしても拭えない。 がしかし、登場人物への好き嫌いは置いておけば、繊細な風景描写、不可解しかし大胆な主人公の行動描写に引き込まれた。読み終えると普通に生きているこの世界が、清浄で静かに感じる。ほっとする。過激さや衝動で人を苦しめたりしない普通の人間側で良かったと思う。多くの人はこちら側だ。本を置くと、コトンと音をたてて平凡な日常が静かに動き始める。異邦人のように遠い世界に連れ出されていたのだなと思う。本一冊だ。僭越ながら、ふとノーベル賞を受賞された理由の一つなのかもしれないと思った。 | ||||
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| ニヒリスティック(虚無的)でどこまでも冷めた主人公ムルソーの、ある意味この世の真理を突いた生き方を描写した作品。 「人生は生きるに値しない」と平気で殺人まで犯してしまうわけですが、そこが逆に現実を生きる世の中の人々に対する問題提起を表しているのでしょう。 とはいえ、(小説の最後にあるように)人生の不条理さを直視したとしても、そう簡単に人間はカミュのようには開き直れないかなぁと思いました、これがこの小説を読んだ私の第一印象です。 | ||||
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